「王道十六文(完全版)」第十六章 激動!!平成の全日本 Part 1
11月21日に開幕した87世界最強タッグ決定リーグ戦には、私は輪島と組んで出場した。輪島は同リーグ戦初出場だったが、世界の強豪連に伍してよく頑張り、結果は出場12チーム中の7位に終わったが5勝2敗3引分けと勝ち越して、優勝チームと4点差の11点をあげたのは立派だった。最終戦12月11日の日本武道館大会5チームが優勝の可能性を残して進出するという大混戦を制したのは、この年10月に結成したばかりの鶴田&谷津の五輪コンビだった。
同リーグ戦中の11月28日、南アフリカ遠征に出したハル薗田の乗った南ア航空機が、インド洋上モーリシャス沖で墜落し、薗田と真弓夫人が不慮の死をとげたのは、何とも悲しく切ない事件だった。薗田はその人柄を誰からも愛され、全日本プロレスにとっては上下のクッション役としても貴重な存在で、私は、「ゴリ(薗田の愛称)に言っておけば、全員に誤解なく伝わる」
と、信頼していた。しかも薗田夫妻は9月26日に私たちが媒酌人として結婚式をあげたばかりで、南ア遠征は、
「新婚旅行を兼ねて行ってこい」
と私が航空券をプレゼントしたものだ。それがこんな悲劇を呼ぼうとは…。“行方不明…”の第一報が入ってから、私も元子もひたすら無事を祈り続けたが、それも空しく終わって、元子は泣いてばかりいた。12月16日に後楽園ホールで『ハル薗田夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー』を開催したが、リング上で告別の辞を述べた私も、涙があふれ出て絶句してしまった。薗田の死がまだ信じられないうちに、62年は暮れた。
63年1月2日、新春第1戦の後楽園ホール大会で、私は田上明をパートナーに起用してデビューさせた。田上は玉麒麟の四股名で大相撲十両6枚目まで進んだが、前年8月に入団、基礎トレーニングを積んでいたのだ。試合はバディ・ランデル&ポール・ハリス組に快勝。私は古手の記者に、
「田上は上田馬之助の新人時代に似ている」
と言われた。確かに体型とちょっとスローモーなところは似ていたが、体の柔軟性とバネは上田より上で、私は田上を晩成型の大器と信じていた。
1月4日の東京スポーツ新聞社制定『プロレス大賞』授賞式では、最優秀選手を天龍、年間最高試合賞を8月31日の日本武道館大会における鶴田VS天龍戦、最優秀タッグチーム賞を天龍&原組、新人賞をテンタが受賞、全日本プロレス勢が主要な賞を独占した。これはジャパン軍団離脱後の全日本プロレスの充実を物語るもので、私には嬉しいことだった。
このころからインター、PWF、UN3ヘビー級王座統一の気運が盛り上がり、4月15日の大阪府立体育会館大会で、PWF&UN2冠王の天龍とインター王者ブルーザー・ブロディが初の三冠統一戦を行ったが、両者リングアウトで引分けた。両選手とも、名実共に全日本プロレスの頂点となる座を意識して、意地を張り合ったような試合だった。
5月10日には、タイガーマスクが私たち夫妻の媒酌で結婚式を挙げた。まさか覆面を着けたまま挙式し、披露宴に出席するわけにもいかない。タイガーマスクの正体が三沢光晴であることをこの時に初めて公表したが、三沢と相談の上で、レスラーとしてタイガーマスクで通すことにした。
6月10日の日本武道館大会では、PWF世界タッグ王者の五輪コンビがザ・ロード・ウォリアーズを破ってインター・タッグ王座を奪取、私は同27日記者会見を行い、統一された2冠を世界タッグ王座と改称すると発表した。王座統一の気運はヘビー級戦線の方が盛り上がっていたが、タッグ王座が先に実現したわけだ。
ブロディが7月16日(現地時間)にプエルトリコで地元のレスラーに刺殺されたのは、大きなショックだった。ブロディは並外れてプライドが高く、自己主張の強烈な男で、各地のプロモーターとの間にトラブルが絶えなかったようだが、私は彼の扱い方を心得ていたつもりで、全日本プロレスの貴重な戦力になっていてくれた。8月29日に武道館で『ブルーザー・ブロディ・メモリアル・ナイト』を開催し、バーバラ未亡人と長男のジェフリー君を招待した。こんな小さな息子を残して殺されたブロディは、さぞ心残りだったことだろう。
