「王道十六文(完全版)」第十五章 創立15周年を迎えて・・・
昭和61年の1月で私は48歳になり、日本プロレス時代に引退を予定していた年を10年もオーバーして、自分でも“ようやっているわ”とは思ったが、体調も良く、
「まだまだ現役を続けながら、目を光らせていなきゃいかん」
と気を引き締めた。
2月5日札幌大会で、鶴龍コンビが長州、谷津組にインター・タッグ王座を奪われた。1月28日東京体育館大会では鮮やかなフォール勝ち防衛を果たしたが、その仇を取られた格好だった。この2戦では谷津が飛躍的な成長ぶりを見せ、それが鶴龍コンビには計算外だったようだ。
谷津は伸びる素質を持っていたが、長州の踏み台にされてその芽を摘まれていたようなところがあった。この2戦長州が不調だったため、奮起したものだろう。
2月13日からは台湾に遠征、高雄、台中で4戦を行ったが、未知の土地を見て来たという程度で、それほど収穫のある遠征ではなかった。ただ、帰国前夜の18日台北で、私の主催で打ち上げパーティーを開き、私は、
「今日酔っ払わないヤツは、ギャラを上げてやらんぞ!」
と宣言して、紹興酒をコップでぐいぐいあおった。遠征したのは全日本プロレス勢だけだったこともあって、和気あいあいとした実に愉快なパーティーとなり、みんな喜んでくれたと思う。私も最近は大量に飲めば酔うようになって、パーティーがお開きになった後はもう動くのもおっくうになっていたが、たまにこういう機会があっていいと感じたものだった。
3月13日日本武道館では、ジャパン軍団と6対6シングル戦全面対決を行った。カードは公開抽選で決めたが、6戦のうち最も印象に残っているのは、鶴田―アニマル浜口戦だ。鶴田の勝ちは動かない。こういう場合は、負けることが確実な選手は登場した時から、何となく敗色に包まれたような感じがするものだが、浜口には全くそれが無かったばかりか覇気に満ちていて、
「これは、凄い男だな」
とうなされた。鶴田の順当勝ちに終った後、浜口はリング中央に仁王立ちとなって両手を突き上げ、
「負けたぁ!」
と絶叫したが、これも潔かった。試合後報道陣に総評を求められた私は、
「全選手に、浜口を見習わせたい」
と言った。浜口は62年3月の長州騒動で引退したが、実に惜しい男を日本マット界は失ったものだ。
試合内容では、タイガーマスク―長州戦が光っていた。タイガーマスクは負けたが、これでヘビー級進出の自信を彼も、私も持った。タイガーマスクはこの2週間後に、ジュニア・ヘビー級王座を返上して、ヘビー級に転じた。
ハンセンは前年12月29日ニュージャージー州メドーランドでリック・マーテルを降し、AWA世界王者となって、春のチャンピオン・カーニバルに乗り込んで来た。4月5日横浜大会では、長州がハンセンのAWA、PWFの2冠に挑み、反則勝ちでPWF王座を奪取した。ハンセンには、新日本プロレスの時代から問題にしていなかった小粒な長州ということで、油断があったようだ。2冠をかけて挑戦を受けたのも、自信満々だったからだろう。反則でも王座は移動するというPWFルールが長州には幸いした。
このシリーズの4月1日上越大会から、カルガリ・ハリケーンズが出場した。スーパー・ストロング・マシーン、ヒロ斎藤、高野俊二の3選手は、前年8月5日の長州の“新時代宣言”に呼応して新日本プロレスを飛び出したもので、これは新日本プロレスとの契約違反であり、協定にも反する行為だ。私はそれらがすべてクリアされる3月末まで、出場を認めなかった。
8ヵ月間も待たされた彼らは不満を鳴らしたようだが、それがルールだ。3人の中では、高野が抜群の素材だった。斎藤は巧いレスラーだが、マシーンは基本が出来ていないようだった。
