「王道十六文(完全版)」第十四章 時代の波
昭和59年は日本マット界が再び大揺れに揺れ、私自身もレスラーとして大きな転換期を迎えた年だった。
2月10日開幕のエキサイト・シリーズにUNヘビー級王者として来日したデビッド・フォン・エリックが、開幕戦当日の午後品川ホテルで急死したのは、大きなショックだった。内臓がひどく疲れていたという。父親の“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックは、来日のたびに、
「息子たちに見聞を広めさせるんだ」
と上から順に連れて来ていたので、私は彼らを子供のころから知っていた。フリッツはレスラーとしても人間的にも、私の好きな男だった。全日本プロレスのためにも、ずいぶんと協力してもらっている。フリッツは57年6月に引退して次代を息子たちに託し、特にこの次男デビットと三男ケリーに大きな期待をかけていただけに、父フリッツの心中を思うと胸が痛んだ。
2月23日蔵前国技館大会では、鶴田がニック・ボックウインクルをバックドロップでフォールし、日本人として初のAWA世界王座に着いた。天龍はデビッドの代打として急遽来日したリッキー・スティムボートとのUN王座決定戦に快勝。これが天龍の初戴冠だった。26日大阪大会ではマイティ井上が、前年4月に大仁田厚が負傷返上して以来王座を保持していたチャボ・ゲレロを倒し、NWAインター・ジュニア・ヘビー級王者となった。全日本プロレスはこのシリーズで、一挙に3選手権を奪取したわけだ。
鶴田はすでに、世界王座を狙えるだけの力をつけていた。NWA世界王座リック・フレアーは試合内容で圧倒しながら取り逃がし、ニックを仕留めたのは、ダーティ王者と言われながらも根はオーソドックスなテクニシャンであるニックには、
「技には技で対抗してやるぜ」
というキップの良さが、チラッと顔をのぞかせるところがあったからだろう。
鶴田はこの後3月と、4月から5月にかけての2回、世界王者としてAWA圏をサーキットした。これも日本人として初めてのことだが、ニックを倒してしまえばもうAWAには、王者に有利なルールということもあって、鶴田にフォール勝ち出来そうな強豪は見当らないと、私は安心していた。その鶴田が5月13日ミネソタ州セントポールで、伏兵とも言うべきリック・マーテルにやられたのは、やはり敵地での連続防衛戦サーキットという精神的な疲れと、マーテルを軽く見たためもあったろう。後にマーテル自身に聞いたのだが、私も以前にプエルトリコで彼と対戦しているという。だが私の記憶に残っていないのだから、そのころのマーテルは印象の薄いレスラーだったようだ。マーテルに名をなさしめたが、鶴田が80日間AWA世界王座に君臨し、16回の防衛に成功したことは、鶴田個人や全日本プロレスのためばかりでなく、日本マット界にとっても大いに意義ある快挙だった。
4月11日に新団体UWFが旗揚げした。新日本プロレスからの“脱退”組によるものだが、私も全くの無縁ではなかった。旗揚げシリーズ参加の外人レスラーは、私がブッキングしたのだ。
UWFの仕掛人が、前年8月のクーデターで新日本プロレスを追われた新間寿だったことは、もう周知の事実だが、前年も押しつまってだったか、新間が私の所に来てUWFの計画を打ち明けた。
「将来はUWFによって日本マット界を統一したい。ぜひ協力してくれ」
という大きな話だった。つまり、フジテレビとは放映を交渉中で、猪木はすでにUWF参加を承諾している。それに私が加われば、日本マット界を一本化出来るというのだ。その後、猪木、新間と3者会談も持った。猪木は乗り気のようだったが、私は、
「恩義のある日本テレビのもとでマット界を統一するというなら大賛成だが、私がフジテレビに行くというのでは出来ない相談だ」
