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「王道十六文(完全版)」第十二章 戦国マット界 Part3

[2006年08月01日]

 春の第3回チャンピオン・カーニバルは3月28日に開幕したが、私はこのころから、また腰が悪化していた。
「俺も42歳。今年は厄年かな」
 とゲンをかつぎ、モルモン教徒のくせに川崎大師で厄除けのゴマをたいてもらったのも、腰を完治させたい一心からだった。

 このカーニバル中の4月19日後楽園ホール大会で、私は35年9月30日のデビュー戦以来国内公式戦連続出場3千試合をマークした。と言ってもその時は全く気づかず、後に新聞を読んで、
「へぇ、そうだったのかあ」
 と思った程度だった。この“記念すべき”3千試合目は、ブッチャー、レイ・キャンディ組と対戦して例によってまともな試合にならず、反則がらみの2-1で勝つには勝った。気がついていれば相手を選び、カーニバルに参加していたテリー・ファンクなりブッチャーなりと特別試合していたかもしれないが、3千試合と知っても私は、
「長い間やっていれば、そのくらいの数になるさ」
 とあまり気にとめていなかったのも事実だった。だが周囲から“何か記念大会を”とせっつかれて、それからプランを練ったために、記念試合は翌56年にようやく開催できた。私個人の記録のための記念大会など、どうにもてれ臭くて、あまり積極的になれなかったのだ。

 カーニバルは5月1日福岡大会での優勝決定戦で、鶴田がディック・スレーターを降して初優勝した。テリーとブッチャーの抗争がますます激化していた上、私との三すくみの形となって、ともに20代のヤング・パワーが決勝に進出したものだ。テリーの一の子分だったスレーターは、リーグ戦中にブッチャーに右目を潰され、眼帯をかけての出場だったが、優勝戦にふさわしい白熱の好勝負だった。私は鶴田のセコンドに付いていた。テリーはスレーターのセコンドに付き、しきりにアドバイスを送っていた。一の子分同士の優勝戦――。“時代は移った”という実感はまだまだ無かったが、嬉しいような、ちょっと焦りを覚えたような、複雑な心境だった。テリーもそうだったろう。私と目が合うと、ニヤッと笑って見せたが、その顔には、
「ここで、お前と戦いたかったな」
 と書いてあった。

 カーニバル終了後の5月下旬、NWA世界王者レイスを呼んだが、私は腰の痛みが消えていなかったため、この時は挑戦をパスした。27日秋田大会でタイガー戸口が初挑戦して敗れ、28日札幌大会では鶴田が挑んで、時間切れで引分けている。鶴田はカーニバルに初優勝して、一段と自信をつけたようだ。

 戸口は前年54年7月に入団、キム・ドクのリングネームを、ファン公募でタイガー戸口と改めていた。このころの戸口は体も大型で大技も斬れ、鶴田に迫る存在だった。だが翌56年新日本プロレスに引き抜かれ、そこでも不満を持ったか、今はアメリカの一匹狼となっている。レスラーとしては惜しい逸材だった。

 6月は1週間ほどハワイで調整して、鶴田と共にアメリカ本土遠征に出た。ホノルルを発つ前の6月18日、同地の二ールブレイスデル・センターで行われた18選手出場のバトルロイヤルに駆り出され、アンドレ・ザ・ジャイアントと渡り合った際に左太ももを痛めてしまったが、ハワイのサラッとした季候は、腰の痛みを忘れさせてくれた。海外に出れば、日本では実現不能の相手と対戦出来るから面白い。アンドレとはこの数年後にフロリダでも、バトルロイヤルで顔を合わせたが、一度はじっくり戦ってみたい男だった。

 米本土に入って21日はコロラド州のデンバー大会で軽い肩ならしをすませ、22日にAWAの本拠地ミネアポリスのミュンシパル・アリーナ大会に出場、鶴田がニック・ボックウィンクルの同世界王座に挑戦した。

 鶴田は前年54年2月10日シカゴで、私がブッチャーからPWF王座を奪回した時も同行し、帰途14日ハワイでニックの王座に初挑戦、2-1の反則勝ちを収めている。それが認められての本拠地での挑戦で、これが米マット界の一般的なやり方だった。広いアメリカでは、A地区のスターもB地区では無名というケースがざらにある。ヨーロッパの帝王と呼ばれたビル・ロビンソンでさえ、バーン・ガニアに、
「どこの帝王でも、AWA圏では無名だ」
 と言われ、ハワイで約1年間の実績を積まされているのだ。最近はケーブル・テレビの発達でだいぶ事情が違って来ているが――。

 鶴田は善戦した。内容的には押しまくった試合だったが、レフェリーがはじき飛ばされて失神し、ニックのマネージャー、ボビー・ヒーナンが乱入して、20分5秒また反則勝ちに終わってしまった。だがこれでガニアは鶴田の成長ぶりを認め、AWA圏のファンは“日本に鶴田あり”と知って、鶴田のAWA世界王座奪取の足がかりは出来たわけだ。

 私は鶴田−ニック戦の後、覆面スーパー・デストロイヤー・マークUの挑戦を10分15秒で退け、PWF王座を防衛した。マークUは大型ではあったが、さほどのレスラーではなかった。この日は、アメリカに腰を据えていた高千穂明久、桜田一男も駆けつけてくれ、“地下足袋コンビ”で30分1本勝負に圧勝、超満員の同アリーナはちょっとした“日本人デー”といった感じだった。

