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[2006年07月29日]

「16文CHOP BEER」発売記者会見の模様

記者会見  9月26日、東京・キャピトル東急ホテル「銀の間」にて、ジャイアント馬場オリジナル「16文CHOP BEER」の発売記者会見を行いました。
 馬場元子さん、企画担当の有限会社菱小酒販 山本勉さん、製造担当の株式会社天朝閣 瓢湖屋敷の杜ブルワリー 取締役 開発事業部長 古田利大さんが出席し、企画から製造までを発表しました。
 9月30日のジャイアント馬場さんデビュー記念日を前に、永遠不滅の16文が故郷・新潟のおいしいビールで復活です。会場には馬場さんフィギュアもお目見えし、元子さんがお酌をする場面も。

記者会見  「馬場さんはゴルフなどの後に、ビールをたしなんでいました」と思い出を語られていました。
 皆さんもぜひ、一度「16文CHOP BEER」をご賞味ください。
引き続き、新潟・三条の地酒で「王道 十六文」を企画進行中とのこと、こちらもお楽しみにお待ちください。

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[2006年07月29日]

「16文CHOP BEER」企画立案者紹介

『馬場さんの試合に燃えた、すべての人たちに飲んで欲しい』
─ 有限会社菱小酒販 山本勉氏 ─

■私たちにとって、『真のヒーロー』が必要な時代

 日本経済はどん底。『痛みに耐えて頑張ろう』と言い続けて未だ回復の予感はなく、国民や民間企業に対する負担は年々確実に増えているのに、将来の展望が見えてこない。子供たちは、学校を卒業しても就職がない。犯罪は増える一方で、簡単に人が殺される・・・。

こんな悪い世の中、日本人が求めている『真のヒーロー』を飲料のキャラクターとして使用して、病める日本人の心と体にパワーを注入してもらおうと、この商品を企画しました。馬場さんを選んだ理由は、『暖かくて』、『優しくて』、『安定感があって』、『大きくて』、『強い』。ズバリ、現在の日本人が求めているものすべてを体感させてくれる英雄だから。

■今でも思い出すと思わず興奮してしまう、心に残る名場面

 図柄を『キック』にしようか、『チョップ』にしようか長い間悩みました。両方とも馬場さんには欠かせない必殺技。しかし、私には今尚脳裏に焼きついて離れない場景があります。倒れこんだ馬場さんに、フリッツフォンエリックの鉄の爪がこめかみ目掛けて迫ってくる。それを片手でつかみ上げ、空手チョップで応戦する。脳天、手首に空手チョップが炸裂するたびに、倒れこむエリック。しかし起き上がると今度は胃袋めがけて鉄の爪が襲いかかる。今でも思い出すと思わず興奮してしまう、心に残る名場面です。

テレビの前で手に汗握った数々の試合。外人レスラーをバタバタなぎ倒した、馬場さんの空手チョップに私たちは、どれほど勇気を与えられたかわかりません。そこで、図柄は『空手チョップ』にしようと決めました。

今回デザインしたラベルでは、あの大きな馬場さんの手を前面に出し、金色のリングの上で今も尚活躍する「戦うヒーロー」を表現してみました。そのラベルを見る度に、私には、あの名場面が思い出されるのです。

■馬場さんの試合に燃えた、すべての人たちに飲んで欲しい

 「16文CHOP BEER」は、日本全国の馬場さんのファン、プロレスファン、スポーツ愛好家、スポーツバーのお客さん、などなど、とにかく馬場さんの試合に燃え上がったすべての人たちに飲んでもらうことを期待します。

2003年9月26日
山本 勉

有限会社菱小酒販新潟事務所
新潟県新潟市海老ヶ瀬931-3
電話:025-270-8658/FAX:025-270-8634

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[2006年07月29日]

「16文CHOP BEER」製造元紹介

『16文キックの爽快さと空手チョップのキレをビールで再現します』
─ 株式会社天朝閣 瓢湖屋敷の杜ブルワリー 古田利大氏 ─

■「瓢湖屋敷の杜ブルワリー」紹介

 1997年白鳥の湖、瓢湖に近い五頭山麓の越後豪農・五十嵐邸宅にビール蔵を開設。恵まれた自然環境の中で熟成されるビールは、まさに自然の味わいです。
スワンレイクビールは「新潟から挑戦」「新潟から世界へ」、アメリカ(ニューヨーク)で金賞を受賞し「世界が認めた本物ビール」を一期一会のコンセプトでビール造りをしています。越後名水にこだわり、ビールが育つ環境と良質な素材にこだわり、最高の品質を追究したビールです。

そしてブルーマスター(ビールの職人)の確かな技術と「旨さ」への徹底した追及により、2000年ニューヨークにて行なわれたワールド・ビア・カップ2000(ビールの五輪といわれる大会)38ヶ国のビールメーカー(大手含む)1150銘柄が出品した大会においてスワンレイクビールが、日本メーカー初の金賞「世界一」に輝きました。また、スワンレイクビールは今までの国際審査会を含むビアコンテストにおいて金・銀・銅合わせて21個のメダルを獲得しております。

●スワンレイクビール受賞歴
  • ワールド・ビア・カップ2000 スワンレイクポーター 金賞受賞
  • インターナショナルビールサミット01 スワンレイクIPA 金賞受賞
  • インターナショナルビールサミット01 アンバースワンエール 金賞受賞
  • インターナショナルビールサミット00 フルーツエール 金賞受賞
  • ジャパンカップ99 越乃有機米こしひかり仕込み 金賞受賞
  • インターナショナルビールサミット98 スワンレイクポーター 金賞受賞
  • インターナショナルビールサミット98 アンバースワンエール 金賞受賞

