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「王道十六文(完全版)」第十二章 戦国マット界 Part2

[2006年08月01日]

 昭和54年の新春シリーズには、ブルーザー・ブロディが初来日した。このシリーズに鶴田の『試練の10番勝負』第10番の相手として特別参加した。“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックが、

「俺の所に凄いのがいる。一度使ってみろ」
 と推薦してくれた男だ。いきなり私を片手のボディスラムでぶん投げたのには恐れ入った。
だがもっと驚いたのは、ブロディの足腰の強さだった。金沢の卯辰山相撲上で対戦した時のこと。試合中に少年ファンが、ブロディに物を投げつけた。キッとその方向をにらみつけたブロディの形相の凄さに、恐怖を感じたその少年ファンは、席を立って後方に逃げ出した。同相撲場の客席は、急勾配のすり鉢型になっている。その急な階段を逃げ上がる少年を認めたブロディは、リングを飛び下りるや猛然と追いかけ、客席最上段に達するまでに、その少年をつかまえてしまったのだ。

 普通なら、少年ファンが必死に逃げ出したのを見てからリングを飛び下りたのでは、まず絶対につかまえられない。それを体重135キロもあるブロディが、あの毛皮の重いブーツをはいて、全国一急勾配な卯辰山相撲上の客席を駆け上がり、最上段の手前でつかまえたのには、私は驚きを通り越してもう呆れた。ブロディは学生時代、100メートルを11秒台で走ったというが、とにかく大変な足腰のバネだ。

 新春シリーズは1月29日に終了し、私はPWF王座奪回のため渡米した。まずブッチャーのいるプエルトリコに入ったが、ここでの挑戦はまたもや引分けに持ち込まれ、ブッチャーを追ってシカゴに飛び、2月10日に同地のインターナショナル・アンファイ・シアターで再挑戦、1-1の後ブッチャーを血だるまの場外KOに降して、8ヵ月ぶりに王座に帰り咲いた。敵地での王座奪取は難しいとされるが、地元ではないからかえって思い切ったラフ殺法が使えるという利点もあるのだ。

 新日本プロレスと国際プロレスが、二階堂進自民党副総裁を日本プロレス・コミショナーに推載したと聞いたのは、私が2月7日に帰国してからだった。猪木とミスターXが大阪府立体育会館で異種格闘技戦を行う前日の2月5日に、大阪で発表し、就任披露パーティを開いたという。私はカチンと来た。

 コミッション機構設立の話は、以前からあった。だが、
「業界のルールを成文化し、それを破った場合には制裁を加えるだけの権限を持ったコミッショナーなら、もちろん必要だ。だがルールを協定も作らず、団体のいいなりになるようなコミッショナーなら、推載しても何の意味もない」
 というのが私の主張だった。それが実現されていれば、62年3月の長州力ら脱退事件でも、コミッショナーが然るべき裁定してくれたろう。二階堂副総裁という人選に異論はないが、ルールも協定も作らず、権限のないコミッショナーを、しかも私の留守中に推載したということに、腹が立ったのだ。

 この54年の4月第1週から、日本テレビの放映時間帯が、毎週土曜日の午後5時半から1時間に変更になった。ゴールデン・タイムから外されたのはショックだったが、プロ野球のナイターに左右されるよりは、子供の見る時間帯に定着して、ちびっ子ファンが増えたという利点もあった。負け惜しみともとられるかもしれませんが、これは本当のところ、一長一短だったと思う。

 春の第7回チャンピオン・カーニバルは、4月6日秋田大会での優勝決定戦で、ブッチャーが鶴田を降して3年ぶり2度目の優勝を達成した。私は体調は良かったが、ブッチャー、デストロイヤー、大木の3人に両者リングアウト無得点試合に持ち込まれ、無敗ではあったが、1点差で優勝戦に進出出来なかった。仲間のはずのデストロイヤーに足を引っぱられたのは痛かったが、彼自身はレギュラー出演していた日本テレビの『噂のチャンネル』も終わり、
「そろそろ助っ人稼業も切り上げ時だ」
 と決意していたのかもしれない。デストロイヤーはこの年6月に、全日本プロレスとの専属契約を解除してアメリカに帰り、以後は外人組として参加している。

