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「王道十六文(完全版)」第十章 全日本プロレス設立 Part2

[2006年08月01日]

 だが会社は発足したが、選手は私と佐藤、クツワダ、それに渡米遠征中のマシオ駒、大熊元司が参加することになっただけで、総勢5人ではシリーズを開催できない。私は国際プロレスの吉原功代表に協力をお願いした。吉原は気持ちよく、サンダー杉山のトレードと、シリーズ毎の若手選手の貸し出しを承諾してくれた。その後に百田光雄、いったん引退していた藤井誠之のカムバック参加も決まり、これで日本組は、何とかそろえることが出来た。

 次は、外人組だが、日本プロレス時代には、幹部が呼んだ外人レスラーを迎撃していればよかった私には、どうすればその招聘ルートが開けるのか、さっぱり見当がつかない。
「とにかく、ブルーノ・サンマルチノに相談してみよう」
 と私は、サンマルチノの住むピッツバーグに飛んだ。彼は、
「ユーがやるなら、出来るだけのことはしよう」
 と協力を約してくれ、そこに来ていたアブドーラ・ザ・ブッチャーも獲得出来た。

「これで何とか、突破口だけは出来た」
 とホッとした私は、その帰途、駒の遠征先のテキサス州アマリロに回った。後に駒は、
「新団体を作った馬場さんが来るということで、あの地区のプロモータやレスラーたちがざわめいていた。馬場さんのアメリカにおけるビッグネームぶりに、改めて驚かされた」
 と言っていたが、駒の遠征予定期間を切り上げて帰国させることになったため、駒が世話になった同地区のボス、ドリー・ファンク・シニアに挨拶だけはしておこうと立ち寄った私には、そういうムードで待たれていたとは夢にも思わぬことだった。

 ファンク一家は私を歓迎してくれ、まだサンマルチノの協力を取りつけただけだと聞いたシニアは、
「よし、それなら俺が、一肌脱いでやろうじゃねぇか」
 と言ってくれた。これは望外の喜びだった。サンマルチノはニューヨーク地区切っての人気者ではあるが、WWWF所属の現役レスラーだ。だがシニアは、アマリロ地区を取り仕切るブッカー(選手契約者)・プロモーターで、NWAの役員も勤めている。外人レスラー招聘窓口としては、これ以上の適任者はいないと言っていい大物だ。私は、全日本プロレス社長というブッカー・プロモーターとなって最初の渡米で、最大の幸運を引き当てたのだった。
 その後も私は、日本とアメリカの間を忙しく飛び歩いた。用事をすませて帰国したとたんに国際電話が入り、翌日また渡米したこともある。同じスチュワーデスが勤務していて、
「あれ!? 昨日お帰りになったんじゃありませんか?」
 と呆れられたものだ。

 この渡米中、私はちょいちょい試合にもかり出されたが、テキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリック、カナダ・バンクーバーのジン・キニスキーを初め、私と戦った一流レスラーたちが各地区で重きをなしていて、
「ユーがやるなら、俺も協力するぜ」
 と言ってくれたのは、本当に嬉しかった。2度の渡米武者修行中に出来た友人やライバルたち、日本プロレスの王者となって迎撃した大物たちが、“お前と戦った。いい試合をやった”というレスラー特有の親近感を私に抱いてくれていたことが、私の最大の財産となっていたのだ。
その点では大物たちを来日させてくれた日本プロレスの幹部に感謝しなくてはなるまい。

 旗揚げは10月21日と決まり、同16日にはヒルトン・ホテル(現キャピタル東急)で、百田家との合同記者会見を行った。会社設立に当っては、力道山の遺族の了解と協力も得、百田敬子未亡人と長男義浩を役員に迎え入れていたが、その百田家から、力道山が締めたインター王座のベルトが贈られたのだ。記者会見はそれを披露するためだった。
 独立計画を発表して以来何度もの記者会見を体験して、このころから私は、慎重の上にも慎重に、言葉を選ぶようになっていった。この百田家との合同記者会見でも、ある記者に、
「百田家の協力を得たのは、それを“錦の御旗”とするという意味か」
 と質問され、
「それは・・・、皆さんのご想像にお任せします」
 と答えたところ、もう一人の記者に、
「何だそれは。まるで大臣の答弁じゃねぇか」
 と言われたことを、今でも忘れない。一介のチャンピオンのころは、試合のことだけをしゃべっていればよかったのだが、やはり団体オーナーとなると、一言にも責任を持たなければならない。マスコミは両刃の剣、と言っては失礼かもしれないが、とにかくこれ以来マスコミには、非常に気を使うようになった。

