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「王道十六文(完全版)」第十三章 全面戦争 Part1

[2006年08月01日]

 昭和56年は、全日本プロレスと新日本プロレスが全面戦争の火ぶたを切り、国際プロレスが崩壊するという日本マット界激動の年となった。

 春までは、表面は波穏やかだった。私は、前年7月にAWA世界王座に返り咲いていたバーン・ガニアを招き、新春シリーズ中の1月18日後楽園ホールで、『3000試合連続出場突破記念試合第1弾』を行った。3000試合をマークしてから9ヵ月近くもたっていたので、“突破”とつけざるを得なかったわけだ。ガニアには当初、
「俺なんか、その倍以上もやっているぞ」
 という気があったようだが、デビュー以来無欠場と聞いて、
「そいつは、信じられないほど素晴らしいことだ」
 と2日間の特別参加を快諾してくれた。

 記念試合はガニアがAWA、私がPWF王座をかけ合ってのダブル・タイトルマッチで、これが初対決だったが、お互いに手の内はある程度知っていた。ガニアは51年3月10日の『鶴田試練の10番勝負第1番』の相手として、全日本プロレスに初登場している。この試合を、私はじっくりと見せてもらった。ガニアの方は、私の試合をテレビで見ていたのだ。54年10月31日にNWA世界王座に返り咲いた私が、11月5日宮崎県串間大会でハーリー・レイスのリターン・マッチを退けた試合を、国際プロレスに特別参加のため来日していたガニアが、東京でテレビ観戦したという。帰京するとガニアから連絡があって、私は品川のホテルに表敬訪問した。その時、
「お前、ずいぶんといろいろな技を使うんだなぁ」
 と感心したように言われたのだ。それまでガニアは私を、巨体だけが武器のレスラーだと思っていたらしい。
「その巨体で、飛ぶとは思わなかったよ。レスリングでレイスと渡り合うとはな」
 ガニアの頭には、“2メートル以上の巨漢はデクの坊”という先入観があったようだ。それを訂正し、私を見直してくれたわけだが、考えてみれば、ヘンな褒められ方だった。

 もっとも私にはガニアの十八番スリーパー・ホールドに対して先入観というか、甘く見ていたところがあった。全日本プロレスの常連となっていたマーク・ルーインもスリーパー・ホールドを得意とし“アナコンダ殺法”と呼ばれていたが、私には脱出出来る自信があったからだ。

 ところが私は1本目14分55秒にスリーパー・ホールドでギブアップしてしまった。ルーインのとは全く違っていた。この技を食っても、かけた相手より大きい私は、ストンと腰をマットに落とし、うつ向き加減になってしまえば、あまり苦しくなかった。ガニアはルーインより身長が低い。そこがつけ目だったのだが、ガニアは私に腰を落とせなかった。私はうつ向くどころか、逆にぐーんと体を反らされてしまったのだ。こうなると苦しい。1度、2度とロープに逃げたが、リング中央でピタッと決められた時は意識が遠のきかけて、ついにギブアップした。やはり見よう見まねで技を使う選手と、自分で研究し、本家と言われるようなレスラーは、客席からは同じように見えてもダメージが違うと痛感させられたものだ。

 2本目は、これは私が本家の16文キックで、3分58秒タイとした。勝負をかけた私は32文ドロップキックを命中させたが、ガニアもドロップキックは得意技で、すかさず返して来た。とても55歳のレスラーとは思えないバネの利いた一発だった。3本目は5分26秒両者リングアウト。私はこの12歳年長の大先輩に、内心最敬礼していた。

 第2弾は2月15日同じ後楽園ホールで、ハーリー・レイスのNWA世界王座に挑戦、2-1で勝ったが3本目が反則だったため、4度目の王座返り咲きは成らなかった。これが私の、NWA世界王座への最後の挑戦となった。レイスはこの6月ダスティ・ローデスに敗れ、9月にはリック・フレアーがローデスを破って王座に着いた。
「フレアーが王者では、俺の出番は終わったな。挑戦するのは鶴田、天龍たちだ」
 と私は実感した。老け込んだという気はなかったが、時代の流れがそこまで来たということだ。フレアーが全日本プロレスに初参加したのは53年4月だが、前年3月にノースカロライナ州グリーンズボロで私がバロン・フォン・ラシクの挑戦を退け、PWF王座を防衛した時、私はフレアーの試合を見て、
「こいつは必ず世界のトップになる」
 と直感した。スターは、周囲がどんなに作ろうと努力しても、素質がなければまず不可能だ。