■16文キックの爽快さと空手チョップのキレをビールで再現します

 「16文CHOP BEER」は、麦芽100%にこだわり、麦芽の風味を最大限引き立たせ、上面発酵酵母(じょうめんはっこうこうぼ)と最高級のアロマホップを使用して造ります。さらにビールの味わいを大切に残すためにビール酵母もすべてろ過するのではなくビール酵母をしっかり残しつつバランスのとれた香り豊かなビールに仕上げました。馬場さんの「16文キック」の爽快さと「空手チョップ」のキレを、馬場さんの故郷である新潟で造られた、このビールを飲んで感じていただければ、と思っています。

2003年9月26日
古田 利大

株式会社天朝閣 瓢湖屋敷の杜ブルワリー
新潟県北蒲原群笹神村大字金屋字川端345-1
電話:0250-63-2000/FAX:0250-63-1800

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[2006年07月29日]

「16文CHOP BEER」のご案内

「ジャイアント馬場」オリジナルブランド
「16文CHOP BEER」

16文CHOP BEER

生ビールですのでお早めにお召し上がりください!

●希望小売価格●
「6本入ケース」   2,280円
「12本入ケース」  4,560円
酒類販売店、通信販売にてお求めいただけます。

●通信販売●
ジャイアント馬場記念館 http://www.giant-baba.com/
たのみこむ     http://www.tanomi.com/

●お問い合わせ・小売店の方のお申し込み先●
有限会社菱小酒販
電話:025-270-8658/FAX:025-270-8634

2003年9月26日
株式会社ミスタービィ

未成年者への酒類の販売は致しておりません。

特定商取引に関する法律による表示

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[2006年07月29日]

2005年2月6日 試合結果発表

2・5『ジャイアント馬場七回忌追善興行』および
1・30『ジャイアント馬場 さようなら後楽園ホール』
試合結果を発表いたします。

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[2006年07月29日]

2005年1月11日 記者会見の模様

2005年1月11日 記者会見が行われました。

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[2006年07月29日]

2004年12月16日 記者会見の模様

2004年12月16日 記者会見が行われました。

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[2006年07月29日]

参加選手発表

2005年2月5日(土)17:00試合開始 東京・日本武道館
ジャイアント馬場七回忌追善興行 参加選手

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[2006年07月29日]

2004年11月4日 記者会見の模様

2004年11月4日 記者会見が行われました。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.11 三条市体育館(2004/10/17)

 馬場さんのホームタウンの三条市に着く前から、気分が違って新潟体育館と違った緊張感を持って体育館に行きました。
緊張感の中にも今思えば、懐かしさを感じる体育館です。
三条は道路巾がせまく、大きな全日本プロレスのバスで市内を走るのはチョット大変でした。
一度、ホテルの手前の曲がり角で、和菓子屋さんだったと思いますが、バスが曲がる時にお店の屋根をバリバリと削ってしまいました。
バスはほとんど、事故なく全国を走っていたのですが、乗っている私達もビックリでした。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.10 緊急お願い(2004/07/16)

 馬場さんにお盆には恵比寿の方に返って来てほしいと思い、ハワイから帰って来ました。 そして13日にお迎えしようと用意をしている時にTVのニュースで新潟県下に凄い雨が降っている事を知り、三条の馬場さんの実家に連絡したところ、大丈夫との事で、安心していたのですが、夕方にはもう電話は通じず、(今日16日まで)連絡を取る事が出来なくなってしまいました。 後はTVのニュースを追いかけるだけです。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.9 HONOLULU の CIVIC(2004/06/30)

 今、私は5月25日からハワイでチョット早い夏休みを楽しんでいます。
新潟の体育館からホノルルのシビック オーデトリアムに飛んでしまいましたが、ワイキキからでも、10〜12分位で行ける場所にあったのですが、(今、住んでいるアラモアナからは5分位です)。今は跡形もなく消えてしまいましたが、ハワイの思い出として残っている…小さなホノルルの体育館です。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.8 体育館 其の1 (2004/06/02)

 昨年6月2日にオープンした「ジャイアント馬場記念館」。1周年を記念して、この「気まぐれ日記」では来年の1月31日の七回忌まで、馬場さんとの思い出がいっぱい詰まっている全国各地の体育館めぐりをしていこうと思います。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.7 馬場さんと桜 (2004/04/12)

 雨が降り、風が吹いて、東京の桜はとうとう葉桜になってしまいました。でも、まだ東北、北海道はこれからお花見のシーズンですね。馬場さんと私のチャンピオン・カーニバルの楽しみの1つは桜を追いかける様なスケジュールでした。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.6 春になって・・・(2004/03/17)

 1月2月はアット云う間に過ぎていきました。でも、このアット云う間は私なりにイッパイ馬場さんの事を思い私の仕事をしました。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.5 御来館ありがとうございました。(2003/12/24)

 今年もクリスマスを迎え、そして新しい年を迎えますが、皆さんの2003年はどんな年でしたか?