横浜大会の翌々4月7日、輪島大士と会った。トラブルのため花籠親方の名跡も返上し、“浪人”していた輪島は、プロレスに転向して一から出直したいという。
「お願いします」
という言葉に、“これをやるしかない”という切羽詰まったものを感じた私は、
「借金のことは、全日本プロレスは責任を持たない。レスラーになっても、それだけの大金は稼げない。それを承知の上で、新弟子になったつもりでやるなら、引き受けよう」
と条件を出したが、輪島はそれでもやるという。とにかく本人のやる気が肝心だ。裸にして見たが骨格に異状は無く、この時は体重96キロだったがまだ肉のつく体で、内臓にも故障は無いという。私は輪島の決意を買って、同13日赤坂のキャピタル東急ホテルで入団を発表した。
この記者会見で輪島は、
「裸になって、裸になったから、また裸でスタートする」
と言った。なかなか巧いことを言うと感心したものだった。
それから、私の輪島育てが始まった。この年の4月以降は、それに終始して1年が終ってしまったような感じだった。いろいろと世間を騒がせ、怠け者とも言われていた男だが、引き受けた以上は、“駄目でした”ではすまされない。マスコミにも批判や悲観論がかなりあったが、
「責任を持って、俺が一人前にして見せる」
と私も必死だった。
4月18日輪島とタイガーマスクを連れて渡米、NWAとAWAのビッグマッチ2戦に出場して輪島を紹介し、そのままハワイ特訓に入った。元子を輪島の世話役に残して26日に帰国。アジア・タッグ王者の石川敬士を、シリーズを欠場させて輪島の特訓パートナーとしてハワイに送り込み、私も5月10日松戸、6月12日日本武道館のビッグマッチをすませて同13日ハワイに入り、7月2日の帰国まで輪島の特訓を指導した。もりもりと良く食い良く鍛えて輪島は、3ヵ月足らずで早くも120キロに増量していた。38歳の男が筋肉だけでこれだけ増やしたのは驚異的だ。特訓のきびしさは、輪島の想像を超えたものだったらしい。
「相撲時代にこれだけ稽古していたら、あと5年は横綱を張っていられたろうな」
と苦笑していたものだ。私も彼に禁酒・禁煙・禁ゴルフの3禁をきびしく命じ、ハッパをかけるために横っ面を張ったこともあった。この時前歯が1本折れて飛んでしまったが、輪島はそれでもめげずに食いまくっていた。
7月からは輪島を、セントルイスの元NWA世界ヘビー級王者パット・オコーナーのもとに送り込んだ。
この7月には、元幕下琴天山のジョン・テンタも入団した。これも佐渡ヶ嶽部屋を脱走して世間を騒がせた男だが、いったん母国カナダに帰し、決意を再確認してから呼び返した。こちらは太りすぎで、20キロの減量を命じた。大きいことはいいことだが、相撲と違って倒れてもすぐ起き上がらなければいけないプロレスラーは、足腰に負担がかかるほどウエイトがあってもまずいのだ。
輪島が初マットを踏んだのは、8月7日カンザスシティ大会だった。私は同2日に渡米して、彼とタッグを組んだ。相手は二流レスラーで、私がついているからには負ける気づかいはないが、輪島がアガってしまうのではないかという不安はあった。だが輪島の辞書には、アガルという字がないらしい。ギクシャクとしてはいたが一通り習い覚えた技も出して、とどめは輪島がゴールデン・アームボンバーを決めて快勝した。これは、輪島が相撲時代に左四つ下手投げを得意とし、“黄金の左腕”と呼ばれていたことにヒントを得て、私が考案した新兵器だ。
それから第2戦8月30日ラスベカス大会まで3週間余の間をとったのは、体は出来ていたが輪島は、まだまだ連戦をこなせる状態ではなかったからだ。練習は毎日4時間余もぶっ通しでやったが、練習と試合のスタミナは微妙に違うし、攻めも単調でデフェンスは甘かった。プロレス1年生に多くを望むのは無理と承知しているが、輪島には時間が無い。輪島はデビュー戦で自信をつけたようだが、私は慎重だった。やり直しは許されないのだ。