 フレアーにはスターとしての資質があった。その夜私たちは、ホテルでパーティーを開いた。
私のテーブルには、同地のプロモーターのジム・クロケット・ジュニアと、ドリー・ファンク・ジュニアがいた。私はフレアーを呼び、
「お前、今度全日本プロレスに来いよ」
 と誘うと、すでにフラフラになるほど酔っていたフレアーが、
「イエス・サー、サンキュー・サー」
 と懸命に直立不動の姿勢をとって答えた。そのフレアーに挑戦する気には、やはりなれなかったわけだ。勝負の世界はもっとドライに、年齢など超越してドン欲にならなければいけないのだろうが、私には、“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックの息子たちに闘志をむき出すことが出来なかったように、フレアーの王座にもファイトが湧かなかったのだ。

 春の第9回チャンピオン・カーニバルには、前年準優勝でシード参加が決まっていたディック・スレーターが、来日直前に交通事故のため重傷を負い、欠場した。スレーターはいい選手だが、この事故でだいぶレスラー人生を狂わされてしまった。つくづく惜しいと思う。これまで何人のレスラーが交通事故で命を落とし、あるいは引退に追い込まれたことか。広いアメリカを車でサーキットするレスラーには、交通事故は最も恐るべき敵だ。

 カーニバル中の4月13日に、大木金太郎がインター王座を返上した。NWAの意向によるもので、大木が同本部の許可を得ず、非加盟団体の国際プロレスで防衛戦を行ったことが問題となったのだ、私は日本プロレスを脱退する時、同王座を返上した。タイトルは団体が認定し、管理するもので、これは全日本プロレスのタイトルだった。その後、崩壊した日本プロレスは、全タイトルの管理を全日本プロレスに一任した。大木はインター王座を個人のもとして保持していたが、少なくとも国際プロレスに入団する時には、全日本プロレスに返上すべき筋合いのものだった。NWA会員である大木が勝手に防衛戦を行うのは、タイトルの権威を損うものと本部が判断したわけだ。

 カーニバルは4月23日大阪府立体育会館で、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ブルーザー・ブロディ、私、鶴田の4人が優勝圏に残り、ブッチャーと鶴田は両者リングアウトで引分け、私はブロディから浴びせ倒すような雪崩れ固めでフォールを奪って、3年ぶり通算6度目の優勝を達成した。やはり大トロフィーを抱くのは気持ちのいいものだ。このころはレイスもまだNWA世界王座に頑張っていて、私にもまだまだ野心があった。

 カーニバル終了後に、上位7選手に特別参加のファンク兄弟を加えて、インター王座争奪トーナメントを開催した。日本組からは私と鶴田、タイガー戸口の3選手が出場したが、1回戦で戸口はドリーにフォール負け、鶴田はブッチャーにリングアウト負けを喫し、私はテリーにリングアウト勝ちしたものの、準決勝ではジャック・ブリスコを破って進出して来たブロディに、フォール負けというカーニバルのお返しを食い、4月30日松戸大会における決勝戦はブロディと、準決勝でブッチャーに反則勝ちしたドリーの対決となった。だがブロディが私との試合で足首を負傷、この日にはシューズもはけないほど腫れ上がって出場を断念し、自動的にドリーが王座に着いた。

 そのため松戸大会ではドリーの初防衛戦を行うことになり、挑戦者はトーナメント出場者を有資格者としてリング上で抽選、当たりクジを引いたのは、何と弟のテリーだった。アメリカでも対戦したことがないという兄弟は、瞬間困ったような表情を見せたが、そこはプロだ。お互いに割り切って、これが“最初にして最後”の兄弟対決のゴングが鳴った。普段は自分の試合が終わると宿舎に帰ってしまうか、控室でのんびりしている外人組が、この日ばかりは全員が客席後方で観戦したのは、彼らも、
「こいつは見ものだ」
 と思ったからだろう。

 試合は54分0秒の白熱の攻防のすえ、テリーの回転エビ固めを切り返したドリーの巧技が勝負を制した。兄弟は全力を出し尽くし、実にいい試合を見せてくれた。
 これには後日談がある。この試合は翌々5月2日に日本テレビから録画中継されたが、私は兄弟の労をねぎらう意味で自宅に招き、一緒にテレビ観戦した。ところが、ビールをあおっていいご機嫌だったテリーが、試合が進むにつれだんだん口数が少なくなり、終わった時にはもう完全なふくれっ面になていたのだ。

 54分の試合は、約30分に編集されていた。他の試合も放映したため、これは仕方のないことだったが、ブラウン管にのったのはドリーの攻めている場面ばかりで、テリーの攻撃シーンはほとんどカットされていた。私が見ても全く互角の試合だったから、テリーがむくれた気持ちはわかる。テリーはこれ以来いまだに、当時の日本テレビの担当プロデューサーを嫌って、ろくに言葉を交わそうともしない。いかにもテリーらしいが、レスラーには多かれ少なかれこういう面があって、新聞・雑誌などマスコミの公正さを欠いた扱いにも、マスコミ関係者が想像する以上に神経をとがらせているものだ。これもプロのプライドだと私は思っている。

