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「王道十六文(完全版)」第十二章 戦国マット界 Part1

[2006年08月01日]

 昭和52年春の第5回チャンピオン・カーニバルは、5月14日東京・日本武道館における優勝決定戦が、私と鶴田の対決となった。鶴田はリーグ戦を首位で終了、私とブッチャーが同点2位となり、この日まず私はブッチャーから反則勝ちをせしめて優勝戦進出権を獲得、鶴田との対決に臨んだ。1試合終えてそのまま次の試合になだれ込んでしまえばまだいいが、間にちょっと休みが入ると、2戦目のスタートはすごくシンドイものだ。鶴田にスリーパーホールドをかけられ、ロープに足を出して、
「あゝ、疲れるもんだなあ」
 と内心ボヤいたことを、今でも思い出す。結果は私がランニング・ネックブリーカードロップを決めて勝ち、2年ぶり通算V4を達成したが、鶴田の心・技両面の成長ぶりには、たしかな手応えがあった。

 鶴田との初対決は、50年12月の『オープン選手権』中の15日、仙台大会だった。この時の鶴田には、師匠でエースの私に始めて挑むということで、かなりプレッシャーがかかっていたようだ。私もルー・テーズのNWA世界王座に始めて挑戦した時は、キックを放とうにも足がすくんでしまったものだ。だが鶴田はその後、カーニバルの総当り戦などで私との対決に慣れ、この日はのびのびと大技を繰り出して来た。
「うん、これなら立派に世界に通用するぞ」
 と嬉しかったが、その分シンドかったのも事実だ。

 天龍がアマリロでの修行を終え、日本デビュー戦を行ったのは、6月11日東京・世田谷区体育館だった。私と組んでマリオ・ミラノ、メヒコ・グランデ組に快勝、前年9月場所まで髷を結って土俵に上がっていたとは思えないほどの、キビキビした動きとローリング・クレイドルまでこなすテクニックに、私は内心舌を巻いた。その後のスランプが信じられないほどだった。

 このシリーズには、2月にテリー・ファンクを破って2度目のNWA世界王座に着いたハーリー・レイスが参加、世田谷大会で鶴田が挑戦して2-1で敗れ、6月14日松戸大会で私が挑戦、1-1後時間切れで引分けた。前回の57日間天下でこりたレイスは、
「王者は勝ちにいかなくてもいいんだと悟った」
 と守りのレスリングで長期政権樹立を宣言、たしかにぐっと渋とくなっていたが、私はレイスには自信を持っている。
「必ず、お前から王座をいただいてやるぞ」
 と私も強気になっていた。

 このころ、ミル・マスカラスも全日本プロレスの人気外人レスラーの一人だった。8月25日東京・田園コロシアムで鶴田のUN王座に挑戦、2-1で敗れた試合は、52年度のベストバウトに選ばれている。この年2月の来日からテーマ曲に採用された『スカイ・ハイ』が大ヒット、人気絶頂だったマスカラスは、鶴田と闘っても小さく見えなかった。マスカラスが最も光っていた時代だろう。

 10月29日黒磯大会では、私がPWF、大木がアジア両王座をかけて対決、私が勝ってアジア王座を返上した。11月6日には小鹿、大熊組が国際プロレスの後楽園ホール大会に乗り込み、マイティ井上、アニマル浜口組にアジア・タッグ王座を奪われた。

 アジアのタイトルに関しては、私はアジア人だけで戦うべきだという考えを持っている。例えば、白人がこれを保持してアメリカで王者と名乗っても、ファンはまず信用しない。アジア人なら納得するのだ。アジア・ヘビー級王座を返上したのは、私が保持していても挑戦者の人選に苦労するだけだと思ったからだ。これを3番手・4番手の選手が争うことになれば、それはもうベルトの割りふりになってしまって、権威を損う元となる。東南アジアのマット界も衰退し、レスラーが減っていたこともあって、私はアジア王座を封印したのだった。

 小鹿、大熊組がアジア・タッグ王座から転落した日の早朝、私たちは韓国遠征に出ていた。業務提携を結んだ韓国マット界を盛り上げるためと、NWAの会員資格には“年間20試合以上を主催するプロモーター”という条件があって、前年会員となった大木の実績を作る目的もあった。訪韓は2回目だが、試合をするのは初めてだ。大木の人気は絶大で、声援を背にえらく張り切っていた。何か勝手の違う会場のムードにいささかとまどった私と鶴田は、7日ソウルの文化体育館大会で大木、ドク組に敗れ、インター・タッグ王座を奪われてしまった。2日間で全日本プロレスが保持していた両タッグ王座を失ったわけだが、私たちの試合がテレビ生中継されていた間は、ソウル市内のタクシーがほとんど止まり、人出も少なくなったと後で聞かされ、ちょっとオーバーじゃないかとは思ったが、やはり“来て良かった”と思ったものだ。