と断わった。ただ、外人レスラーのブッキングだけでは、ルートのない新団体が外人レスラーに札束攻撃をかけたのでは日本マット界のマイナスになると思い、引き受けたわけだ。私には、猪木が自分の作った新日本プロレスを捨ててUWFに走るという気持ちがわからなかったし、当時の状態を見れば、猪木抜きの新日本プロレスなど考えられないことだった。結局猪木は新日本プロレスに溜まったが、それで良かったのだと私は思っている。
春の'84年グランド・チャンピオン・カーニバルで、PWF世界タッグ王座を新設し、その初代王者決定リーグ戦を行ったのは、
「シングル王座があってタッグ王座がないのはおかしい」
というロード・ブレアース会長の強いすすめによるものだった。前年に全日本プロレス代表チームと認めた鶴龍コンビを分解させる気は全くなかったから、私はドリー・ファンク・ジュニアと組んでこれに出場した。
4月25日横浜大会で私たちは、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビと、優勝をかけて対決した。前年の世界最強タッグ決定リーグ戦に初優勝して、乗りに乗っている超獣コンビは強かった。私はハンセンに逆さにかつぎ上げられ、その両足をコーナー・ポストてっぺんに立ったブロディーが押え、飛び下りざまマットに突き刺すツープラトン・パイルドライバーを食って、首の筋をおかしくしてしまった。ころげてリング下に逃げたが、フラッと立ち上がったところへハンセンのラリアットを食い、長々とノビている間にドリーが袋だたきにされて、私たちは負けた。
私の首筋は翌日になっても回復せず、肩から腕にピリピリと電気が走るような感じが続いて、やむなく翌26日のシリーズ最終戦大宮大会を欠場した。私のデビュー以来の連続出場記録は、3764試合でピリオッドを打たれたのだ。優勝戦の行われた横浜大会が最終戦だったら、私は記録をさらに伸ばせただろうとチラッと思ったが、それほど“悔しい!”という気持ちにならなかったのは、超獣コンビが本当に強かったことと、2月に鶴田、天龍、井上が3王座を奪取して、次代の全日本プロレスの体勢がほぼ万全となっていたからだった。もっとも、これが私の気のゆるみを誘っていたのかもしれないが―。
「ハンセン、ブロディが俺を引退に追い込むことになるかもしれない」
と予感したことは、前にも書いた。その彼らにやられて欠場に追い込まれたのは、何か納得するところが私にあったのだ。私は自分自身の記録にはあまりこだわらない方だが、それでも他の理由でストップされたのでは、やはりしこりや後悔が残る。それを“強い”と認めた超獣コンビにやられたため、表現はおかしいかもしれないが、かえってサバサバしたような気持ちになれたのだった。
この時点では鶴田はAWA世界王座を保持し、インター王座と併せてシングル2冠王だった。
鶴龍コンビもこの王座決定リーグ戦で優勝戦線に進出していた。
「もう、鶴龍が全日本プロレスを背負って立たなきゃいかん」
と判断した私は、この1試合欠場を機に、鶴田と組んで保持していたインター・タッグ王座を返上した。これで私は完全無冠となったわけだが、
「いざとなったら、俺が出ていくぞ!」
という気概がまだまだあったから、別に寂しいとは思わなかった。それどころか、次代を託した鶴龍のふ甲斐なさに、腹を立てたことさえあった。
インター・タッグ王座決定戦は、5月20日後楽園ホールで、鶴龍コンビとタイガー・ジェット・シン、上田馬之助との間で行ったがノー・コンテストに持ち込まれ、6月8日川崎大会での再戦も両者反則に終わった。相手が相手だからということもあるが、それにしても鶴龍コンビには、しゃ二無二王座を取りに行くという気迫が欠けていた。
