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    <title>ジャイアント馬場記念館</title>
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    <updated>2006-08-01T05:43:03Z</updated>
    <subtitle>ジャイアント馬場さんの関連商品はここでしか買えません。馬場元子さん監修のジャイアント馬場メモリアルサイト。</subtitle>
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    <title>「王道十六文（完全版）」あとがき</title>
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    <published>2006-08-01T05:42:17Z</published>
    <updated>2006-08-01T05:43:03Z</updated>
    
    <summary>　馬場さんに無理をいって『王道十六文』（上下巻）を書いてもらったのは全日本プロレ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.giant-baba.com/">
        <![CDATA[<p>　馬場さんに無理をいって『王道十六文』（上下巻）を書いてもらったのは全日本プロレスが旗揚げ１５周年を迎えた昭和６２年のことでした。「ああ、面倒臭い、もう本を出すのは中止だ」と、何度かペンを投げ出されたこともありましたが、それでも「自分の本当の歴史は自分だけしか分からないからなあー」と、思い直して、それこそ１年がかりで書き上げてくれました。あれから１３年…その馬場さんも平成１１年１月３１日、私たちの必死の願いも虚しく、６１歳の人生に幕を下ろしてしまいました。</p>
]]>
        <![CDATA[<p style="background-color: #e6f3f3;">　馬場さんが元気だった頃からジャイアント･サービスの売店に「馬場さんの自伝の『王道十六文』はないですか？」と、聞いてこられるファンの方々が数多くおられました。そんなことから私は再び、馬場さんに無理を言って『王道十六文』の続きを書いてもらい、それを馬場さんのデビュー４０周年記念の時に出版するつもりでおりました。ちょうど馬場さんには亡くなる前に『ジャイアント馬場／オレの人生・プロレス・旅』（平成１０年１２月発行）と、いう本を別に書いてもらっていたので、それと並行して『王道十六文』の昭和６２年以降の原稿も暇な折りに書いてもらっていました。しかし、馬場さんは『王道十六文』の原稿を最後まで完成させることのないまま、逝ってしまいました。</p>

<p>　でも、私はどうしても改めて馬場さんの６１年間の人生のすべてをファンの方々に知ってもらいたい、という思いから、『王道十六文／完全版』を馬場さんのデビュー４０周年を記念して出版することに踏み切りました。馬場さんが書き残した部分に関しては、４０年前の馬場さんのデビューから取材を通して馬場さんの良き相談相手でもあったプロレス評論家の菊池孝さんにお願いして、締め括っていただきました。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　「俺は３８歳で引退してハワイに住む…」−それは馬場さんの昔からの夢でした。いろいろな事情によって馬場さんは３８歳で現役から引退することはできませんでしたが、その分、３８年間にわたってプロレスラーとして、本当に私たちに多くの夢と勇気を与えてくれた、と思っています。この本を通して馬場さんが伝えたかった“王道”の真意…王者の仁徳によって国をおさめる生き方の大切さを、知ってもらえたら幸いに思います。</p>

<p style="text-align: right;">２０００年９月３０日<br />
馬場元子</p>
<hr />
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]]>
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    <title>「王道十六文（完全版）」第十七章　馬場没後の全日本プロレス　菊池　孝</title>
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    <published>2006-08-01T05:41:17Z</published>
    <updated>2006-08-01T05:42:05Z</updated>
    
    <summary> ジャイアント馬場は平成10年12月7日に精密検査のため東京医大病院に入院、元子...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.giant-baba.com/">
        <![CDATA[<p> ジャイアント馬場は平成10年12月7日に精密検査のため東京医大病院に入院、元子夫人の著書『ネェネェ馬場さん』（講談社刊）によれば、この検査終了時に「上行結腸ガンが肝臓にも転移している」と宣告されたという。このため馬場は入院生活を続け、楽しみにしていたハワイ行きは中止された。12月25日にいったん退院したが、これは正月を自宅で迎えるためで、11年1月5日に再入院している。医師からは腸閉塞という説明を受けていた馬場は、この一時帰宅中に足のトレーニングを続けていたという。アンドレ・ザ・ジャイアントの足の衰えぶりが、馬場の頭にこびりついていたのだろう。馬場は、すでに内定していた5月2日の東京ドーム大会でカムバックすることを目標としていたのだ。死の病に置かされていることを馬場に悟られないよう、元子夫人は懸命の努力を続けた。</p>
]]>
        <![CDATA[<p style="background-color: #e6f3f3;">　1月8日に開腹手術が行われたが、ガンは肝臓から肺、腎臓にも転移していた。だがマスコミには癒着性腸閉塞の手術と発表されている。誰もが“生涯現役”を宣言した馬場のカムバックを信じていた。1月2日の新春シリーズ開幕戦後楽園ホール大会では、欠場した馬場に代わって三沢光晴が新春恒例のファンへの挨拶を行ったが、会場のムードはいつもと変わらず明るかった。選手も全員が馬場の真の病状を知らされていなかったのだ。</p>

<p>　ガンは急速に進行し、馬場は１月２１日に肝機能障害を併発してICU（集中治療室）に移され、23日にここで61歳の誕生日を迎えた。そして27日に容態が悪化、29日には意識の回復が絶望となり、「これ以上、馬場さんを苦しめたくない」という元子夫人の希望で、30日午前10時に生命維持装置が外され“あと2時間の命”と宣告された。だが、馬場の心臓は鼓動を続け、驚異的な生命力を見せて、それから28時間後の1月31日午後4時4分、静かに息を引きとったのだった。馬場は最後の最後まで、闘い続けたのである。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　馬場の遺体は同夜のうちに恵比寿の自宅に移され、元子夫人の「馬場さんを静かに送ってあげたい」という願いから、その死亡はあえて公表しないことにした。だが翌2月1日の朝、インターネットに馬場死亡の情報が流され、マスコミはその確認にヤッキとなったが、六本木の全日本プロレス事務所に押しかけても、自宅にいた元子夫人に電話を入れても、<br />
「退院して自宅で療養中です」<br />
という回答しか得られなかった。</p>

<p>　それでも半信半疑の報道陣が、恵比寿の自宅マンション前に多数集まり、ついに元子夫人が、<br />
「ご近所の迷惑になるから」<br />
と公表に踏み切って、2月1日午後7時に六本木の事務所で鶴田、三沢、百田の3取締役が出席して緊急記者会見が行われ、馬場の上行結腸ガンが原因の肝不全による死亡が正式発表されたのだった。このニュースは全国の、プロレス・ファンではない人たちにも大きなショックを与えた。それは単なるスポーツマンの死ではなく、社会現象と言っていいほどだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　通夜は同日夜、恵比寿の自宅の身内と選手・社員だけが出席してひっそりと営まれ、2月2日午後1時から密葬が同じ形式で行われた。出棺の際、元子夫人は馬場の遺影を抱いて集まった大勢の報道陣に深々と一礼している。この時、馬場の遺体が白布にくるまれ、選手たちに支えられて階段を下りて来たのが話題となったが、桐ヶ谷斎場には立派な棺が用意されており、馬場の遺体はこれに納められて荼毘（だび）に付された。戒名は顕峰院法正日剛大居士（けんほういんほうしょうにちごうだいこじ）。遺骨は午後5時40分に元子夫人に抱かれて自宅に帰り、初七日の法要も営まれた。</p>

<p>　葬儀の翌日2月3日に池上本門寺で行われた『節分追儺式』には、三沢の「人に迷惑をかけないようにしろというのが社長（馬場）の教え」という一言で三沢、川田、田上らが予定通り出席、恒例の豆まきを終えた後、同寺にある力道山の墓前に全選手が集まり「社長がそちらに行きましたので、よろしくお願いします」と合掌した。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　2月7日には日本テレビが、午後2時〜3時半の時間帯で『ジャイアント馬場追悼緊急生放送』と題した特番を放映、馳とモスマンを除く全選手が出演し、終了時に同局の会議室を借りて選手会を開き、一丸となって全日本プロレスを守っていくという決意を確認、再出発を誓っている。</p>

<p>　2月13日の後楽園ホールにおける『ファン感謝デー』は、馬場の没後初めての興行だったが、馬場追悼の10カウントのゴングは鳴らされなかった。これは“馬場さんはまだ引退していない”という意思表示だった。大会は普段と変わらぬ『明るく、楽しく、激しいプロレス』を展開、ファンを満足させたが、違っていたのは、いつも馬場が座っていたグッズ売場の椅子に馬場の笑顔の写真が飾られ、全試合終了後に坂本九のヒット曲『上を向いて歩こう』が会場に流されて、観客を送り出すことだった。これは馬場が初渡米武者修行時代に最も愛した曲だった。この2つは今も行われてる。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　2月20日には鶴田がキャピタル東急で記者会見、引退と全日本プロレス取締役の辞任を発表した、すでに鶴田は交換教授としてオレゴン州立ポートランド大学に留学することが決まっており、出発を間近に控えてマット界からの訣別に踏み切ったものだ。鶴田は馬場の“俺の目の黒いうちは・・・”という言葉を守ったわけで、<br />
「馬場さんに生前、“チャンスは絶対にモノにしろ、人生はチャンスとチャレンジだ”と言われた言葉を信じて、こんな大変な時期ですけど、渡米させていただく」<br />
　と語った。鶴田の引退セレモニー3月6日の日本武道館大会で行われ、鶴田は赤・青両コーナーに上がって「オーッ！」を10連発、ファンに最後の別れを告げた。</p>

<p>　3月23日には元子夫人がキャピタル東急ホテルに報道陣を招き、馬場の49日法要を無事にすませたことを報告。この席で元子夫人は、99チャンピオン・カーニバル最終戦の翌日4月17日に、同じ日本武道館で馬場のお別れ会『ありがとう』を開催、5月2日の東京ドーム大会を馬場の“引退”記念興行とする意向を明らかにしている。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　4月16日の日本武道館における99チャンピオン・カーニバル決勝戦は、いつも通り超満員1万6300人の観衆を集めたが、その翌日17日の午後1時から行われた馬場のお別れ会『ありがとう』は、もっと凄かった。前夜の大会終了時の午後9時過ぎから受付前に並んだグループもいて、徹夜組が約200人。記帳受付開始の午前10時には約2000人が長蛇の列を作り、その後も終了の午後3時を過ぎても訪れる人の絶え間なく、武道館正面に急きょ遺影と献花台を設置したほどで、実に2万8千人を数えたのだ。</p>

<p>　館内には、正面に縦5メートル、横3メートルの、馬場がガウンを着てニッコリと笑って立ち姿の遺影が飾られ、その前に組まれたリングに読経の後、献花や贈り物が捧げられたがすっきりと晴れ上がり、献花するファンに馬場の全盛時代を知らないはずの若い人が多かったのが印象的だった。<br />
馬場は、老若男女すべての人から愛されていたのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　5月2日に東京ドームで開催されたジャイアント馬場『引退』記念興行は、さらに感動的だった。同大会では第6試合に引退記念試合時間無制限1本勝負として、馬場＆ザ・デストロイヤー組ＶＳジン・キニスキー＆ブルーノ・サンマルチノ戦という“夢のカード”が組まれた。</p>

<p>　リング上には立会人のロード・ブレアースPWF会長と、すでに引退していたジョー樋口特別レフェリーが待機、赤コーナーからデストロイヤーが、青コーナーからキニスキーとサンマルチノが登場し、仲田龍リングアナウンサーが3選手を呼び上げた後、最後に、<br />
「300ポンド、ジャイアント馬場―」と涙声でコールすると客席から赤い紙テープが乱れ飛んだ。試合開始のゴングでオーロラ・ビジョンに“出場”3選手と馬場の名勝負のシーンが映し出され、試合終了後のゴングの後、3選手がライバルであり親友でもあった馬場に別れの言葉を贈って、日本組、外国人組全選手共にリングサイドに整列すると、元子夫人が馬場が愛用した16文のレスリング・シューズをリング中央にそっと置いた。そして場内の証明が落とされ、シューズにスポットが当てられて、オーロラ・ビジョンからガウンの姿の馬場が見つめる中、没後3ヵ月余にしてついに引退の10カウント・ゴングが打ち鳴らされたのだった。“生涯現役”を貫き通した馬場にふさわしく、全国のファンの胸を打った感動の引退セレモニーだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　馬場没後の懸案となっていた全日本プロレスの新体制は、5月7日にキャピタル東急ホテルで新役員全員が出席して発表された。就任は5月3日付。馬場の“引退”記念試合が行われた翌日に発足したわけだ。新人事は代表取締役社長三沢光晴、取締役副社長川田利明と百田光雄、専務取締役大八木賢一、取締役選手会会長田上明、取締役馬場元子、渕正信、小橋健太、百田義浩、馬場幸子、監査役大峡正男となっていて、川田、田上、渕、小橋、馬場元子と幸子（馬場の姪で生え抜きの社員）は新取締役就任だった。席上、三沢新社長は慎重に言葉を選びながら王道継承と新風を吹き込むことを宣言、元子夫人は、<br />
「馬場さんと2人でゆっくりと見ていられるような会社にして欲しい」<br />
と語っている。元子夫人は馬場の没後、試合場に姿を見せたことはなく、会社も三沢らに任せて、馬場と“2人”でひっそりと自宅にこもる毎日を送っていた。</p>

<p>　新体制は、5月22日のスーパーパワー・シリーズ開幕戦後楽園ホール大会から、順調なスタートを切った。開幕戦当日に、元UWFインター所属でフリーとして参戦していた高山と垣原の正式入団を発表、高山はすでに大森とノー・ファイアーを結成してブレークの気配を見せ始めていた。年間8シリーズの名称と興行形態も従来のままを踏襲、営業面も馬場体制時代からそのまま引き継がれ、すでに前年からマッチマークを任されていた三沢新社長の運営にソツはなかった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　シリーズ最終戦6月11日の日本武道館大会で、三沢の3冠王座に挑戦して敗れた小橋は、この試合で鼻骨骨折全治1ヵ月の重傷を負ったが、7月4日に開幕したサマーアクション・シリーズには、特製プロテクターを顔面に着用して全戦強行出場を果たした。小橋は、<br />
「馬場さんに、メーンイベンターは欠場してはいけないと教わった」<br />
　と馬場さんの遺訓を守ったのだ。</p>

<p>　新しいアイデアも次々と取り入れられていった。6月14日には三沢社長が東京・高田馬場の総合学園ヒューマン・アカデミーで記者会見を行い、同校との提携を発表した。プロレス団体と教育機関のタイアップは日本マット史上初めてのことで、その後、三沢の講演や同校校舎を使用しての新人オーディションなどが行われている。8月19日には大相撲元前頭4枚目力桜（現力皇）の入団を発表、新戦力の充実にも意欲的だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　9月4日のサマーアクション・シリーズ最終戦日本武道館大会では、ノンタイトル戦5大シングルマッチを決行した。これまで年間7回の日本武道館大会では、春と年末の2大祭典の優勝決定戦意外は、タイトルマッチが行われるのが恒例となっていた。その常識をぶち破ったわけで、しかも試合順はファン投票で決めたのだ。だが、これは好評で超満員の会場は大いに盛リ上がった。</p>

<p>　続いて9月18日に後楽園ホールで開催された『ファン感謝デー』大会では、全6試合のカードをすべて会場のファンの抽選で決定、メーンの6人タッグマッチで百田ＶＳ永源の対決が行われるなど、意外なカードが続出してファンを楽しませた。年末の99世界最強タッグ決定リーグ戦は従来のシステムで開催され、最終戦12月3日の日本武道館大会で小橋＆秋山組が2連覇を達成、11年の全日程を終了した。年頭に見舞われた馬場の死という大ショックにもめげず、全日本プロレスの新体制は安定軌道に乗ったと見えた1年だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　明けて平成12年。新春第1戦1月2日の後楽園ホール大会における三沢社長の挨拶では、<br />
「明るく、楽しく、激しいプロレス」という言葉は聞かれなかったが、2日にヘビー級、3日にジュニア・ヘビー級のバトルロイヤルが行われ、恒例通りのスタートを切った。だが、三沢社長は報道陣に、<br />
「去年は社長をやらされて来たという感じで、やりたい事はやっていない。このままで新しい時代を乗り切るのは難しいと思う。いい方向に変えていかなければいけない。正しいと思ったことは貫く」<br />
と語っていた。</p>

<p>　1月29〜30日の2日間、後楽園ホールのある会館1階のプリズムUで『馬場さんが帰って来た』と題した馬場のゆかりの品の展示会が開かれた。馬場の等身大のフィギュア3体と、馬場が画いた油絵が初公開されたほか、巨人軍時代のユニホームに始まる馬場の偉大な歴史と、多彩な趣味を持った私生活を思わせる貴重な品々が展示され、ハンセンのトーク・ショーも2日間行われて、2日間で1万人を超え、入場制限をするほどのファンが詰めかけ、在りし日の馬場を偲んだ。元子夫人も2日間とも、久しぶりに公の場に姿を見せている。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　馬場の1周忌に当たる1月31日には、午前11時から親族だけで法要が営まれ、午後3時からは会場を後楽園ホールに移して、約300人の関係者による『献花の儀』が執り行われた。リングの正面に馬場の遺影が飾られ、出席者の一人一人に元子夫人が花を手渡して、献花が終了した午後4時4分、馬場が1年前に息を引き取った時間に、１分間の黙祷が捧げられた。</p>

<p>　午後6時半からは同ホールで1周忌追悼興行が開催され、王道プロレスを展開したが、全日本プロレスとしては初の試みである時間差バトルロイヤルも行われている。2月17日には、札幌・中島体育センターに代わって北の聖地となる北海道立総合体育センターでプロレスこけら落とし大会を開催、北都4大シングルマッチを行った。2月25日の横須賀大会では、三沢が小川とのコンビで約16年ぶりに第1試合に出場している。全日本プロレスの中で“何か”が変わり始めたのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　3月24日に開幕した2000チャンピオン・カーニバルはトーナメントで行われ、第3戦26日の名古屋大会で、秋山が僅か7秒で大森に敗れるという大番狂わせが生まれた。敗者復活戦も決勝リーグ戦もない単純トーナメント制の採用は、Ｃ・カーニバル史上初めてのことだった。<br />
そしてカーニバル中の3月31日、全選手が全日本プロレスとの契約更改を保留した。“何か”が動き出したのである。このころ、“全日本プロレス分裂”という情報が流れ、これは自然消滅の形に終ったが、5月2日発行の某週刊紙に“三沢、新団体旗揚げ”という記事が掲載され、三沢はこれを否定している。</p>