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.4 きまぐれすぎて・・・(2003/11/21)

 長い間きまぐれ日記をお休みしてしまいました。
 もう11月になってしまい、何を書けばいいかナーと毎日思っているうちに今日になってしまい、ペンと紙を持って部屋をウロウロして又一休み、頭も一休みしてしまいアラアラです。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.3 パチンコ(2003/08/11)

 今、街のパチンコ屋さんに、馬場さんの台があるのはご存知でしょうか? 5月27日からお店のほうに登場しています。先日、お盆の時期に1台、「自宅用に」ということでいただき、さっそく遊んでみました。『王者の魂』が流れた時にはビックリしましたが、プロ野球選手時代の馬場さんはじめ、いろんな姿を見ているうちに、時間が経つのを忘れてしまいました。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.2 馬場さんと本(2003/07/23)

 馬場さんにとって本は、切っても切れないものでした。若いころ、ハワイに行くと、プールサイドやビーチで本を読みふけり、気がつくと全身は日焼けで真っ黒、でもアゴの裏から首にかけては真っ白。まだら状態に、ふたりであたふたしたことが懐かしく思い出されます。

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[2006年07月29日]

「気まぐれ日記」No.1 七夕とトマト(2003/07/09)

 今年も七夕さまを迎え、子供の頃の楽しい思い出、全日本プロレスの会場で、ファンの皆様とレスラーの人達に書いてもらった短冊を笹に飾りつけ、私は毎年必ず同じ願い事を書きつづけましたが、毎日一人の生活になってからの私には、思い出となりそれが私に力づけてくれています。

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[2006年07月29日]

ザ・馬場さんの言葉集

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 今年も「明るく楽しく激しいプロレス」で一生懸命頑張りますので、どうぞご声援よろしくお願いします。

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 「明るく楽しく激しいプロレス」をモットーにやってきました。
 プロレスだけじゃなく他のプロスポーツでも「明るく楽しく」というのはあまりないんだそうです。それをあえてやってきたのには、理由があります。

 昔からのプロレスは殺伐な陰険なイメージがずっと続いてきました。その暗いイメージから脱皮して明るいスポーツという、そのものにしなけりゃいけないというのが、僕の考えなんです。
 プロレスが変わればファンも変わってもらえます。プロレスが明るくなれば、会場にきてもらってファンにも楽しんでもらえます。

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 今住んでいるマンションの地下に倉庫兼トレーニングジムをもっていて、ウエイトトレーニングの器具をそろえ、マットも3枚敷いてあります。そこで夜中に足の運動をやったりバーベルを持ち上げたり、受け身をとったりという練習を一人でやるんです。

 全日本プロレスは毎年1月2日に新春シリーズが開幕しますから、大晦日の夜も練習しました。人が遊んでいる時に自分をいじめるというのは、物凄く気の入ることでした。

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 オレは全国の体育館の正面からの全景写真を見せられても、何々体育館と言い当てる自信はありませんが、体育館の天井の写 真を見れば、百発百中ですよ。バスは体育館の横から裏につけ、オレたちは選手通 用口から出入りしますから、体育館の正面入口はあまり知らないんです。

 でも、天井は試合前に受け身の練習をするたびに見ます。試合中に投げ倒されれば、目に入るのは天井だけです。一日に何十回も天井を見て、それを38年余も続けていれば、いやでも覚えてしまうというわけですね。体育館の天井はみんなそれぞれ大なり小なり違っていて、同じ形は一つもないんです。

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 オレが一番好きな景色は、函館から長万部へ行く途中で右側に見える大沼国定公園です。ここは汽車で通ってもバスで走っても良く、昔から変わっていません。北海道の景色はやはり雄大ですね。

 バス旅でオレが一番好きなのは、新しく出来た道路を走ることです。景色がオレには新鮮ですし、
「ここは次はいつ走れるんだろう。もう来れないかもしれないな」
なんて思いながら見ています。で、次に走ると
「あっ、また来られたな」
って、これも楽しみなんですよ。景色はよほどの悪天候でない限り、オレの期待を裏切りませんからね。

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−前人未到の5000試合出場を達成した試合後に報道陣に「次の目標は?」と聞かれ

「5001試合」

 僕はもともと記録とかそんなものに関心がありません。「5000試合まできたのかという、そんな気持ちもないんです。

 僕らだって、何で今までこうやってきたのかというと、働かなければならないんだ、というのが一番の理由だと思いますよ。そりゃ、かっこ良いことをいえば「プロレスが好きですから」とかいいますよ。でも、そんな綺麗なこと言ったって本音は自分の生活を豊かにしようというハングリー精神以外にないと思います。好きなことだって毎日やってればイヤになりますよ。

 でも、我々みたいに2、3週間働いて3週間休みがあるというやり方だと、その3週間の休みが非常に楽しみになります。丁度皆さんが週末が楽しいといわれるのと同じことだと思いますが、我々の場合はもっと山、川、起伏が大きいものだから、その休みがもっと楽しくなるんです。その楽しい休みを取るために、一生懸命に働いているということでしょう。

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 リングの中で全部出してしまえ。
勝負をしてるんだから、絶対に勝負はつく、つけるまでやる。
それが『明るく楽しく激しい』に入るんじゃないかと思うんです。

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 選手だけじゃなくって、見に来てくれたお客さん皆さん方も、あたたかく応援してくれたということが、今の全日本プロレスの一番の元だと思うんです。

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 今は全日本プロレスの場合、日本武道館の試合のチケットを先行発売します。どんな選手が出るのか、どんな組み合わせなのかが決まっていないのに、ファンは買ってくれます。

 プロレスの歴史は、いかにお客さんをだますかだったと思います。切符が売れさえすればそれでいいと、出場選手の質を落としてギャラを節約し、逆に売れなくなるといい選手をよぶ、というやり方だったんです。

 それを全日本プロレスはファンを決して裏切らない、質の高いものをやる、ということでやってきました。今二十年経ってやっと信用がついてきたんです。この信用を一度でも崩したら終わりです。この信用を守っていくこと、そのためには一生懸命に、そしてまじめにやっていくしかありません。もちろん全日本プロレスのモットーである「明るく楽しく激しく」は、永久に続けていきたいと思っています。

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 俺のおふくろは学問はなかったけど、俺によく説教はしましたよ。要は『自分で事を起こして、悩むような事はするな。他人に迷惑をかけるな』ということだった。それだけが親の遺言じゃないけど。自分でしでかして、自分で悩むようなことだけはするな、と。それがおふくろの口癖だったねぇ。