この武道館大会で私は、ラッシャー木村をシングル対決で降ろしたが、試合後に木村がすでに人気定着していたマイク・パフォーマンスで私に、
「これだけ戦っていると、何か他人と思えなくなってくるんだ。一度でいいから“兄貴”と呼ばせてくれよ」
と言ったのには思わず吹き出してしまったが、ファンはこれを大歓迎したようだ。親しい記者も勧めるので、10月28日の横浜大会で4年ぶりに組んだが、今度は木村も仲間割れしそうな気配もない。“義兄弟コンビ”と呼ばれて奇妙な人気が出たので、88世界最強タッグ決定リーグ戦もこのコンビで出場したが、優勝したスタン・ハンセン&テリー・ゴディ組に2点差の3位に終わってしまった。
年号が変わって平成元年1月、都内のJR各駅に私の写真入りで『みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます』というキャッチコピーのポスターを貼り出し、好評を博した。これは私の率直な気持ちで、私はプロレスが一番面白いと信じている。このポスターが気に入った私は、リング輸送のトラックにもこれを大きく画かせた。
2月25日の後楽園ホール大会で私は木村と組み、五輪コンビの世界タッグ王座に挑戦した。五輪コンビは前年の世界最強タッグ決定リーグ戦で準優勝したが、私たちは公式戦を時間切れで引分けていた。木村は全日本プロレスに参戦して4年余になるが未戴冠のままで、私は木村に一度ぐらいはチャンピオン・ベルトを腰に巻かせてやりたいと思ったのだが、五輪コンビはまた一段と強くなっていた。
続けて3月27日の後楽園ホール大会で私は小橋健太と組み、冬木&川田のフットルースが保持するアジア・タッグ王座に挑戦した。
「世界の最高峰の座に3度も就いた馬場が、何で今さらアジア・タッグなんだ」
と言う人もいたが、これは小橋に大試合の経験を積ませたいがためだった。小橋は前年2月にデビューしたばかりで、まだ初白星もあげていなかったが、私は小橋を必ずメーンイベンターになれる男だと、その素質を高く買っていたのだ。私との年齢差は29歳。“親子コンビ”と呼ばれてしまった。
ヘビー級三冠王座は、4月18日の東京・大田区体育館で鶴田がハンセンを破り、ついに統一した。私はこの王座の正式名所を、『三冠統一ヘビー級選手権』として、以後は個々のタイトル戦を行わないことにした。
「3本のベルトを1本化して新ベルトを製作し、名称も改めた方がいいのではないか」
という意見も多く、私もちょっと悩んだが、3つのタイトルにはそれぞれ由緒があり、ベルトに思い入れの深い元王者もいるだろうということで、あえて3本のベルトをそのまま残したのだ。
4月29日の大阪府立体育会館大会では、百田光雄が仲野信市から世界ジュニア・ヘビー級王座を奪取した。百田はこのころ、“午後6時半の男”と呼ばれて第1試合に定着、若手選手の厚い壁となっていたのだが、前年から後楽園ホールに“百田コール”が起こるようになり、それが全国の会場に波及して、私のところにも、
「百田選手を王座に挑戦させて下さい」
という手紙が何通もくるようになった。そのファンの声に後押しされた形で私は百田にチャンスを与えたのだが、百田は3度目の挑戦でそれをものにしたのだ。百田は40歳、キャリア18年余にしての初載冠に嬉し泣きしたが、私もホロリとすると同時に、
「プロにとって、ファンの声援ほどありがたいものはない」
ということを改めて痛感したのだった。
9月には、私の『デビュー30周年記念特別試合』を3戦行い、2日の日本武道館大会でアブドーラ・ザ・ブッチャーを、20日の名古屋大会でタイガー・ジェット・シンを共に片エビ固めで降したが、15日の後楽園ホール大会で木村&渕と組み、天龍&冬木&川田組と対戦した6人タッグマッチは敗れた。私は昔から、ブッチャーやシンのようなラフ・ファイターとの対戦の方がやりやすかったが、それは今も変わらない。こういう相手にはキャリアが生かせるのだ。
