「王道十六文(完全版)」第十章 全日本プロレス設立 Part3
独立して初めての昭和48年の正月を私は張り切って迎えた。新春ジャイアント・シリーズでウイルバー・スナイダー、ドン・レオ・ジョナサンを降して世界王座争奪戦を6戦まで勝ち進み、シリーズ終了後の1月31日に渡米した。アマリロのシニアから、
「NWAの臨時役員会を開くから、セントルイスに来い」
と連絡があったのだ。チェスパーク・プラザホテルで行われたこの会議に出席したのは、サム・マソニック会長、ジム・バーネット、フリッツ・フォン・エリック、ボブ・ガイゲル、ビンス・マクマホン、マイク・ラベール、芳の里、それにシニアだったが、議題は、私のNWA加盟を許可するかということだけ。加盟申請は8月の年次総会にはかるのが普通だが、なんとシニアは私のために、幹部役員に臨時召集をかけたのだった。
私の加盟に反対したのは、当時NWAの傘下団体だったWWWF代表のマクマホン、ロサンゼルスのラベール、日本の芳の里の3人だったが、深夜まで討議された結果、シニア派が賛成多数で押し切ってしまった。私は8月の総会を待たずに会員資格を得たのだが、シニアはこの年6月に急逝している。私には、シニアがそれを予知していて、強引に私の入会を急いだような気がしてならない。
2月8日に帰国すると、その日に新宿のホテルで猪木と坂口の合同記者会見が行われたことを知った。日本プロレスが崩壊したら私の所に来ることになっていた坂口が、なぜ日本プロレスを捨てて新日本プロレスに走ったのか、私にはよくわからない。ただ、崩壊後に全員合流するという約束が破られたことは事実だった。
2月10日に開幕したジャイアント・シリーズ結集戦では、私は15日札幌でブルーノ・サンマルチノ、20日仙台でパット・オコーナー、27日両国日大講堂でボボ・ブラジルを降し、世界王座争奪戦を10戦9勝1引分けで終了して、力道山ゆかりのベルトを巻いた。これを機にタイトル名をPWF世界ヘビー級選手権と改めたが、後にNWAからクレームがつき、“世界”の2文字を外して今日に至っている。
PWF(パシフィック・レスリング・フェデレーション)設立の構想は、前年から練っていた。当時ハワイとオーストラリアを股にかけていたキング・イヤウケア、マーク・ルーインが、南半球王者、ミッド・パシフィック王者などと名乗っていたが、それらを統合し、カナダ、アメリカ、メキシコの西海岸地区も加えたパン太平洋組織を確立、本部をハワイに置き、会長にロード・ブレアースを据えて、NWAの傘下団体として認可を取りつけたわけだ。ロスアンゼルスのラベールは、“敵”だったが、バンクーバーのジン・キニスキーやオレゴン地区のドン・オーエンは、シニアから声がかかったこともあって、二つ返事で賛同してくれた。
3月17日には第1回チャンピオン・カーニバルが開幕、デストロイヤーが一家を連れて日本に移住し、このカーニバルから正式に日本組の一員として出場した。それから6年半も日本に定着することになるとは、私もデストロイヤー自身も夢にも思っていなかった。私も彼も1〜2年と大ざっぱに考えていたのだが、日本テレビの『噂のチャンネル』にレギュラー出演してタレントづいたのが、デストロイヤーが腰を据えた理由だった。
このカーニバル中の4月14日、池上の本門寺で日本プロレスと百田家が合同記者会見を行い、すでに崩壊が決定していた日本プロレスの全9選手を百田家預かりとし、全日本プロレスに合流させると発表した。3月いっぱいで坂口らが新日本プロレスに移り、同時にNETも鞍替えして、テレビ放映を失った日本プロレスの命運は尽きていたのだ。4月20日群馬県吉井町大会が日本プロレス最後の試合となったが、私にはもう何の感慨もなかった。冷たい言い方になるが、私が脱退して8ヵ月、
「よくここまで保ったな」
とさえ思ったものだ。
だが大木金太郎、上田馬之助以下9選手を全日本プロレスが吸収することには、ちょっと低抗があった。私は日本プロレスを去るに当って、“崩壊したらみんな来いよ”と声をかけたが、“ハイ”と答えた連中が全員すんなり来てくれれば歓迎したものを、全日本プロレスと新日本プロレスを天秤にかけ、新日本プロレスに走った選手もいるということで、
「話が違うじゃないか」
と正直なところ内心面白くなかったのだ。すでに全日本プロレスは、現有勢力でやっていける状態になっている。
「でもまぁ、百田家の仲介じゃ、しょうがないな。レスラーを失業させるわけにもいかないし」
ということになったのだが、設立時から苦労した全日本プロレスの選手・社員の中には、
「何を今さら、ふざけんな!」
と息巻く者もいて、かつての仲間とはいえスムーズに融合とはいかなかったのも、仕方のないことだった。
この時、日本プロレスの選手たちは、仲介に立った人から、
「対等合併だ」
と聞かされたという。会社と会社の合併ならともかく、倒産した会社の従業員だった選手たちだけが、発展途上にある会社と対等合併するなど、一般常識からいってあるはずがない。日本プロレスのメンツを考えて仲介者はそういう表現をしたのだろうが、選手たちがそれを信じたことが、後のトラブルの元となった。
