「王道十六文(完全版)」第十三章 全面戦争 Part2
10周年記念シリーズのビッグ・イベントは、10月9日蔵前国技館で開幕し、私は、旗揚げシリーズに真っ先に駆けつけてくれた最初に私と一騎打ちをやったブルーノ・サンマルチノを招き、初めてコンビを組んだ。サンマルチノは引退したばかりだったが、この日のためにトレーニングを積んで飛んで来た。相手が凶暴シン、上田組だったため、試合は両軍リングアウト引分けに終わったが、サンマルチノは、
「俺のレスラー人生のハイライトだった」
と喜んでくれ、私にも忘れられない試合となっている。
この前日8日同じ蔵前国技館に、新日本プロレスが特別興行を突っ込んで来た。
「全日本プロレス潰しのため、あえて前日に開催する」
とコメントまで出してぶつけた来た興行のメーンは、ラッシャー木村ら『国際軍団』の、新日本プロレス初乗り込みだった。
またまた腹が立ったが、前日に突っ込むのは勝算がなければ出来ないこと。相手は内容のいいものをぶつけてくるのだから、こちらも内容で勝負だと力が入った。2日間とも国技館は超満員になり、こうの興行戦争は引分けだったが、5月の引き抜き宣言といいこの興行の突っ込みといい、新日本プロレスがはっきりと、“全日本プロレス潰し”を口にして喧嘩を売って来たからには、買わざるを得なかった。
新日本プロレスに転じたブッチャー、マードック、戸口らのことも、やはり同じリングで体をぶつけ合い、サーキットを共にした仲だけに、気にはなっていた。ブッチャーと戸口には腹が立ったが、それでもおかしなもので、
「敵団体から来たヤツだ」
と不当な扱いを受けるようだと、いい気持ちはしない。11月5日蔵前国技館大会で、ブッチャーがマードックとの対戦を拒否し、株を下げたと聞いた時は、ブッチャーがちょっとかわいそうになった。
ブッチャーとマードックは50年12月のオープン選手権大会で1度だけ、それもバトルロイヤルで顔を合わせたことがあるが、どちらも憎悪をむき出して、凄まじい喧嘩になってしまった。
この2人は、日本プロレス時代から憎み合っていたようだ。それと気づいた私は、2人を決して一緒に来日させなかった。ブッチャーが第1回から連続出場したチャンピオン・カーニバルには、マードックは1度も参加していない。最強タッグ決定リーグ戦もそうだった。テリー・ファンクと抗争を展開していたブッチャーにマードックまでぶつけたのでは、あの巨体にいくら血があっても足りなくなるだろうし、マードックが助っ人に加わった形になれば、テリーのプライドも傷つく。レスラーの心理とはそういうものだ。
私自身は、因縁がらみで憎悪をむき出して戦うのは好きではないが、憎悪にも、ぶつかってたたきのめしてやりたい相手と、毛嫌いして顔を見るのも嫌だという相手と、二通りあるようだ。ブッチャーのマードックに対する心理は、後者だったろう。プロモーターにはカードを組む権限があるが、やはりそういったレスラーの心理を酌んでやるのも、大事なことだと私は思っている。
'81年世界最強タッグ決定リーグ戦は、最終戦12月13日蔵前国技館大会で、私と鶴田のコンビはシン、上田組に両軍リングアウトで足を引っぱられ、ザ・ファンクスとブルーザー・ブルディー、ジミー・スヌーカー組が優勝をかけて対決した。ブロディ組のセコンドにはカウボーイハットに白シャツ、Gパン姿のスタン・ハンセンが付き、超満員の観客がどよめいた。
ハンセンは12月10日に、新日本プロレスの第2回MSGタッグ・リーグ戦が開幕して契約が切れ、約束通り全日本プロレスに登場することになったものだが、12日横須賀大会にも姿を見せ、かつての相棒ブロディと密談を交わしていた。案の定、場外乱闘に誘ったブロディがテリーを振り飛ばし、そこへハンセンがウエスタン・ラリアットをたたき込んでテリーは立てず、ブロディ、スヌーカー組が初優勝をさらった。
ハンセンの全日本プロレス登場は、もちろん新日本プロレスが仕掛けた全面戦争の産物だったが、新日本プロレスには大変ショックだったようだ。この後、新日本プロレスは、引き抜き合戦に関しては休戦を申し入れて来た。私としても喧嘩を売られたから買ったまでで、いつまでも争うのは本意ではない。マスコミに“仁義なき戦い”とか“泥仕合”などと書き立てられたのでは、日本マット界のイメージも悪くなる。正直に言えば、この休戦申し入れもはたして信用していいものかという懸念はあったが、仮に束の間の平和であっても争うよりはマシと、飲むことにした。外人レスラー引き抜き合戦は、7ヵ月でいったん戦火は収まったのだった。