<p>　5月13日にはジャンボ鶴田が、フィリピンのマニラで肝臓移植の手術中に出血多量によるショックで急死した。馬場の最初の愛弟子だった鶴田は、49歳の若さで師の後を追ってしまったのだ。もう全日本プロレスの戦力ではなかったが、その訃報はマット界全体に大きなショックを与えた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　6月9日のスーパーパワー・シリーズで最終戦日本武道館大会は、相変わらず超満員の観衆を集めて盛況のうちに終了したが、すでにこのころには全日本プロレスの分裂は確定情報としてマスコミの間に流れており、翌10日に三沢を電話取材した某週刊誌は、三沢の口から社長辞任を確認している。そして6月12日、某夕刊スポーツ紙に『三沢社長辞任』の大見出しが踊り、事態を表面化して一気に急展開を見せたのだった。</p>

<p>　6月13日の役員会で、三沢代表、百田副社長、大八木専務、田上、小橋、百田兄の6取締が辞任。翌14日に全スポーツ紙がこれを大きく報じると、元子夫人は六本木の事務所に集まった報道陣に自らの見解を示した文章を配付し、同時に各社にファックスで送信した。文中で元子夫人は、5月28日に開かれた臨時役員会で、百田兄の動議によって三沢社長が解任されたことを明らかにし、<br />
「今からして思えば、今回の解任劇、辞任劇は、数ヶ月前から三沢社長が独立を目指して計画したものとかしか思えません」<br />
と“糾弾”している。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　翌15日、全日本プロレスは7月1日に開幕するサマーアクション・シリーズ参加の外国人レスラーを発表。常連外国人選手は“残留”し、シリーズは予定通り開催するという姿勢を明らかにした。日本テレビも7月1日東京の有明、同11日大阪、同15日七尾、最終戦同23日日本武道館の4大会を収録すると発表している。</p>

<p>　翌16日に“三沢派”は、オープン前のディファ有明で記者会見を行い、新団体の設立を発表。フリーの池田を加えて２４人の選手と練習生、レフェリー各１人が出席し、これによって全日本プロレスに残留する選手は川田、渕とハワイ在住のモスマンの3人だけになったことが明らかになった。同日午前中に六本木の事務所には、三沢を発信人とする選手23人、練習生1人、レフェリーとリングアナら6人、計30人の辞職者が配達証明付きで郵送されていた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　18日に東京の青山葬儀所で鶴田の献花式が行われたが、“渦中の人”元子夫人と三沢は時間帯をずらし、顔を合わせることはなかった。翌19日、全日本プロレスの神奈川県下の道場で川田と渕が記者会見を行い、川田が、<br />
「僕の使命は馬場さんの築いた全日本プロレスを守ることだと思っています」<br />
と決意を表明した後、<br />
「新日本プロレスさんとの交流を前向きに考えていくるもりです」<br />
と意外とも思える言葉を口にした。だがこの日、日本テレビは旗揚げ以来続いた全日本プロレス中継を、6月21日放映分を最後に打ち切ると発表している。6月13日の役員会から19日までの僅か1週間で、全日本プロレスは激変してしまったのだ。</p>

<p>　だが開催も危ぶまれたサマーアクション・シリーズは、フリー選手の助っ人参戦を得、外国人組もWCWの役員に就任したジョニー・エースはキャンセルしたが、ウルフ・ホークフィールドが追加されて、7月1日にディファ有明のこけら落とし興行で無事に開幕、超満員の観客の拍手を浴びて、新生・全日本プロレスのスタートを切った。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　そして7月2日の第2戦はメッカ後楽園ホールに戻り、超満員のファンが暖かく見守る中で、元子夫人が初めてリング上でマイクを握り、<br />
「今回は私の努力が足りなかったことで、こんな事態を招いてしまい、本当に申し訳ございませんでした」<br />
　とファンに深々と頭を下げ“何とか30周年を迎えられるよう、精いっぱい頑張って参ります”決意を語った後、<br />
「今回の再スタートに当たり、私自身としても皆様の前で川田選手と握手していただきたい方に今日、来ていただいております。・・・・・・天龍源一郎さんです」<br />
　と紹介。ファンの驚愕と歓迎の大コールの中を天龍が登場し、リング上で川田、渕、モスマン、そして最後に元子夫人と万感のこもった握手を交わした。この瞬間、全日本プロレスは全く新しい歴史の幕を切って落としたのだった。</p>
<hr />
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    <title>「王道十六文（完全版）」第十六章　激動！！平成の全日本 Part 2</title>
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    <published>2006-08-01T05:40:08Z</published>
    <updated>2006-08-01T05:41:05Z</updated>
    
    <summary>　旗揚げ満20周年記念日の10月21日、日本武道館大会で私はハンセン＆ドリー・フ...</summary>
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        <![CDATA[<p>　旗揚げ満20周年記念日の10月21日、日本武道館大会で私はハンセン＆ドリー・ファンクJrと組み、アンドレ＆鶴田＆ゴディ組と対戦した。アンドレとは日本では2度目の対決だったが、私は彼の肉体的な衰えをはっきりとはっきりと自分の体で感じ取り、<br />
「もう、大巨人コンビとして世界最強タッグ決定リーグ戦に出場し、連戦を消化するのはアンドレにとって酷だな」<br />
　とコンビの解散を決意した。</p>
]]>
        <![CDATA[<p style="background-color: #e6f3f3;">　だが、コンビの解散は大巨人組だけではなく、私は11月13日に全日本プロレスの事務所で記者会見を行い、鶴田が肝炎で入院したため、92世界最強タッグ決定リーグ戦を欠場すると発表しなければならなかった。肝炎はスポーツ選手にとっては命取りと言われ、鶴田も長期入院を覚悟していたのだ。このため世界タッグ王者として2度の防衛に成功していた鶴田＆田上組は解散、田上は秋山をパートナーに起用して世界最強タッグ決定リーグ戦に出場した。秋山はこの年9月17日の後楽園ホールにおける『ファン感謝デー』おセミ・ファイナルで小橋を相手にデビュー、早くもメーンイベンターの一角に食い込んでいた。私は小橋をパートナーとして92世界最強タッグ決定リーグ戦に出場したが、4位に終わった。</p>

<p>　同リーグ戦終了後、年末の恒例となっていたレスラー・社員そろってのハワイ旅行に出かけ、楽しい時を過ごしたが、帰国10日後の12月27日に大熊が急性腎不全で急逝したのはショックだった。大熊は日本プロレス時代に私の付人を務め、酒好きで私を困らせたこともあったが、憎めない男だった。全日本プロレスの旗揚げには、渡米武者修行を打ち切ってマシオ駒と共に帰国、参加してくれた。その駒は昭和51年3月に亡くなり、今また大熊を失って、全日本プロレスの旗揚げ以来、現役レスラーとして活躍を続けているのは、私と百田の2人だけになってしまったのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　大熊の葬儀は暮も押し詰まった12月30日、川崎市新丸子の大楽院で営まれた。よく晴れた寒い日だった。新丸子は、私が巨人軍をクビになってから、プロレスラーとして初渡米武者修行に出発するまでの約1年8ヵ月間、貧乏なアパート暮らしを送った思い出の土地だ。随所に懐しい場所も残っていたが、感傷にひたるどころか、私の心はこの日のように寒く、寂しかった。</p>

<p>　明けて平成5年。1月4日に東京スポーツ新聞社制定『平成4年度プロレス大賞』の授賞式＆パーティーが銀座東急ホテルで行われ、6月5日の日本武道館大会におけるハンセンVS川田の三冠王座戦が年間最高試合賞、田上が敢闘賞、秋山が新人賞、五冠王の座に就いた三沢が特別大賞、全日本プロレスが団体として20周年特別賞を受賞した。9月にデビューした秋山は、実績は3ヵ月そこそこだったが、選考委員会でほぼ満票を獲得したのは、私にとっても嬉しいことだった。全日本プロレスの陣容が、年ごとに充実していくという実感があったのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　1月29日に、アンドレがパリのホテルで急性心不全のため急死したという悲報に接した。まだ46歳だったが、肉体的には年齢以上に老化していたことは、あの歩き方を見てもわかった。ウエイトも増えるにまかせていたことが、心臓に負担をかけていたようだ。私との大巨人コンビ結成を喜んでくれた笑顔を思い出し、心から冥福を祈った。</p>

<p>　4月20日の福島大会で私は、国内5000試合出場記録を達成した。連続3000試合出場を果たした時は、記録のことは全く頭に無く、後に周囲に言われて“ああ、そうだったのか”と思ったものだが、この福島大会では事前に聞かされていた。だが、特別なカードは組まず、いつも通りのファミリー軍団VS悪役商会戦を消化した。試合後、報道陣に次の目標を聞かれた私は、<br />
「目標は5001試合出場だ」<br />
　と答えたが、これは私の本音だった。レスラーは、いつ命取りになる負傷を負うかわからない。私にはもう記録に対する執着は無く、1戦1戦を大事にしたいと思っていたのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　だが、周囲の声に押されて、それから1ヵ月余り経った6月1日の日本武道館大会で、5001試合出場記念試合を行った。私がR木村＆M井上と組んでA・ブッチャー＆渕＆永源組と対戦、ランニング・ネックブリーカードロップで私が渕を仕留めた。何の変哲も無いカードだったが、かつてのライバルで親友でもあったジン・キニスキーがカナダからお祝いに駆けつけてくれ、超満員のファンの祝福のコールを浴びたのは嬉しかった。</p>

<p>　7月29日の日本武道館大会では、デストロイヤーの引退記念試合が行われ、私はデストロイヤーの息子のカート・ベイヤーと共にデストロイヤーとトリオを結成、渕＆永源＆井上雅央組と対戦、デストロイヤーが井上に宝刀足4の字固めを決めて有終の美を飾った。デストロイヤーは、全日本プロレスの旗揚げ直後から6年3ヵ月間も助っ人として日本組に加わってくれ、その後も外国人組の常連となって定期的に来日していた全日本プロレスの功労者だ。年齢は私より7歳上の62歳で、すでに全盛期の迫力は薄れていたが、レスリングと試合運びのうまさは若手たちのいいお手本となっていた。私は万感の感謝をこめてデストロイヤーの最後のパートナーを務めたが、やはり寂しさは隠しようがなかった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　盟友デストロイヤーが引退したからというわけでもなかろうが、そろそろ私の引退の時期も話題になっていたようだ。特に一般マスコミの取材を受ける時など、記者は単刀直入にせよ遠回しにせよ、必ずその話題にふれて来た。要するに彼らは、私がいつ引退するのかを聞きたいのだ。そういう時、私は、<br />
「まだまだ引退出来ませんよ」<br />
　と答えていたが、これを“引退したいが出来ない”と受け取る人が多かった。だが、私の真意は違う。世間の親父さんがよく、<br />
「息子が一人前になるまでは死ねない」<br />
と言うが、これを“死にたいけど死ねない”とは誰も受け取らないだろう。“それまで頑張るぞ”という意思表示だ。私も同じ。全日本プロレスは私が生み、育てた私の大事な息子なのだ。</p>

<p>　このころから、地方興行の客足が落ち始めていた。日本マット界は戦国時代とか団体乱立時代と言われ、続々と誕生したインディペンデント団体が各地で興行を打つようになって、その影響が出て来たのだ。地方小都市の中・高年層ファンは、団体の違いをよく知らない人が多い。<br />
そのため私は、全日本プロレスのポスターを私の写真がちょっと目立つようにレイアウトさせた。これは、<br />
「ジャイアント馬場の団体ですから、安心して見に来て下さい」<br />
　というアピールだった。私はトップイベンターからリタイヤーし、三沢、川田、田上、小橋の四天王時代になっていたが、四天王はテレビ放映がゴールデン・タイムから撤退した後に誕生したため、全国的な知名度という点ではちょっと弱い。そこで私が看板の役を果たすことになったもので、試合に出場しなければ嘘をついたことになる。そういう意味もあって私は“まだまだ引退出来ない”と思っていたのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　10月23日の日本武道館大会では鶴田が367日ぶりにカムバック、私とR木村でトリオを結成し、渕＆永源＆泉田組に勝った。鶴田は6月21日に7ヵ月ぶりに退院、血液検査の数値とにらめっこしながらトレーニングを続け、医師の許可を得てこの日にカムバックしたものだ。ファンの大歓迎を受けた鶴田は、<br />
「プロレスラーをやっててよかった」<br />
と感無量の表情で語っていたが、試合後も数値検査を受けなければならず、次の出場の予定は立てられなかった。組んでみて私は、鶴田のかつての怪物的なスタミナは、もう戻らないのではないかと不安を感じていた。</p>

<p>　私は鶴田にプロレス団体の経営を学ぶことを勧めた。鶴田が経営者としても後を継いでくれれば、私は安心して任せられる。だが、鶴田は大学院に入院して博士コースをとり、将来は大学教授になりたいという希望を私に打ち明けた。スポット参戦は続けたいが、完全復活は半ばあきらめているという。やがて鶴田もリングから去っていくことになるだろう。私の周囲はどんどん寂しくなっていく。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　そんなショックもあって、私は93世界最強タッグ決定リーグ戦に不出場を表明した。ところが開幕第3戦でハンセンのパートナーだったテッド・デビアスが負傷帰国し、ハンセンは私を代打に指名した。外国人組エースのハンセンが年末の祭典に不戦敗を並べるのはファンにも申し訳ないことなので、私はこれを受けた。ハンセンとの息は意外なほどピタリと合い、“巨艦砲”と呼ばれたこのコンビは準優勝したのだ。私は、まだまだやれるという自信をつけたものだった。</p>

<p>　平成6年に入って私とハンセンのコンビはほぼ定着し、3月5日の日本武道館大会のメーンイベントで三沢＆小橋組と対戦した。試合は35分11秒、私が三沢のコーナーポスト最上段からのダイビング･ネックブリーカードロップを食って敗れ、三沢は天龍に続く私からフォールを奪った全日本プロレス2人目のレスラーとなったのだが、私はこの試合を全日本プロレスにおける私のベストバウトだと思っている。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　この時点で三沢＆小橋組は世界タッグ王者で、三沢は3冠王座も保持する5冠王。絶頂期のコンビと峠を過ぎたコンビの対戦という図式になり、しかもノンタイトル戦だったが、私はそんなことは念頭から吹っ飛んでしまうほど燃えられた。私もハンセンもスタートからガンガン飛ばし、前半は私たちのペースだったが、三沢＆小橋組も真っ向から反撃して来た。</p>

<p>　4選手とも得意技フルに繰り出し、私は16文キック、バックドロップ、ラリアットを小橋に、阿津落とし、ランニング・ネックブリーカードロップ、コブラツイストを三沢に決めた。<br />
いずれも確かな手応えがあったのだが、両選手ははね返して来た。私は試合中に彼らが入門したころの顔を思い出し、何度も“この野郎！”と奮い立ったが、それも彼らにはプレッシャーにならなかったようだ。いや、なっていたがはね返して来たのかもしれない。そして、私が、“大試合用の秘密兵器”としていたランニング・ネックブリーカードロップに三沢らしい工夫を加えた技で、私は仕留められてしまったのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　実に後味のいい試合だった。私には久しぶりの武道館大会のメーンイベントというのが、快いプレッシャーになっていた。メーンイベントは、お客さんに満足して帰ってもらわなければならないという責任がある。35分余を戦い終え、それを立派に果たしたという充実感があって、もう最高の気分だった。三沢や小橋の成長ぶりを自分の肌で確かめ、その2人とこれだけのファイトが出来たことも嬉しかった。私は『プロレス大賞』の年間最高試合賞を4度受賞している。だが、取材するマスコミや観戦するファンと、実際に戦ったレスラーの感覚は、微妙に違うものだ。私がフォール勝ちを奪われた試合だが、その充実感は最高だった。</p>

<p>　94世界最強タッグ決定リーグ戦も、私はハンセンとのコンビで出場し、最終戦12月10日の日本武道館大会で川田＆田上組に勝ったが、この年も準優勝に終わった。だが、私自身は充実した年だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　平成7年の正月も、私は元気いっぱいで迎えた。1月19日の後楽園ホール大会で、私は鶴田、三沢と三世代エース・トリオを結成、秋山＆大森＆本田の平成デビュー・トリオに快勝し、3月24日の後楽園ホール大会では川田＆田上と組み、ハンセン＆三沢＆小橋組みと対戦して、60分時間切れで引分けた。久しぶりに60分フルタイムで戦ったが、私はそれほど疲れを感じなかった。<br />
トップを張っている四天王と組んだり戦ったりするのは、普段はファミリー軍団ＶＳ悪役商会戦で、“楽しいプロレス”をやっている私には、いい刺激になる。</p>

<p>　9月29日には虎ノ門のホテル・オークラで私のデビュー35周年記念パーティーを開き、約700人が出席してくれた。以前の私は、会社の行事は別として、私個人の記念日に何か催し事をするのは照れ臭くてかなわなかったのだが、このころはもう開き直っていて、周囲が勧めるなら何でもやろうという気になっていたのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　このパーティーで私は、私のデビュー戦を取材して今なお現役で活躍を経けているフリーライターの菊池孝記者にお祝いのメッセージを寄せてもらい、私からは菊池記者に、<br />
「お互いに、もっともっと頑張りましょう」<br />
　という言葉と共に胡蝶蘭の鉢植を贈った。この35年の間にレスラーも、マスコミの顔ぶれも変わった。私と菊池記者は共に現役最古参になってしまったのだ。私の新人時代はともかく、全盛期も知らない若い記者が増えたのは、私にとってはちょっと寂しいことだった。</p>

<p>　翌30日の後楽園ホール大会でデビュー35周年記念試合第1弾を行い、私はD・ファンクJr＆鶴田と組んで秋山＆大森＆本田組と対戦、ドリーがスピニング・トーホールドを大森に決めて勝った。私はドリーが初来日した昭和44年12月3日の東京体育館大会でドリーのNWA世界王座に挑戦、初めてスピニング・トーホールドでギブアップした時のことを思い出していた。あれからでももう26年が経つ。過保護ボーイのような若いチャンピオンだったドリーも、親父のドリー・ファンク・シニアにそっくりになって来た。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　35周年記念試合第2弾は、10月25日の日本武道館大会で行い、私は鶴田＆ハンセンと組んで田上＆大森＆本田組と対戦、ハンセンがラリアットで本田を仕留めた。ファンク一家で鶴田も同期生だったハンセンは、まだまだ元気だ。95世界最強タッグ決定リーグ戦では、ハンセンは10月にUWFインターから転じて来たゲーリー・オブライトと組み、私は本田と組んで出場したが5位に終わった。この年から、世界タッグ王者の王座返上を廃止し、リーグ戦上位2チームが優勝決定戦を行うシステムを採用したが、私自身は内心、これを最後の出場にしようと決めていた。</p>