 11月9日に帰国して、25日から12月1日までの1週間は、国際プロレスとの対抗戦シリーズで、東北から関西まで走り回った。私はこの時、対抗戦の難しさを改めて痛感させられた。どちらも、やるからには勝ちたい。だがそのために、ガード編成やルール、レフェリーなどにいろいろ注文がつく。両団体の意見がピタリと一致するはずがないのだ。そうなれば極端な話、押しの強い方が得をする。試合よりそれで疲れてしまった。

 12月2日に開幕した『世界オープン・タッグ選手権大会』は、大ヒットとなった。日本マット界には、暮の興行とタッグ・シリーズは当らないというジンクスがあったが、私には前々年暮の『オープン選手権』大会の実績から、
「暮でも、タッグ・シリーズでも、メンバーさえ良ければ当る」
 という自信があった。この大会はその私の予想をはるかに上回る大ヒットとなって、翌年からは『○年世界最強タッグ決定リーグ戦』と改称して定着、当初の3〜4年は“年末プロモーター助け合い興行”とか、“餅代シリーズ”と呼ばれて地方プロモーターから感謝されるほど、大入りが続いた。力道山時代初期の、あまり有名でもない外人レスラーが2〜3人参加しているだけでも大入りとなったころと違って、それだけのファンの目が肥え、メンバーさえ良ければ季節は関係なくなっていたということだろう。

 この大会も『オープン―』と銘打って他団体に呼びかけ、国際プロレスはラッシャー木村、グレート草津組とマイティ井上(高千穂明久と混成コンビで出場した)を参加させてくれたが、新日本プロレスはやはりナシのツブテだった。55年からは同趣旨のタッグ・リーグ戦を同時期に開始している。テリー・ファンクは報道陣に、
「こっちが本家、あっちはイミテーション」
 と決めつけてみせたが、私が言いたくても言えないことを、よくもケロリと言ってのけたものだ。

 この大会の最終戦12月15日蔵前国技館での、ザ・ファンクスとブッチャー、ザ・シーク組の優勝をかけた対決は“ブッチャーがフォークを持ち出してテリーの右腕にブスブスと突き刺し、引き裂いて、凄惨な地獄絵図を展開したすえ、ファンクスが優勝した。この試合が、年末のタッグの祭典定着に大きく寄与していたことも見逃せないだろう。これから本格的に始まったテリーとブッチャーの抗争も、ファンを大いに沸かせてくれた。

 昭和53年は、新春早々にNWA世界王者ハーリー・レイスが来日、1月18日札幌大会で私が挑戦し、2-1で勝ったが3本目が反則で王座奪取は成らなかった。レイスはますます渋とく、ずるくなっていたが、私は、
「今度やれば、フォール勝ちして見せるぞ」
 という自信を一段と深めた。

 2月は18・21・22の3日間、国際プロレスと韓国・金一道場との『三軍対抗戦』を開催したが、対抗戦の難しさは一層深くなったばかりか、後に聞いたところでは、18日蔵前国技館で私がラッシャー木村にリングアウト勝ちしたため、吉原代表と東京12チャンネル担当者がもめてしまったという。日本テレビもあまり賛成ではなく、その後も吉原代表から申し込みがあったが、私にはもう受ける気はなかった。それが、国際プロレスが新日本プロレスに接近する理由となったようだ。

 春の第6回チャンピオン・カーニバルは、4月7日仙台大会での優勝決定戦で、私がブッチャーを降ろして2連覇を達成し、その翌8日、私は鶴田ら4選手を帯同して東南アジア遠征に出た。オーストラリアのプロモーター、スティーブ・リッカードの要請によるもので、マーク・ルーイン、キング・イヤウケアらが合流し、シンガポールとブルネイで各4戦、クアラルンプール2戦、バンコクで1戦の13日間に全11戦のサーキットだったが、かつては繁栄を誇った東南アジアのマット界も、シンガポールを本拠としていたキング・コングがこの8年前の1970年に没してからは灯りの消えたようになり、たまにオーストラリア勢が遠征する程度になっていた。私らのサーキットは一応の成功を収めたが、それも、珍しさが手伝ってのようだった。
やはりその土地にいいプロモーターがいなければ、地元のレスラーも育たず、マット界はさびれてしまうということだ。

 私はこの遠征中にクアラルンプールで、足の裏の感覚がなくなってしまった。走ろうとしても、まるで他人の足みたいに、思うように前に出ないのだ。“おかしいな”と思いながらも、4月20日に帰国して、21日からエキサイト・シリーズに突入した。足は重かったが、最終戦5月11日大阪大会では、前年11月にソウルで失ったインター・タッグ王座を大木、ドク組から半年ぶりに奪回した。

