「王道十六文(完全版)」第十三章 全面戦争 Part3
コツコツと書きためていたエッセイを一冊の本にしたのは、昭和58年1月だった。タイトルは出版社が、『たまにはオレもエンターテイナー』とつけた。マスコミ関係者の発想は、しばしば私を戸惑わせる。このタイトルなどその最たるものだが、出版社が知恵を絞って“これ”と決めたのだから、まあ良しとすべきなのだろう。
処女出版記念パーティをやろうという話から、
「それなら45歳の誕生日に――」
「まだやっていない結婚披露宴も――」
と発展して、1月23日東京ヒルトン・ホテル(現キャピトル東急)で開いたパーティーのタイトルは、
『ジャイアント馬場くんをますますテレさす会』
これもマスコミ関係者の発想だが、元子と並んで金屏風の前に立ち、ウエディング・ケーキにナイフを入れたのだから、これはてれた。約600人の出席者を前に、司会の徳光アナにのせられて歌を2曲歌ってしまったのは、会社ではなく私個人の初めての祝賀パーティに集まって下さった方たちへの、せめてもの感謝とサービスの気持ちからだった。巨人軍の王助監督、国松2軍監督(ともに当時)や、花籠親方だった輪島大士も来てくれた。3時間ほどのパーティーがお開きになった時には、ガクンとへたりこみたいほど疲れたが、初めての公けの場で元子を紹介出来たことは、長い間かかえていた宿題をようやくすませた小学生のように私の心をはずませた。
2月に入って早々に渡米、前年10月ハーリー・レイスに持ち去られたPWF王座に、11日セントルイス大会で挑戦した。このころの私にはまだまだ、
「このベルトは俺のものなんだ」
という気持ちが強く、しかも前にも書いたが敵地での挑戦は、思い切ったラフ・ファイトも仕掛けられるから、かえってやりやすい。逆に“地元の英雄”レイスには、どうしてもカッコをつけるところがあって、それが私のつけ入るスキとなった。ベルトは4ヵ月ぶりに私の手に戻った。
私はこの日に奪還出来なければ、どこまでもレイスを追いかけ回す腹をくくって、同じ2月11日に東京で開幕したエキサイト・シリーズには、全3週間欠場を決めていた。そのため興行のテコ入れには、56年1月にザ・グレート・カブキに変身し、アメリカで爆発的なブームを巻き起した高千穂明久の帰国参加を要請した。カブキは日本でも人気爆発し、私はホッとした。
この帰国には、私にもカブキ自信にもいちまつの不安があった。“東洋の神秘”で売ったあのスタイルが、はたして日本で通用するかということだ。だがそれは全くの杞憂に終わった。やはり時代は変わり、ファンの気質も変わったとうことだろう。
春の祭典は、この58年からグランド・チャンピオン・カーニバルと改称し、タイトル・マッチ中心のシリーズとした。特別参加を含めて12人の一流外人レスラーを集めたこの大会は、優勝争いとはまた違った興趣を盛って、まずは成功だった。
大会の後半には、世界最強タッグ決定リマッチ・リーグ戦を行った。前年度の同リーグ戦は、ザ・ファンクスがスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビに血だるまにされての反則勝ちで優勝したが、両軍ともこれを不満とし、私と鶴田のコンビを加えた上位3強が、改めて優勝を争うことになったのだ。3チームで2回総当り戦を行い、特別レフェリーにはルー・テーズの来日を要請した。優勝したのは超獣コンビ。2人は乗りに乗っていた。ブロディなどはこのリーグ戦の間を縫ってドリー、テリーのファンク兄弟、鶴田、天龍の挑戦を退け、インター王座4度の防衛を果たしている。恐るべきタフネスぶりだ。シリーズ終了後はテーズに1週間残留してもらい、テーズ教室を開講した。鶴田が“ヘソで投げる”バックドロップの奥義を伝授されたのはこの時だ。
