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「王道十六文(完全版)」第十六章 激動!!平成の全日本 Part 2

[2006年08月01日]

 旗揚げ満20周年記念日の10月21日、日本武道館大会で私はハンセン&ドリー・ファンクJrと組み、アンドレ&鶴田&ゴディ組と対戦した。アンドレとは日本では2度目の対決だったが、私は彼の肉体的な衰えをはっきりとはっきりと自分の体で感じ取り、
「もう、大巨人コンビとして世界最強タッグ決定リーグ戦に出場し、連戦を消化するのはアンドレにとって酷だな」
 とコンビの解散を決意した。

 だが、コンビの解散は大巨人組だけではなく、私は11月13日に全日本プロレスの事務所で記者会見を行い、鶴田が肝炎で入院したため、92世界最強タッグ決定リーグ戦を欠場すると発表しなければならなかった。肝炎はスポーツ選手にとっては命取りと言われ、鶴田も長期入院を覚悟していたのだ。このため世界タッグ王者として2度の防衛に成功していた鶴田&田上組は解散、田上は秋山をパートナーに起用して世界最強タッグ決定リーグ戦に出場した。秋山はこの年9月17日の後楽園ホールにおける『ファン感謝デー』おセミ・ファイナルで小橋を相手にデビュー、早くもメーンイベンターの一角に食い込んでいた。私は小橋をパートナーとして92世界最強タッグ決定リーグ戦に出場したが、4位に終わった。

 同リーグ戦終了後、年末の恒例となっていたレスラー・社員そろってのハワイ旅行に出かけ、楽しい時を過ごしたが、帰国10日後の12月27日に大熊が急性腎不全で急逝したのはショックだった。大熊は日本プロレス時代に私の付人を務め、酒好きで私を困らせたこともあったが、憎めない男だった。全日本プロレスの旗揚げには、渡米武者修行を打ち切ってマシオ駒と共に帰国、参加してくれた。その駒は昭和51年3月に亡くなり、今また大熊を失って、全日本プロレスの旗揚げ以来、現役レスラーとして活躍を続けているのは、私と百田の2人だけになってしまったのだ。

 大熊の葬儀は暮も押し詰まった12月30日、川崎市新丸子の大楽院で営まれた。よく晴れた寒い日だった。新丸子は、私が巨人軍をクビになってから、プロレスラーとして初渡米武者修行に出発するまでの約1年8ヵ月間、貧乏なアパート暮らしを送った思い出の土地だ。随所に懐しい場所も残っていたが、感傷にひたるどころか、私の心はこの日のように寒く、寂しかった。

 明けて平成5年。1月4日に東京スポーツ新聞社制定『平成4年度プロレス大賞』の授賞式&パーティーが銀座東急ホテルで行われ、6月5日の日本武道館大会におけるハンセンVS川田の三冠王座戦が年間最高試合賞、田上が敢闘賞、秋山が新人賞、五冠王の座に就いた三沢が特別大賞、全日本プロレスが団体として20周年特別賞を受賞した。9月にデビューした秋山は、実績は3ヵ月そこそこだったが、選考委員会でほぼ満票を獲得したのは、私にとっても嬉しいことだった。全日本プロレスの陣容が、年ごとに充実していくという実感があったのだ。

 1月29日に、アンドレがパリのホテルで急性心不全のため急死したという悲報に接した。まだ46歳だったが、肉体的には年齢以上に老化していたことは、あの歩き方を見てもわかった。ウエイトも増えるにまかせていたことが、心臓に負担をかけていたようだ。私との大巨人コンビ結成を喜んでくれた笑顔を思い出し、心から冥福を祈った。

 4月20日の福島大会で私は、国内5000試合出場記録を達成した。連続3000試合出場を果たした時は、記録のことは全く頭に無く、後に周囲に言われて“ああ、そうだったのか”と思ったものだが、この福島大会では事前に聞かされていた。だが、特別なカードは組まず、いつも通りのファミリー軍団VS悪役商会戦を消化した。試合後、報道陣に次の目標を聞かれた私は、
「目標は5001試合出場だ」
 と答えたが、これは私の本音だった。レスラーは、いつ命取りになる負傷を負うかわからない。私にはもう記録に対する執着は無く、1戦1戦を大事にしたいと思っていたのだ。