昭和57年の正月は、現在の渋谷区恵比寿マンションで初めて迎えた。前年10月に、それまで住んでいた赤坂台町のリキ・アパートが、リキ・エンタープライズの手を離れることになり、それならということで引っ越したわけだ。マンションの地下の一室に。私専用の練習場兼倉庫を作ったが、これはつい最近まで秘密にしていた。自宅に練習場を作ったなどと、てれ臭くて人には言えなかったのだ。
だがこれが早速役に立った。新春シリーズの後半にはスタン・ハンセンが乗り込んで来る。
前年12月13日蔵前国技館で、ブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカー組の最強タッグ決定リーグ戦初優勝を手助けしたハンセンが、その直後にブーツのままリングに乱入した時、私も飛び込んで彼と渡り合った。
「こいつは、燃えられる男だ」
というのが、その時の私の実感だった。夜型人間の私は、深夜に地下の“秘密”練習場で、体調を整えたのだった。
私は、レスラーの素質を見抜くことに自信を持っているつもりだが、ハンセンだけは例外だった。ジャンボ鶴田がテキサス州アマリロのファンク一家で修行していた48年夏、私はその成長ぶりを確かめに渡米した。その時同じ新人仲間にハンセンがいたというが、強い印象は残っていない。ドリーの口ききでハンセンが50年9月全日本プロレスに初来日した時も、
「馬力だけの不器用なレスラーだな」
と思った程度で、同時に初来日したボビー・ジャガーズの方を買ったくらいだった。
だがハンセンはウエスタン・ラリアットという独自の武器を開発し、ブルーノ・サンマルチノの首を折ったことで自信をつけ、飛躍的に成長した。自身を持った男はこわい。相変わらず器用なレスラーではなかったが、不器用な選手には不器用なりの強さというものがあって、ラッシャー木村もその部類だ。ハンセンはその最たるものと言っていい。
ハンセンは1月15日木更津大会から参加し、この日阿修羅・原をラリアット一発で沈めた。実に強烈そのもので、私は、これが原のレスラー生活の致命傷になるのではないかと心配したほどだった。続いて石川敬士がやられて血ヘドをは吐いた。私は2月4日東京体育館でのシングル対決に向けて、ますます燃え始めた。実は、私を燃えさせる材料が、別にもう一つあったのだ。
この1月18日に、新日本プロレスの営業本部長だった新間寿がニューヨークで、
「IWGPにはNWAもAWAも協力を約した。両世界王者が参加する可能性もある」
と発表した。そんなことがあるはずはない。
NWA本部に問い合わせたところ、
「NWAは、IWGPとは一切関係ない。IWGPは日本で開催するローカルの大会と解釈している」
というメッセージを送って来た。私はこのNWAの見解をマスコミに発表した。大人気ないと言われるかもしれないが、新日本プロレスの例によっての一方的な発表だけでは、マスコミを喜ばせ、ファンが信じてしまう結果になる。事実はキチンとしておきたかったし、休戦を申し入れておきながら、ブッチャーの時と同じようにIWGPを大義名分として、NWA世界王者らに手を出しかねないのも警戒したわけだ。こういうやり方には腹が立つ。ブッチャーを引き抜かれた時もそうだったが、ムシャクシャしても弁舌のさわやかさやマスコミの利用法では新間に負けてしまう私は、うっぷんのはけ口を練習に求めた。ガンガンと自分の体を痛めつけなければ、ぐっすり眠れなかった。“風が吹けば桶屋が儲かる”式論法で、私は腹が立つと体調が良くなった。ハンセン戦の前もそうだったのだ。しかも東京体育大会は、ちょうど1週間前の1月28日に同館で、新日本プロレスが猪木―ブッチャーのシングル初対決を行うという興行戦争だった。何としても負けるわけにはいかない。燃える材料はそろっていた。
この戦争は、試合内容も観客動員も、全日本プロレスが勝った。私とハンセンのシングル対決は、両者反則で私がPWF王座を防衛し、57年度のベストバウトに選ばれた。マスコミは“奇跡の甦り”などと書いてくれた。まるで、それまで私が死んでいたみたいだが、これも私の44歳という年齢のためも多分にあったと、認めなくてはなるまい。日本プロレスのインター王座時代は、毎日リングに上がるのが楽しく、いつも燃えていた。だが40代に入り、腰を痛めてからは、毎日燃えっ放しというわけにはいかなくなって来た。ビッグマッチにポイントを合わせ、