 ブッチャーとタイガー戸口を新日本プロレスに引きに抜かれたのは、この直後だった。私には全くの寝耳に水だったが、どうやらテリーは知っていたらしい。トーナメント中に、
「ブッチャーはもういなくなるよ」
 と言っていた。“まさか”と笑い飛ばしていた私がうかつだった。私は、
「この世界には守るべきルールがある」
 と信じていた。だが私のそのコメントに対して、新日本プロレス側から返って来たのは、「守るべきルールなど、最初からない。まだまだ外人レスラーも、日本人選手も引き抜く。全日本プロレスを潰すまでやる」
 という宣戦布告だった。そうなれば私も、企業防衛のため闘わなければならない。新日本プロレスにもブッチャーにも、本当に腹が立った。トコトン闘い抜く腹を決めて、私はアメリカに飛んだ。

今だから言うが、この時私が真っ先に引き抜いたのは、スタン・ハンセンだった。だがハンセンは12月まで新日本プロレスと契約しているという。
「それが終わったら、すぐ行くぜ」
 と約束してくれた。次がタイガー・ジェット・シンで、彼は新日本プロレスとの契約は残っていなかったから、7月初旬に参加し、それに上田馬之助が付いて来た形になった。ハルク・ホーガンにも声をかけ、テリーが会って契約書を渡した。だが彼は条件面で、新日本プロレスと両天秤をかけたようだ。チャボ・ゲレロは二つ返事だった。

 一挙にこれだけの戦果を挙げられたのは、ファンク兄弟を初めアメリカの友人たちが、「よし、そういうことなら俺たちが協力してやる。あれも抜け、こいつも持っていけ」
 と一斉に動いてくれたからだった。私はこの引き抜きに、噂されたようなお金は使っていない。
私の武器は札束ではなく、信義に厚い友人たちだった。彼らには本当に感謝している。

 ディック・マードックは、
「新日本プロレスから、年間15週参加の3年契約で誘われたが、どうしようか」
とざっくばらんに言って来た。シリーズ開催期間が年に約30週だからその半数、1シリーズおきに参加するということになる。
「それほどの条件は飲めない。行ってもいいよ」
「じゃあ、行くぜ」
 とマードックは新日本プロレスに転じたが、その後も全日本プロレスの会場控室や、巡業先のホテルにフラリとやって来て、
「いっぱいおごってくれや」
 と朝までつき合わされたりした。何とも憎めない男だ。

 伸び悩んでいた天龍が“プロレス開眼”したのは、7月30日後楽園ホール大会だった。この日はビル・ロビンソン、ディック・スレーター組が私と鶴田のインター・タッグ王座に挑戦する予定だったが、スレーターはシリーズ半ばに交通事故の後遺症のため帰国し、天龍が代打を買って出たものだ。天龍は私と鶴田に、思い切った太鼓をガンガンたたき込んで来た。試合は2-1で私たちが防衛したが、天龍はここで、何か一つ吹っ切れたようだ。この日を境に、天龍は見違えるほど良くなった。抜群の素質を持ちながらそれを生かし切れずいた天龍が、“風雲昇り竜”と呼ばれるようになって、私自身もホッとしたし、全日本プロレスにとっては頼もしい限りだった。

 国際プロレスは8月9日北海道・羅臼大会を最後に、15年の歴史の幕を閉じた。3月末に東京12チャンネルの放映を打ち切られたのが、やはり命取りとなっていた。恥ずかしい話だが日本のプロレス団体は、テレビ放映なしでは経営が成り立たないのだ。49年3月に国際プロレスがTBSの放映を打ち切られた時には、私は手勢を連れて助っ人出場したが、国際プロレスは54年以降新日本プロレスと提携していて、私が何かをする筋合いでも立場でもなかった。

 フレアーがNWA世界王座に着いたのは、9月17日のミズリー州カンザスシティ大会だった。
私は10月2日開幕の創立10周年記念ジャイアント・シリーズに、NWA世界王者の特別参加を同本部と契約していたので、自動的にフレアーが乗り込んで来ることになった。先にも書いたように、
「俺の出番は終わったな」
 と痛感した私は、飛躍的な成長をとげた天龍を第1挑戦者に指名し、その勝者に鶴田を挑戦させることにした。

 この天龍のNWA世界王座初挑戦に“待った”をかけて来たのが、元国際プロレスの阿修羅・原だった。原は、国際プロレス崩壊後いったんは廃業を決意したが、
「同じようなキャリアの天龍が、所属団体が違ったというだけで世界の最高峰に挑戦し、俺は浪人か」
 と思うと矢も盾もたまらなくなり、名乗りをあげたという。この気持ちは、痛いほどよくわかる。天龍も、
「面白い、やりましょう」
 と二つ返事で受けた。開幕戦2日後後楽園ホール大会での初対決は両者リングアウト引分けとなったが、熱のこもったいい試合だった。すでに国際プロレスからはマイティ井上、サムソン冬木ら4選手が投じていたこともあって、私は原に入団をすすめ、全日本プロレスの一員とした。


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