 だが、周囲の声に押されて、それから1ヵ月余り経った6月1日の日本武道館大会で、5001試合出場記念試合を行った。私がR木村&M井上と組んでA・ブッチャー&渕&永源組と対戦、ランニング・ネックブリーカードロップで私が渕を仕留めた。何の変哲も無いカードだったが、かつてのライバルで親友でもあったジン・キニスキーがカナダからお祝いに駆けつけてくれ、超満員のファンの祝福のコールを浴びたのは嬉しかった。

 7月29日の日本武道館大会では、デストロイヤーの引退記念試合が行われ、私はデストロイヤーの息子のカート・ベイヤーと共にデストロイヤーとトリオを結成、渕&永源&井上雅央組と対戦、デストロイヤーが井上に宝刀足4の字固めを決めて有終の美を飾った。デストロイヤーは、全日本プロレスの旗揚げ直後から6年3ヵ月間も助っ人として日本組に加わってくれ、その後も外国人組の常連となって定期的に来日していた全日本プロレスの功労者だ。年齢は私より7歳上の62歳で、すでに全盛期の迫力は薄れていたが、レスリングと試合運びのうまさは若手たちのいいお手本となっていた。私は万感の感謝をこめてデストロイヤーの最後のパートナーを務めたが、やはり寂しさは隠しようがなかった。

 盟友デストロイヤーが引退したからというわけでもなかろうが、そろそろ私の引退の時期も話題になっていたようだ。特に一般マスコミの取材を受ける時など、記者は単刀直入にせよ遠回しにせよ、必ずその話題にふれて来た。要するに彼らは、私がいつ引退するのかを聞きたいのだ。そういう時、私は、
「まだまだ引退出来ませんよ」
 と答えていたが、これを“引退したいが出来ない”と受け取る人が多かった。だが、私の真意は違う。世間の親父さんがよく、
「息子が一人前になるまでは死ねない」
と言うが、これを“死にたいけど死ねない”とは誰も受け取らないだろう。“それまで頑張るぞ”という意思表示だ。私も同じ。全日本プロレスは私が生み、育てた私の大事な息子なのだ。

 このころから、地方興行の客足が落ち始めていた。日本マット界は戦国時代とか団体乱立時代と言われ、続々と誕生したインディペンデント団体が各地で興行を打つようになって、その影響が出て来たのだ。地方小都市の中・高年層ファンは、団体の違いをよく知らない人が多い。
そのため私は、全日本プロレスのポスターを私の写真がちょっと目立つようにレイアウトさせた。これは、
「ジャイアント馬場の団体ですから、安心して見に来て下さい」
 というアピールだった。私はトップイベンターからリタイヤーし、三沢、川田、田上、小橋の四天王時代になっていたが、四天王はテレビ放映がゴールデン・タイムから撤退した後に誕生したため、全国的な知名度という点ではちょっと弱い。そこで私が看板の役を果たすことになったもので、試合に出場しなければ嘘をついたことになる。そういう意味もあって私は“まだまだ引退出来ない”と思っていたのだ。

 10月23日の日本武道館大会では鶴田が367日ぶりにカムバック、私とR木村でトリオを結成し、渕&永源&泉田組に勝った。鶴田は6月21日に7ヵ月ぶりに退院、血液検査の数値とにらめっこしながらトレーニングを続け、医師の許可を得てこの日にカムバックしたものだ。ファンの大歓迎を受けた鶴田は、
「プロレスラーをやっててよかった」
と感無量の表情で語っていたが、試合後も数値検査を受けなければならず、次の出場の予定は立てられなかった。組んでみて私は、鶴田のかつての怪物的なスタミナは、もう戻らないのではないかと不安を感じていた。

 私は鶴田にプロレス団体の経営を学ぶことを勧めた。鶴田が経営者としても後を継いでくれれば、私は安心して任せられる。だが、鶴田は大学院に入院して博士コースをとり、将来は大学教授になりたいという希望を私に打ち明けた。スポット参戦は続けたいが、完全復活は半ばあきらめているという。やがて鶴田もリングから去っていくことになるだろう。私の周囲はどんどん寂しくなっていく。

 そんなショックもあって、私は93世界最強タッグ決定リーグ戦に不出場を表明した。ところが開幕第3戦でハンセンのパートナーだったテッド・デビアスが負傷帰国し、ハンセンは私を代打に指名した。外国人組エースのハンセンが年末の祭典に不戦敗を並べるのはファンにも申し訳ないことなので、私はこれを受けた。ハンセンとの息は意外なほどピタリと合い、“巨艦砲”と呼ばれたこのコンビは準優勝したのだ。私は、まだまだやれるという自信をつけたものだった。