89世界最強タッグ決定リーグ戦には、前年に続いて木村とのコンビで出場したが、11月29日の札幌大会における公式戦で天龍&ハンセン組と対戦、私は20分22秒に天龍のパワーボムを食らい、エビ固めでカウント3を聞いてしまった。私の新人時代は別として、昭和39年4月に再渡米武者修行から帰国して以来、初めて日本人レスラーにフォール負けを喫したのだ。私は“いつかはこの時が来る”と思ってはいたが、この試合は相手のタッグ戦法があまりにうまく、それにしてやられた私が孤闘を強いられたための負けで、“ついにその時が来た”というショックは無く、近いうちに必ずお返し出来ると思っていた。
平成2年に入って1月6日、新日本プロレスの坂口征二社長と共同記者会見を行い、両団体の協調路線確立を発表した。新日本プロレスは前年7月に猪木が参院選に当選して社長の座を坂口に譲り、その後、私は坂口と何回も会談を重ねていた。誠実な人柄の坂口は、猪木と違って信用できる。2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会には、NWA世界王者リック・フレアーが来日をキャンセルしたために大会の目玉を失った坂口の要請を受けて、鶴田、天龍、谷津、タイガーマスク、ハンセンの主力5選手を貸し出した。両団体の旗揚げ以来、初めての交流が実現し、ファンはこれを大歓迎してくれた。
そのちょっと前の1月27日、後楽園ホール大会での6人タッグマッチで、私は天龍をランニング・ネックブリーカードロップで20分56秒にフォール勝ちを奪い、前年11月の借りをきっちりと返している。
4月13日には東京ドームで、全日本、新日本、WWF3団体共催の『日米レスリング・サミット』を開催した。WWFは前年から日本進出を計画しており、両団体に協力を要請して来たのだが、私は坂口と協議の結果、興行の主導権は全日本プロレスが握ることにした。WWFが単独で侵攻するのは無理だということを思い知らせてやりたかったからだ。WWFビンス・マクマホン・ジュニア代表がリング上で挨拶した時、客席からブーイングが起こり、彼も日本のファンにあまり歓迎されていないことはわかったようだった。
このサミットで初めてアンドレ・ザ・ジャイアントとコンビを組み、ザ・デモリッションに快勝した。アンドレとは、日本で同じリングに上がるのは初めてで、私より身長の高いレスラーと組むのも初めてだったが、気持よく戦え、アンドレも、そしてファンも喜んでくれた。
聞けば、アンドレとWWFの契約は切れているという。私が、
「それなら全日本プロレスに来ないか」
と誘うと、アンドレは、
「ババと組むのは楽しい。いま決まっているスケジュールを消化したら、ぜひ呼んでくれ」
と快諾してくれた。
5月2日に全日本プロレスの事務所で記者会見し、天龍の退団を正式発表した。天龍とは、4月26日にキャピトル東急ホテルで会談していたところをマスコミに見つかり、すでに退団のニュースは流れていたが、私はそれを正式に発表し、“円満退社”であることを強調したかったのだ。天龍は、4月7日の高知・十和村大会で天龍同盟の解散を申し入れ、私もレスラーとして、その気持はわかる。
私はかねてから、
「天龍には、ちょっとかわいそうなことをしたな」
と思っていた。鶴田が入団した時は、私は彼を後継者として育てようと必死になった。だが、天龍が入団した時は、鶴田が立派なメーンイベンターに成長していたので、私はちょっと安心していた。そのため天龍は通算3回も渡米武者修行に出し、一匹狼の辛酸もなめさせた。輪島が入団した時は、鶴龍コンビが全日本プロレスの看板となり、私の連続出場記録も終わっていたので、私は付きっきりで輪島を鍛えることが出来た。天龍には、鶴田や輪島に比べて、“一人で苦労させたな”と言う気持が強かったのだ。それもあって私は天龍の退団を認めたのだが、天龍がメガネスーパーのバックアップでSWSを設立すると、天龍の後を追うようにゾロゾロとついていった選手たちには腹が立った。
天龍退団直後のシリーズ開幕戦、5月14日の東京体育館大会のリング上で、タイガーマスクが自ら覆面を脱ぎ、素顔の三沢に戻って打倒鶴田を宣言すると、川田、田上、小橋らが協調して超世代軍を結成し、私はそれを認めた。彼らなりに危機感を抱き、決起したのは、私には頼もしいことだった。そのシリーズの最終戦6月8日の日本武道館大会で、私は鶴田VS三沢の頂上対決カードを組んだが、三沢がフォール勝ちを奪った。鶴田が、