<p>　12月10日には池上の本門寺で力道山の33回忌法要が営まれ、ここで『力道山OB会＆プロレス』結成の動議は可決されて、私と猪木が最高顧問に就任することになった。私は力道山の墓前で猪木と握手を交わしたが、猪木は国会議員を経験してから、いくらか角がとれたようだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　平成8年は、四天王のしのぎの削り合いが一段と激しくなり、そこに秋山が食い込んで来たが、田上の活躍が目立った年だった。7年度の『プロレス大賞』年間最高試合賞は、6月9日の日本武道館大会で川田＆田上組が三沢＆小橋組から世界タッグ王座を奪取した試合、つまり四天王がそろって受賞し、川田＆田上組は1月に世界タッグ王座から転落したが2月に返り咲き、春のチャンピオン・カーニバルは田上が初優勝。田上は5月に三沢を破って3冠王座初載冠を達成し、96世界最強タッグ決定リーグ戦も川田＆田上組が初優勝した。つまり田上は年間グランドスラムを達成したのだ。晩成型の大器が大輪の花を咲かせた・・・と言いたいところだが、私は田上の潜在能力はまだフルに発揮されていないと見ていた。秋山は三沢と組んで5月に世界タッグ王座を奪取している。</p>

<p>　私はこの四天王プラス秋山の試合をテレビ解説することが多かったが、彼らの繰り出す荒技には、しばしば肝を冷やした。私に比べれば彼らの体は小型で、それだけに激しい技の応酬で魅せなくてはという意識が強いだろうが、私があんな技を食ったら、体がどうなってしまうかわからない。だが、私が彼らにブレーキをかけるわけにもいかず、私はいつもハラハラしながら解説をしなければならなかったのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　この8年は、全日本プロレス“開国”も話題になった。私は9月11日のUWFインター神宮球場大会に川田を送り込み、川田は高山善廣に快勝した。そして川田が“開国の使者”と騒がれたのだが、私には“鎖国”を宣言した覚えはない。2年2月にも新日本プロレスの坂口社長が筋を通して来たので、主力選手を貸し出している。UWFインターのケースもそうだった。</p>

<p>契約などトラブルの元となる問題がすべてクリアーされ、筋を通してくれれば、団体間の交流もやぶさかではないのだ。この私の姿勢がようやく理解されたようで、他団体から全日本プロレスの門を叩いてくる選手がぐんと増えた。その第1弾が11月16日の後楽園ホール大会で発表した元新日本プロレスの馳浩の入団だった。馳は前年7月の参院選に当選し、新日本プロレスを正式退団していた。馳はジャパン・プロレスに入団し、全日本プロレスのリングで私がコーチしたこともある。馳が、<br />
「全日本プロレスでファイトするのが夢でした」<br />
　と言うので、私も快く受け入れたわけだ。11月28日〜29日の札幌大会2連戦には藤原喜明とドン荒川が出場した。私も彼らとタッグ対戦したが、こういう個性的なベテランの参戦は、若手選手のいい刺激になる。<br />
　私は96世界最強タッグ戦には出場せず、昭和52年のオープン・タッグ選手権以来の連続出場記録は19回でピリオッドを打ったが、別に残念とも思わなかった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　平成9年の新春第1戦、1月2日の後楽園ホール大会では、第1試合に前年に入団した馳が出場した。馳は新日本プロレスではIWGPジュニア・ヘビー級、IWGPタッグ王座に就いたトップレスラーだが、全日本プロレスに入団したからには、一からやり直してもらうというのが私の方針だ。馳は、<br />
「全日本プロレスの平成9年が、僕のテーマ曲で始まったのは、気分いいじゃないですか」
とコメントしたという。こういうプラス思考の攻勢は、さすがに馳だなと感心した。</p>

<p>　だが、入団ではなくスポット参戦なら、その時点のランクに応じて処遇することにした。それで答えが出せなければランクを落とすか、以後の出場を断わればいいわけだ。3月1日の日本武道館大会で、元UWFインターの高山が初出場でいきなり、オブライトと組み、川田＆田上組の世界タッグ王座に挑戦したのは、オブライトの推薦があったからだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　この高山のケースが刺激になったのか、その後は参戦希望者が続出した。ざっと数えあげても、FMWのハヤブサ、元UWFインターの佐野友飛、バトラーツの池田大輔、小野武志、みちのくプロレスの新崎人生、フリーの中野龍雄、レッスル夢ファクトリーの神風＆小坪弘良組、翌年には冬木軍の邪道＆外道、フリーの奥村茂雄らが参戦している。彼らが継続して出場したか単発で終わったかで、私の出した答えはわかるはずだ。</p>

<p>　彼らが参戦希望を私に伝えた方法は、所属団体の代表を通して、私の知人やマスコミの紹介、あるいは直談判といろいろだったが、人生が会場を訪れ、グッズ売場にいた私をちょっと離れた所から黙って合掌したのには、私の方が照れて目のやり場に困ってしまったものだ。私が彼らの参戦を、いちいち事前に記者会見を行って発表したのは、彼らの出場に支障があれば話が来るはずだというトラブルの予防策としてだった。幸いにそういうケースは一件も無かったが・・・。<br />
　私が池田と話した時、彼は、<br />
「リングの下で寝ています」<br />
と言った。バトラーツはリングの設営も選手の仕事だという。私が、そこまでしてもやりたいほどプロレスが好きなのなら、何とかしてやりたいと思ったのが、インディーズの選手に広く門戸を解放した理由の一つになっている。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　8月22日の後楽園ホール大会では、マウナケア・モスマンが小川良成から世界ジュニア・ヘビー級王座を奪取、初挑戦で初載冠という快挙を達成した。モスマンはハワイのホノルル出身で、アマレスのハワイ州高校チャンピオンとなり、6年6月に同地に滞在していた私に入門を直訴、留学の形で全日本プロレスに入団した選手だ。天性の素質と外国人特有のショーマシンップを持った有望な新人で、私は彼の成長を楽しみにしている。将来はモスマンをエースとして全日本プロレス・ハワイ支部を設立、ハワイ・マット界を再建したいという夢を抱いているのだ。私は日本プロレス時代、渡米遠征の往復にハワイに寄り、ファイトしていた。当時のハワイ・マット界は、全米から強豪連が終結する黄金マーケットだった。だが、飛行機がプロペラからジェット機時代になり、日米間を直航出来るようになったこともあって、ハワイのマット界は衰微し、今は完全に灯が消えている。その再点火を私はモスマンに託してみたいと思っているのだ。</p>

<p>　9月26日には永田町のキャピタル東急ホテルで『全日本プロレス創立25周年記念パーティー』
を開催、約1200人のお客さんを前に私は、<br />
「30年、50周年記念へと、選手・社員一丸となって進んでいきたいと思います」<br />
と挨拶した。これは私の本音であり、念願だ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　11月15日に静岡・草薙球場で行われたプロ野球『第8回巨人VS阪神OB戦』に、私は初めて出場した。これまでにも招待されていたのだが、私には“俺はプロ野球落第生だ”というコンプレックスがあって遠慮していた。だが、このころはもうすべてのもに対して開き直っていた私は、意外なほど平静な気持ちで出席出来たし、OBも現役選手もみんなが歓迎してくれた。<br />
私は38年ぶりに背番号『59』のユニフォームを着、右ひじが曲がってピッチングは出来ないため、代打で出場したが空振り三振に終わってしまった。それでも、“出場してよかった”と思える楽しい一日だった。</p>

<p>　97世界最強タッグ決定リーグ戦には、ハヤブサ＆人生組が出場した。同リーグ戦史上初の他団体日本人選手コンビの出場で、好成績はあげられなかったが、新しい血の導入は人気を呼んだ。今後も、いいコンビが名乗りをあげてくれば、トラブル付きでない限りは出場させたいと思っている。12月26日にはキャピタル東急ホテルで記者会見を行い、<br />
「来年5月1日に東京ドーム大会を開催する」<br />
　と発表した。全日本プロレスとしては、年に7回の日本武道館大会でを大事にしたいと考えていたのだが、日本テレビが全日本プロレスの創立25周年記念大会としてバックアップしてくれることになり、東京ドーム初進出に踏み切ったものだ。まだ何の構想も練っていなかったが、とにかく成功させなくてはいけないし、それだけの自信は密かに持っていた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　明けて平成10年。1月23日に60歳の誕生日を迎えた私は、この日の後楽園ホール大会で還暦祝いのセレモニーでは、私はプロレス写真記者クラブから贈られた赤いチャンチャンコを着、赤いベレー帽をかぶって、リング上で138人のファンから心のこもったプレゼントをいただき、<br />
「1試合でも多く頑張っていきたい」<br />
　と挨拶した。人一倍照れ臭がり屋だったころの私には考えられないことだったろうが、前にも書いたように完全に開き直っていた私は、別にカッコ悪いとは思わなかったのだ。</p>

<p>　私の小学生のころの唱歌に『船頭さん』というのがあって、その歌い出しは、<br />
　村の渡しの　船頭さんは<br />
　今年六十の　おじいさん　<br />
　年はとっても　お船を漕ぐ時は・・・<br />
　となっていて、私はそのころ60歳というのはおじいさんなんだなと思っていた。私は60歳近くになると、しきりにこの歌が思い出されたが、“あれっ？ちょっと違うな”という感じだった。60歳がおじいさんとはどうしても思えなかったのだ。私はまだまだファイト出来る。別に隠すことも気取ることもなく、胸を張って、“オレは60歳だ！”といえる気持ちだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　還暦記念試合は、私が三沢＆モスマンと組んで川田＆小橋＆渕組とメーンイベントで対戦、私が渕をランニング・ネックブリーカードロップで仕留めて勝った。いい試合だったと思っている。私は年に1回か2回でいいから、四天王と対戦したい。ファミリー軍団ＶＳ悪役商会の試合ならいくらでも出来るが、トップクラスと激しい攻防を展開して自分を危ない崖っぷちに立だせ、“あっ、まだやれるな”ということを確かめたいのだ。この還暦記念試合がそれで、私には自分自身に課したテストにパスしたという満足感があった。</p>

<p>　5月1日の東京ドーム初進出大会は、5万8300人のファンを動員する大成功を収めた。<br />
当日のカードに関しては、私は2月にインディーズ選手の参戦テストを発表し、ベイダーを特別参加させるなど、新鮮味をプラスしたが、会場の演出は極力押さえるように指示した。大会場だからといって派手な演出を凝らすのは全日本プロレスらしくない。“これが全日本プロレスのプロレスだ”という試合をみていただくのが一番だと考えたからだ。<br />
「全日本プロレスは、普段着のままで東京ドーム大会を成功させた」<br />
　と評された時は、本当に嬉しかった。<br />
　ベイダーは、WWF側に参加交渉をしたところ、法外なギャラを吹っかけて来たので“それなら要らない”と断わった。ところが、あわてたWWF本部が“エージェントを代えるから考え直してくれ”と別のブッカーを差し向けて来て、再交渉の結果、妥当なギャラに落ち着いたものだ。アメリカ・マット界にナメられてはいけない。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　鶴田は、9月11日の日本武道館大会で、ファミリー軍団に加わって悪役商会と対戦したのが最後のファイトとなった。鶴田は引退と取締役辞任を申し入れて来たが、私は、「お前はオレの最初の愛弟子で、全日本プロレスの功労者だ。オレの目の黒いうちは、そういうことを言ってくれるな」<br />
　と受け付けなかった。だが、鶴田にはもうファイトする気力も体力も無いことはわかっていた。全盛期に病いに倒れ、引退を決意しなければならなくなった鶴田は無念だったろうが、私も残念だし、鶴田に去られることはたまらなく寂しかったのだ。</p>

<p>　98世界最強タッグ決定リーグ戦中の12月2、3日の松本、静岡両大会を私は欠場、4日の千葉大会で復帰した。私は普段から強度の便秘症だった。それがちょっときつくなったのと、風邪をこじらせたか体がだるかったので大事をとったのだが、カムバックしてみればファイトに支障はなかった。だが、この年の最終戦12月5日の日本武道館大会に出場した後、7日にハワイに出発する予定だったが、念のためにそれを変更して、東京医大病院に検査のため入院することにした。検査が終わればハワイでたっぷりと休養をとり、来年へのエネルギーを蓄わえるつもりだ。</p>
<hr />
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    <title>「王道十六文（完全版）」第十六章　激動！！平成の全日本 Part 1</title>
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    <published>2006-08-01T05:38:13Z</published>
    <updated>2006-08-01T05:39:15Z</updated>
    
    <summary>　11月21日に開幕した87世界最強タッグ決定リーグ戦には、私は輪島と組んで出場...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.giant-baba.com/">
        <![CDATA[<p>　11月21日に開幕した87世界最強タッグ決定リーグ戦には、私は輪島と組んで出場した。輪島は同リーグ戦初出場だったが、世界の強豪連に伍してよく頑張り、結果は出場12チーム中の7位に終わったが5勝2敗3引分けと勝ち越して、優勝チームと4点差の11点をあげたのは立派だった。最終戦12月11日の日本武道館大会5チームが優勝の可能性を残して進出するという大混戦を制したのは、この年10月に結成したばかりの鶴田＆谷津の五輪コンビだった。</p>
]]>
        <![CDATA[<p style="background-color: #e6f3f3;">　同リーグ戦中の11月28日、南アフリカ遠征に出したハル薗田の乗った南ア航空機が、インド洋上モーリシャス沖で墜落し、薗田と真弓夫人が不慮の死をとげたのは、何とも悲しく切ない事件だった。薗田はその人柄を誰からも愛され、全日本プロレスにとっては上下のクッション役としても貴重な存在で、私は、「ゴリ（薗田の愛称）に言っておけば、全員に誤解なく伝わる」<br />
と、信頼していた。しかも薗田夫妻は9月26日に私たちが媒酌人として結婚式をあげたばかりで、南ア遠征は、<br />
「新婚旅行を兼ねて行ってこい」<br />
　と私が航空券をプレゼントしたものだ。それがこんな悲劇を呼ぼうとは…。“行方不明…”の第一報が入ってから、私も元子もひたすら無事を祈り続けたが、それも空しく終わって、元子は泣いてばかりいた。12月16日に後楽園ホールで『ハル薗田夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー』を開催したが、リング上で告別の辞を述べた私も、涙があふれ出て絶句してしまった。薗田の死がまだ信じられないうちに、62年は暮れた。</p>

<p>　63年1月2日、新春第1戦の後楽園ホール大会で、私は田上明をパートナーに起用してデビューさせた。田上は玉麒麟の四股名で大相撲十両6枚目まで進んだが、前年8月に入団、基礎トレーニングを積んでいたのだ。試合はバディ・ランデル＆ポール・ハリス組に快勝。私は古手の記者に、<br />
「田上は上田馬之助の新人時代に似ている」<br />
　と言われた。確かに体型とちょっとスローモーなところは似ていたが、体の柔軟性とバネは上田より上で、私は田上を晩成型の大器と信じていた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　1月4日の東京スポーツ新聞社制定『プロレス大賞』授賞式では、最優秀選手を天龍、年間最高試合賞を8月31日の日本武道館大会における鶴田VS天龍戦、最優秀タッグチーム賞を天龍＆原組、新人賞をテンタが受賞、全日本プロレス勢が主要な賞を独占した。これはジャパン軍団離脱後の全日本プロレスの充実を物語るもので、私には嬉しいことだった。</p>

<p>　このころからインター、PWF、UN3ヘビー級王座統一の気運が盛り上がり、4月15日の大阪府立体育会館大会で、PWF＆UN2冠王の天龍とインター王者ブルーザー・ブロディが初の三冠統一戦を行ったが、両者リングアウトで引分けた。両選手とも、名実共に全日本プロレスの頂点となる座を意識して、意地を張り合ったような試合だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　5月10日には、タイガーマスクが私たち夫妻の媒酌で結婚式を挙げた。まさか覆面を着けたまま挙式し、披露宴に出席するわけにもいかない。タイガーマスクの正体が三沢光晴であることをこの時に初めて公表したが、三沢と相談の上で、レスラーとしてタイガーマスクで通すことにした。</p>

<p>　6月10日の日本武道館大会では、PWF世界タッグ王者の五輪コンビがザ・ロード・ウォリアーズを破ってインター・タッグ王座を奪取、私は同27日記者会見を行い、統一された2冠を世界タッグ王座と改称すると発表した。王座統一の気運はヘビー級戦線の方が盛り上がっていたが、タッグ王座が先に実現したわけだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　ブロディが7月16日（現地時間）にプエルトリコで地元のレスラーに刺殺されたのは、大きなショックだった。ブロディは並外れてプライドが高く、自己主張の強烈な男で、各地のプロモーターとの間にトラブルが絶えなかったようだが、私は彼の扱い方を心得ていたつもりで、全日本プロレスの貴重な戦力になっていてくれた。8月29日に武道館で『ブルーザー・ブロディ・メモリアル・ナイト』を開催し、バーバラ未亡人と長男のジェフリー君を招待した。こんな小さな息子を残して殺されたブロディは、さぞ心残りだったことだろう。</p>

<p>　この武道館大会で私は、ラッシャー木村をシングル対決で降ろしたが、試合後に木村がすでに人気定着していたマイク・パフォーマンスで私に、<br />
「これだけ戦っていると、何か他人と思えなくなってくるんだ。一度でいいから“兄貴”と呼ばせてくれよ」<br />
　と言ったのには思わず吹き出してしまったが、ファンはこれを大歓迎したようだ。親しい記者も勧めるので、10月28日の横浜大会で4年ぶりに組んだが、今度は木村も仲間割れしそうな気配もない。“義兄弟コンビ”と呼ばれて奇妙な人気が出たので、88世界最強タッグ決定リーグ戦もこのコンビで出場したが、優勝したスタン・ハンセン＆テリー・ゴディ組に2点差の3位に終わってしまった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　年号が変わって平成元年1月、都内のJR各駅に私の写真入りで『みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます』というキャッチコピーのポスターを貼り出し、好評を博した。これは私の率直な気持ちで、私はプロレスが一番面白いと信じている。このポスターが気に入った私は、リング輸送のトラックにもこれを大きく画かせた。</p>