デビュー戦を終えてセントルイスから、特訓の地をニューヨーク州バッファローに移した。
ここはザ・デストロイヤーの本拠地で、彼は立派なジムも持っている。私とデストロイヤーは輪島につきっきりでコーチし、輪島はバックドロップもマスターした。
だが第2戦ラスベガス大会で、輪島はちょっと自信を失ったようだ。この試合も私と組んでのタッグマッチだったが、先発した私は相手とパッと組んだ瞬間、
「あっ、これは輪島にはちょっと無理だ」
と感じた。マットが異常なほど軟らかく、お互いの重みでしなってしまう上に、相手は巨漢コンビで、その力の入れ具合でもリングが違う揺れ方をするのだ。極端に言えばトランポリンの上で試合をしているようなもので、輪島がこれまで踏んだマットとは、全く感覚が違った。案の定、輪島はこの揺れのためにタイミングがとれず、試合には勝ったが、やろうと思った技がほとんど出せずに、試合後ショボンと考え込んでしまった。
だが、アメリカでは、地区によってはマットの堅さばかりか、大きさまで違う所がある。それをこなしていくのは、やはり経験を積むほかはない。輪島はこの後、特訓の地をノースかロライナ州シャーロッテで元NWA世界ジュニア・ヘビー級王者ネルソン・ロイヤルが経営するレスリング・スクールに移し、9月19日には再び私とプエルトリコで合流、初のシングルマッチにも快勝して、ようやく自信を回復したようだった。
10月21日両国国技館で開催した全日本プロレス創立15周年記念大会では、鶴田がハンセンを倒してインター王座に返り咲いた。同王座は7月31日両国国技館大会で鶴田がハンセンに奪われたもので、2月に長州、谷津組にインター・タッグ王者を奪われていたため、鶴田は約3ヶ月完全無冠となっていた。50年2月に私と組んでインタータッグ王者となって以来11年余、チャンピオン・ベルトと縁の切れたことのない鶴田には、これはショックだったろう。ちょっとノンキなところのある鶴田だが、これは大いに発奮して、
「今のハンセンからフォール勝ちを奪えるのは、お前しかいない」
という私の期待に応えてくれた。鶴田の大成のためには、この無冠の3ヵ月間も無駄ではなかったと思っている。こういう悔しさが、レスラーを強くするのだ。
輪島の日本デビュー戦は11月1日、彼の故郷石川県七尾大会で行った。相手はタイガー・ジェット・シン。話題の主ということで報道陣がどっと押しかけ、テレビは全国生中継、しかも私でさえいまだに故郷三条での試合が一番やりにくいと思っている地元で、いきなりトップ・レスラーとのシングル対決メーンイベントという、あらゆるプレッシャーの要素がそろっていたのだから、並みの人間だったらビビッてしまうところだ。私もこの日ばかりはテレビ解説どころではなく、セコンドに付いた。近くにいて指示を与えなければ不安でならなかったからだ。
輪島はプレッシャーをはね返して、よくやったと思う。私は、
「技術的にはまだ30点だが、気迫は満点だった」
と採点した。ホッとして、どっと疲れが出た感じだった。
だが輪島には、ここでホッとされては困る。翌々3日に渡米、私と鶴田、天龍も同行して小規模なサーキットを行い、輪島を置いて私たちは'86年世界最強ダッグ決定リーグ戦出場のため帰国した。
この大会には再びザ・ファンクスが復活していて、私はタイガーマスクと組んだ。3月にへビー級に進出いていたタイガーマスクに経験を積ませるためだったが、ハンセン、テッド・デビアス、テリー・ゴディらの巨漢、ベテランのファンク兄弟らには、出場選手中の最軽量でキャリアも一番浅いタイガーマスクは、ちょっとビビッたようだった。