 シリーズも無事終了し、王座も奪回して私は、
「さあ東京に帰って、明日から久しぶりにゴルフが出来るぞ」
 と嬉しさのあまり一睡も出来ず、翌朝一番の新幹線に飛び乗った。車中で眠ったため、冷房で腰を冷やしてしまったが、いざ東京に着いて降りようとすると、足も腰も全く言うことをきかない。腰を曲げ、汗びっしょりになって、それこそ這うようにして家にたどり着き、マッサージ師や鍼医に来てもらった。どちらも、
「大丈夫、直りますよ」
 と言ってくれたが、翌日も起きられない。ゴルフどころではなくなって、あっちこっちの医師やら整体師に見せたが、
「座骨神経痛でしょう」
 と診断されただけで、さっぱり快方に向かわないまま、5月26日のスーパーパワー・シリーズ開幕を迎えた。立ち上がるのも苦しい状態だったが、トップを張っている以上は、欠場はお客さんに申し訳ない、すべきではないというのが私の信念だ。

 だが、信念だけでは、やはりいいファイトは出来なかった。6月1日秋田大会でキラー・トーア・カマタの挑戦を受けた私は、苦しまぎれに無茶苦茶に暴れ、反則負けを喫してPWF王座から転落してしまった。
「反則でも負けは負け。王座の移動を認めるべきだ」
 と主張して、これをPWFルールに採り入れたのは私だ。その私がルール適用第1号となって39回目の防衛に失敗したのは、ちょっと皮肉だった。腰の痛みは、いいと言われる治療法はそれこそワラにもすがる思いですべてやって見たが、3ヶ月ほど続いた。このころが、私のレスラー生活最悪のコンディションで悪戦苦闘した時期だ。この後遺症は今も残り、私は長く座っていると、立ち上がるのに一苦労する。

 私からPWF王座を奪ったカマタは、6月12日一宮大会でビル・ロビンソンに敗れ、11日間天下に終わって、ロビンソンがベルトをアメリカに持ち帰ってしまった。ロビンソンは秋田大会の勝者に挑戦と決まっていたため、私は割り込むことも出来ず、また強引にリターン・マッチをやったところで、この時の私のコンディションでは、勝ち目がなかったろう。歩くのも苦痛だった。

 7月26日大曲大会でテリー・ファンク、ディック・スレーター組の挑戦を退け、インター・タッグ王座を防衛したころも、恥ずかしながら鶴田におんぶにだっこというていたらくだった。
「ようやく、回復して来たな」
 とホッとしたのは、8月24日東京・田園コロシアム大会でミル・マスカラス、ドス・カラス組のインター・タッグ王座挑戦を受け、3本目に私がドスにサイド・スープレックスを決めて押さえ込んだ時だ。相手は軽量ではあったが、腰を思い切りひねって投げても痛くないというのは、実に嬉しいことだった。

 だがPWF王座の奪還には、だいぶ時間がかかった。10月にロビンソンを呼んだが、9日久留米大会でカマタのリターン・マッチを退けた彼は、18日宇都宮大会でアブドーラ・ザ・ブッチャーの挑戦を受け、1本先取した後の2本目にロープに左足をからめて逆さ吊りにされ、そこをブッチャーに攻められてリングアウトとなったばかりか、左足を痛めて戦闘不能となり、レフェリー・ストップで負けてしまった。私はその勝者に11月7日東大阪大会で挑戦することになっていた。全日本プロレスの看板王座に対する執念は、ロビンソンよりブッチャーの方がはるかに凄まじい。しかもブッチャーは、第4回チャンピオン・カーニバル優勝戦もそうだったが、私をカッとさせる術に長けている。用心していたのだが3本目はそれに引っかかって両者リングアウトとなり、引分け防衛に持ち込まれてしまった。残るシリーズは世界最強タッグ決定リーグ戦だけで、この期間中にタイトル・マッチを行わないことになっている。ついにPWF王座のベルトは、海外で年を越すことになったのだった。

 前年52年末の大成功によって、この53年から、世界最強タッグ決定リーグ戦が、一年の掉尾を飾る祭典として定着した。前年に続くザ・ファンクスとブッチャー、シーク組の抗争が興奮を盛り上げ、私と鶴田のコンビは、ブッチャー組と両軍リングアウトで引分けた以外は手堅く星を稼いで、最終戦12月15日札幌大会ではファンクスと時間切れ引分けとなって、ファンクスに1点差で初優勝を達成した。外人組に2連覇されたのではメンツが立たない。私も鶴田も必死だった。豪華メンバーを集めれば、大会は成功する。だがメンバーは豪華になればなるほど、優勝は難しくなる。プロモーターとして満足のいく大会が、レスラーとしては苦しい大会になるのは、仕方のないことだった。


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