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「王道十六文(完全版)」第十七章 馬場没後の全日本プロレス 菊池 孝

[2006年08月01日]

ジャイアント馬場は平成10年12月7日に精密検査のため東京医大病院に入院、元子夫人の著書『ネェネェ馬場さん』(講談社刊)によれば、この検査終了時に「上行結腸ガンが肝臓にも転移している」と宣告されたという。このため馬場は入院生活を続け、楽しみにしていたハワイ行きは中止された。12月25日にいったん退院したが、これは正月を自宅で迎えるためで、11年1月5日に再入院している。医師からは腸閉塞という説明を受けていた馬場は、この一時帰宅中に足のトレーニングを続けていたという。アンドレ・ザ・ジャイアントの足の衰えぶりが、馬場の頭にこびりついていたのだろう。馬場は、すでに内定していた5月2日の東京ドーム大会でカムバックすることを目標としていたのだ。死の病に置かされていることを馬場に悟られないよう、元子夫人は懸命の努力を続けた。

 1月8日に開腹手術が行われたが、ガンは肝臓から肺、腎臓にも転移していた。だがマスコミには癒着性腸閉塞の手術と発表されている。誰もが“生涯現役”を宣言した馬場のカムバックを信じていた。1月2日の新春シリーズ開幕戦後楽園ホール大会では、欠場した馬場に代わって三沢光晴が新春恒例のファンへの挨拶を行ったが、会場のムードはいつもと変わらず明るかった。選手も全員が馬場の真の病状を知らされていなかったのだ。

 ガンは急速に進行し、馬場は1月21日に肝機能障害を併発してICU(集中治療室)に移され、23日にここで61歳の誕生日を迎えた。そして27日に容態が悪化、29日には意識の回復が絶望となり、「これ以上、馬場さんを苦しめたくない」という元子夫人の希望で、30日午前10時に生命維持装置が外され“あと2時間の命”と宣告された。だが、馬場の心臓は鼓動を続け、驚異的な生命力を見せて、それから28時間後の1月31日午後4時4分、静かに息を引きとったのだった。馬場は最後の最後まで、闘い続けたのである。

 馬場の遺体は同夜のうちに恵比寿の自宅に移され、元子夫人の「馬場さんを静かに送ってあげたい」という願いから、その死亡はあえて公表しないことにした。だが翌2月1日の朝、インターネットに馬場死亡の情報が流され、マスコミはその確認にヤッキとなったが、六本木の全日本プロレス事務所に押しかけても、自宅にいた元子夫人に電話を入れても、
「退院して自宅で療養中です」
という回答しか得られなかった。

 それでも半信半疑の報道陣が、恵比寿の自宅マンション前に多数集まり、ついに元子夫人が、
「ご近所の迷惑になるから」
と公表に踏み切って、2月1日午後7時に六本木の事務所で鶴田、三沢、百田の3取締役が出席して緊急記者会見が行われ、馬場の上行結腸ガンが原因の肝不全による死亡が正式発表されたのだった。このニュースは全国の、プロレス・ファンではない人たちにも大きなショックを与えた。それは単なるスポーツマンの死ではなく、社会現象と言っていいほどだった。

 通夜は同日夜、恵比寿の自宅の身内と選手・社員だけが出席してひっそりと営まれ、2月2日午後1時から密葬が同じ形式で行われた。出棺の際、元子夫人は馬場の遺影を抱いて集まった大勢の報道陣に深々と一礼している。この時、馬場の遺体が白布にくるまれ、選手たちに支えられて階段を下りて来たのが話題となったが、桐ヶ谷斎場には立派な棺が用意されており、馬場の遺体はこれに納められて荼毘(だび)に付された。戒名は顕峰院法正日剛大居士(けんほういんほうしょうにちごうだいこじ)。遺骨は午後5時40分に元子夫人に抱かれて自宅に帰り、初七日の法要も営まれた。