だがタイガーマスクの素質は、私は、
「日本で一番じゃないかな」
と思うほど買っている。体も、大きくしようと思えばいくらでも大きくなる。ただ、タイガーマスクの覆面をつけている以上は、イメージ的にも華麗な空中殺法を要求されるわけで、ここがちょっと微妙なところだが、タイガーマスクが鶴田、天龍に続いて全日本プロレスを背負うレスラーになることは、間違いないと信じている。
大会は最終戦12月12日日本武道館大会で、鶴龍コンビとハンセン、デビアス組が同点首位でリーグ戦を終了、大会史上初の優勝決定戦が行われ、鶴龍コンビが2年ぶり通算V2を達成した。
この日私はアメリカから呼び返した輪島と組み、元AWA世界王者リック・マーテル、トム・ジンク組と対戦した。輪島にとってはこれが日本第2戦、東都デビュー戦だったが、正統派テクニシャンの外人組を相手に、輪島は実にいいファイトを見せた。この試合で私は、輪島の翌年新春シリーズからの日本定着を決めたのだった。
これで61年の国内全日程は終了したが、私と輪島は渡米し、12月30日ロサンゼルスで試合に出場した。ジム・クロケット・プロモーション主催の大会で、ノースキャロライナで輪島が世話になったクロケット・ジュニアの要請を受け、お礼の意をこめての出場だった。
結局私はこの年4月以降、輪島育てのため6回渡米し、3シリーズの前半あるいは後半を、通算40試合欠場した。鶴龍コンビが全日本プロレスを背負ってくれて、それだけ私が輪島のために時間をとれたということでもある。私も輪島のプロレス転向を冷やゝかな目で見ていた人たちに、
「それ見たことか」
と言われてはならないと、必死だった。かなりきびしい事も言い、やらせたが、輪島も死にもの狂いでよく頑張った。私もプロ野球をクビになった時、“恥ずかしい、悔しい!”という思いが発奪の元となって、力道山の死のしごきにも、時には内心“こんなにまでしなくても――”と恨みながらも耐えた。輪島も同じような気持ちで、私が鬼に見えたこともあったろう。
今の私は、今日あるのは力道山のお陰だと感謝している。輪島も一人前になった時に、わかってくれると思うが――。
昭和62年の新春シリーズから輪島は日本に定着し、1月3日後楽園ホール大会では渕正信が、小林邦昭を破って世界ジュニア・ヘビー級王座に着いた。これは渕の同僚だった大仁田が全日本プロレスにもたらしたNWAインター同級王座を改称したもので、渕はこれが日本初戴冠だった。渕と大仁田はレスリング技術は渕が上だったが、一発勝負に強い大仁田が大金星をあげたことは前にも書いた。大仁田が負傷返上後王座はチャボ・ゲレロの手に戻り、奪還のため私は渕を3年ぶりにアメリカから呼び返して、58年8月31日蔵前国技館におけるテリー・ファンク引退記念試合で挑戦させた。これは素晴らしい試合だったが、渕はもう一歩のところで長蛇を逸し、その後はスランプ気味となっていた。ちょっと地味だが堅実で練習熱心な渕がようやく脚光を浴び、私もホッとしたものだった。
2月5日札幌大会では、鶴龍コンビがまる1年ぶりに長州、谷津組からインター・タッグ王座を奪還した。前年の世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝した自信と勢いが、ものを言っていたようだ。
長州が蒸発したのは2月20日、エキサイト・シリーズ開幕戦当日だった。後にジャパン・プロレスから報告を受けたところでは、右手首のガングリオンのためとかでシリーズを欠場したが、何かキナ臭い匂いはした。このころは、まさか新日本プロレスが協定破りを承知の上で誘いをかけていたとは知らず、長州が飛び出して新団体を結成するという噂が、いささか気になっていた。