 5月にはNWA世界王者ハーリー・レイスを呼んだが、7日大阪大会で鶴田が挑戦して両者リングアウト、8日千葉大会はディック・マードックが挑んで時間切れ、9日仙台大会で私が挑戦してもこれも時間切れと、3日連続引分け防衛を果たされてしまった。60分フルタイム戦えば、翌日は疲れが残っていそうなものだが、レイスには全くそれが見られなかった。正直言って、ちょっと当てが外れた。凄いスタミナの持ち主だが、レイスには計算されつくしたファイトも、スタミナをロスしない秘密だった。例の、のらりくらりとした“柳に風”のレスリングだ。ガンガン攻め込むタイプの王者だったジン・キニスキーやテリー・ファンクにはない渋とさが、レイスにはある。ドリー・ファンク・ジュニアにもそれがあったが、レイスはもっともっと渋とい。私はレイスには自信を持っていたが、
「ちょっと、作戦変更の要ありだな」
 とこの試合で感じたのだった。

 54年8月26日に東京・日本武道館で行われた3団体全選手出場の『夢のオールスター戦』は、東京スポーツ新聞社の創立20周年記念行事として、同社の強力なプッシュによって実現したものだが、正直なところ私は、

「長いものには巻かれろ―――か」
 という心境だった。

 最初に東京スポーツ側と3団体の代表が赤坂の中華レストランで会談を持ったのは、5月の初めごろだったと思う。私はここで、
「喧嘩をしている状態のまま“一緒にやれ”というのは無茶な話。3団体が協定を結んで初めて実現出来る。まず3社協定を作って、それからやりましょう」
 と主張した。この時は全員が賛成したはずだが、その後協定の方はうやむやにされ、オールスター戦だけがどんどん進行してしまったのだ。

 このころ国際プロレスは、完全に新日本プロレス寄りになっていたが、それでも、私と猪木の間に吉原というクッションがあったことが、せめてもの救いだった。猪木が私を挑発していたころは、“テレビの放映権も興行権もくれてやる”と言っていたが、いざ具体化するとなると、話が全く違う。彼らとは、
「いつ、どこでだまされるかわからん」
 と用心ばかりが先に立った。そんな時に吉原が証人になってくれたというわけだ。

 メーンイベントで猪木と8年ぶりにコンビを組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組に勝ったが、懐かしいというような感情は起きなかった。試合後猪木がマイクをつかみ、
「馬場さん、次はシングル対決だ」
 と言ったから、私も、
「よし、やろう」
 と受けた。オールスター戦は、協定が出来ないままの見切り発車だったため、私はBI対決を拒否した。猪木がその対決を“やろう”と言ったのは、協定を作る意思表示をしたものと私は解釈したのだ。だが猪木には、その気はなかった。まったく、いいとこだけをさらってくれる。私がこのころ、
「クリアすべき問題がある」
 と言っていたのは、この協定のことだ。互いに信頼するか、あるいは守るべきルールがなければ、交流戦など出来るものではない。国際プロレス崩壊後も、東京スポーツ新聞社から要請があったが、私はお断りした。吉原というクッションなしで、新日本プロレスと同じテーブルに着く気はなかったのだ。

 10月下旬には、再びNWA世界王者ハーリー・レイスを呼んだ。“今度こそ”という自信が私にはあった。もともと私はレイスには、常にいい試合が出来るという自信を持っていた。会場は忘れたが、テレビ撮りの30分1本勝負でレイスと対戦する時、私は若手たちに、
「試合ってのはこうやるんだという見本を見せてやる。お前ら、よく見ておけよ」
 と言ってリングに上がったことがある。それほど自信があったのだ。お互いに手の内は知りつくしている上に、レイスのリズムを飲み込んでしまえば、何分動いても疲れない。いわゆる“乗れる相手”だった。