 葬儀の翌日2月3日に池上本門寺で行われた『節分追儺式』には、三沢の「人に迷惑をかけないようにしろというのが社長(馬場)の教え」という一言で三沢、川田、田上らが予定通り出席、恒例の豆まきを終えた後、同寺にある力道山の墓前に全選手が集まり「社長がそちらに行きましたので、よろしくお願いします」と合掌した。

 2月7日には日本テレビが、午後2時〜3時半の時間帯で『ジャイアント馬場追悼緊急生放送』と題した特番を放映、馳とモスマンを除く全選手が出演し、終了時に同局の会議室を借りて選手会を開き、一丸となって全日本プロレスを守っていくという決意を確認、再出発を誓っている。

 2月13日の後楽園ホールにおける『ファン感謝デー』は、馬場の没後初めての興行だったが、馬場追悼の10カウントのゴングは鳴らされなかった。これは“馬場さんはまだ引退していない”という意思表示だった。大会は普段と変わらぬ『明るく、楽しく、激しいプロレス』を展開、ファンを満足させたが、違っていたのは、いつも馬場が座っていたグッズ売場の椅子に馬場の笑顔の写真が飾られ、全試合終了後に坂本九のヒット曲『上を向いて歩こう』が会場に流されて、観客を送り出すことだった。これは馬場が初渡米武者修行時代に最も愛した曲だった。この2つは今も行われてる。

 2月20日には鶴田がキャピタル東急で記者会見、引退と全日本プロレス取締役の辞任を発表した、すでに鶴田は交換教授としてオレゴン州立ポートランド大学に留学することが決まっており、出発を間近に控えてマット界からの訣別に踏み切ったものだ。鶴田は馬場の“俺の目の黒いうちは・・・”という言葉を守ったわけで、
「馬場さんに生前、“チャンスは絶対にモノにしろ、人生はチャンスとチャレンジだ”と言われた言葉を信じて、こんな大変な時期ですけど、渡米させていただく」
 と語った。鶴田の引退セレモニー3月6日の日本武道館大会で行われ、鶴田は赤・青両コーナーに上がって「オーッ!」を10連発、ファンに最後の別れを告げた。

 3月23日には元子夫人がキャピタル東急ホテルに報道陣を招き、馬場の49日法要を無事にすませたことを報告。この席で元子夫人は、99チャンピオン・カーニバル最終戦の翌日4月17日に、同じ日本武道館で馬場のお別れ会『ありがとう』を開催、5月2日の東京ドーム大会を馬場の“引退”記念興行とする意向を明らかにしている。

 4月16日の日本武道館における99チャンピオン・カーニバル決勝戦は、いつも通り超満員1万6300人の観衆を集めたが、その翌日17日の午後1時から行われた馬場のお別れ会『ありがとう』は、もっと凄かった。前夜の大会終了時の午後9時過ぎから受付前に並んだグループもいて、徹夜組が約200人。記帳受付開始の午前10時には約2000人が長蛇の列を作り、その後も終了の午後3時を過ぎても訪れる人の絶え間なく、武道館正面に急きょ遺影と献花台を設置したほどで、実に2万8千人を数えたのだ。

 館内には、正面に縦5メートル、横3メートルの、馬場がガウンを着てニッコリと笑って立ち姿の遺影が飾られ、その前に組まれたリングに読経の後、献花や贈り物が捧げられたがすっきりと晴れ上がり、献花するファンに馬場の全盛時代を知らないはずの若い人が多かったのが印象的だった。
馬場は、老若男女すべての人から愛されていたのだ。

 5月2日に東京ドームで開催されたジャイアント馬場『引退』記念興行は、さらに感動的だった。同大会では第6試合に引退記念試合時間無制限1本勝負として、馬場&ザ・デストロイヤー組VSジン・キニスキー&ブルーノ・サンマルチノ戦という“夢のカード”が組まれた。