3月に入ってNWA世界王者リック・フレアーが来日、7日秋田大会で谷津組が初挑戦して両者リングアウトで引分けたが、これはいい試合だった。谷津は長州より大型で、非常にいいものを持っている。長州の踏み台にされて来たが、ある日突然に脱皮して飛躍的に伸びるタイプだと、私は見ている。外人レスラーたちも、早くから長州より谷津を買っていたようだ。
同12日日本武道館大会では、鶴龍コンビがサ・ロード・ウォリアーズにインター・タッグ王座を奪われてしまった。ウォリアーズの強さは、パワーの一語に尽きる。鶴龍コンビが逃げの王座防衛術を採らなかったのは良しとするが、真っ向からパワーでぶつかりすぎてしまったようだ。
この日は輪島を大抜擢、フレアーに挑戦させたが、輪島はデビュー以来初のピン・フォール負けを喫した。まだまだ、攻めは合格点を取れても守りが甘い。さすがにフレアーはそこを見逃がさなかった。プロレスは攻めより守りが難しいと口をすっぱくして説いては来たが、この敗戦は何よりの勉強になったことだろう。
3月28日の'87チャンピオン・カーニバル開幕戦から、長州以下ジャパン軍団の過半数選手がボイコットを決め込んだのは、まことに心外なことだった。そういう動きがあるということで私はジャパン・プロレス側から要請を受け、前日27日に世田谷区池尻の同社本社で長州以下の選手団と深夜まで話し合った。その時は、
「明日からちゃんと出場します」
ということだったが、28日の昼ごろに長州から電話があり、
「やはり出ません」
と一方的に通告して来たのだから、全くふざけた話だ。翌々30日ジャパン・プロレスは長州の追放を発表したが、その席上で大塚直樹同副会長は、1月8日の川崎大会終了後大塚と長州が新日本プロレス本社を訪れ、待ち受けていた猪木から、
「ウチに戻って来い」
と誘われた事実を明らかにした。両団体が交わした協定書には、双方の弁護士立会いのもとに私と猪木がサインしている。私には信じられない思いだった。協定違反ばかりか長州以下の選手は全日本プロレス、日本テレビとの契約にも違反する。
「一枚の紙っきれに縛られてたまるか」
ですむ問題ではないのだ。私は然るべき手段を講ずるよう弁護士とも相談し、新日本プロレス側に善処を求めた。私としては、長州たちに“戻って来い!”という気はもうさらさら無い。
「長州たちが59年9月に新日本プロレスを脱退し、60年1月に全日本プロレスに登場した際、当方は新日本プロレスとテレビ朝日に対して違約金を支払っている。当方がした通りに今回はそちらがしてくれれば、文句は言わない」
と申し入れたわけだ。私は猪木と3〜4回会談を持ち、4月6日の第1回会談では、
「長州は何らかの制裁を受けるべきだ」
という共同声明を出したが、猪木は、とにかく長州を新日本プロレスのリングに上げたいという。
「それなら、協定書には違反した場合の処置をもうたってあるのだから、その通りにしてくれ」
長州らがボイコットしたチャンピオン・カーニバルでは、3月31日魚津大会で、1月に入門していた元十両卓越山の高木功をデビューさせ、彼を連れてシリーズ途中に渡米、4月10日−11日の2日間メリーランド州ボルチモアで開催された『世界タッグ五輪U』に出場、24チーム中の4位に入った。といっても1回戦シード、2回戦に勝ち、3回戦は相手チームの負傷棄権で不戦勝、準決勝で負けてのベスト4だから、あまり威張れたものではない。優勝したのはニキタ・コロフ・ローデス組だった。
前年の第1回大会には、私はヘビー級に進出したばかりのタイガーマスクと組み、ベスト8に終っているが、若い選手には、こういう世界の強豪が集まる大会の雰囲気を知るだけでも、いい経験になる。入団したばかりの輪島が初めてのアメリカのビッグマッチを見学したのもこの大会だった。優勝したザ・ロード・ウォリアーズを見て、