<p>　2月25日の後楽園ホール大会で私は木村と組み、五輪コンビの世界タッグ王座に挑戦した。五輪コンビは前年の世界最強タッグ決定リーグ戦で準優勝したが、私たちは公式戦を時間切れで引分けていた。木村は全日本プロレスに参戦して4年余になるが未戴冠のままで、私は木村に一度ぐらいはチャンピオン・ベルトを腰に巻かせてやりたいと思ったのだが、五輪コンビはまた一段と強くなっていた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　続けて3月27日の後楽園ホール大会で私は小橋健太と組み、冬木＆川田のフットルースが保持するアジア・タッグ王座に挑戦した。<br />
「世界の最高峰の座に3度も就いた馬場が、何で今さらアジア・タッグなんだ」<br />
　と言う人もいたが、これは小橋に大試合の経験を積ませたいがためだった。小橋は前年2月にデビューしたばかりで、まだ初白星もあげていなかったが、私は小橋を必ずメーンイベンターになれる男だと、その素質を高く買っていたのだ。私との年齢差は29歳。“親子コンビ”と呼ばれてしまった。</p>

<p>　ヘビー級三冠王座は、4月18日の東京・大田区体育館で鶴田がハンセンを破り、ついに統一した。私はこの王座の正式名所を、『三冠統一ヘビー級選手権』として、以後は個々のタイトル戦を行わないことにした。<br />
「3本のベルトを1本化して新ベルトを製作し、名称も改めた方がいいのではないか」<br />
　という意見も多く、私もちょっと悩んだが、3つのタイトルにはそれぞれ由緒があり、ベルトに思い入れの深い元王者もいるだろうということで、あえて3本のベルトをそのまま残したのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　4月29日の大阪府立体育会館大会では、百田光雄が仲野信市から世界ジュニア・ヘビー級王座を奪取した。百田はこのころ、“午後6時半の男”と呼ばれて第1試合に定着、若手選手の厚い壁となっていたのだが、前年から後楽園ホールに“百田コール”が起こるようになり、それが全国の会場に波及して、私のところにも、<br />
「百田選手を王座に挑戦させて下さい」<br />
　という手紙が何通もくるようになった。そのファンの声に後押しされた形で私は百田にチャンスを与えたのだが、百田は3度目の挑戦でそれをものにしたのだ。百田は40歳、キャリア18年余にしての初載冠に嬉し泣きしたが、私もホロリとすると同時に、<br />
「プロにとって、ファンの声援ほどありがたいものはない」<br />
ということを改めて痛感したのだった。</p>

<p>　9月には、私の『デビュー30周年記念特別試合』を3戦行い、2日の日本武道館大会でアブドーラ・ザ・ブッチャーを、20日の名古屋大会でタイガー・ジェット・シンを共に片エビ固めで降したが、15日の後楽園ホール大会で木村＆渕と組み、天龍＆冬木＆川田組と対戦した6人タッグマッチは敗れた。私は昔から、ブッチャーやシンのようなラフ・ファイターとの対戦の方がやりやすかったが、それは今も変わらない。こういう相手にはキャリアが生かせるのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　89世界最強タッグ決定リーグ戦には、前年に続いて木村とのコンビで出場したが、11月29日の札幌大会における公式戦で天龍＆ハンセン組と対戦、私は20分22秒に天龍のパワーボムを食らい、エビ固めでカウント3を聞いてしまった。私の新人時代は別として、昭和39年4月に再渡米武者修行から帰国して以来、初めて日本人レスラーにフォール負けを喫したのだ。私は“いつかはこの時が来る”と思ってはいたが、この試合は相手のタッグ戦法があまりにうまく、それにしてやられた私が孤闘を強いられたための負けで、“ついにその時が来た”というショックは無く、近いうちに必ずお返し出来ると思っていた。</p>

<p>　平成2年に入って1月6日、新日本プロレスの坂口征二社長と共同記者会見を行い、両団体の協調路線確立を発表した。新日本プロレスは前年7月に猪木が参院選に当選して社長の座を坂口に譲り、その後、私は坂口と何回も会談を重ねていた。誠実な人柄の坂口は、猪木と違って信用できる。2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会には、NWA世界王者リック・フレアーが来日をキャンセルしたために大会の目玉を失った坂口の要請を受けて、鶴田、天龍、谷津、タイガーマスク、ハンセンの主力5選手を貸し出した。両団体の旗揚げ以来、初めての交流が実現し、ファンはこれを大歓迎してくれた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　そのちょっと前の1月27日、後楽園ホール大会での6人タッグマッチで、私は天龍をランニング・ネックブリーカードロップで20分56秒にフォール勝ちを奪い、前年11月の借りをきっちりと返している。</p>

<p>　4月13日には東京ドームで、全日本、新日本、WWF3団体共催の『日米レスリング・サミット』を開催した。WWFは前年から日本進出を計画しており、両団体に協力を要請して来たのだが、私は坂口と協議の結果、興行の主導権は全日本プロレスが握ることにした。WWFが単独で侵攻するのは無理だということを思い知らせてやりたかったからだ。WWFビンス・マクマホン・ジュニア代表がリング上で挨拶した時、客席からブーイングが起こり、彼も日本のファンにあまり歓迎されていないことはわかったようだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　このサミットで初めてアンドレ・ザ・ジャイアントとコンビを組み、ザ・デモリッションに快勝した。アンドレとは、日本で同じリングに上がるのは初めてで、私より身長の高いレスラーと組むのも初めてだったが、気持よく戦え、アンドレも、そしてファンも喜んでくれた。</p>

<p>聞けば、アンドレとWWFの契約は切れているという。私が、<br />
「それなら全日本プロレスに来ないか」<br />
と誘うと、アンドレは、<br />
「ババと組むのは楽しい。いま決まっているスケジュールを消化したら、ぜひ呼んでくれ」<br />
　と快諾してくれた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　5月2日に全日本プロレスの事務所で記者会見し、天龍の退団を正式発表した。天龍とは、4月26日にキャピトル東急ホテルで会談していたところをマスコミに見つかり、すでに退団のニュースは流れていたが、私はそれを正式に発表し、“円満退社”であることを強調したかったのだ。天龍は、4月7日の高知・十和村大会で天龍同盟の解散を申し入れ、私もレスラーとして、その気持はわかる。</p>

<p>　私はかねてから、<br />
「天龍には、ちょっとかわいそうなことをしたな」<br />
　と思っていた。鶴田が入団した時は、私は彼を後継者として育てようと必死になった。だが、天龍が入団した時は、鶴田が立派なメーンイベンターに成長していたので、私はちょっと安心していた。そのため天龍は通算3回も渡米武者修行に出し、一匹狼の辛酸もなめさせた。輪島が入団した時は、鶴龍コンビが全日本プロレスの看板となり、私の連続出場記録も終わっていたので、私は付きっきりで輪島を鍛えることが出来た。天龍には、鶴田や輪島に比べて、“一人で苦労させたな”と言う気持が強かったのだ。それもあって私は天龍の退団を認めたのだが、天龍がメガネスーパーのバックアップでSWSを設立すると、天龍の後を追うようにゾロゾロとついていった選手たちには腹が立った。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　天龍退団直後のシリーズ開幕戦、5月14日の東京体育館大会のリング上で、タイガーマスクが自ら覆面を脱ぎ、素顔の三沢に戻って打倒鶴田を宣言すると、川田、田上、小橋らが協調して超世代軍を結成し、私はそれを認めた。彼らなりに危機感を抱き、決起したのは、私には頼もしいことだった。そのシリーズの最終戦6月8日の日本武道館大会で、私は鶴田VS三沢の頂上対決カードを組んだが、三沢がフォール勝ちを奪った。鶴田が、<br />
「まだ追い抜かれたとは思わない」<br />
　と言ったという。私も同感で、鶴田は9月1日の武道館大会における頂上対決第2章で三沢に快勝、きっちりと雪辱を果たしたが、2戦とも好勝負だった。これで三沢は本物になったと、私は確信した。</p>

<p>　アンドレは約束通り、9月29日に開幕したシリーズから、全日本プロレスの常連となった。開幕戦後楽園ホール大会では私とR木村のファミリー軍団に加わり、大熊＆永源＆渕の悪役商会を一蹴したが、翌30日の後楽園ホールにおける私の『デビュー30周年記念試合』では、私がA・T・ブッチャーと組み、アンドレ＆ハンセン組と対戦した。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　実は、前年9月にも私のデビュー30周年記念試合を3戦行っているが、これは全く私のカン違いだった。私はデビューした昭和35年を1と数えてしまったのだ。言い訳めくが、私の子供のころは年齢は数え年だった。生まれた時が1歳で、初めての正月を迎えると2歳になる。そのころの癖がヒョイと出てしまったらしい。この9月30日が正真正銘の満30周年だった。それはともかく、この日は台風22号が東京を直撃し、交通網はズタズタになってしまったが、それでも後楽園ホールは超満員だった。ファンは本当にありがたい。</p>

<p>　日本でアンドレと対戦するのは初めてで、私とタックル合戦は両者倒れず、ファンは大いに沸いてくれた。試合は、ブッチャーが私の制止も聞かずに凶器を使用したので、アンドレとハンセンが2人がかりでコーナーに振り飛ばしたブッチャーに私が16文キックを食わせ、アンドレがエルボー・ドロップで押さえ込んだ。結局、私の組が負けたわけだが、気持ちのいい試合で、ファンも喜んでくれた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　90世界最強タッグ決定リーグ戦には、私はアンドレと組んで出場、鶴田は田上と組んだ。鶴田は天龍、タイガーマスク（三沢）、谷津、G・カブキとタッグ王座に就いたパートナーを失い、超世代軍に参加していた田上を、私が口説いて引き戻したのだ。これでタッグ王座戦線からしばらく遠のいた鶴田は、<br />
「タイトル奪取は田上の成長待ちです」<br />
　と言った。私もインター・タッグ王座奪取のために、鶴田の成長を初挑戦から1年4ヵ月間待ったのだ。これは鶴田のためにも、そして田上のためにはなおさらいいことだったと思っている。</p>

<p>　私とアンドレの“大巨人コンビ”は快調だったが、11月25日の横浜大会における公式戦で、私はレスラーになって初めての体験をした。相手のザ・ランド・オブ・ジャイアンツは、ブレード・ブッチ・マスターズもスカイウォーカー・ナイトロンも共に身長213センチ、アンドレは223センチで、リング上にそろった4人のジャイアントの中では、私の身長が一番低かったのだ。以前にパキスタンの空手家ラジャ・ライオンと対戦した時もそうだったが、自分より大きい相手との初対決には、ちょっと恐怖感を覚えるものだ。だが、相手のジャイアンツはキャリアも浅く、技もそれほど持っていなかったので、そんな感覚はすぐに消え、私たちの楽勝に終わった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　大巨人コンビは優勝街道を邁進、11月30日の帯広大会に7戦全勝で挑んだ。私は80世界最強タッグ決定リーグ戦で鶴田と組んで以来、まる10年ぶりに制覇出来るという手応えをつかんでいた。この日の公式戦の相手はドリー＆テリーのザ・ファンクス。手慣れた相手とあって私は自信を持っていたのだが、この試合で私はアクシデントに見舞われてしまったのだ。</p>

<p>　10分過ぎまでは私たちが優勢に試合を進めていたが、ロープを背にしたドリーが私の首を抱え込み、両足を私の股の間に入れて、トップロープに腰掛けるように一回転、私を場外に投げ落とした。ドリーが試合の流れを変えるために場外戦に誘う時、よく使う戦法に私は引っかかったわけだが、私は場外のセーフティ・マットとリングの間の床に左腰を強打、その上にドリーの体が落下してきて、グキッという激痛が走り、左足が動かなくなったのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　私は救急車で帯広市内の河野外科に運ばれ、応急手当を受けていったんホテルに帰ったが、痛みは一向に納まらない。スタッフが札幌の病院に入院の手配をしたが、空きベッドが無いという。仕方なく私は翌日に河野外科に入院した。この時、元子が、<br />
「飛行機をチャーターしてでも、馬場さんを東京の病院に入院させてあげたい」<br />
　と言って実際に航空会社に交渉、結局チャーターはしないですんで私は東京医科大学病院に入院できた。こういう時の元子は、本当に頼りになる。</p>

<p>　医大病院での精密検査の結果、私は『左大腿骨亀裂骨折・全治3ヵ月』と診断され、平成3年の正月を病院で迎えることになった。入院中に私は53歳になる。“馬場引退”と決めてかかったように報道するマスコミもあったが、私は引退なんて全く考えていなかった。体が動くようになるとすぐにリハビリを開始し、歩く事に集中した。これはアンドレが反面教師になっている。アンドレはあまり練習もせず、ウエイトも増えるにまかせていたため、このころは歩くのも辛そうだった。年齢は私より8歳下なのに、足の衰えは私を追い越していた。私はああなってはいけないと、ひたすら足を鍛えたのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　3年3月1日に私は退院した。亀裂骨折は2月初旬に完治していたのたが、この際だから全身のオーバーホールをやっておこうと入院生活を続け、骨折する前より体調がよくなっての退院だった。練習にも一段と熱が入り、6月1日の日本武道館大会で私は183日ぶりのカムバックを果たした。この時のファンの熱狂的な歓迎ぶりを、私は生涯忘れない。<br />
「ファンは本当にありがたい。俺はプロレスラーになって本当に良かった」<br />
　としみじみ思ったものだ。</p>

<p>　91世界最強タッグ決定リーグ戦に、私は前年に続いてアンドレとの大巨人コンビで出場したが、アンドレの動きは前年に比べてだいぶ落ちていた。前年のように連勝街道を邁進するというわけにはいかなかったが、それでも巨体とパワー、そしてキャリアに物を言わせ、12月6日の最終戦日本武道館大会のメーンイベント前には、10勝2敗の得点20点で鶴田＆田上組、ハンセン＆ダニー・スパイビー組と並んで同点首位に立っていたが、メーンの結果、T・ゴディ＆S・ウイリアムス組が優勝、私たちは1点差の2位に終わった。私は、大巨人コンビもここらが限界かなと感じていた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　平成4年に入って2月3日、私は専大レスリング部主将の秋山潤の入団を発表した。秋山は私が専大の道場まで練習を見に行ってスカウトしたもので、アマレスの実績ではもっと上の選手もいたが、私は、<br />
「プロレスのセンスは秋山が一番だ」<br />
と見たのだ。この私の目に狂いはなかった。3月4日の日本武道館大会では、鶴田＆田上組がゴディ＆ウィリアムス組から世界タッグ王座を奪取、田上は同王座初戴冠を達成した。ここでも、田上を大器晩成型と信じていた私は間違ってはいなかったのだ。</p>

<p>　春の92チャンピオン・カーニバルは20選手が出場、2ブロックに分かれて総当り戦を行い、首位同士の決勝戦でハンセンが三沢を降して優勝した。優勝争いは私が欠場していた前年春に9年ぶりに復活させ、決勝戦で鶴田がハンセンを破って優勝している。三沢がブロック戦でその鶴田を抑えて首位に立ったのは、彼の成長ぶりを物語るもので、8月22日の日本武道館大会で三沢はハンセンを破り、三冠王座初戴冠を達成した。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　私は9月17日の後楽園ホール大会で鶴田＆渕と組み、三沢＆川田＆菊地組と対戦した。三冠王者となった三沢と肌を合わせてみたかったからで、試合は25分50秒に鶴田が菊地を仕留めて私たちが勝ったが、三沢のファイトに頼もしさを感じた私は、私と鶴田に続く全日本プロレスのエースの座は、この男に任せて大丈夫だと安心したのだった。</p>

<p>　10月1日にはキャピタル東急ホテルで『全日本プロレス創立20周年記念パーティ』を開催、15周年の時を上回る約1200人が出席し、新日本プロレスの坂口社長もお祝いに駆けつけてくれた。平成2年2月に初めて実現した両団体の交流は、同年7月に猪木が新日本プロレスの代表取締役会長に就任したことで途絶えたままになっているが、坂口の誠実さは相変わらずだ。<br />
天龍らが大量脱退した後は、三沢以下の選手が成長して立派に埋めている。私は、<br />
「20年前に植えたプロレスという木が、ようやく大きな花を咲かせることが出来ました」<br />
　と挨拶した。</p>
<hr />
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]]>
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    <title>「王道十六文（完全版）」第十五章　創立15周年を迎えて・・・</title>
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    <published>2006-08-01T05:36:19Z</published>
    <updated>2006-08-01T05:37:36Z</updated>
    
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        <![CDATA[<p>　昭和61年の1月で私は48歳になり、日本プロレス時代に引退を予定していた年を10年もオーバーして、自分でも“ようやっているわ”とは思ったが、体調も良く、<br />
「まだまだ現役を続けながら、目を光らせていなきゃいかん」<br />
と気を引き締めた。</p>
]]>
        <![CDATA[<p style="background-color: #e6f3f3;">　2月5日札幌大会で、鶴龍コンビが長州、谷津組にインター・タッグ王座を奪われた。1月28日東京体育館大会では鮮やかなフォール勝ち防衛を果たしたが、その仇を取られた格好だった。この2戦では谷津が飛躍的な成長ぶりを見せ、それが鶴龍コンビには計算外だったようだ。<br />
谷津は伸びる素質を持っていたが、長州の踏み台にされてその芽を摘まれていたようなところがあった。この2戦長州が不調だったため、奮起したものだろう。</p>

<p>　2月13日からは台湾に遠征、高雄、台中で4戦を行ったが、未知の土地を見て来たという程度で、それほど収穫のある遠征ではなかった。ただ、帰国前夜の18日台北で、私の主催で打ち上げパーティーを開き、私は、<br />
「今日酔っ払わないヤツは、ギャラを上げてやらんぞ！」<br />
　と宣言して、紹興酒をコップでぐいぐいあおった。遠征したのは全日本プロレス勢だけだったこともあって、和気あいあいとした実に愉快なパーティーとなり、みんな喜んでくれたと思う。私も最近は大量に飲めば酔うようになって、パーティーがお開きになった後はもう動くのもおっくうになっていたが、たまにこういう機会があっていいと感じたものだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　3月13日日本武道館では、ジャパン軍団と6対6シングル戦全面対決を行った。カードは公開抽選で決めたが、6戦のうち最も印象に残っているのは、鶴田―アニマル浜口戦だ。鶴田の勝ちは動かない。こういう場合は、負けることが確実な選手は登場した時から、何となく敗色に包まれたような感じがするものだが、浜口には全くそれが無かったばかりか覇気に満ちていて、<br />
「これは、凄い男だな」<br />
とうなされた。鶴田の順当勝ちに終った後、浜口はリング中央に仁王立ちとなって両手を突き上げ、<br />
「負けたぁ！」<br />
と絶叫したが、これも潔かった。試合後報道陣に総評を求められた私は、<br />
「全選手に、浜口を見習わせたい」<br />
と言った。浜口は62年3月の長州騒動で引退したが、実に惜しい男を日本マット界は失ったものだ。</p>

