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「王道十六文(完全版)」第十一章 NWA世界王座奪取 Part1

[2006年08月01日]

 全日本プロレス旗揚げ2年目の昭和49年は、新春シリーズ後半戦を『NWAチャンピオン・シリーズ』として、現王者ジャック・ブリスコ、前・元王者ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイスが参加した。レイスは前年5月、ドリーが4年3ヵ月間保持した王座を奪ったが、7月プリスコに敗れ、57日天下に終わっていた。ドリーが王者のころは、親父のシニアが全日本プロレスのブッカーでありながら、私がNWA会員でなかったために、来日させることが出来なかった。プリスコは、全日本プロレスのマットに上がった最初のNWA世界王者だった。

 私は1月23日長崎大会でブリスコに挑戦、1-1の後両者リングアウトで引分けたが、この試合で“勝てる!”という感触をつかんだ。この日は私の36歳の誕生日。
「今年中に必ず、NWA世界王座に着いて見せる」
 と私は自分自身に誓った。だが続けざまに挑戦はせず、同30日両国・日大講堂大会では鶴田に初挑戦のチャンスを与えたのは、私のPWF王座にレイス、ドリー、プロフェッサー・タナカらが連続挑んで来たことと、やはり鶴田に大試合の経験を積ませておきたかったからだ。私は、
「次にブリスコを呼んだ時が、勝負だ」
 と内心、それまで彼の王座が続いていることを祈った。

 2月に入った突然、国際プロレスのエースだったストロング小林がフリーを宣言し、私と猪木に挑戦状を送ると発表した。私には寝耳に水だったし、結局挑戦状を受け取ってはいない。後にある記者に聞いたところでは、これは新日本プロレス側が仕掛けたものだったという。あってはならないことだ。ましてや国際プロレスは、3月いっぱいでTBSの放映が打ち切られることになっていた。全く無名だった小林をスカウトし、手塩にかけて育てあげた吉原功代表の心中は、察するに余りある。私は、旗揚げ当初に若手レスラーを借り出した恩義に報いるために、国際プロレスへの助っ人出場を決意した。

 小林の挑戦を猪木はすんなりと受諾し、韓国から飛んで来た大木金太郎がその勝者に挑戦の名乗りをあげるなどしてマスコミの話題をさらい、猪木−小林戦は3月19日蔵前国技館で実現した。私が怒る筋合いでのものではないかもしれないが、
「馬場、猪木両者に挑戦したが、猪木だけが受けた」
 とファンに印象づけるやり方には、腹が立った。吉原代表の怒りは、私などの何層倍だったろう。

 私は、高千穂明久、大熊元司、サムソン・クツワダの3選手を連れ、国際プロレスのビッグチャレンジ・シリーズに、開幕戦3月26日仙台大会から出場した。開幕戦を仙台に持って来たのは、初渡米武者修行から1年ぶりに凱旋する同地出身の大剛鉄之介に、帰国第1戦を飾らせるためだったという。だが、大剛は、猪木と小林が戦った3月19日に、カナダのカルガリ郊外で交通事故に遭い、右足を切断していた。

 私たちは仙台を振り出しに、まだ雪の深かった北海道をサーキット、南下して4月11日大阪府立体育館大会まで、全12戦に出場する予定だった。だが最後の日の大会場大阪大会は、前売券は売れていたそうだが、交通ゼネストのために中止となった。国際プロレスはつくづくツイていなかった。

 大阪から車を飛ばして帰京し、4月13日開幕した第2回チャンピオン・カーニバルは、5月11日前橋大会での決勝戦で私が覆面ミスター・レスリングを降し、2連覇を達成した。3月16日に日本デビューを果たしたアントン・ヘーシンクも出場したが、頼りになる戦力とは言えず、彼もこっちも“お客さん”という感じだった。ただ、テレビ視聴率のアップに貢献してくれたことは、感謝している。