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 親父のことは記憶に残っているようなことが少ないんだ。
 でもひとつだけ、親父のことを思い出す場所がある。新潟の海です。

 小さい時に二人でよく海水浴に行ったんだよなぁ。大きなおにぎりを持って、十何キロも歩いてね。最後の峠を越えると、目の前にサーッと日本海が広がる。
 あの光景が、俺にとっての親父の姿なんだなぁ。

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 いつもの悪役商会との試合にしても、お客さんを楽しませようと思いながらやってたら、こんなもん、楽しんでくれないと思う。やっぱり、ダメながらでも一生懸命やってることが、お客さんの笑いを誘う。笑わせようと思ってやってたら、お客さんだってすぐ飽きてしまいますよ。

 (1990年に)全日本プロレスがピンチになった時も、選手たちの一生懸命がお客さんに伝わったんだと思う。
 これからも策は無い、一生懸命以外に無い。一生懸命が感動を呼ぶ。そういう結論は持っとるんだけどもな。

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 昭和38年10月に、ハワイを2週間各島サーキットをしました。この時、俺はハワイに惚れ込んでしまったんです。ハワイに比べればプエルトリコもフロリダも、湿気が多くて暑すぎます。ハワイは季節が快適な上に日本語もかなり通用し、何よりも東京で飛行機にのったら次はハワイというのがいい。

 太陽が沈む前、やや陽が落ちてきた頃の時間が好きでねぇ。完全に陽が落ちてまわりが暗くなると俺はなぜか「もう、うちに帰ろう」という気分になるなぁ。

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[2006年07月29日]

図書室メニュー

王道十六文(完全版)

今までにジャイアント馬場が書いた本の内容を少しづつ紹介していきます。今回紹介する本は平成12年に発売した「王道十六文(完全版)」です。

ザ・馬場さんの言葉集

ジャイアント馬場の発言集です。

気まぐれ日記

 6月2日からこの"ジャイアント馬場記念館"を立ち上げ、今まで会場で販売していたものをネット上で販売し、又少しでも馬場さんを思い出して頂ければ嬉しいのと、馬場さんをあまりご存じない方に馬場さんの事を話してあげたいとの思いで、始めました。
 今後気まぐれですが、思い出話をしていきます。

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[2006年07月29日]

ジャイアント馬場出演CM一覧

出稿期間 スポンサー 銘柄 商品備考
1970年09月〜
1971年02月
永大産業 永大ベニア
1980年09月〜
1981年09月
日本専売公社 JOY たばこ
1981年01月〜
1981年01月
井関農機 トラクター
1981年02月〜
1981年05月
近藤書店 開業 100年
1982年04月〜
1982年07月
日本楽器製造 マイバンド
1982年05月〜
1982年07月
明治製菓 ジャーミー 麦茶
1982年09月〜
1982年10月
東京ガス 暖房キャンペーン
1983年1月〜
1985年1月
フマキラー ファミレド 芳香剤
1983年05月〜
1983年07月
明治製菓 ジャーミー 麦茶
1983年07月〜
1983年08月
三菱自動車 キャンター
1983年10月〜
1983年11月
MISTER MINIT JAPAN MISTER MINIT JAPAN 靴底
1983年12月〜
1984年5月
ソード オフィスコンピューター
1984年3月〜
1984年09月
キリンビール ビアシャトル
1984年09月〜
1984年12月
日清製油 サラダクリーム
1984年10月〜
1984年11月
MISTER MINIT JAPAN MISTER MINIT JAPAN 合鍵
1984年03月〜
1984年03月
集英社 週刊ジャンプ
1987年01月〜
1987年03月
全国信用組合中央委員会 金融
保険業
1987年03月〜
1987年04月
江崎グリコ アイスクリーム製品総合
1988年04月〜
1988年07月
新潟県 観光案内 新潟県 観光案内
1988年10月〜
1989年02月
江崎グリコ グリコ ジャイアントペロティ
1988年04月〜
1989年06月
江崎グリコ グリコ ジャイアントアイス
1989年11月〜
1989年12月
江崎グリコ グリコ チョコレート製品総合
1990年01月〜
1990年12月
リクルート 住宅情報誌
1990年03月〜
1990年04月
全日本不動産協会 全日本不動産協会
1990年01月〜
1990年05月
三田工業 三田コピー
1987年04月〜
1990年07月
江崎グリコ グリコ ジャイアントコーン
1990年09月〜
1990年10月
服部セイコー TWENTY-TWOレギュラー
1987年01月〜
1991年03月
江崎グリコ グリコ ジャイアントカプリコ
1992年01月〜
1992年04月
三菱自動車工業 三菱ミニカトッポ
1992年10月〜
1993年03月
日東化学 ソフト99 タイネット
1993年01月〜
1993年02月
ロート製薬 ロート メンソレータムAD軟膏
1993年07月〜
1993年08月
日本コンピュータ・システム メサイヤ スーパーファミコンソフト
1993年04月〜
1993年09月
日清製粉 日清から揚げ粉
1993年10月 社会保険庁 社会保険庁
1994年03月〜
1994年03月
ダスキン ミスター・ドーナツお持ちカエルキャンペーン
1994年05月〜
1994年07月
日本野球機構コミッショナー サンヨーオールスター
1994年06月〜
1995年09月
日本電装 IDOタックスミニモ
1993年10月〜
1994年03月
ソフト99コーポレーション ソフト99 タイネット
1993年12月〜
1995年12月
江崎グリコ グリコ製品
1994年11月〜
1995年5月
日本デジタルイクイップメント オフィスコンピューター
1994年12月〜
1994年12月
東京都 年末交通安全キャンペーン
1995年03月10日 TOWER RECORDS TOWER RECORDS 朝日新聞広告
1995年10月〜
1995年12月
労働省 労働保険適用促進月間
1996年 7月〜
1996年11月
日清食品 ごんぶとん
1996年11月〜
1996年12月
九州ブロック赤十字血液センター連盟 冬季献血キャンペーン
1997年 1月〜
1997年12月
インターオート札幌 アップルワールド企業広告
1997年 4月〜
1998年 4月
ららぽーと スキードーム ザウス
1997年 5月〜
1999年 5月
農林中央金庫 JA貯金年金自動受取り
1997年 6月〜
1998年 3月
NTT九州パーソナル通信網 企業および商品広告
1998年 1月〜
1998年12月
章栄商事 広島県内 鉄骨住宅Le FER