「まだ追い抜かれたとは思わない」
と言ったという。私も同感で、鶴田は9月1日の武道館大会における頂上対決第2章で三沢に快勝、きっちりと雪辱を果たしたが、2戦とも好勝負だった。これで三沢は本物になったと、私は確信した。
アンドレは約束通り、9月29日に開幕したシリーズから、全日本プロレスの常連となった。開幕戦後楽園ホール大会では私とR木村のファミリー軍団に加わり、大熊&永源&渕の悪役商会を一蹴したが、翌30日の後楽園ホールにおける私の『デビュー30周年記念試合』では、私がA・T・ブッチャーと組み、アンドレ&ハンセン組と対戦した。
実は、前年9月にも私のデビュー30周年記念試合を3戦行っているが、これは全く私のカン違いだった。私はデビューした昭和35年を1と数えてしまったのだ。言い訳めくが、私の子供のころは年齢は数え年だった。生まれた時が1歳で、初めての正月を迎えると2歳になる。そのころの癖がヒョイと出てしまったらしい。この9月30日が正真正銘の満30周年だった。それはともかく、この日は台風22号が東京を直撃し、交通網はズタズタになってしまったが、それでも後楽園ホールは超満員だった。ファンは本当にありがたい。
日本でアンドレと対戦するのは初めてで、私とタックル合戦は両者倒れず、ファンは大いに沸いてくれた。試合は、ブッチャーが私の制止も聞かずに凶器を使用したので、アンドレとハンセンが2人がかりでコーナーに振り飛ばしたブッチャーに私が16文キックを食わせ、アンドレがエルボー・ドロップで押さえ込んだ。結局、私の組が負けたわけだが、気持ちのいい試合で、ファンも喜んでくれた。
90世界最強タッグ決定リーグ戦には、私はアンドレと組んで出場、鶴田は田上と組んだ。鶴田は天龍、タイガーマスク(三沢)、谷津、G・カブキとタッグ王座に就いたパートナーを失い、超世代軍に参加していた田上を、私が口説いて引き戻したのだ。これでタッグ王座戦線からしばらく遠のいた鶴田は、
「タイトル奪取は田上の成長待ちです」
と言った。私もインター・タッグ王座奪取のために、鶴田の成長を初挑戦から1年4ヵ月間待ったのだ。これは鶴田のためにも、そして田上のためにはなおさらいいことだったと思っている。
私とアンドレの“大巨人コンビ”は快調だったが、11月25日の横浜大会における公式戦で、私はレスラーになって初めての体験をした。相手のザ・ランド・オブ・ジャイアンツは、ブレード・ブッチ・マスターズもスカイウォーカー・ナイトロンも共に身長213センチ、アンドレは223センチで、リング上にそろった4人のジャイアントの中では、私の身長が一番低かったのだ。以前にパキスタンの空手家ラジャ・ライオンと対戦した時もそうだったが、自分より大きい相手との初対決には、ちょっと恐怖感を覚えるものだ。だが、相手のジャイアンツはキャリアも浅く、技もそれほど持っていなかったので、そんな感覚はすぐに消え、私たちの楽勝に終わった。
大巨人コンビは優勝街道を邁進、11月30日の帯広大会に7戦全勝で挑んだ。私は80世界最強タッグ決定リーグ戦で鶴田と組んで以来、まる10年ぶりに制覇出来るという手応えをつかんでいた。この日の公式戦の相手はドリー&テリーのザ・ファンクス。手慣れた相手とあって私は自信を持っていたのだが、この試合で私はアクシデントに見舞われてしまったのだ。
10分過ぎまでは私たちが優勢に試合を進めていたが、ロープを背にしたドリーが私の首を抱え込み、両足を私の股の間に入れて、トップロープに腰掛けるように一回転、私を場外に投げ落とした。ドリーが試合の流れを変えるために場外戦に誘う時、よく使う戦法に私は引っかかったわけだが、私は場外のセーフティ・マットとリングの間の床に左腰を強打、その上にドリーの体が落下してきて、グキッという激痛が走り、左足が動かなくなったのだ。