 国際プロレスは10月に東京12チャンネル(現テレビ東京)の放映が開始され、私も陰ながらホッとした。エースを他団体に引き抜かれて潰れたのでは、日本マット界のイメージが悪すぎる。

 10月10日には蔵前国技館で猪木−大木戦が行われ、またぞろ私の名前も持ち出されたが、このころの私は、12月に来日が決まったブリスコへの挑戦で、頭がいっぱいだった。じっくりと調整して、体調をピークに持っていかなければならない。11月5日東京・大田体育館で、進境著しいディク・マードックのPWF王座挑戦を受けた試合では、日本ではそれまで使ったことのない回転エビ固めでピン・フォールを奪った。
「君、あんな技をいつ覚えたんだ!?」
 とスポンサー筋の人にヘンな褒められ方をしたが、“俺にも出来るよ”というところをちょっと見せたまでで、これもブリスコ戦に備えてのテストのようなものだった。

 12月2日鹿児島大会で、私はブリスコに挑戦した。
「バディ・ロジャース、ルー・テーズ、ジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニアに比べて、ブリスコは小粒だ。俺は勝てる」
 と私はしきりに自己暗示をかけて、リングに駆け上がった。足が軽かった。1本目は11分47秒アゴに16文キックをたたきこんで先取した。2本目は5分39秒アッという間にブリスコ十八番の足4の字固めを決められた。早目にギブアップしたのは3本目を考えてのもので、野球で言えば満塁策。次を打ち取れる自身があったからだった。そして3本目、私は大試合用の秘密兵器としていたランニング・ネックブリーカードロップの機を最初から狙い、3分20秒ズバリと決めた。

 ブリスコの体のにおヽいかぶさり、ジョー樋口レフェリーの3カウントを聞いた時は、“やったあ!”と思った瞬間ジーンと両目がかすみ、頭の中が真っ白になって、気がついた時は若手たちにかつぎ上げられていた。腰に巻いたベルトの感触は、ちょっと言葉では言い表わせない。力道山も生涯の夢とし、そのころの私には高嶺の花どころか、天の花のように思えたNWA世界王座に、いま私は着いたのだ。
「プロレスラーになって、本当に良かった。俺は幸せ者だ!」
 満足感、幸福感、感激、狂喜、みんな一緒くただった。

 3日後の12月5日両国・日大講堂では、ブリスコのリターン・マッチを2-1で退けた。1本目はバックドロップで先制されたが、
「東京のファンの前で、ベルトを取られるわけにはいかん」
 とハッスル、2〜3本目を連取した。何か、意地が果たせてホッと安堵したのが、9日豊橋大会での王座転落につながってしまったようだ。さすがにブリスコはNWA世界を制した男。私の心のスキを見逃さなかった。この試合はブリスコの意地が、私に優っていたということだろう。

 念願のインター・タッグ王座を奪還したのは、昭和50年2月5日、テキサス州サンアントニオだった。私は、同王座を日本に取り返すべく、3回渡米している。日本プロレスの看板だった同王座は、日本プロレス崩壊後管理権が全日本プロレスに移管されていた。まだ全日本プロレスにはタッグ・タイトルがなかったから、これはどうしても手中に収めておきたかったのだ。最初は前年6月に単身渡米し、15日テキサス州コロラドスプリングスで、同地区で活躍していたグレート小鹿をパートナーに起用、王者ザ・ファンクスに挑んだが2-1で敗れた。2回目は暮も押しつまって鶴田と渡米、12月26日テキサス州アマリロで行われた『ドリー・ファンク・シニア・メモリアル」大会で挑戦したが、これも2-1で敗れた。そして3度目の正直、50年の新春シリーズ終了後に再び鶴田と渡米して、2-1でファンクスから王座を奪取したのだ。