<p>　試合内容では、タイガーマスク―長州戦が光っていた。タイガーマスクは負けたが、これでヘビー級進出の自信を彼も、私も持った。タイガーマスクはこの2週間後に、ジュニア・ヘビー級王座を返上して、ヘビー級に転じた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　ハンセンは前年12月29日ニュージャージー州メドーランドでリック・マーテルを降し、AWA世界王者となって、春のチャンピオン・カーニバルに乗り込んで来た。4月5日横浜大会では、長州がハンセンのAWA、PWFの2冠に挑み、反則勝ちでPWF王座を奪取した。ハンセンには、新日本プロレスの時代から問題にしていなかった小粒な長州ということで、油断があったようだ。2冠をかけて挑戦を受けたのも、自信満々だったからだろう。反則でも王座は移動するというPWFルールが長州には幸いした。</p>

<p>　このシリーズの4月1日上越大会から、カルガリ・ハリケーンズが出場した。スーパー・ストロング・マシーン、ヒロ斎藤、高野俊二の3選手は、前年8月5日の長州の“新時代宣言”に呼応して新日本プロレスを飛び出したもので、これは新日本プロレスとの契約違反であり、協定にも反する行為だ。私はそれらがすべてクリアされる3月末まで、出場を認めなかった。<br />
8ヵ月間も待たされた彼らは不満を鳴らしたようだが、それがルールだ。3人の中では、高野が抜群の素材だった。斎藤は巧いレスラーだが、マシーンは基本が出来ていないようだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　横浜大会の翌々4月7日、輪島大士と会った。トラブルのため花籠親方の名跡も返上し、“浪人”していた輪島は、プロレスに転向して一から出直したいという。<br />
「お願いします」<br />
　という言葉に、“これをやるしかない”という切羽詰まったものを感じた私は、<br />
「借金のことは、全日本プロレスは責任を持たない。レスラーになっても、それだけの大金は稼げない。それを承知の上で、新弟子になったつもりでやるなら、引き受けよう」<br />
　と条件を出したが、輪島はそれでもやるという。とにかく本人のやる気が肝心だ。裸にして見たが骨格に異状は無く、この時は体重96キロだったがまだ肉のつく体で、内臓にも故障は無いという。私は輪島の決意を買って、同13日赤坂のキャピタル東急ホテルで入団を発表した。<br />
この記者会見で輪島は、<br />
「裸になって、裸になったから、また裸でスタートする」<br />
　と言った。なかなか巧いことを言うと感心したものだった。</p>

<p>　それから、私の輪島育てが始まった。この年の4月以降は、それに終始して1年が終ってしまったような感じだった。いろいろと世間を騒がせ、怠け者とも言われていた男だが、引き受けた以上は、“駄目でした”ではすまされない。マスコミにも批判や悲観論がかなりあったが、<br />
「責任を持って、俺が一人前にして見せる」<br />
　と私も必死だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　4月18日輪島とタイガーマスクを連れて渡米、NWAとAWAのビッグマッチ2戦に出場して輪島を紹介し、そのままハワイ特訓に入った。元子を輪島の世話役に残して26日に帰国。アジア・タッグ王者の石川敬士を、シリーズを欠場させて輪島の特訓パートナーとしてハワイに送り込み、私も5月10日松戸、6月12日日本武道館のビッグマッチをすませて同13日ハワイに入り、7月2日の帰国まで輪島の特訓を指導した。もりもりと良く食い良く鍛えて輪島は、3ヵ月足らずで早くも120キロに増量していた。38歳の男が筋肉だけでこれだけ増やしたのは驚異的だ。特訓のきびしさは、輪島の想像を超えたものだったらしい。</p>

<p>「相撲時代にこれだけ稽古していたら、あと5年は横綱を張っていられたろうな」<br />
　と苦笑していたものだ。私も彼に禁酒・禁煙・禁ゴルフの3禁をきびしく命じ、ハッパをかけるために横っ面を張ったこともあった。この時前歯が1本折れて飛んでしまったが、輪島はそれでもめげずに食いまくっていた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　7月からは輪島を、セントルイスの元NWA世界ヘビー級王者パット・オコーナーのもとに送り込んだ。</p>

<p>　この7月には、元幕下琴天山のジョン・テンタも入団した。これも佐渡ヶ嶽部屋を脱走して世間を騒がせた男だが、いったん母国カナダに帰し、決意を再確認してから呼び返した。こちらは太りすぎで、20キロの減量を命じた。大きいことはいいことだが、相撲と違って倒れてもすぐ起き上がらなければいけないプロレスラーは、足腰に負担がかかるほどウエイトがあってもまずいのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　輪島が初マットを踏んだのは、8月7日カンザスシティ大会だった。私は同2日に渡米して、彼とタッグを組んだ。相手は二流レスラーで、私がついているからには負ける気づかいはないが、輪島がアガってしまうのではないかという不安はあった。だが輪島の辞書には、アガルという字がないらしい。ギクシャクとしてはいたが一通り習い覚えた技も出して、とどめは輪島がゴールデン・アームボンバーを決めて快勝した。これは、輪島が相撲時代に左四つ下手投げを得意とし、“黄金の左腕”と呼ばれていたことにヒントを得て、私が考案した新兵器だ。</p>

<p>　それから第2戦8月30日ラスベカス大会まで3週間余の間をとったのは、体は出来ていたが輪島は、まだまだ連戦をこなせる状態ではなかったからだ。練習は毎日4時間余もぶっ通しでやったが、練習と試合のスタミナは微妙に違うし、攻めも単調でデフェンスは甘かった。プロレス1年生に多くを望むのは無理と承知しているが、輪島には時間が無い。輪島はデビュー戦で自信をつけたようだが、私は慎重だった。やり直しは許されないのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　デビュー戦を終えてセントルイスから、特訓の地をニューヨーク州バッファローに移した。<br />
ここはザ・デストロイヤーの本拠地で、彼は立派なジムも持っている。私とデストロイヤーは輪島につきっきりでコーチし、輪島はバックドロップもマスターした。</p>

<p>　だが第2戦ラスベガス大会で、輪島はちょっと自信を失ったようだ。この試合も私と組んでのタッグマッチだったが、先発した私は相手とパッと組んだ瞬間、<br />
「あっ、これは輪島にはちょっと無理だ」<br />
　と感じた。マットが異常なほど軟らかく、お互いの重みでしなってしまう上に、相手は巨漢コンビで、その力の入れ具合でもリングが違う揺れ方をするのだ。極端に言えばトランポリンの上で試合をしているようなもので、輪島がこれまで踏んだマットとは、全く感覚が違った。案の定、輪島はこの揺れのためにタイミングがとれず、試合には勝ったが、やろうと思った技がほとんど出せずに、試合後ショボンと考え込んでしまった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　だが、アメリカでは、地区によってはマットの堅さばかりか、大きさまで違う所がある。それをこなしていくのは、やはり経験を積むほかはない。輪島はこの後、特訓の地をノースかロライナ州シャーロッテで元NWA世界ジュニア・ヘビー級王者ネルソン・ロイヤルが経営するレスリング・スクールに移し、9月19日には再び私とプエルトリコで合流、初のシングルマッチにも快勝して、ようやく自信を回復したようだった。</p>

<p>　10月21日両国国技館で開催した全日本プロレス創立15周年記念大会では、鶴田がハンセンを倒してインター王座に返り咲いた。同王座は7月31日両国国技館大会で鶴田がハンセンに奪われたもので、2月に長州、谷津組にインター・タッグ王者を奪われていたため、鶴田は約3ヶ月完全無冠となっていた。50年2月に私と組んでインタータッグ王者となって以来11年余、チャンピオン・ベルトと縁の切れたことのない鶴田には、これはショックだったろう。ちょっとノンキなところのある鶴田だが、これは大いに発奮して、<br />
「今のハンセンからフォール勝ちを奪えるのは、お前しかいない」<br />
　という私の期待に応えてくれた。鶴田の大成のためには、この無冠の3ヵ月間も無駄ではなかったと思っている。こういう悔しさが、レスラーを強くするのだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　輪島の日本デビュー戦は11月1日、彼の故郷石川県七尾大会で行った。相手はタイガー・ジェット・シン。話題の主ということで報道陣がどっと押しかけ、テレビは全国生中継、しかも私でさえいまだに故郷三条での試合が一番やりにくいと思っている地元で、いきなりトップ・レスラーとのシングル対決メーンイベントという、あらゆるプレッシャーの要素がそろっていたのだから、並みの人間だったらビビッてしまうところだ。私もこの日ばかりはテレビ解説どころではなく、セコンドに付いた。近くにいて指示を与えなければ不安でならなかったからだ。</p>

<p>　輪島はプレッシャーをはね返して、よくやったと思う。私は、<br />
「技術的にはまだ30点だが、気迫は満点だった」<br />
　と採点した。ホッとして、どっと疲れが出た感じだった。<br />
　だが輪島には、ここでホッとされては困る。翌々3日に渡米、私と鶴田、天龍も同行して小規模なサーキットを行い、輪島を置いて私たちは'86年世界最強ダッグ決定リーグ戦出場のため帰国した。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　この大会には再びザ・ファンクスが復活していて、私はタイガーマスクと組んだ。3月にへビー級に進出いていたタイガーマスクに経験を積ませるためだったが、ハンセン、テッド・デビアス、テリー・ゴディらの巨漢、ベテランのファンク兄弟らには、出場選手中の最軽量でキャリアも一番浅いタイガーマスクは、ちょっとビビッたようだった。</p>

<p>　だがタイガーマスクの素質は、私は、<br />
「日本で一番じゃないかな」<br />
　と思うほど買っている。体も、大きくしようと思えばいくらでも大きくなる。ただ、タイガーマスクの覆面をつけている以上は、イメージ的にも華麗な空中殺法を要求されるわけで、ここがちょっと微妙なところだが、タイガーマスクが鶴田、天龍に続いて全日本プロレスを背負うレスラーになることは、間違いないと信じている。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　大会は最終戦12月12日日本武道館大会で、鶴龍コンビとハンセン、デビアス組が同点首位でリーグ戦を終了、大会史上初の優勝決定戦が行われ、鶴龍コンビが2年ぶり通算V2を達成した。</p>

<p>　この日私はアメリカから呼び返した輪島と組み、元AWA世界王者リック・マーテル、トム・ジンク組と対戦した。輪島にとってはこれが日本第2戦、東都デビュー戦だったが、正統派テクニシャンの外人組を相手に、輪島は実にいいファイトを見せた。この試合で私は、輪島の翌年新春シリーズからの日本定着を決めたのだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　これで61年の国内全日程は終了したが、私と輪島は渡米し、12月30日ロサンゼルスで試合に出場した。ジム・クロケット・プロモーション主催の大会で、ノースキャロライナで輪島が世話になったクロケット・ジュニアの要請を受け、お礼の意をこめての出場だった。</p>

<p>　結局私はこの年4月以降、輪島育てのため6回渡米し、3シリーズの前半あるいは後半を、通算40試合欠場した。鶴龍コンビが全日本プロレスを背負ってくれて、それだけ私が輪島のために時間をとれたということでもある。私も輪島のプロレス転向を冷やゝかな目で見ていた人たちに、<br />
「それ見たことか」<br />
　と言われてはならないと、必死だった。かなりきびしい事も言い、やらせたが、輪島も死にもの狂いでよく頑張った。私もプロ野球をクビになった時、“恥ずかしい、悔しい！”という思いが発奪の元となって、力道山の死のしごきにも、時には内心“こんなにまでしなくても――”と恨みながらも耐えた。輪島も同じような気持ちで、私が鬼に見えたこともあったろう。<br />
今の私は、今日あるのは力道山のお陰だと感謝している。輪島も一人前になった時に、わかってくれると思うが――。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　昭和62年の新春シリーズから輪島は日本に定着し、1月3日後楽園ホール大会では渕正信が、小林邦昭を破って世界ジュニア・ヘビー級王座に着いた。これは渕の同僚だった大仁田が全日本プロレスにもたらしたNWAインター同級王座を改称したもので、渕はこれが日本初戴冠だった。渕と大仁田はレスリング技術は渕が上だったが、一発勝負に強い大仁田が大金星をあげたことは前にも書いた。大仁田が負傷返上後王座はチャボ・ゲレロの手に戻り、奪還のため私は渕を3年ぶりにアメリカから呼び返して、58年8月31日蔵前国技館におけるテリー・ファンク引退記念試合で挑戦させた。これは素晴らしい試合だったが、渕はもう一歩のところで長蛇を逸し、その後はスランプ気味となっていた。ちょっと地味だが堅実で練習熱心な渕がようやく脚光を浴び、私もホッとしたものだった。</p>

<p>　2月5日札幌大会では、鶴龍コンビがまる1年ぶりに長州、谷津組からインター・タッグ王座を奪還した。前年の世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝した自信と勢いが、ものを言っていたようだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　長州が蒸発したのは2月20日、エキサイト・シリーズ開幕戦当日だった。後にジャパン・プロレスから報告を受けたところでは、右手首のガングリオンのためとかでシリーズを欠場したが、何かキナ臭い匂いはした。このころは、まさか新日本プロレスが協定破りを承知の上で誘いをかけていたとは知らず、長州が飛び出して新団体を結成するという噂が、いささか気になっていた。</p>

<p>　3月に入ってNWA世界王者リック・フレアーが来日、7日秋田大会で谷津組が初挑戦して両者リングアウトで引分けたが、これはいい試合だった。谷津は長州より大型で、非常にいいものを持っている。長州の踏み台にされて来たが、ある日突然に脱皮して飛躍的に伸びるタイプだと、私は見ている。外人レスラーたちも、早くから長州より谷津を買っていたようだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　同12日日本武道館大会では、鶴龍コンビがサ・ロード・ウォリアーズにインター・タッグ王座を奪われてしまった。ウォリアーズの強さは、パワーの一語に尽きる。鶴龍コンビが逃げの王座防衛術を採らなかったのは良しとするが、真っ向からパワーでぶつかりすぎてしまったようだ。</p>

<p>　この日は輪島を大抜擢、フレアーに挑戦させたが、輪島はデビュー以来初のピン・フォール負けを喫した。まだまだ、攻めは合格点を取れても守りが甘い。さすがにフレアーはそこを見逃がさなかった。プロレスは攻めより守りが難しいと口をすっぱくして説いては来たが、この敗戦は何よりの勉強になったことだろう。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　3月28日の'87チャンピオン・カーニバル開幕戦から、長州以下ジャパン軍団の過半数選手がボイコットを決め込んだのは、まことに心外なことだった。そういう動きがあるということで私はジャパン・プロレス側から要請を受け、前日27日に世田谷区池尻の同社本社で長州以下の選手団と深夜まで話し合った。その時は、<br />
「明日からちゃんと出場します」<br />
　ということだったが、28日の昼ごろに長州から電話があり、<br />
「やはり出ません」<br />
　と一方的に通告して来たのだから、全くふざけた話だ。翌々30日ジャパン・プロレスは長州の追放を発表したが、その席上で大塚直樹同副会長は、1月8日の川崎大会終了後大塚と長州が新日本プロレス本社を訪れ、待ち受けていた猪木から、<br />
「ウチに戻って来い」<br />
　と誘われた事実を明らかにした。両団体が交わした協定書には、双方の弁護士立会いのもとに私と猪木がサインしている。私には信じられない思いだった。協定違反ばかりか長州以下の選手は全日本プロレス、日本テレビとの契約にも違反する。</p>

<p>「一枚の紙っきれに縛られてたまるか」<br />
　ですむ問題ではないのだ。私は然るべき手段を講ずるよう弁護士とも相談し、新日本プロレス側に善処を求めた。私としては、長州たちに“戻って来い！”という気はもうさらさら無い。<br />
「長州たちが59年9月に新日本プロレスを脱退し、60年1月に全日本プロレスに登場した際、当方は新日本プロレスとテレビ朝日に対して違約金を支払っている。当方がした通りに今回はそちらがしてくれれば、文句は言わない」<br />
と申し入れたわけだ。私は猪木と３〜４回会談を持ち、4月6日の第1回会談では、<br />
「長州は何らかの制裁を受けるべきだ」<br />
　という共同声明を出したが、猪木は、とにかく長州を新日本プロレスのリングに上げたいという。<br />
「それなら、協定書には違反した場合の処置をもうたってあるのだから、その通りにしてくれ」</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　長州らがボイコットしたチャンピオン・カーニバルでは、3月31日魚津大会で、1月に入門していた元十両卓越山の高木功をデビューさせ、彼を連れてシリーズ途中に渡米、4月10日−11日の2日間メリーランド州ボルチモアで開催された『世界タッグ五輪U』に出場、24チーム中の4位に入った。といっても1回戦シード、2回戦に勝ち、3回戦は相手チームの負傷棄権で不戦勝、準決勝で負けてのベスト4だから、あまり威張れたものではない。優勝したのはニキタ・コロフ・ローデス組だった。</p>

<p>　前年の第1回大会には、私はヘビー級に進出したばかりのタイガーマスクと組み、ベスト8に終っているが、若い選手には、こういう世界の強豪が集まる大会の雰囲気を知るだけでも、いい経験になる。入団したばかりの輪島が初めてのアメリカのビッグマッチを見学したのもこの大会だった。優勝したザ・ロード・ウォリアーズを見て、<br />
「僕も、早くあんな選手と戦うようになりたい」<br />
と言っていたが、あれからまる1年。その輪島も2月にはウォリアーズと初対決した。何かアッと言う間に過ぎてしまった感じの1年だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">高木を入門3ヶ月でデビューさせたのは、輪島のようにやせておらず、ジョン・テンタのように太ってもいないちょうどいい体をしていたからだが、輪島が日本に定着して人気者となり、高木に先を越されたことが、テンタにはいい刺激となったようだ。</p>