 リング上には立会人のロード・ブレアースPWF会長と、すでに引退していたジョー樋口特別レフェリーが待機、赤コーナーからデストロイヤーが、青コーナーからキニスキーとサンマルチノが登場し、仲田龍リングアナウンサーが3選手を呼び上げた後、最後に、
「300ポンド、ジャイアント馬場―」と涙声でコールすると客席から赤い紙テープが乱れ飛んだ。試合開始のゴングでオーロラ・ビジョンに“出場”3選手と馬場の名勝負のシーンが映し出され、試合終了後のゴングの後、3選手がライバルであり親友でもあった馬場に別れの言葉を贈って、日本組、外国人組全選手共にリングサイドに整列すると、元子夫人が馬場が愛用した16文のレスリング・シューズをリング中央にそっと置いた。そして場内の証明が落とされ、シューズにスポットが当てられて、オーロラ・ビジョンからガウンの姿の馬場が見つめる中、没後3ヵ月余にしてついに引退の10カウント・ゴングが打ち鳴らされたのだった。“生涯現役”を貫き通した馬場にふさわしく、全国のファンの胸を打った感動の引退セレモニーだった。

 馬場没後の懸案となっていた全日本プロレスの新体制は、5月7日にキャピタル東急ホテルで新役員全員が出席して発表された。就任は5月3日付。馬場の“引退”記念試合が行われた翌日に発足したわけだ。新人事は代表取締役社長三沢光晴、取締役副社長川田利明と百田光雄、専務取締役大八木賢一、取締役選手会会長田上明、取締役馬場元子、渕正信、小橋健太、百田義浩、馬場幸子、監査役大峡正男となっていて、川田、田上、渕、小橋、馬場元子と幸子(馬場の姪で生え抜きの社員)は新取締役就任だった。席上、三沢新社長は慎重に言葉を選びながら王道継承と新風を吹き込むことを宣言、元子夫人は、
「馬場さんと2人でゆっくりと見ていられるような会社にして欲しい」
と語っている。元子夫人は馬場の没後、試合場に姿を見せたことはなく、会社も三沢らに任せて、馬場と“2人”でひっそりと自宅にこもる毎日を送っていた。

 新体制は、5月22日のスーパーパワー・シリーズ開幕戦後楽園ホール大会から、順調なスタートを切った。開幕戦当日に、元UWFインター所属でフリーとして参戦していた高山と垣原の正式入団を発表、高山はすでに大森とノー・ファイアーを結成してブレークの気配を見せ始めていた。年間8シリーズの名称と興行形態も従来のままを踏襲、営業面も馬場体制時代からそのまま引き継がれ、すでに前年からマッチマークを任されていた三沢新社長の運営にソツはなかった。

 シリーズ最終戦6月11日の日本武道館大会で、三沢の3冠王座に挑戦して敗れた小橋は、この試合で鼻骨骨折全治1ヵ月の重傷を負ったが、7月4日に開幕したサマーアクション・シリーズには、特製プロテクターを顔面に着用して全戦強行出場を果たした。小橋は、
「馬場さんに、メーンイベンターは欠場してはいけないと教わった」
 と馬場さんの遺訓を守ったのだ。

 新しいアイデアも次々と取り入れられていった。6月14日には三沢社長が東京・高田馬場の総合学園ヒューマン・アカデミーで記者会見を行い、同校との提携を発表した。プロレス団体と教育機関のタイアップは日本マット史上初めてのことで、その後、三沢の講演や同校校舎を使用しての新人オーディションなどが行われている。8月19日には大相撲元前頭4枚目力桜(現力皇)の入団を発表、新戦力の充実にも意欲的だった。

 9月4日のサマーアクション・シリーズ最終戦日本武道館大会では、ノンタイトル戦5大シングルマッチを決行した。これまで年間7回の日本武道館大会では、春と年末の2大祭典の優勝決定戦意外は、タイトルマッチが行われるのが恒例となっていた。その常識をぶち破ったわけで、しかも試合順はファン投票で決めたのだ。だが、これは好評で超満員の会場は大いに盛リ上がった。