「僕も、早くあんな選手と戦うようになりたい」
と言っていたが、あれからまる1年。その輪島も2月にはウォリアーズと初対決した。何かアッと言う間に過ぎてしまった感じの1年だった。
高木を入門3ヶ月でデビューさせたのは、輪島のようにやせておらず、ジョン・テンタのように太ってもいないちょうどいい体をしていたからだが、輪島が日本に定着して人気者となり、高木に先を越されたことが、テンタにはいい刺激となったようだ。
テンタはビザ切り換えのため前年末いったんカナダに帰り、2月2日に来日したが、ひげを伸ばしてやる気は見せていたものの、何とウエイトは180キロに増えていた。食い盛りの若者に、減量がいかに難しいかということだが、これではデビューさせられない。私は再びきびしく減量を命じ、テンタも今度こそ真剣に取り組み始めたのだった。
『世界タッグ五輪U』から帰国してすぐの4月24日横浜大会では、ハンセンと輪島がPWFへビー王座決定戦を行った。長州が返上した同王座の決定戦は同17日鹿児島大会でハンセンとドリー・ファンク・ジュニアの間で行われ、両者リングアウトで引分けた。横浜大会ではその再戦が行われる予定だったが、ドリーが輪島にチャンスを譲ったものだ。輪島はハンセンの首固めを食い、3月のフレアー戦に続いて2度目のフォール負けを喫したが、私も輪島がハンセンに勝てるとは思ってもいなかった。それでもドリーの申し出に反対しなかったのは、輪島に、
「お前はこのクラスで闘っていかなければいけなんだぞ」
という自覚を促すためだった。
テンタは5月1日後楽園ホール大会で私と組み、ラッシャー木村、鶴見五郎組を相手に初マットを踏んだ。前年7月の入門以来実に10カ月ぶりだった。だが私はこの試合で、ちょっとテンタを見直した。
私が初めてテンタに会った時、ゆかたにゴムぞうりをつっかけたテンタは、何となくショボクレた感じだった。だいたいザ・デストロイヤーや私の友人の外人たちもそうだが、日本的な格好をしてたどたどしい日本語をしゃべると、迫力が無くなってしまう。しかもテンタは人の良さを丸出しにニコニコと笑っていて、もうまるっきり迫力ゼロだった。入門後も、私がきびしい顔で減量を命じても、素直に返事するのだが、逆に太って帰って来た。
「こいつ、本当にやる気があるのかな」
と時には首を傾げたものだが、試合になるとテンタはピンと引き締まって、
「やらなきゃならん」
という積極性を見せたのだ。このデビュー戦ではテレビ・マッチというプレッシャーもはねのけ、かなりラフな展開となっても一歩も退かず、豪快なフロント・スープレックス、カナディアン・バックブリーカーを爆発させてリングアウト勝ちした。野球のブルペン・エースとは逆に、
「本番で真価を発揮するタイプかもしれんな」
と私は、テンタの外見に似ぬシンの強さを発見したのだった。
テンタはこの後、スーパーパワー・シリーズにフル出場して合格点を獲得、6月には母国カナダに“海外武者修行”に出て、バンクーバーでUWA認定カナダ・ヘビー級王座を奪取し、9月末にベルトを引っ下げて凱旋した。デビュー後3ヵ月そこそこで王者になったのは、団体スケールの違いもあってのことで、他団体のベルトを持って来られてもちょっと困るが、これで自信がつけたテンタが、立派な全日本プロレスの戦力となったことは確かだった。
6月9日日本武道館で私は、パキスタンの空手王者を名乗るラジャ・ライオンと異種格闘技戦を行った。アンドレ・ザ・ジャイアントよりノッポの身長226センチのラジャは、パキスタンで私の試合ビデオを見て、
「誰がアジアで最もビッグで最強の男かを決めよう」