<p>　テンタはビザ切り換えのため前年末いったんカナダに帰り、2月2日に来日したが、ひげを伸ばしてやる気は見せていたものの、何とウエイトは180キロに増えていた。食い盛りの若者に、減量がいかに難しいかということだが、これではデビューさせられない。私は再びきびしく減量を命じ、テンタも今度こそ真剣に取り組み始めたのだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">『世界タッグ五輪U』から帰国してすぐの4月24日横浜大会では、ハンセンと輪島がPWFへビー王座決定戦を行った。長州が返上した同王座の決定戦は同17日鹿児島大会でハンセンとドリー・ファンク・ジュニアの間で行われ、両者リングアウトで引分けた。横浜大会ではその再戦が行われる予定だったが、ドリーが輪島にチャンスを譲ったものだ。輪島はハンセンの首固めを食い、3月のフレアー戦に続いて2度目のフォール負けを喫したが、私も輪島がハンセンに勝てるとは思ってもいなかった。それでもドリーの申し出に反対しなかったのは、輪島に、<br />
「お前はこのクラスで闘っていかなければいけなんだぞ」<br />
という自覚を促すためだった。</p>

<p>　テンタは5月1日後楽園ホール大会で私と組み、ラッシャー木村、鶴見五郎組を相手に初マットを踏んだ。前年7月の入門以来実に10カ月ぶりだった。だが私はこの試合で、ちょっとテンタを見直した。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　私が初めてテンタに会った時、ゆかたにゴムぞうりをつっかけたテンタは、何となくショボクレた感じだった。だいたいザ・デストロイヤーや私の友人の外人たちもそうだが、日本的な格好をしてたどたどしい日本語をしゃべると、迫力が無くなってしまう。しかもテンタは人の良さを丸出しにニコニコと笑っていて、もうまるっきり迫力ゼロだった。入門後も、私がきびしい顔で減量を命じても、素直に返事するのだが、逆に太って帰って来た。</p>

<p>「こいつ、本当にやる気があるのかな」<br />
　と時には首を傾げたものだが、試合になるとテンタはピンと引き締まって、<br />
「やらなきゃならん」<br />
　という積極性を見せたのだ。このデビュー戦ではテレビ・マッチというプレッシャーもはねのけ、かなりラフな展開となっても一歩も退かず、豪快なフロント・スープレックス、カナディアン・バックブリーカーを爆発させてリングアウト勝ちした。野球のブルペン・エースとは逆に、<br />
「本番で真価を発揮するタイプかもしれんな」<br />
　と私は、テンタの外見に似ぬシンの強さを発見したのだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　テンタはこの後、スーパーパワー・シリーズにフル出場して合格点を獲得、6月には母国カナダに“海外武者修行”に出て、バンクーバーでUWA認定カナダ・ヘビー級王座を奪取し、9月末にベルトを引っ下げて凱旋した。デビュー後3ヵ月そこそこで王者になったのは、団体スケールの違いもあってのことで、他団体のベルトを持って来られてもちょっと困るが、これで自信がつけたテンタが、立派な全日本プロレスの戦力となったことは確かだった。</p>

<p>　6月9日日本武道館で私は、パキスタンの空手王者を名乗るラジャ・ライオンと異種格闘技戦を行った。アンドレ・ザ・ジャイアントよりノッポの身長２２６センチのラジャは、パキスタンで私の試合ビデオを見て、<br />
「誰がアジアで最もビッグで最強の男かを決めよう」<br />
　と3月に挑戦の名乗りを上げて来たのだが、“長州騒動”にとりまぎれてうっかり忘れていた。ところが4月に入って、<br />
「返事がないのには、俺から逃げる気か」<br />
　と陽動作戦を始めたので、<br />
「本当にやる気があるなら、とにかく日本に来い」<br />
　と言ってやったところ、すぐに飛んで来たものだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　私は異種格闘技戦に賛成は出来ないが、闘うのはこれが初めてではなかった。初渡米武者修行中の昭和38年に、ニューメキシコ州アルバカーキでムース・ショーラックと対戦した際、特別レフェリーの元ボクシング世界ライトヘビー級王者アーチー・ムーアを乱闘に巻き込んでしまい、翌週同所でムーアと対決したのだ。体が違いすぎて、私が楽勝している。</p>

<p>　だが私より背の高い男と試合をした経験は、あまり無い。アンドレ・ザ・ジャイアントと2回、バトルロイヤルで顔を合わせたことは前に書いたが、そのほかには、初渡米武者修行中にオハイオ州クリーブランドで対戦したスカイ・ハイ・クルーガー、45年春の日本プロレス第12回ワールド・リーグ戦に参加した囚人服覆面のザ・コンビクトの2人が、私より5センチほど高かった。この2人とのシングル・マッチは私が勝ったが、アンドレより3センチ高く、私と身長さ17センチというのは、私には未経験の世界だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　ラジャとの試合は、ラウンド制を採用したプロレス・ルールで行ったが、いいキックを1〜2発食ったものの、ラジャにしても私ほど大きい男にキックを放ったのは初めてとみえて、強くはじき返すとひっくり返ってしまい、2回1分44秒裏十字固めを決めてギブアップを奪った。<br />
　ラジャはプロレスラーの打たれ強さを甘く見ていたようだが、私にしても、見上げなければならない相手の大きさに、やはり恐怖感があった。考えて見ればこの27年間、私と戦ったレスラーたちは、前記の3人を除けばすべて、この日の私のような感じを味わって来たのだろう。<br />
私は大きな体に、改めてしみじみと感謝したものだった。</p>

<p>　ラジャは試合後、全日本プロレスに入門した。ハル薗田がつきっきりでコーチし、面白い素材ではあったのだが、やはり言葉が全く通じないというのが、大きな壁となったようだ。格闘技に国境はないが、それは対等に闘える者同士に言えることであって、手を取って教える場合には、言葉は重要だ。その意味では、輪島をコーチしてくれたパット・オコーナー、ザ・デストロイヤー、ネルソン。ロイヤルらには感謝している。私がひんぱんに渡米したのは、その言葉の壁を取り除くためでもあった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　この日本武道館大会では、ザ・ロード・ウォリア―ズのインター・タッグ王座に鶴田、輪島組が挑戦したが、タイトル奪還は成らなかった。すでに鶴龍コンビは解散していたのだ。</p>

<p>　天龍が阿修羅・原と同盟を結び、意識革命行動を起したのは、5月15日に開幕したこのスーパーパワー・シリーズ中盤戦だった。これは、天龍が自分たちの職業を守ろうという強烈なプロ意識から出たものと、私は解釈している。<br />
「何で悪いことしたたヤツばかり有名になるんだ。こんなに我がままされて、お前らそれでいいのか。それなら僕が、ギリギリの線でやってやる」<br />
　という天龍の叫びが、私には聞こえるような気がする。天龍は、鶴田、輪島から全日本プロレス勢をボロクソにこき下ろしたが、私にもちょっと共鳴出来るところがあった。たしかに全日本プロレス勢には、甘い面があったと思う。それを私が指摘しても、上からの言葉というのはあまり身にしみないものだ。私たちにも、力道山の落とす雷には全員が視線を合わせないよう頭を下げ、
「早く通り過ぎてくれないかな」<br />
　と念じた覚えがある。死のしごきを時には恨んだことさえあったほどだ。だが仲間だった天龍が決起し、言葉と体をぶつけて来たのでは、受け取り方も違って来る。私も、<br />
「あれだけ天龍に言われても、まだ目が覚めないのか。みんなしっかりしろ！」<br />
　とハッパをかけたいような気持ちにもなった。天龍と原の決起は全員の刺激になり、全日本プロレス勢にカツが入ったと私は思っている。6月1日金沢大会で天龍と対決したタイガーマスクは、敗れはしたが、これでモヤモヤしたものを吹っ切ったようだ。この一戦後のタイガーマスクは、見違えるほど良くなった。それが7月3日後楽園ホール大会で鶴田と組み、腰を痛めていたにもかかわらずハンセン・テッド・デビアス組からPWF世界タッグ王座を奪取するという金星につながった。体調不全のため1週間で奪還されはしたが、このタイガーマスクの成長は“天龍効果”と言えるものだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　一番ボロクソに言われた輪島も、歯を食いしばって頑張った。実はこのころの輪島には、私はちょっと不安を感じていた。人気も出、メーンイベンターの座にも定着して、<br />
「ここまで来れば、もう飯は食っていける」<br />
　と一息入れてしまったようなところがあったのだ。転向当初の切羽詰まった緊張感が薄れると、練習量も減り、成長も止まった。私がかなりエゲツなく言っても、本人にはあまり危機感が無いようだった。だが天龍に口でたたかれ、リング上でたたかれて、<br />
「俺をコケにしたら、承知せん！」<br />
　と怒ったことで、転向当初の気迫が甦った。天龍にたたかれなかったら、輪島はここで足踏みを続けていたことだろう。</p>

<p>　鶴田と天龍の“頂上対決”は、8月31日と10月6日の2度日本武道館で行い、鶴田がロープに足を引っかけてのリングアウトと、カッとなっての反則で、2度とも天龍が勝った。私はこの勝負にはこだわらない。仮にピン・フォール負けても、次に勝てばいいのだ。この2試合での鶴田は、気迫に満ちた実にいい顔をしていた。2人の真の決着は、1度や2度の勝負ではつかない。今後も闘い続けることになるだろうが、それがますます2人を磨き、光らせていくと私は信じている。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　鶴田と天龍は、タイプの違うレスラーだ。ファイトのスタイルもプロレスに対する姿勢も、鶴田がアメリカ的で天龍が日本的だと言っていいだろう。そのどちらも、私は良しとしている。<br />
真剣であればいいのだ。天龍も鶴田も闘ったことによって、鶴田のスタイルを理解したようだ。闘った意義はあったと思っている。天龍が個人的な功名心に逸って決起したのではなく、本人が言うように、
「全日本プロレスの活性化のために」</p>

<p>　あえて造反行動を起したのが、周囲にも天龍自身にもプラスになった。私自身も天龍同盟とリング上で闘ったが、団体責任者としては、このプラスは嬉しいことだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　62年10月1日、全日本プロレスは創立満15周年記念パーティーを、キャピタル東急ホテルで開いた。選手全員が壇上に整列し、私は、<br />
「この15年間で私が唯一自慢できるのは、ここに並んだ選手たちだ。これが全日本プロレスの財産だ」<br />
　と挨拶した。全日本プロレスは、すっきりした昔の全日本プロレスに戻ったのだ。長州たちは、来て、去っていった。新日本プロレスも、以前の新日本プロレスに戻ることだろう。旗揚げシリーズに出場した選手で、今も現役として頑張っているのは、私と、大熊元司、佐藤昭雄、百田光雄の4人だけとなったが、全日本プロレスで育ったレスラーたちが、立派に後を継いでくれる。選手一人一人の顔が、頼もしかった。</p>

<p>　このパーティーには出席しなかったが、谷津以下5選手もジャパン軍団を解散し、全日本プロレスに合流した。次代の全日本プロレスは、鶴田、天龍、谷津、タイガーマスクらが背負ってくれる。私は彼らを励まし、見守って、時にはハッパをかけるつもりだ。パーティーの前日9月30日は、私がマットを踏んで満27年の記念日でもあった。このキャリアを、今後は日本マット界のために生かすことが、私の務めだと思っている。</p>
<hr />
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    <title>「王道十六文（完全版）」第十四章　時代の波</title>
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    <published>2006-08-01T05:34:20Z</published>
    <updated>2006-08-01T05:35:09Z</updated>
    
    <summary>　昭和59年は日本マット界が再び大揺れに揺れ、私自身もレスラーとして大きな転換期...</summary>
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        <![CDATA[<p>　昭和59年は日本マット界が再び大揺れに揺れ、私自身もレスラーとして大きな転換期を迎えた年だった。</p>
]]>
        <![CDATA[<p style="background-color: #e6f3f3;">　2月10日開幕のエキサイト・シリーズにUNヘビー級王者として来日したデビッド・フォン・エリックが、開幕戦当日の午後品川ホテルで急死したのは、大きなショックだった。内臓がひどく疲れていたという。父親の“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックは、来日のたびに、<br />
「息子たちに見聞を広めさせるんだ」<br />
　と上から順に連れて来ていたので、私は彼らを子供のころから知っていた。フリッツはレスラーとしても人間的にも、私の好きな男だった。全日本プロレスのためにも、ずいぶんと協力してもらっている。フリッツは57年6月に引退して次代を息子たちに託し、特にこの次男デビットと三男ケリーに大きな期待をかけていただけに、父フリッツの心中を思うと胸が痛んだ。</p>

<p>　2月23日蔵前国技館大会では、鶴田がニック・ボックウインクルをバックドロップでフォールし、日本人として初のAWA世界王座に着いた。天龍はデビッドの代打として急遽来日したリッキー・スティムボートとのUN王座決定戦に快勝。これが天龍の初戴冠だった。26日大阪大会ではマイティ井上が、前年4月に大仁田厚が負傷返上して以来王座を保持していたチャボ・ゲレロを倒し、NWAインター・ジュニア・ヘビー級王者となった。全日本プロレスはこのシリーズで、一挙に3選手権を奪取したわけだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　鶴田はすでに、世界王座を狙えるだけの力をつけていた。NWA世界王座リック・フレアーは試合内容で圧倒しながら取り逃がし、ニックを仕留めたのは、ダーティ王者と言われながらも根はオーソドックスなテクニシャンであるニックには、<br />
「技には技で対抗してやるぜ」<br />
　というキップの良さが、チラッと顔をのぞかせるところがあったからだろう。</p>

<p>　鶴田はこの後3月と、4月から5月にかけての2回、世界王者としてAWA圏をサーキットした。これも日本人として初めてのことだが、ニックを倒してしまえばもうAWAには、王者に有利なルールということもあって、鶴田にフォール勝ち出来そうな強豪は見当らないと、私は安心していた。その鶴田が5月13日ミネソタ州セントポールで、伏兵とも言うべきリック・マーテルにやられたのは、やはり敵地での連続防衛戦サーキットという精神的な疲れと、マーテルを軽く見たためもあったろう。後にマーテル自身に聞いたのだが、私も以前にプエルトリコで彼と対戦しているという。だが私の記憶に残っていないのだから、そのころのマーテルは印象の薄いレスラーだったようだ。マーテルに名をなさしめたが、鶴田が80日間AWA世界王座に君臨し、16回の防衛に成功したことは、鶴田個人や全日本プロレスのためばかりでなく、日本マット界にとっても大いに意義ある快挙だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　4月11日に新団体UWFが旗揚げした。新日本プロレスからの“脱退”組によるものだが、私も全くの無縁ではなかった。旗揚げシリーズ参加の外人レスラーは、私がブッキングしたのだ。</p>

<p>　UWFの仕掛人が、前年8月のクーデターで新日本プロレスを追われた新間寿だったことは、もう周知の事実だが、前年も押しつまってだったか、新間が私の所に来てUWFの計画を打ち明けた。<br />
「将来はUWFによって日本マット界を統一したい。ぜひ協力してくれ」<br />
　という大きな話だった。つまり、フジテレビとは放映を交渉中で、猪木はすでにUWF参加を承諾している。それに私が加われば、日本マット界を一本化出来るというのだ。その後、猪木、新間と3者会談も持った。猪木は乗り気のようだったが、私は、<br />
「恩義のある日本テレビのもとでマット界を統一するというなら大賛成だが、私がフジテレビに行くというのでは出来ない相談だ」<br />
　と断わった。ただ、外人レスラーのブッキングだけでは、ルートのない新団体が外人レスラーに札束攻撃をかけたのでは日本マット界のマイナスになると思い、引き受けたわけだ。私には、猪木が自分の作った新日本プロレスを捨ててUWFに走るという気持ちがわからなかったし、当時の状態を見れば、猪木抜きの新日本プロレスなど考えられないことだった。結局猪木は新日本プロレスに溜まったが、それで良かったのだと私は思っている。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　春の'84年グランド・チャンピオン・カーニバルで、PWF世界タッグ王座を新設し、その初代王者決定リーグ戦を行ったのは、<br />
「シングル王座があってタッグ王座がないのはおかしい」<br />
　というロード・ブレアース会長の強いすすめによるものだった。前年に全日本プロレス代表チームと認めた鶴龍コンビを分解させる気は全くなかったから、私はドリー・ファンク・ジュニアと組んでこれに出場した。</p>

<p>　4月25日横浜大会で私たちは、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビと、優勝をかけて対決した。前年の世界最強タッグ決定リーグ戦に初優勝して、乗りに乗っている超獣コンビは強かった。私はハンセンに逆さにかつぎ上げられ、その両足をコーナー・ポストてっぺんに立ったブロディーが押え、飛び下りざまマットに突き刺すツープラトン・パイルドライバーを食って、首の筋をおかしくしてしまった。ころげてリング下に逃げたが、フラッと立ち上がったところへハンセンのラリアットを食い、長々とノビている間にドリーが袋だたきにされて、私たちは負けた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　私の首筋は翌日になっても回復せず、肩から腕にピリピリと電気が走るような感じが続いて、やむなく翌26日のシリーズ最終戦大宮大会を欠場した。私のデビュー以来の連続出場記録は、3764試合でピリオッドを打たれたのだ。優勝戦の行われた横浜大会が最終戦だったら、私は記録をさらに伸ばせただろうとチラッと思ったが、それほど“悔しい！”という気持ちにならなかったのは、超獣コンビが本当に強かったことと、2月に鶴田、天龍、井上が3王座を奪取して、次代の全日本プロレスの体勢がほぼ万全となっていたからだった。もっとも、これが私の気のゆるみを誘っていたのかもしれないが―。<br />
「ハンセン、ブロディが俺を引退に追い込むことになるかもしれない」<br />
　と予感したことは、前にも書いた。その彼らにやられて欠場に追い込まれたのは、何か納得するところが私にあったのだ。私は自分自身の記録にはあまりこだわらない方だが、それでも他の理由でストップされたのでは、やはりしこりや後悔が残る。それを“強い”と認めた超獣コンビにやられたため、表現はおかしいかもしれないが、かえってサバサバしたような気持ちになれたのだった。</p>