 平成6年に入って私とハンセンのコンビはほぼ定着し、3月5日の日本武道館大会のメーンイベントで三沢&小橋組と対戦した。試合は35分11秒、私が三沢のコーナーポスト最上段からのダイビング・ネックブリーカードロップを食って敗れ、三沢は天龍に続く私からフォールを奪った全日本プロレス2人目のレスラーとなったのだが、私はこの試合を全日本プロレスにおける私のベストバウトだと思っている。

 この時点で三沢&小橋組は世界タッグ王者で、三沢は3冠王座も保持する5冠王。絶頂期のコンビと峠を過ぎたコンビの対戦という図式になり、しかもノンタイトル戦だったが、私はそんなことは念頭から吹っ飛んでしまうほど燃えられた。私もハンセンもスタートからガンガン飛ばし、前半は私たちのペースだったが、三沢&小橋組も真っ向から反撃して来た。

 4選手とも得意技フルに繰り出し、私は16文キック、バックドロップ、ラリアットを小橋に、阿津落とし、ランニング・ネックブリーカードロップ、コブラツイストを三沢に決めた。
いずれも確かな手応えがあったのだが、両選手ははね返して来た。私は試合中に彼らが入門したころの顔を思い出し、何度も“この野郎!”と奮い立ったが、それも彼らにはプレッシャーにならなかったようだ。いや、なっていたがはね返して来たのかもしれない。そして、私が、“大試合用の秘密兵器”としていたランニング・ネックブリーカードロップに三沢らしい工夫を加えた技で、私は仕留められてしまったのだ。

 実に後味のいい試合だった。私には久しぶりの武道館大会のメーンイベントというのが、快いプレッシャーになっていた。メーンイベントは、お客さんに満足して帰ってもらわなければならないという責任がある。35分余を戦い終え、それを立派に果たしたという充実感があって、もう最高の気分だった。三沢や小橋の成長ぶりを自分の肌で確かめ、その2人とこれだけのファイトが出来たことも嬉しかった。私は『プロレス大賞』の年間最高試合賞を4度受賞している。だが、取材するマスコミや観戦するファンと、実際に戦ったレスラーの感覚は、微妙に違うものだ。私がフォール勝ちを奪われた試合だが、その充実感は最高だった。

 94世界最強タッグ決定リーグ戦も、私はハンセンとのコンビで出場し、最終戦12月10日の日本武道館大会で川田&田上組に勝ったが、この年も準優勝に終わった。だが、私自身は充実した年だった。

 平成7年の正月も、私は元気いっぱいで迎えた。1月19日の後楽園ホール大会で、私は鶴田、三沢と三世代エース・トリオを結成、秋山&大森&本田の平成デビュー・トリオに快勝し、3月24日の後楽園ホール大会では川田&田上と組み、ハンセン&三沢&小橋組みと対戦して、60分時間切れで引分けた。久しぶりに60分フルタイムで戦ったが、私はそれほど疲れを感じなかった。
トップを張っている四天王と組んだり戦ったりするのは、普段はファミリー軍団VS悪役商会戦で、“楽しいプロレス”をやっている私には、いい刺激になる。

 9月29日には虎ノ門のホテル・オークラで私のデビュー35周年記念パーティーを開き、約700人が出席してくれた。以前の私は、会社の行事は別として、私個人の記念日に何か催し事をするのは照れ臭くてかなわなかったのだが、このころはもう開き直っていて、周囲が勧めるなら何でもやろうという気になっていたのだ。

 このパーティーで私は、私のデビュー戦を取材して今なお現役で活躍を経けているフリーライターの菊池孝記者にお祝いのメッセージを寄せてもらい、私からは菊池記者に、
「お互いに、もっともっと頑張りましょう」
 という言葉と共に胡蝶蘭の鉢植を贈った。この35年の間にレスラーも、マスコミの顔ぶれも変わった。私と菊池記者は共に現役最古参になってしまったのだ。私の新人時代はともかく、全盛期も知らない若い記者が増えたのは、私にとってはちょっと寂しいことだった。