 鶴田はこれが初戴冠だが、この試合でのファイトは素晴らしかった。私との初コンビで同王座に挑戦してから1年4ヵ月、
「鶴田こそ、俺のベスト・パートナーだ」
 と自信を持って言い切れるほど、立派に成長してくれた。この日が、真の『馬場・鶴田時代』の幕開けだった。

 その翌6日カンザスシティでディック・ザ・ブルーザーの挑戦を受け、私はPWFヘビー級王座の海外初防衛戦を行った。ブルーザーは例によって無茶苦茶に暴れたが、前日の王座奪取に気を良くしていた私も存分に暴れて、2-1で防衛に成功した。暴れすぎて、私がヒールになってしまったような試合だった。

 ファンクスは私たちを追いかけるようにして来日したが、3月8日札幌、13日両国・日大講堂大会での挑戦を、私たちはいずれも2-1で退けた。新王者鶴田の張り切りぶりは頼もしいばかりだった。

 春の第3回チャンピオン・カーニバルには、特別参加を含めてブルーザー、ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー、キラー・コワルスキーら超大物が顔をそろえ、5月3日和歌山大会での決勝戦で私がキニスキーを破り、3連覇を達成した。この決勝戦には、おかしな思い出がある。優勝した私が抱くべきトロフィーがなかったのだ。

 この2〜3日前に豊橋のデパートで開かれたプロレス展に、トロフィーは展示されていた。優勝戦当日には和歌山の会場に届けられることになっていたのだが、何の手違いか決勝戦が始まってもトロフィーが来ない。会場には日本テレビの上層部も見えていて、“さぁ大変だ”とあわてたが、無いものは仕方ない。ありふれた勝利者トロフィーを代替えに使ってセレモニーをすませたが、長いレスラー生活でも、違うトロフィーを抱えてポーズを作ったのは、後にも先にもこれ一度きりだ。

 この50年8月のNWA総会で、新日本プロレスの坂口征二、新間寿が加盟を認められた。新日本プロレス側に付いたのは、ニューヨークのビンス・マクマホン、ロスアンゼルスのマイク・ラベールら、いわゆる“背広派”だが、背広派の頭のいいところは、
「加盟拒否は独占禁止法に抵触する」
と突っついてきたことだ。会員の多くはレスラーの親分たちだから、
「そんな面倒臭いことを言うなら、入れてやれ」
 といった調子で加盟が決まった。このころからNWAには、レスラー出身者の主流派と、背広派の反主流派がはっきりと分かれるようになっていた。レスラー派には、
「背広派は金次第でどうにでも動くだろうが、俺たちはゼニじゃ動かねぇ」
 という仲間意識があって、駆け出しプロモーター時代の私は、ずいぶんとそれに救われている。その後のWWFと新日本プロレスの提携を見ても、背広派はやはり“金の切れ目が縁の切れ目”だったようだ。

 私と猪木が全日本プロレスと新日本プロレスに分かれてからこの50年までの約3年間が、猪木が激しく私を挑発したころだった。よくもいろいろと言ってくれたものだと思う。
「いたずらにタイトルを乱造し…云々」
 というセリフは、いまだに忘れない。結果的に見て、タイトルを乱造したのはどっちだったか。PWF王座は、力道山のベルトを継承してNWAが認可し、PWFが認定したものだった。その他のタイトルはすべて、日本プロレス以来の伝統を持つものだ。耳慣れない新しいタイトルを作り出していったのは、新日本プロレスではなかったか。

 その外にも、私のはらわたが煮えくり返るようなことを、次から次へと言ってくれた。すべて、猪木の挑戦を私が受けないことを攻撃してのものだったが、プロレスラーの試合は街の喧嘩ではない。ましてや他団体の選手同士が“やるか!”“やってやろうじゃねぇか”で実現するものではなく、先ずフロント同士が話し合い、実現の見通しが立って初めて公表される筋合いのものだ。それを飛び越えて言葉のつぶてだけを投げられても、返答のしようがない。また、私が答えないと見極めをつけて“攻撃”してくるのだから、やり方がエゲツなかった。