私がたった1試合の欠場で同王座を返上したのは、鶴龍コンビにハッパをかける意味合いが強かったのだが、彼らはそれを“譲られた”と錯覚したのが、気迫不足につながったようだ。この社会、王座でもリーダーの座でも譲られるものではなく、もぎ取らなければ駄目だ。鶴龍コンビには、まだその自覚が足りなかった。彼らが同王座に着いたのは、それから3ヵ月後の9月3日広島大会でブロディ、クラッシャー・ブラックウエル組を降した時だった。
6月には新日本プロレス興行と業務提携を結んだ。同社は、前年8月のクーデターを機に新日本プロレス営業部長の職を辞した大塚直樹が設立した興行専門会社で、新日本プロレスの興行を年間50戦主管していたが、まだ余力があるということで、その範囲で全日本プロレスの興行も任せることにしたのだ。
「これで営業部の人手不足がカバー出来れば―」
ぐらいに考えていた私には、これがマット界動乱の導火線となるとは、全く思いもよらないことだった。
ハンセンから327日ぶりにPWFヘビー級王座を奪還したのは、7月31日蔵前国技館大会だった。決め技は首固めだったが、ハンセンは大技をたたみかけてピン・フォールを奪えるような相手ではなし、
「瞬間的な切り返し技で勝負するしかないな」
と狙っていたのが、ズバリと決まった作戦勝ちだった。
8月のNWA総会で、私は第1副会長に選任された。4期目の今年(62年)も留任したが、これはプロモーターとしての実績を認められたこともあるが、私のアメリカでの友人知己、つまりファンクス兄弟やレイス、ハンセンらが、NWA内では、“馬場派”とめされていたためもあった。派閥のボスが役職に就くのは、政界と同じようなものだ。
8月26日東京・田園コロシアム大会では、タイガーマスクをデビューさせた。初代タイガーマスクが突然新日本プロレスを脱退してまる1年。ちびっ子ファンのためにもあゝいうキャラクターが欲しいと思っていた上に、全日本プロレスにはズバリの素質の持主がいた。劇画の原作者梶原一騎も大変乗り気になってくれて、特訓を積んでデビューとなったわけだ。
私はこの特訓中からデビュー当初にかけて、“マネージャー”を自称してタイガーマスクにつきっきりだった。ちびっ子ファンのアイドルとなった初代のイメージが強かったから、これは大きな賭けだったし、それまでマスコミに大きくとりあげられた経験のないタイガーマスクには、取材攻勢などにちょっとオドオドしたところもあって、マネージャーが必要だったのだ。
大きなプレッシャーをはね返して、タイガーマスクは素晴らしいデビュー戦をやってくれた。
セコンドについていた私は、
「タイガーマスク自身より、あんたの方が緊張していたよ」
と言われたが、本当にそうだったかもしれない。
この翌日27日、新日本プロレス興行は二者択一を迫っていた新日本プロレスとの絶縁を宣言し、新日本プロレスからレスラーを引き抜いてプロダクション・システムを採る方針を明らかにした。9月に入って長州力の維新軍団を初めとする13選手が新日本プロレスを脱退して参加、新日本プロレス興行はジャパン・プロレスと改称した。
これは私が陰で糸を引いたようにも言われたが、私は別に何の支持も与えたわけではなく、大塚たちの意志にすべてを任せ、
「トラブルがクリアされれば、リングに上げる責は持つ」
とだけは言った。結局は、ジャパン軍団を全日本プロレスのリングに上げるために、日本テレビと全日本プロレスから相当な額の金が支払われている。早い話が、大塚が引き抜き、私がその尻を拭った格好になったわけだ。
春にUWF、秋にジャパン・プロレスにレスラーたちが走って、過半数の選手を失った新日本プロレスは、潰滅寸前のピンチに見舞われた。私に、
「この際、大攻勢をかけ、新日本プロレスを崩壊に追い込め」
とそそのかす人もいたが、これは出来ない相談だった。テレビ朝日が新日本プロレスの放映を打ち切れば話は別だが、バックにテレビ局がついている限り、プロレス団体は逆立ちしたって喧嘩にならないのだ。
