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「王道十六文(完全版)」第十一章 NWA世界王座奪取 Part2

[2006年08月01日]

  この12月には、初めての試みである年末の大興行『オープン選手権』大会を開催した。全日本プロレスも旗揚げ3周年を迎え、経営面の苦労は絶えなかったが、しっかりとした基盤も出来て、
「ここらで一つ、大きい事をやりたいな」
 と欲を出したのが発端だった。いや、大きい事をやりたいという欲は1年目ごろからあったのだが、まる3年たってそれが出来るようになったというのが、本当のところだろう。

 準備は、8月のNWA総会前から始めていた。力道山の13回忌に当るので、私の力で出来る限りのいい選手を集めようと、総会でも会員に協力を求めた。開催のメドが立ち、国際プロレス吉原功代表に同席してもらって構想を発表したのは、大木戦の前、9月29日だった。こんなに早く“やるぞ―!”と予告を発したのは、私としては初めてだ。

 我ながら凄いメンバーを集めたと、今でも内心自慢に思っている。外人組はドリー・ファン・ジュニア、ハーリー・レイス、アブドーラ・ザ・ブッチャー、パット・オコーナー、ダスティ・ローデスとディック・マードックのテキサス・アウトローズ、ドン・レオ・ジョナサン、バロン・フォン・ラシク、ミスター・レスリング、ホースト・ホフマン、ケン・マンテル、フリー日本人のヒロ・マツダ。国際プロレスからラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上。旧日本プロレス代表として大木金太郎、全日本プロレスからは私、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、アントン・ヘーシンクという顔ぶれだ。当時のNWA会長フリッツ・フォン・エリックに、
「お前、アメリカ・マット界を空っぽにする気か!?」
 と半ば本気で言われたものだった。
『オープン―』と銘打った以上、当然国内の他団体にも参加を呼びかけた。国際プロレスは3選手を送り込んで来た。旧日本プロレスは大木を代表に指名し、秘蔵していたワールド・リーグ戦の大トロフィーを寄贈してくれた。昭和34年の第1回から47年の第14回大会まで、力道山が5回、私が通算6回抱いたものだ。これは嬉しかった。だが新日本プロレスは、ナシのツブテだった。

 実は、これが猪木の、
「テレビ放映権も、興行主債権も放棄するから、俺の挑戦を受けろ」
 というセリフに対する私の返事だった。2週間全試合に参加しろとは言わない。外人組でも、スケジュール多忙な選手と負けのこんだ者は、途中から帰国した。興行主催権も、国際プロレスには岐阜、長岡両大会を提供している。猪木に本当にその気があれば、参加方法の打診ぐらいはあってもよさそうなものだったが、何もなかった。

 力道山13回忌追悼特別試合は、シリーズ中盤の12月11日に日本武道館で、興行を力道山家に無償提供するという形で行われ、超満員の観客を集めることが出来た。だがこの日新日本プロレスは、蔵前国技館で猪木―ビル・ロビンソン戦をメーンとする興行をぶつけた。これには力道山家もカンカンだった。

 13回忌追悼式の企画は、この年7月ころ力道山家から、まず“難物”と見られた猪木に持ちかけられ、
「誰がやらなくても、俺一人でもやる」
 という猪木の承諾をとりつけてから、全日本プロレスと国際プロレスに協力を要請して来たものだった。吉原も私も異論はなかった。だが最終的には猪木はそれを蹴ったばかりか、当日に興行戦争まで仕掛けて来たのだ。それがはっきりした11月8日、力道山は猪木に、
「今後は力道山の弟子と名乗って欲しくない」
 と破門状を発している。もしこの時、当初の企画通り全団体が参加して13回忌追悼試合を開催していたら、54年の8・26『オールスター戦』のようなマスコミにリーダーシップをとられた大会ではなく、マット界の総意による全選手の交流試合が行われ、あるいは戦国乱世も収容のきっかけをつかめたかもしれない。私にはそれが残念だった。

 オープン選手権の12月17日千葉大会では、国際プロレスのエース木村と初対決、前日の長岡大会で木村と、雪の降りしきる会場外にまで飛び出す大乱闘を演じたブッチャーが乱入して、私がフォール勝ちした。これが、今も続いている木村との因縁の始まりだ。

 翌18日の最終戦川崎大会で私はホフマンを降し、得点10点のドリーとブッチャーを1点差で振り切って優勝した。大トロフィーは懐かしかった。だが優勝より、この初めての大興行の成功が嬉しかったのは、私もプロモーター4年生になっていたからだったろう。