 続いて9月18日に後楽園ホールで開催された『ファン感謝デー』大会では、全6試合のカードをすべて会場のファンの抽選で決定、メーンの6人タッグマッチで百田VS永源の対決が行われるなど、意外なカードが続出してファンを楽しませた。年末の99世界最強タッグ決定リーグ戦は従来のシステムで開催され、最終戦12月3日の日本武道館大会で小橋&秋山組が2連覇を達成、11年の全日程を終了した。年頭に見舞われた馬場の死という大ショックにもめげず、全日本プロレスの新体制は安定軌道に乗ったと見えた1年だった。

 明けて平成12年。新春第1戦1月2日の後楽園ホール大会における三沢社長の挨拶では、
「明るく、楽しく、激しいプロレス」という言葉は聞かれなかったが、2日にヘビー級、3日にジュニア・ヘビー級のバトルロイヤルが行われ、恒例通りのスタートを切った。だが、三沢社長は報道陣に、
「去年は社長をやらされて来たという感じで、やりたい事はやっていない。このままで新しい時代を乗り切るのは難しいと思う。いい方向に変えていかなければいけない。正しいと思ったことは貫く」
と語っていた。

 1月29〜30日の2日間、後楽園ホールのある会館1階のプリズムUで『馬場さんが帰って来た』と題した馬場のゆかりの品の展示会が開かれた。馬場の等身大のフィギュア3体と、馬場が画いた油絵が初公開されたほか、巨人軍時代のユニホームに始まる馬場の偉大な歴史と、多彩な趣味を持った私生活を思わせる貴重な品々が展示され、ハンセンのトーク・ショーも2日間行われて、2日間で1万人を超え、入場制限をするほどのファンが詰めかけ、在りし日の馬場を偲んだ。元子夫人も2日間とも、久しぶりに公の場に姿を見せている。

 馬場の1周忌に当たる1月31日には、午前11時から親族だけで法要が営まれ、午後3時からは会場を後楽園ホールに移して、約300人の関係者による『献花の儀』が執り行われた。リングの正面に馬場の遺影が飾られ、出席者の一人一人に元子夫人が花を手渡して、献花が終了した午後4時4分、馬場が1年前に息を引き取った時間に、1分間の黙祷が捧げられた。

 午後6時半からは同ホールで1周忌追悼興行が開催され、王道プロレスを展開したが、全日本プロレスとしては初の試みである時間差バトルロイヤルも行われている。2月17日には、札幌・中島体育センターに代わって北の聖地となる北海道立総合体育センターでプロレスこけら落とし大会を開催、北都4大シングルマッチを行った。2月25日の横須賀大会では、三沢が小川とのコンビで約16年ぶりに第1試合に出場している。全日本プロレスの中で“何か”が変わり始めたのだ。

 3月24日に開幕した2000チャンピオン・カーニバルはトーナメントで行われ、第3戦26日の名古屋大会で、秋山が僅か7秒で大森に敗れるという大番狂わせが生まれた。敗者復活戦も決勝リーグ戦もない単純トーナメント制の採用は、C・カーニバル史上初めてのことだった。
そしてカーニバル中の3月31日、全選手が全日本プロレスとの契約更改を保留した。“何か”が動き出したのである。このころ、“全日本プロレス分裂”という情報が流れ、これは自然消滅の形に終ったが、5月2日発行の某週刊紙に“三沢、新団体旗揚げ”という記事が掲載され、三沢はこれを否定している。

 5月13日にはジャンボ鶴田が、フィリピンのマニラで肝臓移植の手術中に出血多量によるショックで急死した。馬場の最初の愛弟子だった鶴田は、49歳の若さで師の後を追ってしまったのだ。もう全日本プロレスの戦力ではなかったが、その訃報はマット界全体に大きなショックを与えた。