「よし、この試合に向けて――」
と調子を乗せていくようになったのだ。ハンセン戦はそれがピタリと合って、最高の気力と体調で燃えられたということだ。試合前から凄い充実感があって、親しい人に、
「俺はこの試合で、今年のベストバウトを取って見せるよ」
と大言を吐いたほどだった。
この日で新春シリーズは終了し、私は鶴田と天龍を連れ、約1ヵ月間のアメリカ・サーキットに出た。カンザスシティを振り出しにフロリダ、ジョージア地区を転戦、3月7日ノースカロライナ州シャーロッテでは、現地で合流した大仁田厚がチャボ・ゲレロを降し、NWAインター・ジュニアヘビー級王座を獲得した。大仁田は渕正信とともに55年9月に初の海外武者修行に出て、このころはテネシー、フロリダ地区でコンビを組んで暴れていた。ゲレロへの挑戦者には、私はテクニックに優る渕をと考えたのだが、現地での2人の活躍ぶりを見ていたテリー・ファンクは、
「思い切って、一発勝負に強い大仁田をぶつけてみろ」
とすすめ、結局はその作戦が成功したのだった。ゲレロが保持していた王座は、55年2月に新日本プロレスが、フロリダのエディ・グラハムらとともに新設したものだが、それを大仁田が獲得したのも、全面戦争の産物だった。王者としてこの年5月に帰国した大仁田は、一躍人気者となったが、2年後の58年4月20日東京体育館で、リングから転落して左膝に重傷を負い、それが元で翌59年12月に27歳にの若さで引退した。16歳で入門し、ずっと私の付人をつとめてくれた元気物の引退は、痛ましい限りだった。
春のチャンピオン・カーニバルは、この57年の第10回大会で、優勝争い形式の大会は一応打ち上げることにした。総当りリーグ戦には、普段のシリーズでは見られない日本人同士、外人同士のカードが組まれるという長所もあるが、後半戦には優勝圏外に去ったレスラー同士の“消化試合”を見せられる会場が出てくるのも避けられなかったのだ。
ハンセンといい試合をして気合の乗っていた私は、スタートから張り切って優勝を狙い、最終戦4月16日福岡大会でブルーザー・ブロディに反則勝ち、2連覇通算V7を達成して有終の美を飾った。だが張り切りすぎて、カーニバル終了後に乗り込んで来たハンセンが日本で初めてブロディと組んだ。“超獣コンビ”の、4月20日名古屋大会でインター・タッグ王座に挑戦して来た試合では、1−1の後両軍リングアウトで引き分けたが、内容的には完敗してしまった。超獣コンビは、プロレスのセオリーもタッグ・マッチのセオリーも全く無視して、ガムシャラに攻め込んで来る。そのリズムをつかむまでには、だいぶ時間がかかった。
この名古屋大会での試合が、私のレスラー生活100回目の王座防衛戦だったとかで、6月8日蔵前国技館大会のリング上で私は、東京スポーツ新聞社から表彰された。3000試合の時と同じで、私は全く気づいていなかった。表彰されると聞いて、
「ヘェー、俺は100回もやったのかあ」
と自分でもびっくりしたものだ。
5月1日から天龍、原、井上、プリンス・トンガらが中心となって1週間の韓国サーキットを行い、大木金太郎も元気なファイトを見せたということだったが、これが全日本プロレスの最後の韓国遠征となった。前にも書いたが、大木のその後の消息が気になるところだ。
6月8日の蔵前国技館大会では、NWA世界、AWA世界タッグ、PWFの3大タイトル・マッチを行った。私はシンに反則勝ち防衛、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼルの“ハイ・フライヤーズ”には大仁田、リッキー・スティムボート組が挑戦したが1−0で敗れ、リック・フレアーに挑戦した鶴田はダブル・フォールという珍しいケースで引分けた。だが私はこの試合で、実力的には鶴田がフレアーより上だと確信した。後は、フレアーもハーリー・レイスに劣らず身につけていた王座防衛戦術を、いかに突破するかということだけだ。鶴田はこの日から、それまでの赤・紺・白3色のコスチュームを黒一色に統一した。鶴田ももう10年選手。同年代のフレアーが世界王座に着き、私が世界タイトル戦線から後退したことで、エースの自覚が生まれ始めたと、頼もしく思ったものだった。