 日本とアメリカの間を何度も往復した甲斐があって、旗揚げジャイアント・シリーズにはブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク、フレッド・ブラッシー、ダッチ・サベージ、ドン・デヌーチ、ジェリー・コザックと錚々たるメンバーを集めることが出来、後半戦には、ドリー・ファンク・シニアも特別参加して、試合に出場してくれた。この外人組招聘に関しても、他団体の妨害を警戒して、契約書の作成には万全を期した。日本プロレスと東京プロレスや国際プロレスの間には、しばしばそういったトラブルが起こっていたからだ。

 旗揚げ第1戦は昭和47年10月21日東京・町田市体育館で行った。21〜22日に両国・日大講堂で2連戦を挙行したかったのだが、21日は同講堂がふさがっていたため、町田大会を前夜祭として開催したものだ。日本テレビの中継放映は毎週土曜日午後8時台と決まり、町田大会の生中継が最初の放映となっている。

 この21日の昼、東京・六本木の事務所にちょっと薄気味悪い電話が入った。関西のある広域暴力団幹部の名を名乗って、
「東京に出て来たんやが、金を持って来なかった。ちょっと貸してくれや」
と言う。どうやら本人ではないらしいので、放っておいたのだが、その男は町田まで来て、控室にズガズガと入って来た。背広のポケットに手を突っ込んで刃物でも持っているようなポーズを作り、
「金を出してくれや!」
 と凄む。取り押えてみると何も持っておらず、暴力団関係の人間でもないと白状した。いろんな男がいるものだ。

 町田大会の試合中にリング・アナのマイクが故障し、音が出なくなったのにも冷や汗をかいた。“たかり屋”といいマイクの故障といい、これもただの選手だったころは他人事のような笑い話ですまされたろうが、興行責任者となるとそうもいかない。
「経営者って、気苦労の多いもんだなぁ」
 とつくづく思ったものだった。

 日大講堂大会では、力道山のベルトをかけた『世界選手権争奪戦』第1戦をサンマルチノと行い、引分けた。これは、10戦した後に私の腰に巻かれ、PWFへヘビー級王座の前身となったが、ベルトそのものは、テキサス州ヒューストンのプロレス博物館に寄贈した。

 このシリーズ中の10月31日、ジャンボ鶴田の入団発表を赤坂プリンス・ホテルで行った。鶴田はこの年のミュンヘン・オリンピックにアマレス・ヘビー級日本代表として活躍したが、私が初めて彼に会ったのは、オリンピックに備えての強化合宿中だった。独立を決意した私が、親しいアマレスOBに、
「アマレス界に、金の卵はいかないかな」
と打診、日本アマレス協会八田一郎会長の承諾を取りつけて、中央大学の合宿に鶴田を見に行ったものだ。練習は見られなかったが、バスケットボールの選手だったという鶴田の、バネを秘めた巨体に私は惚れた。
「プロレスはあくまでもヘビー級が本流だ」
 という私の持論に、鶴田はピッタリの素材だった。八田会長も積極的に話を進めてくれ、鶴田の入団はスムーズに決まった。この入団発表会の席上、鶴田が、
「プロレスは僕に最も適した就職と思い、尊敬する馬場さんの会社を選びました」
 と言った時には私もちょっと驚いたが、それまでは徒弟制度の臭いの濃かったマット界も、中大法学部卒のエリートが“就職”するようになったかと思うと、悪い気はしなかった。シリーズ後半に特別参加したドリー・ファンク・シニアに、来春の卒業を持って鶴田をアマリロで鍛えて欲しいと頼むと、鶴田の体を見たシニアは、
 「よーし、俺にまかせておけ!」
 と胸をたたいて引き受けてくれた。
 旗揚げシリーズは11月8日豊川大会で終了、19日間に全16戦の短期シリーズだったが、まずまずの成功にホッと一息つき、
「これで何とかいけそうだな」
 という感触もつかんだが、全日本プロレスの発足で日本マット界は4団体時代に突入し、最後発団体としては地方興行網の確立など、まだまだ多くの課題を残していた。私は11月29日東京体育館、30日水戸の国際プロレスの2大会に特別出場したが、これは、若手選手を貸し出してくれたお礼のためだった。国際プロレスの吉原代表は好意的だったが、日本プロレスと新日本プロレスは、ことごとに全日本プロレスを敵視していたようだ。