 翌30日の後楽園ホール大会でデビュー35周年記念試合第1弾を行い、私はD・ファンクJr&鶴田と組んで秋山&大森&本田組と対戦、ドリーがスピニング・トーホールドを大森に決めて勝った。私はドリーが初来日した昭和44年12月3日の東京体育館大会でドリーのNWA世界王座に挑戦、初めてスピニング・トーホールドでギブアップした時のことを思い出していた。あれからでももう26年が経つ。過保護ボーイのような若いチャンピオンだったドリーも、親父のドリー・ファンク・シニアにそっくりになって来た。

 35周年記念試合第2弾は、10月25日の日本武道館大会で行い、私は鶴田&ハンセンと組んで田上&大森&本田組と対戦、ハンセンがラリアットで本田を仕留めた。ファンク一家で鶴田も同期生だったハンセンは、まだまだ元気だ。95世界最強タッグ決定リーグ戦では、ハンセンは10月にUWFインターから転じて来たゲーリー・オブライトと組み、私は本田と組んで出場したが5位に終わった。この年から、世界タッグ王者の王座返上を廃止し、リーグ戦上位2チームが優勝決定戦を行うシステムを採用したが、私自身は内心、これを最後の出場にしようと決めていた。

 12月10日には池上の本門寺で力道山の33回忌法要が営まれ、ここで『力道山OB会&プロレス』結成の動議は可決されて、私と猪木が最高顧問に就任することになった。私は力道山の墓前で猪木と握手を交わしたが、猪木は国会議員を経験してから、いくらか角がとれたようだった。

 平成8年は、四天王のしのぎの削り合いが一段と激しくなり、そこに秋山が食い込んで来たが、田上の活躍が目立った年だった。7年度の『プロレス大賞』年間最高試合賞は、6月9日の日本武道館大会で川田&田上組が三沢&小橋組から世界タッグ王座を奪取した試合、つまり四天王がそろって受賞し、川田&田上組は1月に世界タッグ王座から転落したが2月に返り咲き、春のチャンピオン・カーニバルは田上が初優勝。田上は5月に三沢を破って3冠王座初載冠を達成し、96世界最強タッグ決定リーグ戦も川田&田上組が初優勝した。つまり田上は年間グランドスラムを達成したのだ。晩成型の大器が大輪の花を咲かせた・・・と言いたいところだが、私は田上の潜在能力はまだフルに発揮されていないと見ていた。秋山は三沢と組んで5月に世界タッグ王座を奪取している。

 私はこの四天王プラス秋山の試合をテレビ解説することが多かったが、彼らの繰り出す荒技には、しばしば肝を冷やした。私に比べれば彼らの体は小型で、それだけに激しい技の応酬で魅せなくてはという意識が強いだろうが、私があんな技を食ったら、体がどうなってしまうかわからない。だが、私が彼らにブレーキをかけるわけにもいかず、私はいつもハラハラしながら解説をしなければならなかったのだ。

 この8年は、全日本プロレス“開国”も話題になった。私は9月11日のUWFインター神宮球場大会に川田を送り込み、川田は高山善廣に快勝した。そして川田が“開国の使者”と騒がれたのだが、私には“鎖国”を宣言した覚えはない。2年2月にも新日本プロレスの坂口社長が筋を通して来たので、主力選手を貸し出している。UWFインターのケースもそうだった。

契約などトラブルの元となる問題がすべてクリアーされ、筋を通してくれれば、団体間の交流もやぶさかではないのだ。この私の姿勢がようやく理解されたようで、他団体から全日本プロレスの門を叩いてくる選手がぐんと増えた。その第1弾が11月16日の後楽園ホール大会で発表した元新日本プロレスの馳浩の入団だった。馳は前年7月の参院選に当選し、新日本プロレスを正式退団していた。馳はジャパン・プロレスに入団し、全日本プロレスのリングで私がコーチしたこともある。馳が、
「全日本プロレスでファイトするのが夢でした」
 と言うので、私も快く受け入れたわけだ。11月28日〜29日の札幌大会2連戦には藤原喜明とドン荒川が出場した。私も彼らとタッグ対戦したが、こういう個性的なベテランの参戦は、若手選手のいい刺激になる。
 私は96世界最強タッグ戦には出場せず、昭和52年のオープン・タッグ選手権以来の連続出場記録は19回でピリオッドを打ったが、別に残念とも思わなかった。