9月6日にWWF代表ビンス・マクマホン・ジュニアが来日、新日本プロレスとの共同記者会見で、世界マット界制圧をぶち上げた。この59年6月全米侵攻の火の手をあげたWWFは、NWA、AWA圏に殴り込みをかけ、かなりの戦果をあげていた。その勢いで日本も傘下に納めようという野心が丸見えだった。
実を言うと、WWFへの対抗策としてNWAとAWAは連合軍を結成したが、その橋渡しをしたのは私だった、マクマホン・ジュニアが記者会見で、私の名をあげて攻撃したのは、それが頭に来ていたからだろう。翌々8日私は記者会見を行い、
「WWFが引き抜き攻勢をかけている以上、我々もWWFの選手に手を出す。やられたらやり返すのが我々の方針だ」
と宣言した。NWA第1副会長と全日本プロレス会長の両方の立場から発言したわけで、“やる時は黙ってやる”のがモットーの私がわざわざ反論したのは、
「こんな小憎っこに俺が嘲弄されてたまるかい!」
という気があったからだ。私がMSGでブルーノ・サンマルチノの王座に挑戦したころは、マクマホン・ジュニアはまだ子供だった。それが世界制圧の大風呂敷を広げるとは―。
「日本には俺がいるってことを忘れるな!」
と言ってやりたかったのだ。
この2ヵ月後に私は、ダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスのコンビを引き抜いた。11月16日開幕の新日本プロレスの第5回MSGタッグ・リーグ戦に、このいとこコンビの参加が発表されていたが、14日に来日したコンビは、全日本プロレスの'84年世界最強タッグ決定リーグ戦出場を表明した。彼らと共に来日したマクマホン・ジュニアは、あわてて私の所に飛んで来て、
「彼らを戻してくれないか」
と頭を下げたが、そうはいかない。
「自分たちだけ勝手なことをやって、人には“するな”はないだろう」
と私は突っぱねた。ただ、コンビは新日本プロレスが送った航空券で来日したことと(もちろん返したが)、参加を発表して開幕直前にひっくり返された新日本プロレスのメンツも考えて、テレビ・マッチにはコンビを出場させなかった。
この'84世界最強タッグ決定リーグ戦の私のパートナーは、『ミステリアス・パートナー』と発表していた。前年はドリーと組んだが、この年はテリーがカムバックしてザ・ファンクスが復活、私は新しいパートナーを起用しなくてはならなかった。実のところは、10月下旬に決まっていたのだが、ギリギリまで伏せておく必要があったのだ。
10月5日にUWWFを退団したラッシャー木村が、新日本プロレスへのUターンを前提としたような形のフリーになっていた。彼が国際プロレスのエースだったころは、2度のオープン大会に参加してもらい、2度対決もした。アメリカから帰る飛行機が一緒だったことなどもあって、私は木村の人間性には好意を持っていた。これほどのレスラーを浪人させておくのはもったいないし、新日本プロレスに戻ってまた憎まれ者にされるよりは、全日本プロレスでとった方が木村のためにもいいのではないかという思いもあって、
「俺のパートナーにならないか」
と声をかけたのだ。1週間後に木村は、
「今度初めて、自分の意志で自分の道を決めた。お世話になります」
と返事をくれた。だがこの話が漏れれば、新日本プロレスはこの年7月顧問に迎え入れていた吉原功を通して、引き止めにかかるだろう。約1ヵ月間、よくもマスコミにかぎつかれなかったものだと思う。『ミステリアス・パートナー』を木村と推測したマスコミがほとんど無かったのは、木村の新日本プロレスUターンは決定と見られていたからでもあったようだ。11月22日の開幕戦松戸大会に木村が姿を現した時、報道陣の驚きの顔を眺めながら、私は内心ニンマリ笑っていた。
木村は新日本プロレスの会場で浴びた“帰れコール”とは打って変わって、歓迎のコールと紙テープの雨を浴びたが、私とのコンビは2週間で終わってしまった。12月8日愛知県体育館大会で私たちは仲間割れし、木村は国際血盟軍団を結成して、私に対決を迫って来たのだ。だがこれは仕方のないことで、かえって良かったのではないかとさえ、私は思っている。