 6月9日のスーパーパワー・シリーズで最終戦日本武道館大会は、相変わらず超満員の観衆を集めて盛況のうちに終了したが、すでにこのころには全日本プロレスの分裂は確定情報としてマスコミの間に流れており、翌10日に三沢を電話取材した某週刊誌は、三沢の口から社長辞任を確認している。そして6月12日、某夕刊スポーツ紙に『三沢社長辞任』の大見出しが踊り、事態を表面化して一気に急展開を見せたのだった。

 6月13日の役員会で、三沢代表、百田副社長、大八木専務、田上、小橋、百田兄の6取締が辞任。翌14日に全スポーツ紙がこれを大きく報じると、元子夫人は六本木の事務所に集まった報道陣に自らの見解を示した文章を配付し、同時に各社にファックスで送信した。文中で元子夫人は、5月28日に開かれた臨時役員会で、百田兄の動議によって三沢社長が解任されたことを明らかにし、
「今からして思えば、今回の解任劇、辞任劇は、数ヶ月前から三沢社長が独立を目指して計画したものとかしか思えません」
と“糾弾”している。

 翌15日、全日本プロレスは7月1日に開幕するサマーアクション・シリーズ参加の外国人レスラーを発表。常連外国人選手は“残留”し、シリーズは予定通り開催するという姿勢を明らかにした。日本テレビも7月1日東京の有明、同11日大阪、同15日七尾、最終戦同23日日本武道館の4大会を収録すると発表している。

 翌16日に“三沢派”は、オープン前のディファ有明で記者会見を行い、新団体の設立を発表。フリーの池田を加えて24人の選手と練習生、レフェリー各1人が出席し、これによって全日本プロレスに残留する選手は川田、渕とハワイ在住のモスマンの3人だけになったことが明らかになった。同日午前中に六本木の事務所には、三沢を発信人とする選手23人、練習生1人、レフェリーとリングアナら6人、計30人の辞職者が配達証明付きで郵送されていた。

 18日に東京の青山葬儀所で鶴田の献花式が行われたが、“渦中の人”元子夫人と三沢は時間帯をずらし、顔を合わせることはなかった。翌19日、全日本プロレスの神奈川県下の道場で川田と渕が記者会見を行い、川田が、
「僕の使命は馬場さんの築いた全日本プロレスを守ることだと思っています」
と決意を表明した後、
「新日本プロレスさんとの交流を前向きに考えていくるもりです」
と意外とも思える言葉を口にした。だがこの日、日本テレビは旗揚げ以来続いた全日本プロレス中継を、6月21日放映分を最後に打ち切ると発表している。6月13日の役員会から19日までの僅か1週間で、全日本プロレスは激変してしまったのだ。

 だが開催も危ぶまれたサマーアクション・シリーズは、フリー選手の助っ人参戦を得、外国人組もWCWの役員に就任したジョニー・エースはキャンセルしたが、ウルフ・ホークフィールドが追加されて、7月1日にディファ有明のこけら落とし興行で無事に開幕、超満員の観客の拍手を浴びて、新生・全日本プロレスのスタートを切った。

 そして7月2日の第2戦はメッカ後楽園ホールに戻り、超満員のファンが暖かく見守る中で、元子夫人が初めてリング上でマイクを握り、
「今回は私の努力が足りなかったことで、こんな事態を招いてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
 とファンに深々と頭を下げ“何とか30周年を迎えられるよう、精いっぱい頑張って参ります”決意を語った後、
「今回の再スタートに当たり、私自身としても皆様の前で川田選手と握手していただきたい方に今日、来ていただいております。・・・・・・天龍源一郎さんです」
 と紹介。ファンの驚愕と歓迎の大コールの中を天龍が登場し、リング上で川田、渕、モスマン、そして最後に元子夫人と万感のこもった握手を交わした。この瞬間、全日本プロレスは全く新しい歴史の幕を切って落としたのだった。


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