私は救急車で帯広市内の河野外科に運ばれ、応急手当を受けていったんホテルに帰ったが、痛みは一向に納まらない。スタッフが札幌の病院に入院の手配をしたが、空きベッドが無いという。仕方なく私は翌日に河野外科に入院した。この時、元子が、
「飛行機をチャーターしてでも、馬場さんを東京の病院に入院させてあげたい」
と言って実際に航空会社に交渉、結局チャーターはしないですんで私は東京医科大学病院に入院できた。こういう時の元子は、本当に頼りになる。
医大病院での精密検査の結果、私は『左大腿骨亀裂骨折・全治3ヵ月』と診断され、平成3年の正月を病院で迎えることになった。入院中に私は53歳になる。“馬場引退”と決めてかかったように報道するマスコミもあったが、私は引退なんて全く考えていなかった。体が動くようになるとすぐにリハビリを開始し、歩く事に集中した。これはアンドレが反面教師になっている。アンドレはあまり練習もせず、ウエイトも増えるにまかせていたため、このころは歩くのも辛そうだった。年齢は私より8歳下なのに、足の衰えは私を追い越していた。私はああなってはいけないと、ひたすら足を鍛えたのだ。
3年3月1日に私は退院した。亀裂骨折は2月初旬に完治していたのたが、この際だから全身のオーバーホールをやっておこうと入院生活を続け、骨折する前より体調がよくなっての退院だった。練習にも一段と熱が入り、6月1日の日本武道館大会で私は183日ぶりのカムバックを果たした。この時のファンの熱狂的な歓迎ぶりを、私は生涯忘れない。
「ファンは本当にありがたい。俺はプロレスラーになって本当に良かった」
としみじみ思ったものだ。
91世界最強タッグ決定リーグ戦に、私は前年に続いてアンドレとの大巨人コンビで出場したが、アンドレの動きは前年に比べてだいぶ落ちていた。前年のように連勝街道を邁進するというわけにはいかなかったが、それでも巨体とパワー、そしてキャリアに物を言わせ、12月6日の最終戦日本武道館大会のメーンイベント前には、10勝2敗の得点20点で鶴田&田上組、ハンセン&ダニー・スパイビー組と並んで同点首位に立っていたが、メーンの結果、T・ゴディ&S・ウイリアムス組が優勝、私たちは1点差の2位に終わった。私は、大巨人コンビもここらが限界かなと感じていた。
平成4年に入って2月3日、私は専大レスリング部主将の秋山潤の入団を発表した。秋山は私が専大の道場まで練習を見に行ってスカウトしたもので、アマレスの実績ではもっと上の選手もいたが、私は、
「プロレスのセンスは秋山が一番だ」
と見たのだ。この私の目に狂いはなかった。3月4日の日本武道館大会では、鶴田&田上組がゴディ&ウィリアムス組から世界タッグ王座を奪取、田上は同王座初戴冠を達成した。ここでも、田上を大器晩成型と信じていた私は間違ってはいなかったのだ。
春の92チャンピオン・カーニバルは20選手が出場、2ブロックに分かれて総当り戦を行い、首位同士の決勝戦でハンセンが三沢を降して優勝した。優勝争いは私が欠場していた前年春に9年ぶりに復活させ、決勝戦で鶴田がハンセンを破って優勝している。三沢がブロック戦でその鶴田を抑えて首位に立ったのは、彼の成長ぶりを物語るもので、8月22日の日本武道館大会で三沢はハンセンを破り、三冠王座初戴冠を達成した。
私は9月17日の後楽園ホール大会で鶴田&渕と組み、三沢&川田&菊地組と対戦した。三冠王者となった三沢と肌を合わせてみたかったからで、試合は25分50秒に鶴田が菊地を仕留めて私たちが勝ったが、三沢のファイトに頼もしさを感じた私は、私と鶴田に続く全日本プロレスのエースの座は、この男に任せて大丈夫だと安心したのだった。
10月1日にはキャピタル東急ホテルで『全日本プロレス創立20周年記念パーティ』を開催、15周年の時を上回る約1200人が出席し、新日本プロレスの坂口社長もお祝いに駆けつけてくれた。平成2年2月に初めて実現した両団体の交流は、同年7月に猪木が新日本プロレスの代表取締役会長に就任したことで途絶えたままになっているが、坂口の誠実さは相変わらずだ。
天龍らが大量脱退した後は、三沢以下の選手が成長して立派に埋めている。私は、
「20年前に植えたプロレスという木が、ようやく大きな花を咲かせることが出来ました」
と挨拶した。