木村は、先輩の前では食事もノドを通らないほど、緊張してしまうようだ。現に私が誘いの声をかけた時も、彼は料理に手をつけず、私が帰った後に食ったという。そういう性格がリングにも出て、私と組むとどうも遠慮があったのだ。
「これじゃ、木村の持ち味が出ないな」
と私は感じていた。だが国際軍団時代の木村は、猪木に真っ向から喧嘩を売っていた。軍団の大将となって敵対すれば、遠慮も何も吹っ飛んでしまうのだろう。そう思っていた矢先に仲間割れし、喧嘩を売られたのだから、木村も私も同じことを感じていたらしい。これで木村の持ち味がフルに発揮されるようになったのだから、かえって良かったと思うわけだ。最近は、木村の私に対するマイク・パフォーマンスが、全日本プロレスの一つの名物になっている。ここまでは私も予想し得なかったところだが―。
木村と仲間割れした私はリーグ戦失格となり、最終戦12月12日横浜大会では、鶴龍コンビがハンセン、ブロディ組に反則勝ちして初優勝を達成した。記録は反則だが内容は白熱の好勝負で、
「鶴龍コンビも、どうやら本物になって来たな」
と私も彼らの健闘ぶりに頼もしさを覚えたものだった。
明けて昭和60年の新春ジャイアント・シリーズから、長州力、谷津嘉章らのジャパン軍団が乗り込んで来た。
私は彼らのファイトを生まで見たのは初めてだったが、つくづく感じたのは、理屈に合わない、基本に忠実でない、セオリーにない面白さということだった。私たちが力動山に教えられ、アメリカでも覚えさせられたセオリーを、彼らは全く無視して自分たちだけが勝手にやっているプロレスだが、それがかえってファンには受けていた。受けているのだから好きなようにさせてはいたが、ジャパン軍団の若手の選手に一つ一つ手を取ってやらせてみると、
「この連中、体作りだけはやって来たが、プロレスの基礎は教わって来なかったんじゃないのか」
と思わざるを得なかった。これではたとえ日本で人気が出ても、世界には通用しない。長州力が新日本プロレス時代から、一流外人レスラーとの対戦が苦手だと言われた理由も、ここにあったのだろう。一流選手はやはり、セオリーを踏み外さないものだ。
だがジャパン軍団の乗り込みが、全日本プロレス勢に刺激を与えたのは事実だ。誰だって、さんざん“口撃”を仕掛けた上で殴り込んで来た連中に、負けたくない。男っぽい性格の天龍が火の玉のようになって、それで一段と光り始めたところはある。2月21日大阪城ホールでの国際血盟軍団を加えての3軍対抗戦では、天龍―長州戦がメーンイベントとなったが、これが軍団抗争の焦点だったからだ。
本来ならエース同士の対決ということで、鶴田―長州戦となるところだが、長州はまだまだ鶴田の敵ではなかった。そのため谷津と対戦した鶴田が、カード編成上は一格落ちた感じになってしまったのは気の毒だったが、私としては、
「鶴田と長州を同格に見てもらっては困る」
という気が強かったのだ。
3月には、アメリカで人気絶頂となったザ・ロード・ウォリアーズを初来日させた。ウォリアーズがデビューしたころ、営業部から
「あれ、いいんじゃないですか。呼んで下さい。」
と言われたが、アメリカ・マット界の評判を聞いたところ、
「まだ、大したことはないよ」
ということで、見合わせていた。ところがテレビ東京の『世界のプロレス』で日本でも人気爆発、ファンの“見たい”という要望も高まったので呼んだわけだ。アメリカの試合を日本で放映するのは、中には日本でのイメージと全く違ったファイトをするレスラーもいて、マイナス面も多いのだが、ウォリアーズ・ブームを作ったことだけは、テレビ東京の功績だった。
ウォリアーズは、あの体であれだけのことをやるのはやはり素晴らしいと思う。ハンセン、ブロディ、テリー・ゴディたちでも、あのファイトはちょっとマネ出来ない。しかも攻め一本槍で短時間で試合を終わらせ、それも人気の元となったのだから、