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[2006年07月29日]

G・馬場必殺技エピソード

ここではジャイアント馬場が繰り出す有名な必殺技はどうやって生まれたのかご紹介します。

16文キックはどうやって生まれたのか?

16文キック

ジャイアント馬場の代名詞「16文キック」は、1962年の初めてのアメリカ修行時代に、試合でロープの反動で向かってくる相手に、とっさに左足が出たのがきっかけとなったもの。ただ、G・馬場自身はこれは技と呼べるほどの物ではないと思っていた。しかし、日本で16文キックが有名になってしまった為、1964年末の海外遠征の時にロスで空手道場を開いていたジョージ土門に蹴りを教わるようになり、自分から踏み込んでいくようになってからは自信をもって16文キックを出せるようになったという。

16文から32文ロケット砲へ・・・

32文ロケット砲

1964年末海外遠征の時に、ジョージ土門に空手の蹴りを教わって16文キックに自信を持ったG・馬場は、もしかしたらドロップ・キックもできるのではと思い始めた。運良くドロップ・キックの名手ペドロ・モラレスが練習相手となってくれ、1日でそのタイミングや受身などを体得した。日本での初披露は1965年1月8日の6人タッグ戦であった。この時は、試合会場にいた記者たちも、さすがに驚きを隠せなかったようだ。

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[2006年07月29日]

ジャイアント馬場 不滅のタイトル・コレクション

1964年 アジアタッグ選手権(パートナー:豊登)
1965年 インターナショナルヘビー級選手権
1966年 インターナショナルタッグ選手権(P:吉村道明)
1967年 インターナショナルタッグ選手権(P:アントニオ猪木)
1968年 インターナショナルヘビー級選手権
1973年 インターナショナルヘビー級選手権
1973年 PWF世界ヘビー級選手権
1974年 NWA世界ヘビー級選手権
1975年 インターナショナルタッグ選手権(P:ジャンボ鶴田)
1976年 インターナショナルタッグ選手権(P:ジャンボ鶴田)
1977年 インターナショナルタッグ選手権(P:ジャンボ鶴田)
1977年 アジアヘビー級選手権
1978年 インターナショナルタッグ選手権(P:ジャンボ鶴田)
1979年 PWFヘビー級選手権
1979年 NWA世界ヘビー級選手権 
1980年 NWA世界ヘビー級選手権
1983年 PWFヘビー級選手権
1983年 インターナショナルタッグ選手権(P:ジャンボ鶴田)
1984年 PWFヘビー級選手権

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[2006年07月29日]