6月にはNWA世界王者リック・フレアーを呼び、8日蔵前国技館で鶴田が挑戦した。鶴田はテーズ直伝のバックドロップを決めて1本目を先取、“これはいけるぞ!”と意を強くしたが、フレアーはその後はぬらりくらり戦法に切り替え、鶴田はとどめを刺せない内に60分時間切れとなった。1−0で鶴田の完勝だが、NWAルールは、3本勝負では2本取らなければ王座は移動しないことになっている。鶴田はそのルールをつい失念して長蛇を逸したのだった。
だがフレアーにはこの敗戦がショックだったのだろう。翌日に帰国してその翌日の10日セントルイスでレイスの挑戦を受け、王座から転落した。レイスの7度目のNWA世界王座返り咲きだ。10月に王者として来日したレイスは、鶴田に、
「お前のお陰がだいぶあったぜ」
と言っていたものだ。
テリー・ファンクが55年10月に
「3年後の誕生日に日本で引退する」
と予告したその日は、この58年6月30日だったが、引退試合は8月31日蔵前国技館で行うことにして、7月8日に開幕したグランド・チャンピオン・カーニバル第3弾は『テリーさよならシリーズ』とサブ・タイトルをつけ、テリーは北海道から沖縄まで、各地のファンに最後のファイトを披露した。リングを下りれば、もう松葉杖をつかなければ満足に歩けないほどで、私たちも引退を思い留まらせることはあきらめざるを得なかった。
このシリーズ中の7月26日福岡大会で、私と鶴田のコンビはタイガー・ジェット・シン、上田馬之助組に不覚のリングアウト負けを喫し、インター・タッグ王座から転落した。この時の上田の怨念は、鬼気迫るものがあった。私がPWF王座奪回のため渡米欠場したエキサイト・シリーズには、シンと上田が参加していたが、私の欠場に腹を立てた彼は、
「最終戦までに帰国し俺と対決すると約束しなければ、俺はシンと共にシリーズ出場をボイコットする」
と全日本プロレスのフロントをおどしにかかった。連絡を受けた私は仕方なくこれを受け、ぎりぎりに帰国して最終戦3月3日後楽園ホール大会で対決、アーム・ブリーカーを連発して上田の左肩を脱臼させた。
「一度はやっておかないと、いい気にさせるばかりだ」
と腹をくくった私は、最初から肩かひじを外してやれと狙っていたのだ。だが左腕がブラブラになってもギブアップせず、右腕1本でなお立ち向かって来た上田には、
「さすがに力道山道場育ちの男だ」
とちょっと見直した。これ以来上田は、あまり言いたい放題は言わなくなったが、心中密かに復讐の刃を磨いでいたようだ。
私たちはその上田の奸計にうまうまと引っかかってしまったが、こういうまともなレスリングをしない相手に王座を奪われるのは一番シャクにさわる。だが反面、“いつでも取り返せる”という自信もある。1週間後の8月1日後楽園ホール大会で、私たちは王座を奪回した。ホッと一息ついた私は、NWA総会出席のため渡米した。
総会を終えて帰国すると、新日本プロレスにお家騒動が起こっていた。新日本プロレスはこの58年に、3年前にぶち上げた大計画をだいぶ軌道修正したIWGPを初めて開催したが、その優勝決定戦6月2日蔵前国技館大会で、猪木がハルク・ホーガンのアックス・ボンバーを食い、舌を出して失神した。これがケチのつき始めだったようだ。8月に入ってタイガーマスクが突如引退、社内にはクーデターが起こって猪木と坂口は正副社長の座を外され、新間寿は退社したとのことだった。他団体はのトラブルにはあまりふれたくないが、これが、後に日本マット界に再び激動を呼んだ余震とも言うべきものだった。
8月31日蔵前国技館におけるテリーの引退記念試合は、実に感動的だった。兄ドリーと組んでスタン・ハンセン、テリー・ゴディ組と対戦したテリーが血だるまにされながらトップ・ロープからダイビングして回転エビ固めをゴディに決め、試合後マイクをつかんでファンに向かって、
「アイ・ラブ・ユー、フォーエバー!」
と何回も絶叫したシーンには、思わず目頭が熱くなった。テリーは本当に、全日本プロレスに尽くしてくれた。テリーの家族も招いたが、ビッキー夫人や子供たちの涙には、私も元子ももらい泣きをしてしまった。