と3月に挑戦の名乗りを上げて来たのだが、“長州騒動”にとりまぎれてうっかり忘れていた。ところが4月に入って、
「返事がないのには、俺から逃げる気か」
と陽動作戦を始めたので、
「本当にやる気があるなら、とにかく日本に来い」
と言ってやったところ、すぐに飛んで来たものだ。
私は異種格闘技戦に賛成は出来ないが、闘うのはこれが初めてではなかった。初渡米武者修行中の昭和38年に、ニューメキシコ州アルバカーキでムース・ショーラックと対戦した際、特別レフェリーの元ボクシング世界ライトヘビー級王者アーチー・ムーアを乱闘に巻き込んでしまい、翌週同所でムーアと対決したのだ。体が違いすぎて、私が楽勝している。
だが私より背の高い男と試合をした経験は、あまり無い。アンドレ・ザ・ジャイアントと2回、バトルロイヤルで顔を合わせたことは前に書いたが、そのほかには、初渡米武者修行中にオハイオ州クリーブランドで対戦したスカイ・ハイ・クルーガー、45年春の日本プロレス第12回ワールド・リーグ戦に参加した囚人服覆面のザ・コンビクトの2人が、私より5センチほど高かった。この2人とのシングル・マッチは私が勝ったが、アンドレより3センチ高く、私と身長さ17センチというのは、私には未経験の世界だった。
ラジャとの試合は、ラウンド制を採用したプロレス・ルールで行ったが、いいキックを1〜2発食ったものの、ラジャにしても私ほど大きい男にキックを放ったのは初めてとみえて、強くはじき返すとひっくり返ってしまい、2回1分44秒裏十字固めを決めてギブアップを奪った。
ラジャはプロレスラーの打たれ強さを甘く見ていたようだが、私にしても、見上げなければならない相手の大きさに、やはり恐怖感があった。考えて見ればこの27年間、私と戦ったレスラーたちは、前記の3人を除けばすべて、この日の私のような感じを味わって来たのだろう。
私は大きな体に、改めてしみじみと感謝したものだった。
ラジャは試合後、全日本プロレスに入門した。ハル薗田がつきっきりでコーチし、面白い素材ではあったのだが、やはり言葉が全く通じないというのが、大きな壁となったようだ。格闘技に国境はないが、それは対等に闘える者同士に言えることであって、手を取って教える場合には、言葉は重要だ。その意味では、輪島をコーチしてくれたパット・オコーナー、ザ・デストロイヤー、ネルソン。ロイヤルらには感謝している。私がひんぱんに渡米したのは、その言葉の壁を取り除くためでもあった。
この日本武道館大会では、ザ・ロード・ウォリア―ズのインター・タッグ王座に鶴田、輪島組が挑戦したが、タイトル奪還は成らなかった。すでに鶴龍コンビは解散していたのだ。
天龍が阿修羅・原と同盟を結び、意識革命行動を起したのは、5月15日に開幕したこのスーパーパワー・シリーズ中盤戦だった。これは、天龍が自分たちの職業を守ろうという強烈なプロ意識から出たものと、私は解釈している。
「何で悪いことしたたヤツばかり有名になるんだ。こんなに我がままされて、お前らそれでいいのか。それなら僕が、ギリギリの線でやってやる」
という天龍の叫びが、私には聞こえるような気がする。天龍は、鶴田、輪島から全日本プロレス勢をボロクソにこき下ろしたが、私にもちょっと共鳴出来るところがあった。たしかに全日本プロレス勢には、甘い面があったと思う。それを私が指摘しても、上からの言葉というのはあまり身にしみないものだ。私たちにも、力道山の落とす雷には全員が視線を合わせないよう頭を下げ、
「早く通り過ぎてくれないかな」
と念じた覚えがある。死のしごきを時には恨んだことさえあったほどだ。だが仲間だった天龍が決起し、言葉と体をぶつけて来たのでは、受け取り方も違って来る。私も、