「大変なヤツが出て来たもんだ」
とつくづく時代の変遷を痛感させられた。その意味ではウォリアーズのファイトも、従来のセオリーには無いものだが、あの筋肉の鎧を着たような巨体と、日本人現役最重量140キロのキラー・カーンを軽々と何回もリフトアップする怪力、砲弾が飛んで来るような空中殺法と太鼓を持っているだけに、納得させられてしまうところがある。こんなレスラーは滅多に出て来ないだろう。
ウォリアーズを迎えての3月9日、この年新春に落成した両国国技館大会では、ブロディが長州を一方的に攻め込んで、試合をさせなかった。私も驚いたが、巨体とパワーこそ一流レスラーの条件だと明言してはばからなかったブロディには、
「こんな小男に、勝手なプロレスをやらせてたまるか!」
という気が強くあったようだ。長州にはいい勉強になったろうが、ちょっとやりすぎだなと思っていたところ、ブロディはこれを置き土産のようにして、新日本プロレスに引き抜かれてしまった。
私には越中詩郎のこともあって、
「今度こそ、マット界のルールを確立しなければならない」
と決意した。
越中は前年3月メキシコ武者修行に出したが、この年1月一方的に辞表を送りつけて来た。これも新日本プロレスに引き抜かれたのだ。選手の過半数を失った新日本プロレスは、陣容立て直しにヤッキとなり、アメリカに定着していたプリンス・トンガ・ケンドウ・ナガサキ(桜田一男)にも手を出していた。この2人はしばらく帰国していなかったため契約は更改していないが、全日本プロレス所属であることに変わりはない。ザ・グレート・カブキのケースと同じだ。坂口征二が2人をロサンゼルスに呼んで交渉中と聞き、私もロスに飛んで説得に当ったが、トンガはわかってくれたものの、桜田はすでに新日本プロレスが提示した条件に心を動かしていた。
だが桜田はともかく、越中の件は許せなかった。53年に19歳で入門して以来6年間、それこそ西も東もわからないものを食わせて、一から教えて、海外に出してようやく一人前になりかけたところもさらわれたのでは、うかうか新弟子も育てられない。誘う方も誘う方だが行くヤツも行くヤツだ。そんな人間性の無い男は要らんとは思ったが、今後絶対にこのようなことがあってはならないと、強硬な姿勢で臨んだ。
3団体時代から私が口をすっぱくして説いて来たルールがようやく確立されて、その意味では私はホッとした。
私がハンセンにPWF王座を奪われ、以後タイトル戦線から完全に身を引くことにしたのは、この60年の7月30日福岡大会だった。この試合のフィニッシュとなったハンセンの、私の体をエプロンからゴボウ抜きにしてリング中央にたたきつけたバックドロップは見事だったが、試合の大半を優勢に進めていた私には、まだまだやれるという自信があった。
だが全日本プロレスは、私が王座に固執しなくても、鶴田や天龍が立派に後を継いでくれるまでに成長していた。
「もうお前らに任せるよ」
と私は、チャンピオン・ベルトに永久の別れを告げたのだった。寂しいというよりは、
「俺はやるだけのことはやって来た」
という気の方が強かった。徳川家康が、まだ豊臣勢という難物を大阪に控えながら、将軍の座を2代秀忠に譲った心境が、あるいはこうだったかもしれない。
その1週間後の8月5日大阪城ホール大会のリング上で、長州が、
「馬場・猪木の時代は終わった。これからは俺たちの時代だ!」
と宣言した時は、正直なところ、
「この男、何をカン違いしてるんだろう?」
と思ったが、私にはこれで長州という人間がわかった。
「こういう男がいたんでは、俺も引退なんかしてられん。目を光らせていなきゃいかんな」
という気を強く持ったものだった。