<p>　この時点では鶴田はAWA世界王座を保持し、インター王座と併せてシングル2冠王だった。<br />
鶴龍コンビもこの王座決定リーグ戦で優勝戦線に進出していた。<br />
「もう、鶴龍が全日本プロレスを背負って立たなきゃいかん」<br />
　と判断した私は、この1試合欠場を機に、鶴田と組んで保持していたインター・タッグ王座を返上した。これで私は完全無冠となったわけだが、<br />
「いざとなったら、俺が出ていくぞ！」<br />
　という気概がまだまだあったから、別に寂しいとは思わなかった。それどころか、次代を託した鶴龍のふ甲斐なさに、腹を立てたことさえあった。<br />
　インター・タッグ王座決定戦は、5月20日後楽園ホールで、鶴龍コンビとタイガー・ジェット・シン、上田馬之助との間で行ったがノー・コンテストに持ち込まれ、6月8日川崎大会での再戦も両者反則に終わった。相手が相手だからということもあるが、それにしても鶴龍コンビには、しゃ二無二王座を取りに行くという気迫が欠けていた。<br />
　私がたった1試合の欠場で同王座を返上したのは、鶴龍コンビにハッパをかける意味合いが強かったのだが、彼らはそれを“譲られた”と錯覚したのが、気迫不足につながったようだ。この社会、王座でもリーダーの座でも譲られるものではなく、もぎ取らなければ駄目だ。鶴龍コンビには、まだその自覚が足りなかった。彼らが同王座に着いたのは、それから3ヵ月後の9月3日広島大会でブロディ、クラッシャー・ブラックウエル組を降した時だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　6月には新日本プロレス興行と業務提携を結んだ。同社は、前年8月のクーデターを機に新日本プロレス営業部長の職を辞した大塚直樹が設立した興行専門会社で、新日本プロレスの興行を年間50戦主管していたが、まだ余力があるということで、その範囲で全日本プロレスの興行も任せることにしたのだ。<br />
「これで営業部の人手不足がカバー出来れば―」<br />
　ぐらいに考えていた私には、これがマット界動乱の導火線となるとは、全く思いもよらないことだった。</p>

<p>　ハンセンから327日ぶりにPWFヘビー級王座を奪還したのは、7月31日蔵前国技館大会だった。決め技は首固めだったが、ハンセンは大技をたたみかけてピン・フォールを奪えるような相手ではなし、<br />
「瞬間的な切り返し技で勝負するしかないな」<br />
　と狙っていたのが、ズバリと決まった作戦勝ちだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　8月のNWA総会で、私は第1副会長に選任された。4期目の今年（62年）も留任したが、これはプロモーターとしての実績を認められたこともあるが、私のアメリカでの友人知己、つまりファンクス兄弟やレイス、ハンセンらが、NWA内では、“馬場派”とめされていたためもあった。派閥のボスが役職に就くのは、政界と同じようなものだ。</p>

<p>　8月26日東京・田園コロシアム大会では、タイガーマスクをデビューさせた。初代タイガーマスクが突然新日本プロレスを脱退してまる1年。ちびっ子ファンのためにもあゝいうキャラクターが欲しいと思っていた上に、全日本プロレスにはズバリの素質の持主がいた。劇画の原作者梶原一騎も大変乗り気になってくれて、特訓を積んでデビューとなったわけだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　私はこの特訓中からデビュー当初にかけて、“マネージャー”を自称してタイガーマスクにつきっきりだった。ちびっ子ファンのアイドルとなった初代のイメージが強かったから、これは大きな賭けだったし、それまでマスコミに大きくとりあげられた経験のないタイガーマスクには、取材攻勢などにちょっとオドオドしたところもあって、マネージャーが必要だったのだ。</p>

<p>　大きなプレッシャーをはね返して、タイガーマスクは素晴らしいデビュー戦をやってくれた。<br />
セコンドについていた私は、<br />
「タイガーマスク自身より、あんたの方が緊張していたよ」<br />
　と言われたが、本当にそうだったかもしれない。<br />
　この翌日27日、新日本プロレス興行は二者択一を迫っていた新日本プロレスとの絶縁を宣言し、新日本プロレスからレスラーを引き抜いてプロダクション・システムを採る方針を明らかにした。9月に入って長州力の維新軍団を初めとする13選手が新日本プロレスを脱退して参加、新日本プロレス興行はジャパン・プロレスと改称した。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　これは私が陰で糸を引いたようにも言われたが、私は別に何の支持も与えたわけではなく、大塚たちの意志にすべてを任せ、<br />
「トラブルがクリアされれば、リングに上げる責は持つ」<br />
　とだけは言った。結局は、ジャパン軍団を全日本プロレスのリングに上げるために、日本テレビと全日本プロレスから相当な額の金が支払われている。早い話が、大塚が引き抜き、私がその尻を拭った格好になったわけだ。<br />
　春にUWF、秋にジャパン・プロレスにレスラーたちが走って、過半数の選手を失った新日本プロレスは、潰滅寸前のピンチに見舞われた。私に、<br />
「この際、大攻勢をかけ、新日本プロレスを崩壊に追い込め」<br />
　とそそのかす人もいたが、これは出来ない相談だった。テレビ朝日が新日本プロレスの放映を打ち切れば話は別だが、バックにテレビ局がついている限り、プロレス団体は逆立ちしたって喧嘩にならないのだ。</p>

<p>　9月6日にWWF代表ビンス・マクマホン・ジュニアが来日、新日本プロレスとの共同記者会見で、世界マット界制圧をぶち上げた。この59年6月全米侵攻の火の手をあげたWWFは、NWA、AWA圏に殴り込みをかけ、かなりの戦果をあげていた。その勢いで日本も傘下に納めようという野心が丸見えだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　実を言うと、WWFへの対抗策としてNWAとAWAは連合軍を結成したが、その橋渡しをしたのは私だった、マクマホン・ジュニアが記者会見で、私の名をあげて攻撃したのは、それが頭に来ていたからだろう。翌々8日私は記者会見を行い、<br />
「WWFが引き抜き攻勢をかけている以上、我々もWWFの選手に手を出す。やられたらやり返すのが我々の方針だ」<br />
　と宣言した。NWA第1副会長と全日本プロレス会長の両方の立場から発言したわけで、“やる時は黙ってやる”のがモットーの私がわざわざ反論したのは、<br />
「こんな小憎っこに俺が嘲弄されてたまるかい！」<br />
　という気があったからだ。私がMSGでブルーノ・サンマルチノの王座に挑戦したころは、マクマホン・ジュニアはまだ子供だった。それが世界制圧の大風呂敷を広げるとは―。<br />
「日本には俺がいるってことを忘れるな！」<br />
　と言ってやりたかったのだ。</p>

<p>　この2ヵ月後に私は、ダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスのコンビを引き抜いた。11月16日開幕の新日本プロレスの第5回MSGタッグ・リーグ戦に、このいとこコンビの参加が発表されていたが、14日に来日したコンビは、全日本プロレスの'84年世界最強タッグ決定リーグ戦出場を表明した。彼らと共に来日したマクマホン・ジュニアは、あわてて私の所に飛んで来て、<br />
「彼らを戻してくれないか」<br />
　と頭を下げたが、そうはいかない。<br />
「自分たちだけ勝手なことをやって、人には“するな”はないだろう」<br />
　と私は突っぱねた。ただ、コンビは新日本プロレスが送った航空券で来日したことと（もちろん返したが）、参加を発表して開幕直前にひっくり返された新日本プロレスのメンツも考えて、テレビ・マッチにはコンビを出場させなかった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　この'84世界最強タッグ決定リーグ戦の私のパートナーは、『ミステリアス・パートナー』と発表していた。前年はドリーと組んだが、この年はテリーがカムバックしてザ・ファンクスが復活、私は新しいパートナーを起用しなくてはならなかった。実のところは、10月下旬に決まっていたのだが、ギリギリまで伏せておく必要があったのだ。</p>

<p>　10月5日にUWWFを退団したラッシャー木村が、新日本プロレスへのUターンを前提としたような形のフリーになっていた。彼が国際プロレスのエースだったころは、2度のオープン大会に参加してもらい、2度対決もした。アメリカから帰る飛行機が一緒だったことなどもあって、私は木村の人間性には好意を持っていた。これほどのレスラーを浪人させておくのはもったいないし、新日本プロレスに戻ってまた憎まれ者にされるよりは、全日本プロレスでとった方が木村のためにもいいのではないかという思いもあって、<br />
「俺のパートナーにならないか」<br />
と声をかけたのだ。1週間後に木村は、<br />
「今度初めて、自分の意志で自分の道を決めた。お世話になります」<br />
　と返事をくれた。だがこの話が漏れれば、新日本プロレスはこの年7月顧問に迎え入れていた吉原功を通して、引き止めにかかるだろう。約1ヵ月間、よくもマスコミにかぎつかれなかったものだと思う。『ミステリアス・パートナー』を木村と推測したマスコミがほとんど無かったのは、木村の新日本プロレスUターンは決定と見られていたからでもあったようだ。11月22日の開幕戦松戸大会に木村が姿を現した時、報道陣の驚きの顔を眺めながら、私は内心ニンマリ笑っていた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　木村は新日本プロレスの会場で浴びた“帰れコール”とは打って変わって、歓迎のコールと紙テープの雨を浴びたが、私とのコンビは2週間で終わってしまった。12月8日愛知県体育館大会で私たちは仲間割れし、木村は国際血盟軍団を結成して、私に対決を迫って来たのだ。だがこれは仕方のないことで、かえって良かったのではないかとさえ、私は思っている。</p>

<p>　木村は、先輩の前では食事もノドを通らないほど、緊張してしまうようだ。現に私が誘いの声をかけた時も、彼は料理に手をつけず、私が帰った後に食ったという。そういう性格がリングにも出て、私と組むとどうも遠慮があったのだ。<br />
「これじゃ、木村の持ち味が出ないな」<br />
　と私は感じていた。だが国際軍団時代の木村は、猪木に真っ向から喧嘩を売っていた。軍団の大将となって敵対すれば、遠慮も何も吹っ飛んでしまうのだろう。そう思っていた矢先に仲間割れし、喧嘩を売られたのだから、木村も私も同じことを感じていたらしい。これで木村の持ち味がフルに発揮されるようになったのだから、かえって良かったと思うわけだ。最近は、木村の私に対するマイク・パフォーマンスが、全日本プロレスの一つの名物になっている。ここまでは私も予想し得なかったところだが―。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　木村と仲間割れした私はリーグ戦失格となり、最終戦12月12日横浜大会では、鶴龍コンビがハンセン、ブロディ組に反則勝ちして初優勝を達成した。記録は反則だが内容は白熱の好勝負で、<br />
「鶴龍コンビも、どうやら本物になって来たな」<br />
　と私も彼らの健闘ぶりに頼もしさを覚えたものだった。</p>

<p>　明けて昭和60年の新春ジャイアント・シリーズから、長州力、谷津嘉章らのジャパン軍団が乗り込んで来た。<br />
　私は彼らのファイトを生まで見たのは初めてだったが、つくづく感じたのは、理屈に合わない、基本に忠実でない、セオリーにない面白さということだった。私たちが力動山に教えられ、アメリカでも覚えさせられたセオリーを、彼らは全く無視して自分たちだけが勝手にやっているプロレスだが、それがかえってファンには受けていた。受けているのだから好きなようにさせてはいたが、ジャパン軍団の若手の選手に一つ一つ手を取ってやらせてみると、<br />
「この連中、体作りだけはやって来たが、プロレスの基礎は教わって来なかったんじゃないのか」<br />
　と思わざるを得なかった。これではたとえ日本で人気が出ても、世界には通用しない。長州力が新日本プロレス時代から、一流外人レスラーとの対戦が苦手だと言われた理由も、ここにあったのだろう。一流選手はやはり、セオリーを踏み外さないものだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　だがジャパン軍団の乗り込みが、全日本プロレス勢に刺激を与えたのは事実だ。誰だって、さんざん“口撃”を仕掛けた上で殴り込んで来た連中に、負けたくない。男っぽい性格の天龍が火の玉のようになって、それで一段と光り始めたところはある。2月21日大阪城ホールでの国際血盟軍団を加えての3軍対抗戦では、天龍―長州戦がメーンイベントとなったが、これが軍団抗争の焦点だったからだ。</p>

<p>　本来ならエース同士の対決ということで、鶴田―長州戦となるところだが、長州はまだまだ鶴田の敵ではなかった。そのため谷津と対戦した鶴田が、カード編成上は一格落ちた感じになってしまったのは気の毒だったが、私としては、<br />
「鶴田と長州を同格に見てもらっては困る」<br />
という気が強かったのだ。<br />
　3月には、アメリカで人気絶頂となったザ・ロード・ウォリアーズを初来日させた。ウォリアーズがデビューしたころ、営業部から<br />
「あれ、いいんじゃないですか。呼んで下さい。」<br />
と言われたが、アメリカ・マット界の評判を聞いたところ、<br />
「まだ、大したことはないよ」<br />
　ということで、見合わせていた。ところがテレビ東京の『世界のプロレス』で日本でも人気爆発、ファンの“見たい”という要望も高まったので呼んだわけだ。アメリカの試合を日本で放映するのは、中には日本でのイメージと全く違ったファイトをするレスラーもいて、マイナス面も多いのだが、ウォリアーズ・ブームを作ったことだけは、テレビ東京の功績だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　ウォリアーズは、あの体であれだけのことをやるのはやはり素晴らしいと思う。ハンセン、ブロディ、テリー・ゴディたちでも、あのファイトはちょっとマネ出来ない。しかも攻め一本槍で短時間で試合を終わらせ、それも人気の元となったのだから、<br />
「大変なヤツが出て来たもんだ」<br />
　とつくづく時代の変遷を痛感させられた。その意味ではウォリアーズのファイトも、従来のセオリーには無いものだが、あの筋肉の鎧を着たような巨体と、日本人現役最重量140キロのキラー・カーンを軽々と何回もリフトアップする怪力、砲弾が飛んで来るような空中殺法と太鼓を持っているだけに、納得させられてしまうところがある。こんなレスラーは滅多に出て来ないだろう。</p>

<p>　ウォリアーズを迎えての3月9日、この年新春に落成した両国国技館大会では、ブロディが長州を一方的に攻め込んで、試合をさせなかった。私も驚いたが、巨体とパワーこそ一流レスラーの条件だと明言してはばからなかったブロディには、<br />
「こんな小男に、勝手なプロレスをやらせてたまるか！」<br />
　という気が強くあったようだ。長州にはいい勉強になったろうが、ちょっとやりすぎだなと思っていたところ、ブロディはこれを置き土産のようにして、新日本プロレスに引き抜かれてしまった。
　私には越中詩郎のこともあって、<br />
「今度こそ、マット界のルールを確立しなければならない」<br />
と決意した。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　越中は前年3月メキシコ武者修行に出したが、この年1月一方的に辞表を送りつけて来た。これも新日本プロレスに引き抜かれたのだ。選手の過半数を失った新日本プロレスは、陣容立て直しにヤッキとなり、アメリカに定着していたプリンス・トンガ・ケンドウ・ナガサキ（桜田一男）にも手を出していた。この2人はしばらく帰国していなかったため契約は更改していないが、全日本プロレス所属であることに変わりはない。ザ・グレート・カブキのケースと同じだ。坂口征二が2人をロサンゼルスに呼んで交渉中と聞き、私もロスに飛んで説得に当ったが、トンガはわかってくれたものの、桜田はすでに新日本プロレスが提示した条件に心を動かしていた。</p>

<p>　だが桜田はともかく、越中の件は許せなかった。53年に19歳で入門して以来6年間、それこそ西も東もわからないものを食わせて、一から教えて、海外に出してようやく一人前になりかけたところもさらわれたのでは、うかうか新弟子も育てられない。誘う方も誘う方だが行くヤツも行くヤツだ。そんな人間性の無い男は要らんとは思ったが、今後絶対にこのようなことがあってはならないと、強硬な姿勢で臨んだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　3団体時代から私が口をすっぱくして説いて来たルールがようやく確立されて、その意味では私はホッとした。<br />
　私がハンセンにPWF王座を奪われ、以後タイトル戦線から完全に身を引くことにしたのは、この60年の7月30日福岡大会だった。この試合のフィニッシュとなったハンセンの、私の体をエプロンからゴボウ抜きにしてリング中央にたたきつけたバックドロップは見事だったが、試合の大半を優勢に進めていた私には、まだまだやれるという自信があった。</p>

<p>　だが全日本プロレスは、私が王座に固執しなくても、鶴田や天龍が立派に後を継いでくれるまでに成長していた。<br />
「もうお前らに任せるよ」<br />
　と私は、チャンピオン・ベルトに永久の別れを告げたのだった。寂しいというよりは、<br />
「俺はやるだけのことはやって来た」<br />
　という気の方が強かった。徳川家康が、まだ豊臣勢という難物を大阪に控えながら、将軍の座を2代秀忠に譲った心境が、あるいはこうだったかもしれない。<br />
　その1週間後の8月5日大阪城ホール大会のリング上で、長州が、<br />
「馬場・猪木の時代は終わった。これからは俺たちの時代だ！」<br />
　と宣言した時は、正直なところ、<br />
「この男、何をカン違いしてるんだろう？」<br />
　と思ったが、私にはこれで長州という人間がわかった。<br />
「こういう男がいたんでは、俺も引退なんかしてられん。目を光らせていなきゃいかんな」<br />
　という気を強く持ったものだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　新日本プロレスは9月に、WWFとの業務提携を打ち切った。年間50万ドル（当時約1億円）という法外な契約金を支払っていたのでは、とてもやっていけなかったろう。ここがビンス・マクマホン・ジュニアとジム・クロケット・ジュニアの考え方の違うところで、私はその種の金を使ったことがない。日本プロレスも国際プロレスも無かったはずだ。新日本プロレスは外人レスラー招聘窓口をWWFに任せ切っていたため、足下を見られたようだ。これまでなら、またここで新日本プロレスの引き抜きを警戒しなければならないところがだが、すでに協定が出来ている。その点は安心していられた。</p>

<p>　10月から日本テレビの放映が、毎週土曜日午後7時台のゴールデン・タイムに復活し、その記念として同21日両国国技館大会で、NWA世界王者リック・フレアーと、AWA世界王者リック・マーテルの“世界統一戦”を実現させた。アメリカ・マット界でも例の無いことで、AWAの“帝王”バーン・ガニアは渋ったが、ここは私がねばって納得させてしまった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　実は前年6月のWWF全米侵攻に当って、私がNWAとAWAの手を握らせたのは、3団体の中では勢力圏も選手数も少ないAWAがWWFに飲み込まれたのでは、NWAが不利になるばかりでなく、AWA選手が来日出来なくなってしまうからでもあった。もちろんAWAにもメリットはあった。人気テコ入れのためハンセンがAWA入りしたのもそれだった。</p>