 旗揚げジャイアント・シリーズ第2弾は、ザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャーら6選手が参加して、12月2日に開幕した。私がデストロイヤーと、
「負けた方が軍門に降って、何でも言うことを聞く」
 ことを条件に対決したのは、このシリーズの中の12月19日新潟大会だった。“勝って日本組を充実させなきゃいかん”という経営者としての計算と、これが『世界選手権争奪戦』第4戦でもあって絶対に負けられないというレスラーのメンツがかかって、私は必死だった。当時41歳の油の乗り盛りだった“白覆面の魔王”の迫力は大変なもので、1本目は先制したが2本目はがっちりと足4の字固めを決められ、郷党ファンの前でギブアップさせられた。3本目は2人ともエキサイトして場外乱闘になり、私はデストロイヤーを鉄柱にぶつけ、辛うじて這い上がってのリングアウト勝ちをせしめた。初渡米武者修行からの帰途、38年2月にロサンゼルスで初対決して以来約10年間にわたった戦いも、これでいったんピリオドを打ち、デストロイヤーが日本組に加わっての私との初タッグは、このシリーズの最終戦12月21日後楽園ホール大会で実現した。意外なほど息がピタリと合い、と言うかデストロイヤーが実によく私のリズムを飲みこんでいて、サイクロン・ニグロ、ムース・モロウスキー組にストレート勝ちしたことを、はっきりと覚えている。

 この試合で、私の人生の大きな節目となった昭和47年の全日程を終了、全日本プロレスとしてはスタートの2シリーズをまずは成功のうちに打ち上げて、私にも、
「思い切って独立したのは、間違いじゃなかった。」
 という実感がわいた。その翌日12月22日にプレーしたゴルフの爽快さは、今も忘れられない。
全日本プロレスが、日本テレビとスポンサーを招待して、初めて開催したコンペだった。真冬のことで、午前5時に家を出た時は、まだ空には星が輝いていた。天気は無風快晴。まさに空も心も晴れ晴れして、私は快調に飛ばした。ところが、このまま飛ばしていくと優勝するとわかって、私は最終ホールでバンカーに打ち込み、ゴチョゴチョとたたいてスコアを落とした。
まさか、主催社代表の私が優勝するわけにもいかない。

 ところが、優勝したのは日本テレビでもスポンサー側でもなく、友人として招待した森徹だった。力道山に弟分のようにかわいがられ、早大から中日ドラゴンに入団して、巨人の長嶋茂雄とホームラン王を争ったこともあるプロ野球OBだ。
「なんだ、あいつが優勝するくらいなら、俺がするんだった」
 と悔やんだが後の祭り。結局私は2位に終わったが、しかしこのコンペは、“我が人生最良のゴルフ”だった。

 だが、私は34歳で独立したことによって、38歳で日本マット界から引退するという人生プランを、根本から変更しなくてはならなくなった。元子との約束を破ったことになるが、元子は何も言わなかったばかりか、逆に私を励ましてくれた。

 私は性格的に、先の先の先までを考えなければ、行動に移せないところがある。
「こうすればこうなる。こうなるとこっちがこうなって、そうするとここが心配だな」
 となると、その心配な点をクリアしなければ“よし!”とならないのだ。“やって駄目ならしょうがないじゃないか”と見切り発車することは、私には出来ない。その私が、独立に当ってはさらに一層慎重に構えたのだから、はた目には優柔不断に見えたこともあったろう。そんな時、元子に
「やると決めたんだから、思い切ってやりなさいよ」
 とケツをたたかれたようなところはあった。まわりの猛反対を押し切って私の所に飛び込んで来たほどだから、元子は私よりは即断決行型のようだ。


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