 昭和51年1月で、私は38歳になった。日本プロレス時代に引退を予定していた年だが、もうそれどころではなかった。鶴田は成長していたが、まだまだ私が全日本プロレスを背負って、戦国マット界を生き抜いていかなければならない。元子には嘘をついた結果になってしまったが、元子は何も言わずに協力してくれた。経営者的な才能は、私より元子の方が上かもしれない。正直に告白すれば、私は“プロレスラーになってよかった”と思ったことは何度もあったが、オーナーになって良かったと思ったことは、現在に至るまで1度もない。私のマット生活中最も幸せだった時代は、日本プロレスでベルトを締め、ボーナス袋が縦に立ったころだ。
自分の試合のこと、体のこと以外は何も考えなくてよかった。レスラーはやはり、頭を使うより体を使う方が、よっぽど楽だ。

 それはさておき、51年は年頭から、猪木―モハメッド・アリ戦が実現するかしないかで、プロレス・マスコミがざわめいていた。アリと言えばこの前年、全日本プロレスにもちょっと打診があった。
「日本人レスラーをヘビー級ボクサーに育ててみたい。若手を1人か2人貸してくれ。1〜2年トレーニングさせて、俺と試合をすれば話題になるだろう」
 というのだ。マジメな話なので、一時は桜田一男をやろうかとも考えたが、もし失敗したら桜田がかわいそうだと思い直して断わった。その後に新日本プロレスに話を持ちかけ、ああいう形に変わってしまったのではないか。

 話題作りは、たしかに新日本プロレスの方が巧い。私は性格的に、実現の準備が整ってからでなければ口に出来ないが、猪木―新間ラインは、まずブチ上げておいて、それから準備にかかったようだ。アリ戦も、IWGPもそうだった。その方がマスコミは喜んでくれるとわかってはいるが、やはり私には出来ない。

 2月に新日本プロレスが、アジアのシングル、タッグ両タイトルを新設すると発表したのも、その話題作りの一環だったろう。これには芳の里がカチンと来た。まだ代官山に事務所の残っていた旧日本プロレスの金庫には、両選手権のベルトが眠っていたのだ。NWAの会員資格を持っていた芳の里は、その許可をとりつけ、復活を発表して、管理を全日本プロレスに一任した。

 一部からは“大人気ない”とも言われたが、やはり由緒あるものはきちんとしなければならない。両ベルトとも、力道山が腰に巻いたものだ。これは3月に、私は行かなかったが韓国で復活王座決定戦を行い、ヘビー級は大木、タッグは小鹿、大熊組が王座に着いた。新日本プロレスは8月に新王者を認定したが、その後はウヤムヤになってしまったようだ。

 3月10日には鶴田が『試練の10番勝負』を開始、第一番は両国・日大講堂で、バーン・ガニアと引分けた。“AWAの帝王”と呼ばれるガニアとは、それまでは交渉がなかったが、彼と仲のいいロード・ブレアースPWF会長や、ニック・ボックウインクルから、“手を組め”とすすめられてはいた。AWAは国際プロレスと提携していたが、カナダの大剛鉄之介がブッカーとして再起し、国際プロレスはAWAと前年夏に絶縁していた。そのためガニアも私への接近を求め、お互いにメリットがあったから手を組んだというわけだ。ガニアなら格も満点で、その名人芸は鶴田もいい勉強になったようだ。

 この日、マシオ駒が死亡した。日本プロレス時代に私の付人第1号となり、全日本プロレスの設立にも真っ先に参加してくれた駒は、体は小柄だったが、きっぷのいいファイトをする選手だった。性格は真面目で几帳面で、私は若手の指導者して絶対の信頼を置いていただけに、まだ35歳の若さで内臓疾患に倒れたことは痛ましく、残念だった。駒がドリー・ファンク・シニアに目をかけられてアマリロに定着していたことが、ファンク一家との交流のきっかけともなった。旗揚げ当初の駒の有形・無形の功績ははかり知れないものがあったと、今でも感謝している。

 3月28日には蔵前国技館で、国際プロレスと初の対抗戦を行った。この話は前年9月に吉原代表から持ち込まれ、年末の『オープン選手権』にも国際プロレス勢の参加を得たことで実現に踏み切ったものだが、外人レスラー抜きの特別興行で国技館が満パイとなり、まずは成功だった。