7月7日にキャピトル東急ホテルで、私と元子の結婚を発表したが、もう何ともてれ臭く、寒いほど冷房をきかした部屋で汗びっしょりになってしまった。私たちがハワイで2人だけの結婚式を挙げてから、もう11年弱になる。入籍もようやくすませ、それでも、
「今さら公表することもないだろう」
と思っていたのだが、某週刊誌が入籍を機にスッパ抜くということがわかり、あわてて正式発表の形をとったのだ。マット関係者はもちろん、プロレス・マスコミも元子のことは知っていた。それでも書かずにいてくれたものを、一般週刊誌にスッパ抜かれたのでは申し訳ないという気持ちからだった。
そのため記者会見も小部屋を用意したが、テレビの芸能リポーターまで押しかけ、しかも元子は私以上にてれてしまって欠席を決めこんだから、私はもう孤軍奮闘悪戦苦闘もいいところ。
何試合もぶっ通しでやったほど疲れてしまった。
宿敵ハーリー・レイスにPWF王座を奪われたのは、10月26日帯広大会だった。ドリー・ファンク・ジュニアもそうだったがレイスも、NWA世界王座から転落した後に、ぐんと強くなった。やはりハードな防衛戦スケジュールから解放され、心身の疲労がとれて、“世界の最高峰を制した”という自信はそのまま残るからだろう。ドリーもレイスも、レスラーとしての幅も奥行きも一回り大きくなった感じを受けたものだ。
レイスはこの年8月1日後楽園ホール大会で、鶴田からUN王座を奪っていた。鶴田はフォール負けしたが、これは“勝てないけど負けない善戦マン”というあまりありがたくない異名を返上した試合だった。とみに積極性の出た鶴田は、10月24日北見大会では果敢なアタックをかけてレイスを倒し、同王座を奪還した。レイスが私のPWF王座に挑戦して来たのはその翌々日だ。鶴田に敗れて気落ちしていると思いきや、レイスは私に流血戦まで仕掛けて王座を奪った。こういうところがレイスは渋とい。私は11月2日名古屋大会でリターン・マッチを挑んだが、これも流血戦となって両者反則に持ち込まれ、
「セントルイスまで取りに来いよ」
とレイスはベルトを持って帰国してしまった。
'82年世界最強タッグリーグ戦は、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビが初出場、リッキー・スティムボート、ジェイ・ヤングブラッドのフレッシュ・コンビも人気を呼んで、一段と盛り上がった大会となった。最終戦12月13日蔵前国技館大会では、超獣コンビとザ・ファンクスが対決し、私と鶴田のコンビは、この試合が時間切れで引分ければ超獣コンビと優勝決定戦、両軍リングアウトで引分ければ自動的に優勝というところまでいっていたが、超獣コンビがファンクスを血だるまにしての反則負けで、ファンクスが逆転優勝をさらった。
例年なら、これで一年の全日程を終了してホッと一息というところだが、この年はそうはいかなかった、57年大晦日から58年元旦にかけての、民放の『ゆく年くる年』の総合司会者の一人にかり出されたのだ。この年のキー局はフジテレビだった。なぜ私が指名されたのかはよくわからないが、このころ私はちょいちょいCFに出演していて、リングを離れたジャイアント馬場の顔も、茶の間のおなじみになっていたからだろう。こんな大役を引き受け、やってしまったのも、年の功だと思っている。CF出演も最初は抵抗があったが、仕事して契約した以上は途中で投げ出すわけにもいかず、一度やってしまえば後は気が楽になった。
この『ゆく年くる年』の総合司会も、リハーサルをした上での本番だから、別にアガるということもなかった。それなのに私がトチったと思われているところを一つ弁解させてもらうとメーンの女性アナウンサーと私のやりとりで、彼女が台本を一個飛ばしてしまったのだ。話がつながらないから私が黙ってしまうと、彼女がせっついた。私はもうちょっとで、
「あんた、一つ忘れているよ」
と言ってしまうところだった。だがテレビを見た人からは、
「お前、あそこでセリフを忘れたろう」
と言われた。彼女はしゃべりの本職で私はド素人だから、私がアガッたと思われたのも無理はないが―。私はフジテレビのスタジオで年を起したが、やはり除夜の鐘は家でしみじみと聞いた方が、1年が終わりまた新しい1年が始まるという実感が湧くようだ。