ジャイアント馬場 年表

1938年  1月23日 新潟県三条市西四日市町に果物商の父 馬場一雄、母 ミツの次男として生まれる。兄 一人、姉 二人
1944年  4月 1日 四日町国民学校に入学
小学校時代にから野球に熱中、少年野球団「若鮎クラブ」のエースで活躍
1950年  4月 1日 三条第一中学校に入学
野球部で中越地区大会優勝。三年生時にモルモン教の洗礼を受ける
1953年  1月 新潟県立三条実業高校工業科(現 三条商業高校)に入学
1955年  1月 プロ野球「読売巨人軍」からスカウトを受け入団
新潟県第1号のプロ野球選手となる。背番号は59
1956年 10月 二軍ながら12勝1敗の最優秀投手に輝く
1957年 10月 13勝2敗で2年連続最優秀投手に
1959年 10月 3年連続最優秀投手となる
1960年  1月 左肘のけがによりプロ野球投手生命を断念
 4月11日 日本プロレス入門
 9月30日 東京・台東体育館 対桂浜戦でプロレスラーとしてデビュー
5分15秒 股裂きで初勝利を飾る
1961年  7月 1日 初渡米。芳の里、マンモス鈴木とともに武者修行
 8月25日 サンディエゴでアート・マハリックを相手にアメリカマットデビュー
1962年  6月 シカゴ・アンフェシアターでNWA王者バディ・ロジャースへの挑戦。異例の5連戦連続挑戦を行う
1963年  2月 4日 ロサンジェルスのオリンピック・オーデトリアムでWWA王者 ザ・デストロイヤーに挑戦、反則勝ちを収めるも規定により王座は獲得ならず
 3月17日 力道山とともに凱旋帰国
 3月22日 第5回ワールドリーグ参加。馬場正平からジャイアント馬場のリングネームとなる。4勝2敗1分けの好成績
10月 7日 再度渡米武者修行へ
1964年  2月 5日 デトロイト オリンピック・スタジアムで
NWA王者 ルー・テーズに挑戦、2vs1で敗れる
 2月17日 ニューヨーク マジソン・スクエア・ガーデンで
WWWF王者 ブルーノ・サンマルチノに挑戦、市条例により引き分け
 2月28日 ロサンジェルスでWWA王者 フレッド・ブラッシーに挑戦
と短期間に全米を股にかけ3大王座に連続挑戦という偉業をなす
 4月 3日 帰国、即第6回ワールドリーグ参加
 5月29日 札幌で豊登と組んでキニスキー&ハリケーン組からアジアタッグ選手権奪取
12月 3度目の渡米。32文ドロップキックを身に付ける
1965年 11月24日 NWA代表のディック・ザ・ブルーザーを下し、復活インターナショナル・ヘビー級王座のチャンピオンとなる
1966年  2月28日 東京体育館にてルー・テーズからインターナショナル王座を防衛
11月 5日 吉村道明とのコンビでインターナショナルタッグ王座を奪取。二冠王になる
12月 3日 日本武道館プロレス初興行。フリッツ・フォン・エリックを相手にインターナショナル王座7度目の防衛
1967年  2月17日 元柔道日本一 坂口征二 入門。ともにアメリカ特訓のため渡米
 3月 2日 蔵前国技館にてWWWF世界王者 ブルーノ・サンマルチノを相手にインターナショナル王座を防衛
 5月17日 横浜文化体育館にてザ・デストロイヤーを下しワールドリーグ2度目の優勝
10月31日 アントニオ猪木とインターナショナルタッグを奪取
1968年  8月 7日 大阪球場でブルーノ・サンマルチノを相手にインター王座防衛。
父・一雄さんが亡くなる
12月 6日 現役NWA世界王者 ジン・キニスキーを相手にインター王座防衛
1969年  9月13日 ロサンジェルスのオリンピック・オーデトリアムでザ・シークを相手にインター王座を成功
12月 3日 NWA世界王者 ドリー・ファンク・ジュニアと60分時間切れ。ランニング・ネックブリーカー初公開
1970年  5月20日 ドン・レオ・ジョナサンを下しワールド・リーグ戦制覇
 7月30日 NWA世界王者 ドリー・ファンク・ジュニアと52分35秒両者リングアウト
1971年  5月19日 ワールド・リーグ戦優勝
 7月 母・ミツさんが亡くなる
 9月16日 ハワイにて元子夫人と結婚式を挙げる
1972年  5月12日 ワールド・リーグ戦優勝。この生中継を最後に日本テレビは日本プロレスの中継を終了
 7月29日 日本プロレスに辞表提出
 8月18日 日本プロレスでのラストファイト。12年4か月在籍。
大木金太郎と組んでモンゴルズに勝つ
 9月 2日 インターのシングル・タッグの王座を返上
 9月 9日 全日本プロレス設立発表
10月21日 全日本プロレス旗揚げ試合
10月22日 日大講堂で世界ヘビー級ベルトをかけてブルーノ・サンマルチノと対戦。引き分け
12月 9日 ザ・デストロイヤーを下し、陣営に引き入れる
1973年  2月 全日本プロレス NWA加盟
 2月27日 東京体育館でボボ・ブラジルを破り、世界選手権争覇戦を終了。
インタ王座のベルトを巻く
 3月16日 PWF世界ヘビー級初代王者に認定される
 4月21日 福井でマーク・ルーインを下し、第1回チャンピオン・カーニバル制覇
10月 9日 凱旋帰国の鶴田友美デビュー戦でパートナーをつとめ、ザ・ファンクスと対戦
1974年  6月24日 10年ぶりにマジソン・スクエア・ガーデンに出場、ゴリラ・モンスーンを倒す
12月 2日 鹿児島でジャック・ブリスコを下し第49代NWA世界ヘビー級王者となる。日本人初の快挙
1975年  5月 3日 日大講堂でブルーノ・サンマルチノとWWWF,PWFダブルタイトルマッチ
 7月25日 日大講堂でフリッツ・フォン・エリックをテキサス・デスマッチで倒す
12月 2日 オープン選手権開催
12月11日 力道山13回忌特別興行
12月18日 川崎市体育館でホースト・ホフマンを下しオープン選手権優勝
1976年  7月24日 ビル・ロビンソンを相手にPWF王座を防衛
1977年  5月14日 ジャンボ鶴田を下し、チャンピオン・カーニバル優勝
10月29日 大木金太郎とPWF、アジアのダブルタイトルマッチに勝利
12月 2日 世界オープン・タッグ選手権開催
1978年  4月 7日 仙台でブッチャーを下し、チャンピオン・カーニバル優勝。
東南アジア遠征
12月15日 ジャンボ鶴田と組み世界最強タッグ決定リーグ戦優勝
1979年  2月10日 シカゴでアブドーラ・ザ・ブッチャーからPWF王座を奪還
 8月26日 東京スポーツ社主催「夢のオールスター戦」開催
10月31日 愛知でハーリー・レイスからNWA世界王座を奪取。
第55代王者に2度目の戴冠
1980年  4月25日 高知でのザ・シークとのシングルマッチで国内公式戦3000試合連続出場記録を達成
 6月18日 ハワイで18人参加のバトルロイヤルに出場。アンドレ・ザ・ジャイアントと初顔合せ
 6月28日 デトロイトでのタッグ王座決定ワンナイトトーナメントにジャンボ鶴田とのコンビで出場。見事優勝
 9月 4日 佐賀でハーリー・レイスより3度目のNWA世界王座奪取。第57代王者に
12月11日 世界最強タッグ決定リーグ戦 ジャンボ鶴田とのコンビで優勝
1981年  1月18日 PWFダブルタイトルマッチ3000試合連続出場突破記念試合AWA世界、PWFダブルタイトルマッチ バーン・ガニアと引き分ける
 4月30日 大阪でブルーザー・ブロディからフォール勝ちを奪い、チャンピオン・カーニバル優勝
10月 9日 全日本プロレス創立10周年記念興行。
ブルーノ・サンマルチノと組んでタイガー・ジェット・シン、上田馬の介組と対戦
1982年  2月 4日 東京体育館でスタン・ハンセンと初対決、PWF王座を防衛
 4月16日 第10回チャンピオン・カーニバル7度目の優勝
 7月 7日 結婚発表記者会見
1983年  1月23日 「ジャイアント馬場くんをますますテレさす会」開催
 2月11日 ミズーリ州セントルイスでハーリー・レイスよりPWF王座を奪回
1984年  4月25日 横浜での試合で首を負傷。連続試合出場記録が3711でストップ
 6月22日 新日本プロレス興行との業務提携を発表
 7月31日 蔵前国技館でスタン・ハンセンよりPWF王座を奪還
1985年  6月21日 日本武道館でラッシャー木村を破りPWF防衛
10月21日 両国国技館で世界初のNWA,AWA世界ダブルタイトルマッチを実現させる
1986年  8月 大相撲 元横綱 輪島大士の入門、特訓のため渡米
1987年 10月 1日 キャピトル東急ホテルで全日本プロレス創立15周年記念パーティー
12月16日 「ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー」
1988年 10月28日 ラッシャー木村との義兄弟タッグ実現
1989年  2月25日 義兄弟タッグで世界タッグ挑戦
1990年  4月14日 東京ドームで「日米レスリングサミット」開催
 9月30日 後楽園ホールでデビュー30周年記念特別試合。
アブドーラ・ザ・ブッチャーと組んでアンドレ・ザ・ジャイアント&スタン・ハンセン組と対戦
11月30日 帯広の試合中、左大腿骨亀裂骨折。三か月の入院
1991年  6月 1日 復活の日日本武道館にて「復活の日」。183日ぶりの復帰戦を飾る。
1992年 10月21日 日本武道館にて旗揚げ20周年記念試合
1993年  4月20日 福島体育館で前人未到の5000試合出場
 6月 1日 日本武道館で5000試合達成記念試合
1994年  3月 5日 日本武道館でファン投票による「夢のカード」出場。
スタン・ハンセンと組んで三沢光晴、小橋健太組と対戦
1995年  3月24日 後楽園ホールで川田利明、田上 明と組んでスタン・ハンセン、三沢光晴、小橋健太と対戦。60分フルタイム
10月25日 日本武道館でデビュー35周年記念試合。
スタン・ハンセン、ジャンボ鶴田と組み、田上明、大森隆男、本田多聞に快勝
1996年  9月29日 後楽園ホールでデビュー36周年記念試合
10月18日 日本武道館で旗揚げ24周年記念試合
1997年  9月26日 キャピトル東急ホテルで旗揚げ25周年記念パーティー
10月21日 日本武道館で旗揚げ25周年記念試合出場
1998年  1月23日 後楽園ホールにて還暦記念試合。リング上で川田利明、小橋健太、渕 正信組と対戦。ジャンピング・ネックブリーカーで渕から見事フォールを奪う
 5月 1日 全日本プロレス単独としては初の東京ドーム興行開催。
5万8300人の大観衆を集める。ハヤブサ、志賀賢太郎と組んで新崎人生、ジャイアント・キマラ、泉田 純組と対戦し、快勝
11月30日 宮城県スポーツセンター大会に出場後、12・2松本大会を906試合ぶりに欠場
12月 4日 12・3静岡大会欠場後、千葉公園体育館大会に復帰
12月 5日 年内最終戦の日本武道館大会出場。国内通算5758戦目。
シリーズ終了後、検査入院に入る
1999年  1月 2日 新春シリーズは欠場
 1月 8日 腸閉塞の手術
 1月31日 午後4時4分、肝不全により永眠
 2月 2日 自宅にて密葬。戒名は顕峰院法正日剛大居士
 4月17日 お別れの会最後のリングとなった日本武道館にてジャイアント馬場 お別れの会「ありがとう」
 5月 2日 東京ドームにてジャイアント馬場『引退』記念興行を開催。
特別立会人ロード・ブレアース、6万5000人の大観衆の見守る中、スクリーンにて往年のライバル ザ・デストロイヤー、ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキーと5759試合目を闘った