 春の第4回チャンピオン・カーニバルは、5月8日札幌大会での優勝決定戦で私がアブドーラ・ザ・ブッチャーに反則負けを喫し、4連覇を逸してしまった。このころ、ブッチャー人気は急上昇していて、他方のプロモーターも、
「ブッチャーが参加していれば、黙って“買い”だ」
 と言うほど、ブッチャーは全日本プロレスのドル箱レスラーになっていた。ブッチャー自身もそれを充分に意識して、勢いに乗っていた。私にも覚えがあるが、勢いに乗っている時は、どんな相手にも負ける気がしないものだ。

 猪木―アリ戦は6月26日実現した、それに至るまでの宣言効果は、たしかに莫大なものがあったろうが、結果は“ほら、やっぱり”ということになってしまった。多くは言いたくないが、この年の8月のNWA総会で、オレゴン州のプロモーター、ドン・オーエンが、
「猪木に、黄金のナイフを贈ろう」
 と発言したことで、世界のマット関係者の気持ちを察していただきたい。ナイフは、
「日本人なら、これで腹を切れ」
 という意味だ。打たれ強いはずのレスラーが、グローブをはめたボクサーのパンチを恐れて寝て闘ったのでは、全プロレスラーの恥辱だ。いろいろな裏事情もあったのだろうが、
「やらずもがなのことを、やってくれた」
 というのが実感だった。ただ、正直言って私は猪木をライバルと思ったことはないが、猪木は私をライバル視して宣伝材料に引っぱり出し、次にはアリを用意した。アリ戦の酷評も逆手に取ってしまったその商魂のたくましさには、おれ入るほかはない。

 7月24日蔵前国技館で私は、ビル・ロビンソンの挑戦を2−1で退け、PWF王座31回目の防衛に成功したが、これがロビンソンとの初対決だった。前年12月の力道山13回忌追悼試合で、興行戦争となった新日本プロレス側の目玉だったロビンソンを、私が引き抜いたわけではない。
真実を明かせば人の悪口を言う結果になってしまうことが多く、なんとも書きにくいが、これはロビンソン自身が、
「新日本プロレスに週6千ドルで誘われ、国際プロレスから移ったが、ギャラの支払い日にカール・ゴッチと新間が来て、値切られてしまった。もう二度と行きたくはない。同じ条件でどうだろうか」
 と持ちかけて来たものだ。すでにアメリカに定着していたロビンソンには『オープン選手権』に参加した外人組メンバーを見て、
「この連中と喧嘩したら損だ」
 という計算も働いていたかもしれない。これ以来ロビンソンは、全日本プロレスの常連となった。

 8月の総会で大木金太郎がNWAに加盟したのは、芳の里と私の推薦によるものだった。このころは主流派と反主流派が票の取り合いをしていて、味方を増やすのも一つの企業戦争だった。芳の里はNWAの許可を得てUNヘビー級選手権を復活させ、管理権を全日本プロレスに一任した。復活王座決定戦は8月28日両国・日大講堂で行い、鶴田がアメリカ代表の前NWA世界王者ジャック・ブリスコを2−1で降して、シングル初戴冠をなしとげた。鶴田は着々と、私の後を継げるレスラーに成長していた。

 10月15日には天龍源一郎の入団を発表した。鶴田に初めて会った時は“これは大成する素材”と感じたが、天龍からプロレス入りを打診された時は、
「これはもう、出来上がった格闘技者だ」
 という印象を受けた。元前頭筆頭だから当然かもしれないが、すぐに鶴田に追いつき、やがては二人が全日本プロレスを背負ってくれると、私は大きな期待をかけた。その割りに天龍の大成に時間がかかったのには、私にも責任がある。

 鶴田の場合は、私にパートナーがいなかったから、私も懸命に引っぱっていた。これから10年後の輪島大士は、手取り足取りして一から十まで数える時間が私にはあった。だが天龍の場合は、鶴田が私のベスト・パートナーとして定着し、私も2冠王でバリバリやっていた。正直なところ天龍には、鶴田や輪島ほど手がかけられなかったのだ。その点では、天龍に苦労させてしまったと思っている。ただ誤解のないように書いておきたいが、62年6月に天龍が阿修羅・原と組んで起こした革命行動は、彼の純粋にプロレスを愛する気持ちから出たもので、このレスラーとして育ち方とは関係ない。天龍は、ひがみとねたみといった小さな根性は全く持ち合わせていない男だ。

 この年10月28日私と鶴田のコンビは、大木、キム・ドク(タイガー戸口)組の挑戦を受けてインター・タッグ王座13度目の防衛に失敗、初めて同王座から転落した。ソウルでの交通事故で重傷を負い、頭に包帯を巻いたままの大木をカバーしたこの時のドクのファイトは、素晴らしかった。同王座は12月9日に奪回、私と鶴田はそろって2冠王として年を越した。


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