 ズバリ書かしてもらうなら、猪木が私を攻撃している最中に、猪木と新間が私にこっそり会いに来て、
「今は対決する時機じゃない」
 と言っていったこともある。芳の里の友人でマット界とは無関係の第三者を、立会人のような形で連れて来て、それを確認していったこともあった。そして翌日からまた、
「馬場! なぜ受けないんだ!」
 とマスコミを通じてアピールするのだから、何をか言わんやだ。私が、
「猪木は昨日、こう言っていた」
 と言うわけにもいかず、マスコミは喜んで猪木の言を載せる。猪木には、私の名を持ち出して宣伝に利用するという狙いがあったのだろうが、言われっ放しの私にはこんなシャクにさわる話はなかった。

 坂口、新間のNWA加盟にも、条件がついていた。
「NWA世界王者は、全日本プロレスの既得権として、新日本プロレスには出場させない。その代わりアンドレ・ザ・ジャイアントは、全日本プロレスには出場させない」
 というものだ。しかし猪木は、
「NWA世界王者は俺を恐れて逃げた」
 というように自己宣伝にすり替えてしまった。王者やNWA会員たちは、これにはカンカンに怒っていた。猪木が米マット界で信用されていない理由は、こういうところもある。

 大韓プロレス協会に招かれて初めて韓国へ行ったのは、9月21日だった。小鹿と大熊を同行したが私には試合出場の予定はなく、同協会と友好関係を結ぶのが目的だった。

 夕方の便で羽田空港を発ったため、ソウルのロイヤルホテルに入った時は、午後10時を回っていた。当時のソウルには戒厳令が布かれ、午前零時以降の外出は禁止されていたから、私たちと報道陣は、ホテルのレストランで遅い夕食を採っていた。そこへ大木金太郎が、血相変えて入って来たのだ。
「ここまで来たからには、もう逃さないぞ。俺の挑戦を受けると、今ここで返事しろ!」
 と突っ立たまま、全くの喧嘩腰だ。私はこういうやり方を好まない。翌日改めて話し合うことを約束した。

 翌日パシフィックホテルの会議室で、報道陣立会いのもとに大木と会談した。当時の韓国マット界は、文部省認定の大韓プロレス協会の傘下に3つの道場があって、大木の金一道場は反主流派の立場にあったという。そのため私の訪韓も大木はツンボ棧敷に置かれ、それが喧嘩腰になった理由のようだった。

 私には、前年10月に猪木と対決し、この年春にも新日本プロレスのワールド・リーグ戦に出場した大木が、まだ新日本プロレスと切れていないのではないかという懸念があった。大木は強く否定し、私もそれを信じて対決実現の方向で話を進めたが、後に聞いたところでは、日本プロレス崩壊後大木が個人的に保管していたインターナショナル王座のベルトに新日本プロレスが目をつけ、
「謀略で奪われてしまうのでは―」
 と不安を感じた大木が、新日本プロレスと絶縁したのだとういう。私は、団体の管理下にない王座は認めない。大木との対決はノン・タイトル時間無制限1本勝負として、10月30日蔵前国技館で実現させた。

 大木は蛙飛びのように、頭から飛んで来た。これはブロック出来たが、飛ぶと見せてのボディへの頭突きを食い、“うっ”とかがんだところを額に連打されてしまった。私はこの1週間前にアブドーラ・ザ・ブッチャーの頭突きで左額を割られ、5針縫ったばかりだった。その傷口が割れ、リング下に転落した私がエプロンに上がったところへ、大木が勝負をかけた連打を浴びせて来た。何発食ったか。私はロープをつかんで転落を防ぎ、ゴツンゴツンと頭突きを浴びながら強引にリングに入って、ランニング・ネックブリーカードロップを決めた。6分49秒の勝負だったが、決して後味のいいものではなかった。


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