 平成9年の新春第1戦、1月2日の後楽園ホール大会では、第1試合に前年に入団した馳が出場した。馳は新日本プロレスではIWGPジュニア・ヘビー級、IWGPタッグ王座に就いたトップレスラーだが、全日本プロレスに入団したからには、一からやり直してもらうというのが私の方針だ。馳は、
「全日本プロレスの平成9年が、僕のテーマ曲で始まったのは、気分いいじゃないですか」 とコメントしたという。こういうプラス思考の攻勢は、さすがに馳だなと感心した。

 だが、入団ではなくスポット参戦なら、その時点のランクに応じて処遇することにした。それで答えが出せなければランクを落とすか、以後の出場を断わればいいわけだ。3月1日の日本武道館大会で、元UWFインターの高山が初出場でいきなり、オブライトと組み、川田&田上組の世界タッグ王座に挑戦したのは、オブライトの推薦があったからだ。

 この高山のケースが刺激になったのか、その後は参戦希望者が続出した。ざっと数えあげても、FMWのハヤブサ、元UWFインターの佐野友飛、バトラーツの池田大輔、小野武志、みちのくプロレスの新崎人生、フリーの中野龍雄、レッスル夢ファクトリーの神風&小坪弘良組、翌年には冬木軍の邪道&外道、フリーの奥村茂雄らが参戦している。彼らが継続して出場したか単発で終わったかで、私の出した答えはわかるはずだ。

 彼らが参戦希望を私に伝えた方法は、所属団体の代表を通して、私の知人やマスコミの紹介、あるいは直談判といろいろだったが、人生が会場を訪れ、グッズ売場にいた私をちょっと離れた所から黙って合掌したのには、私の方が照れて目のやり場に困ってしまったものだ。私が彼らの参戦を、いちいち事前に記者会見を行って発表したのは、彼らの出場に支障があれば話が来るはずだというトラブルの予防策としてだった。幸いにそういうケースは一件も無かったが・・・。
 私が池田と話した時、彼は、
「リングの下で寝ています」
と言った。バトラーツはリングの設営も選手の仕事だという。私が、そこまでしてもやりたいほどプロレスが好きなのなら、何とかしてやりたいと思ったのが、インディーズの選手に広く門戸を解放した理由の一つになっている。

 8月22日の後楽園ホール大会では、マウナケア・モスマンが小川良成から世界ジュニア・ヘビー級王座を奪取、初挑戦で初載冠という快挙を達成した。モスマンはハワイのホノルル出身で、アマレスのハワイ州高校チャンピオンとなり、6年6月に同地に滞在していた私に入門を直訴、留学の形で全日本プロレスに入団した選手だ。天性の素質と外国人特有のショーマシンップを持った有望な新人で、私は彼の成長を楽しみにしている。将来はモスマンをエースとして全日本プロレス・ハワイ支部を設立、ハワイ・マット界を再建したいという夢を抱いているのだ。私は日本プロレス時代、渡米遠征の往復にハワイに寄り、ファイトしていた。当時のハワイ・マット界は、全米から強豪連が終結する黄金マーケットだった。だが、飛行機がプロペラからジェット機時代になり、日米間を直航出来るようになったこともあって、ハワイのマット界は衰微し、今は完全に灯が消えている。その再点火を私はモスマンに託してみたいと思っているのだ。

 9月26日には永田町のキャピタル東急ホテルで『全日本プロレス創立25周年記念パーティー』 を開催、約1200人のお客さんを前に私は、
「30年、50周年記念へと、選手・社員一丸となって進んでいきたいと思います」
と挨拶した。これは私の本音であり、念願だ。

 11月15日に静岡・草薙球場で行われたプロ野球『第8回巨人VS阪神OB戦』に、私は初めて出場した。これまでにも招待されていたのだが、私には“俺はプロ野球落第生だ”というコンプレックスがあって遠慮していた。だが、このころはもうすべてのもに対して開き直っていた私は、意外なほど平静な気持ちで出席出来たし、OBも現役選手もみんなが歓迎してくれた。
私は38年ぶりに背番号『59』のユニフォームを着、右ひじが曲がってピッチングは出来ないため、代打で出場したが空振り三振に終わってしまった。それでも、“出場してよかった”と思える楽しい一日だった。

 97世界最強タッグ決定リーグ戦には、ハヤブサ&人生組が出場した。同リーグ戦史上初の他団体日本人選手コンビの出場で、好成績はあげられなかったが、新しい血の導入は人気を呼んだ。今後も、いいコンビが名乗りをあげてくれば、トラブル付きでない限りは出場させたいと思っている。12月26日にはキャピタル東急ホテルで記者会見を行い、
「来年5月1日に東京ドーム大会を開催する」
 と発表した。全日本プロレスとしては、年に7回の日本武道館大会でを大事にしたいと考えていたのだが、日本テレビが全日本プロレスの創立25周年記念大会としてバックアップしてくれることになり、東京ドーム初進出に踏み切ったものだ。まだ何の構想も練っていなかったが、とにかく成功させなくてはいけないし、それだけの自信は密かに持っていた。