この日鶴田はブルーザー・ブロディにリングアウト勝ちして、念願のインター王座に着いた。同王座は56年4月の復活以来、ドリーとブロディが激しい争奪戦を展開して、57年4月からはブロディーが王座を保持していた。鶴田と天龍が何度も挑んだが失敗、鶴田はこの年6月の渡米遠征中にUNヘビー級王座を返上し、背水の陣を布いて臨んだのがよかったようだ。やはり“これも持っていて、あれも”というのとでは、本人の自覚が違って来る。試合後の控室で私は、
「今日からお前が全日本プロレスのエースだ」
と鶴田の頭からビールを浴びせてやった。それ以前から“エースの自覚を待て”と口がすっぱくなるほど言ってはいたのだが、力道山ゆかりのインター王座に着いたことで、鶴田もエース交替を実感してくれたはずだった。
その安心感からか、1週間後の9月8日千葉大会で、私はハンセンにPWF王座を奪われてしまった。体調は良く、トップロープからのアトミック・ボムズアウエーまでやったが、16文キックにいった私の足をすくうようにしてたたき込んで来たウエスタン・ラリアットを食い、ピン・フォール負けを喫したのだ。鶴田は、かつて日本のマット界のエースの象徴だったインター王座のベルトを巻き、私はシングル無冠。マスコミはまたしても私の引退説を書き立てた。
10月にハーリー・レイスがNWA世界王者として乗り込んで来たが、私には56年9月にリック・フレアーが同王座に着いて以来、たとえライバルだったレイスが王座に返り咲いても、もう挑戦する気は失せていた。
「鶴田や天龍が“世界盗り”に乗り出し、次代の全日本プロレスを作ってくれ」
と祈っていたのだ。この時は鶴田が10月26日盛岡大会で挑戦したが、両者反則の引き分け防衛に持ち込まれてしまった。
だが私は、PWF王座だけは奪回したかった。10月31日会津若松大会でハンセンにリターン・マッチを挑み、
「負けたらリング上で引退声明か―!?」
と報道陣が大挙して会津まで来てくれたが、結果はノー・コンテストに終わった。体調の良かった私は16文キックでハンセンの額を割り、アトミック・ボムズアウエーで踏みつぶしたが、血を見て逆上したハンセンの暴走ペースにはまって、場外で暴れすぎてしまったのだ。だが気分のいい試合だった。報道陣も、
「これだけハンセンを追い込めば、引退はまだ早いや」
と納得してくれたようだった。
11月25日に開幕した'83年世界最強タッグ決定リーグ戦には、私はドリー・ファンク・ジュニアと組んで出場した。弟テリーの引退でザ・ファンクスが消滅したこともあったが、私は全日本プロレスの次代の柱として鶴田、天龍にコンビを結成させ、マスコミにも、
「このコンビが全日本プロレス代表チームだ」
と発表した。しかし私の内心では、鶴龍コンビを倒して優勝することも真剣に考えていた。ドリーとのコンビならそれも可能だと思えたからだ。
正式にドリーとコンビを結成したのはこれが初めてだったが、気心が知れている上に2人ともキャリアは充分。しかもドリーは私以上に、この大会に初来日したバリー・ウィンダム、ロン・フラー組の手の内なども知り尽くしている。これがあうんの呼吸とも言うものだろう。作戦も打ち合わせも一切なしで、息はピタリと合った。私が相手チームにスキを見出した時には、もうドリーがそこをついていた。私のスタミナの配分も、ドリーは自分のことのように知っていた。私にもドリーの心技両面が、鏡に写すようにわかる。これほどのパートナーは、滅多にいるものではない。
だが、最終戦12月12日蔵前国技館大会で、シン、上田組に足を引っぱられて両軍リングアウトの無得点試合を演じ、準優勝に留まってしまった。上田などには、開幕前の抱負を“優勝を狙う”とは言わず、
「馬場組だけには絶対に優勝させない」
とそれだけを目的にしているのだから始末が悪い。優勝はハンセン、ブロディ組と鶴龍コンビの対決にかけられ、超獣コンビが初優勝した。4月のリマッチ・リーグ戦に続いてのタッグ大会2連覇だ。新日本プロレスとの全面戦争によって日本で復活した超獣コンビだが、その猛威は止まるところを知らない。私はこのころ、
「俺を引退に追い込むのは、この2人か」
と真剣に考えていたものだった。