 だが今回は、いい試合をやっただけでは目的は果たせない。10月31日名古屋・愛知県体育館で挑戦した私は、5月の試合の経験から作戦を変え、スタートから飛ばした。私の意図を悟ったレイスは、ラフ攻撃を仕掛けて来たが、お返しに鉄柱にたたきつけてレイスの額も割った。レイスは焦ったようだ。それを私は待っていた。得意のダイビング・ヘッドバットを狙ってコーナー・ポストに駆け上がったレイスを、私はデッドリー・ドライブで思い切り投げ飛ばし、起き上がった瞬間にランニング・ネックブリーカードロップを決めた。私のレスラー生涯における会心の一発だった。18分29秒体固めを奪い、私は5年ぶりにNWA世界王座に返り咲いた。
このベルトの味だけは、格別だ。

 レイスのリターン・マッチは、11月5日宮崎県串間大会で受けた。この試合は20分38秒レイスのブレーンバスター2発目を切り返してのバックドロップで初防衛に成功した。レイスは血相変えて再挑戦を要請して来た。私は翌々7日尼ヶ崎大会でそれを受けた。体調も良く、自信満々だったが、かえってそれが裏目に出てしまったようだ。フライング・ボディプレスでレイスから2・9のカウントを奪った私は、気を良くしてコーナー・ポストに駆け上がり、ダイビング・ボディアタックをかけた。レイスは何とそれを、頭突きでカウンターしたのだ。あの石頭が落下する私のボディにめりこみ息がつまった私は20分58秒片エビ固めに仕留められてしまった。
「丸腰じゃアメリカに帰れねぇ」
 というレイスの死にもの狂いの執念が、あの石頭にこもっていたようだ。コーナー・ポストてっぺんからジャンプした私の体を頭で受けたら、普通なら首を痛めるか、下手をすれば折れていたかもしれない。

 '79年世界最強タッグ決定リーグ戦は、最終戦12月13日蔵前国技館大会で、ザ・ファンクスがブッチャー、シーク組からフォール勝ちを奪い、2年ぶり2度目の優勝を達成した。このころがファンクスの全盛時代だったろう。試合後、シークがいきないブッチャーの顔に火炎殺法を浴びせて仲間割れ。この凶暴コンビは解散してしまった。私と鶴田のコンビは、凶暴コンビと両軍リングアウトの無得点試合を演じたのがたたって、準優勝に終わった。

 昭和55年の新春シリーズには、前年に続いてブルーザー・ブロディが再来日した。1月3日後楽園ホールで、アンジェロ・モスカと組んでのインター・タッグ王座挑戦は、1−1の後両軍リングアウトで私と鶴田組の危ない引分け防衛。同22日諏訪大会でのブロディのPWF王座挑戦は、1本目私がフォールされ、2本目は反則勝ちとこれまた危ない橋を渡り、3本目は私がレイス戦で失敗したコーナー・ポストてっぺんからのダイビング・ボディアタックを、今度はズバリと決めてフォール勝ち防衛を果たしたが、ブロディはますます強くなっていた。

 だがこのブロディが、シリーズのシングル・エースとしてはパッとした人気が出なかったのが、私には不思議でならなかった。特にお茶の間ファンと、地方のファンに受けなかったのだ。
あの野獣的な風貌スタイルはあまりカッコいいとは言えず、強さより乱暴さが目立っていたのがその理由かもしれないが、レスラーとしては超一級だ。その後スタン・ハンセンと組んでからは人気が出たが、それまでは、地方のプロモーターからはあまり歓迎されてない男だった。
レスリングはお世辞にもうまいと言えないブッチャーがもてて、スピード満点にあらゆる大技をこなすブロディがもてなかったのだから、プロレスは難しい。

 2月に入ると、それまで毎シリーズのように全日本プロレスに参加していた大木金太郎が、国際プロレスに入団した。大木は全日本プロレスの所属選手ではなく、レッキとしたソウルの金一道場の主だったから、私は何も言わなかったが、国際プロレスも大木も、人気挽回にだいぶ焦っていたようだ、大木は国際プロレスには半年間在籍しただけで、また全日本プロレスに戻り、56年10月まで出場した。その後日本のマット界から姿を消し、最近は消息も聞かれない。
同じ釜の飯を食った弟弟子としては気になるところだ。


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