ライン
[2006年07月29日]

16文募金について

活動内容

現在、ジャイアント・サービス、ファンクラブKINGS ROADでは、様々な商品などの販売にあたっておりますが、売り上げの一部を自動的に16文募金のほうへ寄付させていただいております。

ご報告

阪神・淡路大震災発生直後、現地に赴いた馬場さんはファンクラブ会員ひとりひとりと連絡を取り、救援物資等を届けました。

ご報告写真 ご報告写真
ご報告写真 ご報告写真

そして、阪神・淡路大震災復旧に頑張る淡路島の島民の皆様を励ますために…
1997年10月5日 兵庫県・北淡町東中学校グラウンドにて
無料のチャリティ−大会を開催

ご報告写真
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ご報告写真
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ご報告写真
2000年1月31日、後楽園ホール ジャイアント馬場一周忌追悼興行のリング上にて、台湾大地震義援金として台湾・Zチャンネル 張 元鎭 総経理様を通じて、送りました。

ご報告写真
2000年10月21日、愛知県体育館 全日本プロレス旗揚げ記念興行のリング上にて、東海地方豪雨水害義援金として、中京スポーツ新聞社 西川 佑二 編集部長様を通じて、送りました。

ライン
[2006年07月29日]

軌跡

子供の頃から、スポーツ万能で野球、水泳、卓球を得意としていた馬場正平少年は三条実業高校時代は野球部の豪腕エースとして活躍。甲子園出場ならなかったものの、その才能を読売巨人軍のスカウトに認められ、高校在学中に入団。