カーニバルは単純トーナメント方式で行い、4月21日福井大会での決勝戦で、私がマーク・ルーインを降して初優勝した。後半戦にはザ・シークが特別参加、4月24日大阪府立体育会館で私は彼の挑戦を退け、PWF世界ベビー級王座の初防衛に成功したが、これにNWAからクレームがついて、世界の文字を外すことになったわけだ。続いてアブドーラ・ザ・ブッチャーが6月14日川崎、7月26日東京体育館で挑戦、いずれも2−1で退けたが、ブッチャー人気が急上昇し始めたのは、このころだった。
アマリロ修行中の鶴田から、ドリー・ファンク・シニアの訃報を聞いたのは、大きなショックだった。シニアは6月2日夜、自宅に一家のメンバーを集めてパーティーを開き、シュート・マッチに興じていて心臓マヒを起こしたという。シニアは、全日本プロレスの大恩人だった。
その米マット界における顔を、私のためにフルに利かしてくれたことで、全日本プロレスはスムーズにスタート出来たのだ。私はシリーズ中でアマリロに駆けつけるわけにもいかず、心から冥福を祈るしかなかったが、まだ54歳だったシニアには、もっともっと生きていて欲しかった。
8月に入って私は、3〜4日の2日間にわたってネバタ州ラスベガスで開かれたNWAの年次総会に、初めて出席した。当時のNWAは強大な勢力を誇っていて、北米大陸の主だったプロモーターがほとんど出席した総会も、それは豪華なものだった。シニアの顔が見えないのは寂しかったが、前世界王者ドリー・ファンク・ジュニアが立派に後を継いで、もうかなりの顔役になっていた。
この総会で新日本プロレスは初めて、アントニオ猪木の名で加盟を申請した。NWAの会員資格は団体ではなく、年間20試合以上を主催するブッカー・プロモーター個人となっているのだ。この時芳の里が、
「ここで日本プロレスは、金を使ったんだ」
と私にそれを示唆した。昭和44年8月の総会で国際プロレス吉原功代表が加盟を申請した時、芳の里は会員を豪華なパーティーに招待して、否決に持ち込んだのだという。2月の役員会では私の加盟に反対した芳の里だったが、日本プロレスが崩壊し、選手を全日本プロレスが引き取ったことで、この時は私の味方についてアドバイスしてくれたわけだ。だが私にはその気も、金も無く、何もしなかったが、猪木の申請は却下された。
新日本プロレスは、翌年は遠藤幸吉の名で申請したがこれも却下され、その翌50年に坂口征二、新間寿の名で加盟を許可されている。このいきさつは、後にふれることになるだろう。
オランダの柔道王アントン・ヘーシンクの入団を発表したのは、9月26日だった。これは日本テレビが独自に動いて獲得したもので、私は全くタッチしていない。東京オリンピックの金メダリストだけに世界的なニュースとなり、視聴率にはかなり貢献してくれたが、結局ヘーシンクはプロレスラーとしては成功しなかった。ドリーとテリーの兄弟が後を継いだアマリロのファンク一家で修行させ、日本デビュー戦は私とタッグを組んだが、ヘーシンクは柔道世界一の看板を鼻にかけて、プロレスをイロハから覚えようとする気がなかった。ギャラは日本テレビまかせで、その点全日本プロレスの負担にはならなかったが、高い契約金やギャラをもらって昔の看板だけで通用させようという気構えでは、成功するわけがなかった。ほぼ同年齢で転向した元横綱輪島大士が成功したのは、輪島が過去の一切を捨てて裸になり、新弟子のつもりでスタートしたからだ。プロレスに対する打ち込み方が二人は全く違っていた。
10月に入って、アマリロでの半年間の修行を終えた鶴田が帰国、創立1周年記念ジャイアント・シリーズ開幕戦6日後楽園ホール大会でムース・モロウスキーを降し、日本デビュー戦を飾った。私は第2戦8日高崎大会で鶴田と初コンビを結成、ドリー・ファンク・ジュニア、ラリー・オーディ組を2−1で降して“いける!”という感触をつかみ、翌9日蔵前国技館大会では、ザ・ファンクスの手に渡っていたインター・タッグ王座挑戦の私のパートナーに、鶴田を抜擢した。
これが、旧日本プロレス組には気に食わなかったようだ。“対等合併だ”と信じいた彼らは、日本プロレス最後のインター・タッグ王者だった大木、上田組の一人が、当然私のパートナーになるべきだとしていた。だが私は、全日本プロレス百年の大計のためにも、ここは譲らなかった。怒った上田と松岡厳鉄は、荷物をまとめて会場を出て行った。上田は渡米して一匹狼となり、松岡はそのまま引退したが、私にはもう、引き留める気はなかった。
インター・タッグ戦は1−1の後時間切れ引分けで王座奪取は成らなかったが、4大スープレックスを使いこなす鶴田に、満員の国技館が沸きに沸いた。翌日のスポーツ紙は筆をそろえて、鶴田を絶賛していた。全日本プロレスに新しいスターが誕生したのだ。旧日本プロレス組との間にシコリを残すことになり、翌年1月には大木も黙って出て行ったが、鶴田を抜擢した私の判断は間違っていなかったと信じている。
旗揚げまる1年で、全日本プロレスは日本組も充実し、私は頼もしい後継者候補を得た。外人組もアメリカの大物が続々と参加してくれ、3団体随一の陣容を誇ることが出来た。経営者1年生としては気苦労ばかりが多かったが、旗揚げ前からテレビ放映も、外人招聘ルートも決まっていた私は本当にラッキーだった。独立と同時に多くの協力者を得られたことが、全日本プロレスが順調な滑り出しを見せた最大の理由だった。