「あれだけ天龍に言われても、まだ目が覚めないのか。みんなしっかりしろ!」
とハッパをかけたいような気持ちにもなった。天龍と原の決起は全員の刺激になり、全日本プロレス勢にカツが入ったと私は思っている。6月1日金沢大会で天龍と対決したタイガーマスクは、敗れはしたが、これでモヤモヤしたものを吹っ切ったようだ。この一戦後のタイガーマスクは、見違えるほど良くなった。それが7月3日後楽園ホール大会で鶴田と組み、腰を痛めていたにもかかわらずハンセン・テッド・デビアス組からPWF世界タッグ王座を奪取するという金星につながった。体調不全のため1週間で奪還されはしたが、このタイガーマスクの成長は“天龍効果”と言えるものだった。
一番ボロクソに言われた輪島も、歯を食いしばって頑張った。実はこのころの輪島には、私はちょっと不安を感じていた。人気も出、メーンイベンターの座にも定着して、
「ここまで来れば、もう飯は食っていける」
と一息入れてしまったようなところがあったのだ。転向当初の切羽詰まった緊張感が薄れると、練習量も減り、成長も止まった。私がかなりエゲツなく言っても、本人にはあまり危機感が無いようだった。だが天龍に口でたたかれ、リング上でたたかれて、
「俺をコケにしたら、承知せん!」
と怒ったことで、転向当初の気迫が甦った。天龍にたたかれなかったら、輪島はここで足踏みを続けていたことだろう。
鶴田と天龍の“頂上対決”は、8月31日と10月6日の2度日本武道館で行い、鶴田がロープに足を引っかけてのリングアウトと、カッとなっての反則で、2度とも天龍が勝った。私はこの勝負にはこだわらない。仮にピン・フォール負けても、次に勝てばいいのだ。この2試合での鶴田は、気迫に満ちた実にいい顔をしていた。2人の真の決着は、1度や2度の勝負ではつかない。今後も闘い続けることになるだろうが、それがますます2人を磨き、光らせていくと私は信じている。
鶴田と天龍は、タイプの違うレスラーだ。ファイトのスタイルもプロレスに対する姿勢も、鶴田がアメリカ的で天龍が日本的だと言っていいだろう。そのどちらも、私は良しとしている。
真剣であればいいのだ。天龍も鶴田も闘ったことによって、鶴田のスタイルを理解したようだ。闘った意義はあったと思っている。天龍が個人的な功名心に逸って決起したのではなく、本人が言うように、
「全日本プロレスの活性化のために」
あえて造反行動を起したのが、周囲にも天龍自身にもプラスになった。私自身も天龍同盟とリング上で闘ったが、団体責任者としては、このプラスは嬉しいことだった。
62年10月1日、全日本プロレスは創立満15周年記念パーティーを、キャピタル東急ホテルで開いた。選手全員が壇上に整列し、私は、
「この15年間で私が唯一自慢できるのは、ここに並んだ選手たちだ。これが全日本プロレスの財産だ」
と挨拶した。全日本プロレスは、すっきりした昔の全日本プロレスに戻ったのだ。長州たちは、来て、去っていった。新日本プロレスも、以前の新日本プロレスに戻ることだろう。旗揚げシリーズに出場した選手で、今も現役として頑張っているのは、私と、大熊元司、佐藤昭雄、百田光雄の4人だけとなったが、全日本プロレスで育ったレスラーたちが、立派に後を継いでくれる。選手一人一人の顔が、頼もしかった。
このパーティーには出席しなかったが、谷津以下5選手もジャパン軍団を解散し、全日本プロレスに合流した。次代の全日本プロレスは、鶴田、天龍、谷津、タイガーマスクらが背負ってくれる。私は彼らを励まし、見守って、時にはハッパをかけるつもりだ。パーティーの前日9月30日は、私がマットを踏んで満27年の記念日でもあった。このキャリアを、今後は日本マット界のために生かすことが、私の務めだと思っている。