 28日はデトロイトに転戦、コボ・コンベンション・アリーナで行われた8チーム出場のタッグ王座決定ワンナイト・トーナメントに出場した。私と鶴田のコンビは1回戦を軽く突破、2回戦で顔が合ったのは何と、ドリー・ファンク・ジュニアとフレッド・カリーのコンビだったが、カリーを16文キックで場外まで吹っ飛ばしてリング・アウト勝ち。準決勝では、ブッチャー、アーニー・ラッド組に反則勝ちしたザ・シーク、キラー・ブルックス組と対戦したが、ブルックスの暴走で反則勝ちとなった。決勝戦の相手はシードされていたランディ・スコット、ジョン・ボネロ組だったが、それほどの実力者ではなかった。7分20秒鶴田がジャンピング・ニーパット一発でスコットをKO、私たちが優勝をさらった。

 だがデトロイト地区認定のタッグ王座に着いても、その後の処置に困る。私たちはベルトを返上した。優勝よりも私には、1月4試合を戦って腰も痛まず、さほど疲れを感じなかったのが嬉しかった。

 遠征最終戦は翌28日カナダのトロントに飛び、メープルリーフ・ガーデンでブルーザー・ブロディ、スコット・アーウイン組の挑戦を2-0で退け、インター・タッグ王座を防衛した。
アーウインでは、ブロディのパートナーは荷が重すぎたようだ。

 私たちはかなりの成果をあげて帰国、追いかけるようにブロディがアーニー・ラッドをパートナーに来日し、8月4日館林大会で私たちはこの巨漢コンビの挑戦を受けたが、これは2-1で防衛した。私はラッドには、
「俺がプロレスをお前に教えたんだ」
 という気がある。巨体の割りに気の弱いところのあったラッドも、それが頭から抜けなかったらしい。この気の弱さと、プロレス入り当時から膝のお皿が前後に動くほどだったフットボール時代の古傷が、ラッドの大成を妨げてしまったようだ。

 9月に再びNWA世界王者レイスを呼んだ。前年54年から、全日本プロレスは1年に2度、同王者を来日させられるようになっていたのだ。渡米遠征以来体調に自信をつけていた私は、満を持して9月4日佐賀大会で挑戦した。この年8月のNWA総会で、
「世界タイトル・マッチは原則として1本勝負とする」
 と決められていたので、私は大技一発の勝負にかけた。この日のレイスはちょっと体が重く、チャンスは意外に早くやって来た。私は狙いすました32文ドロップキックをレイスの胸板にヒットさせ、立ち上がったところにランニング・ネックブリーカードロップを決めて、14分5秒体固めを奪った。3度目のNWA世界王者――、何度腰に巻いても、このベルトの味は格別だった。この王座は10日大津大会で奪還されてしまったが、土壇場に立たされたレイスの執念と渋とさは、恐ろしいばかりだった。レイスがNWA世界王座に着くこと7度という、ルー・テーズをしのぐ新記録を樹立した秘密は、これだろう。

 秋のジャイアント・シリーズ後半戦に特別参加したテリー・ファンクが、
「3年後の誕生日に引退する」
 と宣言したのはショックだった。私より6歳年下のテリーは、この時はまだ36歳。何とか翻意させようと、引退を決意した最大の理由となった右膝を、それこそあっちこっち引っぱり回して何人もの医師、整体師に見せた。だが診断はすべて
「もう、手の打ちようがない」
 とのことだった。そんな膝をかかえてテリーは、公約通り3年間頑張った。後半はもう痛々しい限りだったが、引退1年後にカムバック出来たのは、やはり完全休養が何よりの薬となったからだろう。私の腰も、休養をとればもっと早く直ったはずだった。だがそのころの私には、“まだまだ休めない”という気が強すぎて、休もうとは思いもしなかった。もし、“休みたい”と考えたら、そこで張りつめていた気持ちがガタガタと崩れ、私は駄目になっていたかもしれない。経営者としては私は落第生だと自認しているが、やはり会社の責任者としての立場が、私をここまで引っぱって来たのだと思っている。

 '80年世界最強タッグ決定リーグ戦は、前年仲間割れした凶暴コンビのブッチャーはキラー・トーア・カマタと、シークはグレート・メフィストと組んで新たな抗争を展開、ファンクスも奪戦し、ディック・スレーター、リッキー・スティムボート組も人気を呼んだ。新日本プロレスがこの年から開催したMSGタッグ・リーグ戦は1週間早く開幕、各地で興行戦争を展開したが、両団体とも盛況だった。私と鶴田のコンビは、最終戦12月11日蔵前国技館大会で、1点差で先行していたファンクスを破り、2年ぶり2度目の優勝を達成した。ファンクスはテリーが右膝に爆弾をかかえて、ドリーはこのころ病的と思えるほどやせていたが、やはりタッグ・マッチとなると他の追随を許さぬ名人芸を見せつける。この日の43分50秒にわたる技と技の死闘は、今も細かい心理的な駆け引きまで記憶に残っているほど、気持ちのいい勝負だった。この昭和55年は、前半は腰の痛みに悩まされたが、後半は充実した1年となって、私はどうやら厄年を切り抜けたようだった。


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