新日本プロレスは9月に、WWFとの業務提携を打ち切った。年間50万ドル(当時約1億円)という法外な契約金を支払っていたのでは、とてもやっていけなかったろう。ここがビンス・マクマホン・ジュニアとジム・クロケット・ジュニアの考え方の違うところで、私はその種の金を使ったことがない。日本プロレスも国際プロレスも無かったはずだ。新日本プロレスは外人レスラー招聘窓口をWWFに任せ切っていたため、足下を見られたようだ。これまでなら、またここで新日本プロレスの引き抜きを警戒しなければならないところがだが、すでに協定が出来ている。その点は安心していられた。
10月から日本テレビの放映が、毎週土曜日午後7時台のゴールデン・タイムに復活し、その記念として同21日両国国技館大会で、NWA世界王者リック・フレアーと、AWA世界王者リック・マーテルの“世界統一戦”を実現させた。アメリカ・マット界でも例の無いことで、AWAの“帝王”バーン・ガニアは渋ったが、ここは私がねばって納得させてしまった。
実は前年6月のWWF全米侵攻に当って、私がNWAとAWAの手を握らせたのは、3団体の中では勢力圏も選手数も少ないAWAがWWFに飲み込まれたのでは、NWAが不利になるばかりでなく、AWA選手が来日出来なくなってしまうからでもあった。もちろんAWAにもメリットはあった。人気テコ入れのためハンセンがAWA入りしたのもそれだった。
フレアーとマーテルの対決は、34分3秒の白熱の攻防の末、両者リングアウトで引き分けたが、声援は若い正統派テクニシャンのマーテルに集中していた。マーテルには“俺はAWA世界王者だ!”とアピールする気が強かったが、フレアーには“俺はご存知、世界の最高峰”という落ち着きがあった。そのため、挑戦者のように懸命に攻め込んだマーテルに、ファンは好感を持ったのだろう。
この試合を私は、テレビ放送席に座って解説した。ゴールデン・タイム復活を機にもうタイトル戦線から、“足を洗って”いた私をレギュラー解説者にという要請が日本テレビからあって、それを受けたわけだ。それまでの解説者はマスコミ関係者ばかりだったが、レスラー経験者なら技の入り方や、ダメージの箇所、度合いなどがはっきりわかる。しかもマスコミ関係者はやはり遠慮があって、レスラーをこき下ろすことはあまりしないが、私ならそれをやっても差しつかえない。面白い話はマスコミ解説者に任せて、私はかなりきびしくやって来たつもりだ。62年3月7日の秋田大会だったが、私が輪島大士のファイトをボロクソに言ったところ、
「馬場さん、それはないでしょう」
とアナウンサーが言った。頭に来た私はイヤホンを放り出し、さっさと席を立ってしまった。やはり師匠としては、本当のことを言わなくてはいけないと私は思っている。
11月4日大阪城ホール大会では、鶴田と長州が初めて対決した。結果は時間切れ引き分けだったが、どちらが内容的に勝っていたかは、見る人が見れば一目瞭然だった。
'85年世界最強タッグ決定リーグ戦では、私は前々年と同じくドリー・ファンク・ジュニアと組んだ。テリーがこのころWWF入りしていたからだった。テリーに続いてこの後、ドリーもWWFに投じたが、これは先方の実情を探りに行ったもので、翌年にはさっさと引き揚げている。
リーグ戦は、参加8チーム中6チームが優勝の可能性を残して、最終戦12月12日東京・日本武道館大会になだれ込むという大混乱となったが、ハーリー・レイス、ジェーシー・バー組対 ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス組が両者リングアウト、私たちと鶴龍コンビの対決、スタン・ハンセン、テッド・デビアス組対長州、谷津組戦がともに時間切れ引分けに終わって、1点差でハンセン組が優勝した。
この同じ12日に行われた新日本プロレスのIWGPタッグリーグ戦最終戦仙台大会では、ブロディ、ジミー・スヌーカ組が優勝決定戦出場をボイコットし、東京で雲隠れしたという。