 明けて平成10年。1月23日に60歳の誕生日を迎えた私は、この日の後楽園ホール大会で還暦祝いのセレモニーでは、私はプロレス写真記者クラブから贈られた赤いチャンチャンコを着、赤いベレー帽をかぶって、リング上で138人のファンから心のこもったプレゼントをいただき、
「1試合でも多く頑張っていきたい」
 と挨拶した。人一倍照れ臭がり屋だったころの私には考えられないことだったろうが、前にも書いたように完全に開き直っていた私は、別にカッコ悪いとは思わなかったのだ。

 私の小学生のころの唱歌に『船頭さん』というのがあって、その歌い出しは、
 村の渡しの 船頭さんは
 今年六十の おじいさん 
 年はとっても お船を漕ぐ時は・・・
 となっていて、私はそのころ60歳というのはおじいさんなんだなと思っていた。私は60歳近くになると、しきりにこの歌が思い出されたが、“あれっ?ちょっと違うな”という感じだった。60歳がおじいさんとはどうしても思えなかったのだ。私はまだまだファイト出来る。別に隠すことも気取ることもなく、胸を張って、“オレは60歳だ!”といえる気持ちだった。

 還暦記念試合は、私が三沢&モスマンと組んで川田&小橋&渕組とメーンイベントで対戦、私が渕をランニング・ネックブリーカードロップで仕留めて勝った。いい試合だったと思っている。私は年に1回か2回でいいから、四天王と対戦したい。ファミリー軍団VS悪役商会の試合ならいくらでも出来るが、トップクラスと激しい攻防を展開して自分を危ない崖っぷちに立だせ、“あっ、まだやれるな”ということを確かめたいのだ。この還暦記念試合がそれで、私には自分自身に課したテストにパスしたという満足感があった。

 5月1日の東京ドーム初進出大会は、5万8300人のファンを動員する大成功を収めた。
当日のカードに関しては、私は2月にインディーズ選手の参戦テストを発表し、ベイダーを特別参加させるなど、新鮮味をプラスしたが、会場の演出は極力押さえるように指示した。大会場だからといって派手な演出を凝らすのは全日本プロレスらしくない。“これが全日本プロレスのプロレスだ”という試合をみていただくのが一番だと考えたからだ。
「全日本プロレスは、普段着のままで東京ドーム大会を成功させた」
 と評された時は、本当に嬉しかった。
 ベイダーは、WWF側に参加交渉をしたところ、法外なギャラを吹っかけて来たので“それなら要らない”と断わった。ところが、あわてたWWF本部が“エージェントを代えるから考え直してくれ”と別のブッカーを差し向けて来て、再交渉の結果、妥当なギャラに落ち着いたものだ。アメリカ・マット界にナメられてはいけない。

 鶴田は、9月11日の日本武道館大会で、ファミリー軍団に加わって悪役商会と対戦したのが最後のファイトとなった。鶴田は引退と取締役辞任を申し入れて来たが、私は、「お前はオレの最初の愛弟子で、全日本プロレスの功労者だ。オレの目の黒いうちは、そういうことを言ってくれるな」
 と受け付けなかった。だが、鶴田にはもうファイトする気力も体力も無いことはわかっていた。全盛期に病いに倒れ、引退を決意しなければならなくなった鶴田は無念だったろうが、私も残念だし、鶴田に去られることはたまらなく寂しかったのだ。

 98世界最強タッグ決定リーグ戦中の12月2、3日の松本、静岡両大会を私は欠場、4日の千葉大会で復帰した。私は普段から強度の便秘症だった。それがちょっときつくなったのと、風邪をこじらせたか体がだるかったので大事をとったのだが、カムバックしてみればファイトに支障はなかった。だが、この年の最終戦12月5日の日本武道館大会に出場した後、7日にハワイに出発する予定だったが、念のためにそれを変更して、東京医大病院に検査のため入院することにした。検査が終わればハワイでたっぷりと休養をとり、来年へのエネルギーを蓄わえるつもりだ。


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