<p>　フレアーとマーテルの対決は、34分3秒の白熱の攻防の末、両者リングアウトで引き分けたが、声援は若い正統派テクニシャンのマーテルに集中していた。マーテルには“俺はAWA世界王者だ！”とアピールする気が強かったが、フレアーには“俺はご存知、世界の最高峰”という落ち着きがあった。そのため、挑戦者のように懸命に攻め込んだマーテルに、ファンは好感を持ったのだろう。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　この試合を私は、テレビ放送席に座って解説した。ゴールデン・タイム復活を機にもうタイトル戦線から、“足を洗って”いた私をレギュラー解説者にという要請が日本テレビからあって、それを受けたわけだ。それまでの解説者はマスコミ関係者ばかりだったが、レスラー経験者なら技の入り方や、ダメージの箇所、度合いなどがはっきりわかる。しかもマスコミ関係者はやはり遠慮があって、レスラーをこき下ろすことはあまりしないが、私ならそれをやっても差しつかえない。面白い話はマスコミ解説者に任せて、私はかなりきびしくやって来たつもりだ。62年3月7日の秋田大会だったが、私が輪島大士のファイトをボロクソに言ったところ、<br />
「馬場さん、それはないでしょう」<br />
　とアナウンサーが言った。頭に来た私はイヤホンを放り出し、さっさと席を立ってしまった。やはり師匠としては、本当のことを言わなくてはいけないと私は思っている。</p>

<p>　11月4日大阪城ホール大会では、鶴田と長州が初めて対決した。結果は時間切れ引き分けだったが、どちらが内容的に勝っていたかは、見る人が見れば一目瞭然だった。<br />
　'85年世界最強タッグ決定リーグ戦では、私は前々年と同じくドリー・ファンク・ジュニアと組んだ。テリーがこのころWWF入りしていたからだった。テリーに続いてこの後、ドリーもWWFに投じたが、これは先方の実情を探りに行ったもので、翌年にはさっさと引き揚げている。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　リーグ戦は、参加8チーム中6チームが優勝の可能性を残して、最終戦12月12日東京・日本武道館大会になだれ込むという大混乱となったが、ハーリー・レイス、ジェーシー・バー組対　ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス組が両者リングアウト、私たちと鶴龍コンビの対決、スタン・ハンセン、テッド・デビアス組対長州、谷津組戦がともに時間切れ引分けに終わって、1点差でハンセン組が優勝した。</p>

<p>　この同じ12日に行われた新日本プロレスのIWGPタッグリーグ戦最終戦仙台大会では、ブロディ、ジミー・スヌーカ組が優勝決定戦出場をボイコットし、東京で雲隠れしたという。</p>
<hr />
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    <title>「王道十六文（完全版）」第十三章　全面戦争 Part3</title>
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    <published>2006-08-01T05:32:40Z</published>
    <updated>2006-08-01T05:33:23Z</updated>
    
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        <![CDATA[<p>　コツコツと書きためていたエッセイを一冊の本にしたのは、昭和58年1月だった。タイトルは出版社が、『たまにはオレもエンターテイナー』とつけた。マスコミ関係者の発想は、しばしば私を戸惑わせる。このタイトルなどその最たるものだが、出版社が知恵を絞って“これ”と決めたのだから、まあ良しとすべきなのだろう。</p>
]]>
        <![CDATA[<p style="background-color: #e6f3f3;">　処女出版記念パーティをやろうという話から、<br />
「それなら45歳の誕生日に――」<br />
「まだやっていない結婚披露宴も――」<br />
　と発展して、1月23日東京ヒルトン・ホテル（現キャピトル東急）で開いたパーティーのタイトルは、<br />
『ジャイアント馬場くんをますますテレさす会』</p>

<p>　これもマスコミ関係者の発想だが、元子と並んで金屏風の前に立ち、ウエディング・ケーキにナイフを入れたのだから、これはてれた。約600人の出席者を前に、司会の徳光アナにのせられて歌を2曲歌ってしまったのは、会社ではなく私個人の初めての祝賀パーティに集まって下さった方たちへの、せめてもの感謝とサービスの気持ちからだった。巨人軍の王助監督、国松2軍監督（ともに当時）や、花籠親方だった輪島大士も来てくれた。3時間ほどのパーティーがお開きになった時には、ガクンとへたりこみたいほど疲れたが、初めての公けの場で元子を紹介出来たことは、長い間かかえていた宿題をようやくすませた小学生のように私の心をはずませた。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　2月に入って早々に渡米、前年10月ハーリー・レイスに持ち去られたPWF王座に、11日セントルイス大会で挑戦した。このころの私にはまだまだ、<br />
「このベルトは俺のものなんだ」<br />
　という気持ちが強く、しかも前にも書いたが敵地での挑戦は、思い切ったラフ・ファイトも仕掛けられるから、かえってやりやすい。逆に“地元の英雄”レイスには、どうしてもカッコをつけるところがあって、それが私のつけ入るスキとなった。ベルトは4ヵ月ぶりに私の手に戻った。</p>

<p>　私はこの日に奪還出来なければ、どこまでもレイスを追いかけ回す腹をくくって、同じ2月11日に東京で開幕したエキサイト・シリーズには、全3週間欠場を決めていた。そのため興行のテコ入れには、56年1月にザ・グレート・カブキに変身し、アメリカで爆発的なブームを巻き起した高千穂明久の帰国参加を要請した。カブキは日本でも人気爆発し、私はホッとした。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　この帰国には、私にもカブキ自信にもいちまつの不安があった。“東洋の神秘”で売ったあのスタイルが、はたして日本で通用するかということだ。だがそれは全くの杞憂に終わった。やはり時代は変わり、ファンの気質も変わったとうことだろう。</p>

<p>　春の祭典は、この58年からグランド・チャンピオン・カーニバルと改称し、タイトル・マッチ中心のシリーズとした。特別参加を含めて12人の一流外人レスラーを集めたこの大会は、優勝争いとはまた違った興趣を盛って、まずは成功だった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　大会の後半には、世界最強タッグ決定リマッチ・リーグ戦を行った。前年度の同リーグ戦は、ザ・ファンクスがスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビに血だるまにされての反則勝ちで優勝したが、両軍ともこれを不満とし、私と鶴田のコンビを加えた上位3強が、改めて優勝を争うことになったのだ。3チームで2回総当り戦を行い、特別レフェリーにはルー・テーズの来日を要請した。優勝したのは超獣コンビ。2人は乗りに乗っていた。ブロディなどはこのリーグ戦の間を縫ってドリー、テリーのファンク兄弟、鶴田、天龍の挑戦を退け、インター王座4度の防衛を果たしている。恐るべきタフネスぶりだ。シリーズ終了後はテーズに1週間残留してもらい、テーズ教室を開講した。鶴田が“ヘソで投げる”バックドロップの奥義を伝授されたのはこの時だ。</p>

<p>　6月にはNWA世界王者リック・フレアーを呼び、8日蔵前国技館で鶴田が挑戦した。鶴田はテーズ直伝のバックドロップを決めて1本目を先取、“これはいけるぞ！”と意を強くしたが、フレアーはその後はぬらりくらり戦法に切り替え、鶴田はとどめを刺せない内に60分時間切れとなった。1−0で鶴田の完勝だが、NWAルールは、3本勝負では2本取らなければ王座は移動しないことになっている。鶴田はそのルールをつい失念して長蛇を逸したのだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　だがフレアーにはこの敗戦がショックだったのだろう。翌日に帰国してその翌日の10日セントルイスでレイスの挑戦を受け、王座から転落した。レイスの7度目のNWA世界王座返り咲きだ。10月に王者として来日したレイスは、鶴田に、<br />
「お前のお陰がだいぶあったぜ」<br />
　と言っていたものだ。<br />
　テリー・ファンクが55年10月に<br />
「3年後の誕生日に日本で引退する」<br />
　と予告したその日は、この58年6月30日だったが、引退試合は8月31日蔵前国技館で行うことにして、7月8日に開幕したグランド・チャンピオン・カーニバル第3弾は『テリーさよならシリーズ』とサブ・タイトルをつけ、テリーは北海道から沖縄まで、各地のファンに最後のファイトを披露した。リングを下りれば、もう松葉杖をつかなければ満足に歩けないほどで、私たちも引退を思い留まらせることはあきらめざるを得なかった。</p>

<p>　このシリーズ中の7月26日福岡大会で、私と鶴田のコンビはタイガー・ジェット・シン、上田馬之助組に不覚のリングアウト負けを喫し、インター・タッグ王座から転落した。この時の上田の怨念は、鬼気迫るものがあった。私がPWF王座奪回のため渡米欠場したエキサイト・シリーズには、シンと上田が参加していたが、私の欠場に腹を立てた彼は、<br />
「最終戦までに帰国し俺と対決すると約束しなければ、俺はシンと共にシリーズ出場をボイコットする」<br />
　と全日本プロレスのフロントをおどしにかかった。連絡を受けた私は仕方なくこれを受け、ぎりぎりに帰国して最終戦3月3日後楽園ホール大会で対決、アーム・ブリーカーを連発して上田の左肩を脱臼させた。<br />
「一度はやっておかないと、いい気にさせるばかりだ」<br />
　と腹をくくった私は、最初から肩かひじを外してやれと狙っていたのだ。だが左腕がブラブラになってもギブアップせず、右腕1本でなお立ち向かって来た上田には、<br />
「さすがに力道山道場育ちの男だ」<br />
　とちょっと見直した。これ以来上田は、あまり言いたい放題は言わなくなったが、心中密かに復讐の刃を磨いでいたようだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　私たちはその上田の奸計にうまうまと引っかかってしまったが、こういうまともなレスリングをしない相手に王座を奪われるのは一番シャクにさわる。だが反面、“いつでも取り返せる”という自信もある。1週間後の8月1日後楽園ホール大会で、私たちは王座を奪回した。ホッと一息ついた私は、NWA総会出席のため渡米した。</p>

<p>　総会を終えて帰国すると、新日本プロレスにお家騒動が起こっていた。新日本プロレスはこの58年に、3年前にぶち上げた大計画をだいぶ軌道修正したIWGPを初めて開催したが、その優勝決定戦6月2日蔵前国技館大会で、猪木がハルク・ホーガンのアックス・ボンバーを食い、舌を出して失神した。これがケチのつき始めだったようだ。8月に入ってタイガーマスクが突如引退、社内にはクーデターが起こって猪木と坂口は正副社長の座を外され、新間寿は退社したとのことだった。他団体はのトラブルにはあまりふれたくないが、これが、後に日本マット界に再び激動を呼んだ余震とも言うべきものだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　8月31日蔵前国技館におけるテリーの引退記念試合は、実に感動的だった。兄ドリーと組んでスタン・ハンセン、テリー・ゴディ組と対戦したテリーが血だるまにされながらトップ・ロープからダイビングして回転エビ固めをゴディに決め、試合後マイクをつかんでファンに向かって、<br />
「アイ・ラブ・ユー、フォーエバー！」<br />
　と何回も絶叫したシーンには、思わず目頭が熱くなった。テリーは本当に、全日本プロレスに尽くしてくれた。テリーの家族も招いたが、ビッキー夫人や子供たちの涙には、私も元子ももらい泣きをしてしまった。</p>

<p>　この日鶴田はブルーザー・ブロディにリングアウト勝ちして、念願のインター王座に着いた。同王座は56年4月の復活以来、ドリーとブロディが激しい争奪戦を展開して、57年4月からはブロディーが王座を保持していた。鶴田と天龍が何度も挑んだが失敗、鶴田はこの年6月の渡米遠征中にUNヘビー級王座を返上し、背水の陣を布いて臨んだのがよかったようだ。やはり“これも持っていて、あれも”というのとでは、本人の自覚が違って来る。試合後の控室で私は、<br />
「今日からお前が全日本プロレスのエースだ」<br />
　と鶴田の頭からビールを浴びせてやった。それ以前から“エースの自覚を待て”と口がすっぱくなるほど言ってはいたのだが、力道山ゆかりのインター王座に着いたことで、鶴田もエース交替を実感してくれたはずだった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　その安心感からか、1週間後の9月8日千葉大会で、私はハンセンにPWF王座を奪われてしまった。体調は良く、トップロープからのアトミック・ボムズアウエーまでやったが、16文キックにいった私の足をすくうようにしてたたき込んで来たウエスタン・ラリアットを食い、ピン・フォール負けを喫したのだ。鶴田は、かつて日本のマット界のエースの象徴だったインター王座のベルトを巻き、私はシングル無冠。マスコミはまたしても私の引退説を書き立てた。</p>

<p>　10月にハーリー・レイスがNWA世界王者として乗り込んで来たが、私には56年9月にリック・フレアーが同王座に着いて以来、たとえライバルだったレイスが王座に返り咲いても、もう挑戦する気は失せていた。<br />
「鶴田や天龍が“世界盗り”に乗り出し、次代の全日本プロレスを作ってくれ」<br />
と祈っていたのだ。この時は鶴田が10月26日盛岡大会で挑戦したが、両者反則の引き分け防衛に持ち込まれてしまった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　だが私は、PWF王座だけは奪回したかった。10月31日会津若松大会でハンセンにリターン・マッチを挑み、<br />
「負けたらリング上で引退声明か―！？」<br />
　と報道陣が大挙して会津まで来てくれたが、結果はノー・コンテストに終わった。体調の良かった私は16文キックでハンセンの額を割り、アトミック・ボムズアウエーで踏みつぶしたが、血を見て逆上したハンセンの暴走ペースにはまって、場外で暴れすぎてしまったのだ。だが気分のいい試合だった。報道陣も、<br />
「これだけハンセンを追い込めば、引退はまだ早いや」<br />
　と納得してくれたようだった。</p>

<p>　11月25日に開幕した'83年世界最強タッグ決定リーグ戦には、私はドリー・ファンク・ジュニアと組んで出場した。弟テリーの引退でザ・ファンクスが消滅したこともあったが、私は全日本プロレスの次代の柱として鶴田、天龍にコンビを結成させ、マスコミにも、<br />
「このコンビが全日本プロレス代表チームだ」<br />
　と発表した。しかし私の内心では、鶴龍コンビを倒して優勝することも真剣に考えていた。ドリーとのコンビならそれも可能だと思えたからだ。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　正式にドリーとコンビを結成したのはこれが初めてだったが、気心が知れている上に2人ともキャリアは充分。しかもドリーは私以上に、この大会に初来日したバリー・ウィンダム、ロン・フラー組の手の内なども知り尽くしている。これがあうんの呼吸とも言うものだろう。作戦も打ち合わせも一切なしで、息はピタリと合った。私が相手チームにスキを見出した時には、もうドリーがそこをついていた。私のスタミナの配分も、ドリーは自分のことのように知っていた。私にもドリーの心技両面が、鏡に写すようにわかる。これほどのパートナーは、滅多にいるものではない。</p>

<p>　だが、最終戦12月12日蔵前国技館大会で、シン、上田組に足を引っぱられて両軍リングアウトの無得点試合を演じ、準優勝に留まってしまった。上田などには、開幕前の抱負を“優勝を狙う”とは言わず、<br />
「馬場組だけには絶対に優勝させない」<br />
とそれだけを目的にしているのだから始末が悪い。優勝はハンセン、ブロディ組と鶴龍コンビの対決にかけられ、超獣コンビが初優勝した。4月のリマッチ・リーグ戦に続いてのタッグ大会2連覇だ。新日本プロレスとの全面戦争によって日本で復活した超獣コンビだが、その猛威は止まるところを知らない。私はこのころ、<br />
「俺を引退に追い込むのは、この2人か」<br />
　と真剣に考えていたものだった。</p>
<hr />
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    <title>「王道十六文（完全版）」第十三章　全面戦争 Part2</title>
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    <published>2006-08-01T05:30:16Z</published>
    <updated>2006-08-01T05:31:06Z</updated>
    
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        <![CDATA[<p>　10周年記念シリーズのビッグ・イベントは、10月9日蔵前国技館で開幕し、私は、旗揚げシリーズに真っ先に駆けつけてくれた最初に私と一騎打ちをやったブルーノ・サンマルチノを招き、初めてコンビを組んだ。サンマルチノは引退したばかりだったが、この日のためにトレーニングを積んで飛んで来た。相手が凶暴シン、上田組だったため、試合は両軍リングアウト引分けに終わったが、サンマルチノは、<br />
「俺のレスラー人生のハイライトだった」
　と喜んでくれ、私にも忘れられない試合となっている。</p>
]]>
        <![CDATA[<p style="background-color: #e6f3f3;">　この前日8日同じ蔵前国技館に、新日本プロレスが特別興行を突っ込んで来た。<br />
「全日本プロレス潰しのため、あえて前日に開催する」<br />
　とコメントまで出してぶつけた来た興行のメーンは、ラッシャー木村ら『国際軍団』の、新日本プロレス初乗り込みだった。</p>

<p>　またまた腹が立ったが、前日に突っ込むのは勝算がなければ出来ないこと。相手は内容のいいものをぶつけてくるのだから、こちらも内容で勝負だと力が入った。2日間とも国技館は超満員になり、こうの興行戦争は引分けだったが、5月の引き抜き宣言といいこの興行の突っ込みといい、新日本プロレスがはっきりと、“全日本プロレス潰し”を口にして喧嘩を売って来たからには、買わざるを得なかった。</p>

<p style="background-color: #e6f3f3;">　新日本プロレスに転じたブッチャー、マードック、戸口らのことも、やはり同じリングで体をぶつけ合い、サーキットを共にした仲だけに、気にはなっていた。ブッチャーと戸口には腹が立ったが、それでもおかしなもので、<br />
「敵団体から来たヤツだ」<br />
　と不当な扱いを受けるようだと、いい気持ちはしない。11月5日蔵前国技館大会で、ブッチャーがマードックとの対戦を拒否し、株を下げたと聞いた時は、ブッチャーがちょっとかわいそうになった。</p>

<p>　ブッチャーとマードックは50年12月のオープン選手権大会で1度だけ、それもバトルロイヤルで顔を合わせたことがあるが、どちらも憎悪をむき出して、凄まじい喧嘩になってしまった。<br />
この2人は、日本プロレス時代から憎み合っていたようだ。それと気づいた私は、2人を決して一緒に来日させなかった。ブッチャーが第1回から連続出場したチャンピオン・カーニバルには、マードックは1度も参加していない。最強タッグ