昭和32年9月、甲子園球場にて対阪神戦で一軍公式戦デビューのマウンドを飾る。イースタン・リーグでは2年連続で最優秀選手に選ばれるなど活躍。しかし、左腕を負傷して野球を断念、プロレスラーに転向する。

昭和35年4月、日本プロレス入門。同年9月30日、東京・台東体育館での田中米太郎戦でデビュー。股裂きで勝利を飾る。

昭和37年7月に初渡米武者修行に出発。早くも当時の世界最高峰NWA世界ヘビー級とWWA世界へビー級の両王座に挑戦し、「ビッグ・ババ」の名を全米に轟かす。

昭和38年3月17日、凱旋帰国し、『第5回ワールド・リーグ戦』に参加。同年10月再渡米。昭和39年2月にはNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ、WWA(フレッド・ブラッシー)の3大世界王座に連続挑戦という快挙をやってのけ、『第6回ワールド・リーグ戦』に凱旋。同年5月にはアジア・タッグ選手権獲得。

昭和40年11月24日、復活された力道山の遺産のインターナショナル選手権をアメリカ代表のディック・ザ・ブルーザーとの間で王座決定戦を行い、見事第3代王者になる。昭和41年11月にはインターナショナル・タッグ選手権も獲得し、インター二冠王に輝く。日本プロレス時代はワールド・リーグを通 算6度優勝し、まさに向かうところ敵無し。

昭和47年10月、理想のプロレス団体を目指し、全日本プロレスを旗揚げ。力道山から贈られた伝統のベルトをPWF世界ヘビー級選手権として復活させ、争奪戦をへて昭和48年2月に初代王者になる。同王座は昭和53年6月の王座転落まで38回連続防衛という日本マット界の防衛新記録を樹立。ジャンボ鶴田との師弟コンビでは昭和50年2月から昭和59年4月まで通算9年間に渡りインターナショナル・タッグも保持。春の祭典と謳われた『チャンピオン・カーニバル』は合計7度の優勝を飾っている。

昭和49年12月2日、鹿児島でジャック・ブリスコ、昭和54年10月31日、名古屋でハーリー・レイス、昭和55年9月4日、佐賀でハーリー・レイスをそれぞれ破って合計3度、世界最高峰のNWA世界ヘビー級選手権を獲得した。初戴冠は日本人としては初めて獲得となり、永く歴史に名前を刻むべきものである。

得意技も多彩で16文キックを始め、32文ロケット砲、“伝家の宝刀”ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ、河津落とし、脳天唐竹割り、空手チョップ、ジャイアント・バックブリーカー、ダイビング・ボディアタック、コブラツイスト、ココナッツ・クラッシュ、ジャイアントDDTなどを39年間に渡って見せてくれた。“明るく楽しく激しいプロレス”を旗印に掲げた『王道プロレス』の創始者としてプロレスラーとビッグ・プロモーターとしての両面 で多くの偉業を成し遂げた。

平成10年5月1日は東京ドームに進出し、さらなる躍進が期待されていたが、平成10年12月5日日本武道館での試合を最後に体調を崩し東京医科大学病院に入院。平成11年1月8日、上行結論腸ガンにより開腹手術を受ける。病室で61歳の誕生日を迎えたが、1月31日午後4時4分、転移性肝臓ガンによる肝不全で、その波乱の生涯を閉じた。

平成11年4月17日には最後のリングとなった日本武道館で『お別れの会』を行い、2万7千人もの老若男女のファンが手に手に花を持ち、献花に訪れた。5月2日には東京ドームで『ジャイアント馬場「引退」記念興行』を行った。この試合を含めて生涯通算5759試合としてカウントされる。

平成12年1月31日には、後楽園ホールにて『一周忌追悼興行』を行った。戒名 顕峰院法正日剛大居士(けんほういんほうしょうにちごうだいこじ)

その暖かい人柄は誰からも愛され、数々のコマーシャルにも出演した。

ライン
[2006年07月29日]

プロフィール

皆さんはジャイアント馬場のことをどれくらいご存知ですか?
身長や体重は?元巨人軍の野球選手だったこととか、
バラエティー番組などでもよく見かけましたよね...

全身  本名:馬場 正平(ばば しょうへい)
 生年月日:昭和13年1月23日
  青果業を営んでいた父・一雄、母・ミツ(共に故人)の間に次男として誕生
 出身地:新潟県三条市西四日町
 血液型:O型
 身長:209cm 体重:135kg
 趣味・特技:絵画・読書・時代劇観賞・ゴルフ
 学歴:新潟県立三条実業高校 昭和30年1月中退
 前歴:プロ野球 読売巨人軍在籍
(投手1955年〜1960年 背番号59)
  二軍で3回、最多勝・最優秀投手獲得
  一軍では3試合登板0勝1敗防御率1.29
 著書:
 昭和62年11月 『王道十六文 上・下』
 平成12年 9月 『王道十六文 完結編』
 平成10年12月 『ジャイアント馬場 オレの人生・プロレス・旅』
 (以上 ジャイアント・サービス刊)
 平成 6年 7月 『16文の熱闘人生』(東京新聞刊)
 職業:プロレスラー
  1980年 4月25日に3000試合連続出場を達成。
  1984年 4月25日までの連続出場3711試合を記録。
  1993年 4月20日通算5000試合突破。
  1998年12月 5日日本武道館大会まで通算5758試合出場。
 デビュー戦:
  昭和35年 9月30日 東京・台東体育館 対 田中米太郎
 タイトル歴:
  NWA世界ヘビー、インタヘビー、PWFヘビー、アジアヘビー、インタタッグ、アジアタッグ
 得意技:16文キック、ランニング・ネック・ブリーカー・ドロップ

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