「王道十六文(完全版)」第九章 BIコンビ Part2
ワールド・リーグ戦は、開幕戦で私がゴリラ・モンスーンに、猪木がボボ・ブラジルに負け、2人とも苦しいスタートとなったが、モンスーンは山本小鉄に大番狂わせの負けを喫し、5月16日東京体育館での優勝決定戦には、日本組は私と猪木、外人組はブラジルとクリス・マルコフが同点で進出した。抽選で決勝トーナメントのカードが決められたが、私が苦手のブラジルを引いたのが、運のツキだった。前年6月に、初めてインタ王座から転落させられた相手だ。私はココバットを警戒するあまりちょっと消極的になり、30分1本勝負を時間切れで引き分けてしまった。
「しまった! 猪木にやられた!」
とこの時すでに優勝をあきらめた。次の猪木―マルコフ戦の勝者が大トロフィーを抱くことになるが、猪木は、こういうチャンスは死んでもモノにする男だ。予想通り、猪木はマルコフを卍固めに仕留めて初優勝を達成した。
私の心境は複雑だった。4連覇を阻止されて侮しくないはずがない。だが負け惜しみに聞こえるかもしれないが、私はインター2冠王だ。猪木に抜かれたとは思わなかった。私がマルコフを、猪木がブラジルを引いたら、私が優勝していたろう。リーグ戦では私は、マルコフから12分12秒背骨折りでギブアップ勝ちを奪っている。クジ運が悪かったのだ。
だが、猪木の優勝を予感していたようなところもあった。NETの放送が内定し、番組のエースと決まってからの猪木には、波に乗った勢いがあった。遠藤幸吉、ユスフ・トルコらの幹部が、懸命にもり立てていた。乗っている男は、強運をも引き寄せる。この時の猪木が、まさにそれだった。
内心ホッとしたところもあった。力道山の没後は“俺たちがやらなきゃ”と気負ったが、私がインター王座に着き、豊登が退社してからは、リング上に関しては、“俺がやらなきゃ”という気で、来日する外人強豪連の矢面に立って来た。だが猪木がワールド・リーグ戦に優勝するほどの力をつけたのだから、
「今度からはそれを二人で分担出来る」
との思いもあったのだ。私は、力道山のような絶対ワンマン・エースには向かない性格なのだろう。その意味では、猪木の優勝を祝福出来た。これが、私が優勝決定戦にも進出出来なかったとか、2年も3年も猪木に連覇されたとなったら、話は別だろうが……。とにかく、何とも複雑な心境だった。
NETの放映は7月に開始されたが、私自身に関しては、これといった変化は何もなかった。1時間番組が週2回となって、マッチメーカー(カード編成責任者) の吉村道明はそれなりに苦労したと思うが、吉村の作るカードに不満を持ったことはなかった。外部の人から、
「2局放映となって日本プロレスは収入倍増。ギャラも上がったろう」
とも言われたが、年1回定期的にギャラがアップした外は、特別なものはなかった。他の選手もそうだったのかはわからない。ただ、渋谷のリキ・スポーツパレスを出て港区北青山の貸しビルに移っていた日本プロレスが、渋谷区代官山に本社・道場ビルを新築することになったのだから、資金的に余裕が出来たことはたしかだろう。
8月にディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキーの“極道コンビ”が来襲、11日札幌大会で、BIコンビはインタータッグ王座を奪われた。この年2回目の転落だ。コンビとしては日本初登場の極道組は、スナイダー、ホッジ組のようなテクニックはないが、パワーと迫力は桁違いだった。これは2日後の13日大阪大会で奪還したが、この時日本プロレスは、6日間に8戦のタイトル・マッチを行っている。8月9目名古屋大会はアジア・ヘビー級(大木)、同タッグ猪木、吉村組)王座の防衛に成功、10日東京・田園コロシアム大会で私がザ・ブッチャー(ドン・ジャーディン)の挑戦を退けてインター王座を防衛、札幌大会は2連戦で、11日にBIコンビが王座転落、12日には私がブルーザーのインタ王座挑戦を退け、13日大阪大会でBIコンビがインタータッグ王座に返り咲き、14日広島大会では再びアジア両王座を防衛、というわけだ。私は4日間連続タイトル・マッチに出場している。
だがこれは、この自伝を書くために古い資料を調べて、
「あれ? こんなこともあったっけ?」
と思い出したもので、当時はビッグマッチが続いても全く気にならなかった。リングに上がるのが楽しくて面白くてたまらなかったころで、札幌での王座転落も
「なーに、大阪で頑張りゃ取り返せるさ」
とあまり落ちこまなかったのだから、天下の極道コンビを向こうに回して、BIコンビの鼻息の荒さも相当なものだった。
9月13日にはロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムでザ・シークの挑戦を退け、海外で初のインター王座防衛に成功した。11年前に力道山が、ここでルー・テーズから奪ったタイトルだと思うと、感慨ひとしおのものがあったが、相手が悪かった。シークは初来日前だったが、私は渡米武者修行中に何度もそのファイトを見ている。案の定、まともな試合にはならず、ゴチャゴチャのうちに私が2−1で勝っていた。
11月下旬に、NWA世界王者ドリー・ファンク・ジュニアが初来日、12月3日東京体育館で私は同王座に挑戦した。39年2月にデトロイトとクリーブランドでテーズに挑戦して以来、5年10カ月ぶりのNWA世界王座挑戦だった。
私は2年余に及ぶ米マット界での生活で、NWA世界王者がどれほどの権威を持ち、レスラーやファンから尊敬と憧れの目をもって見られているかを知っていた。だがキニスキーが2度も王者として来日しながら挑戦が実現しなかったのは、日本プロレスの幹部が、
「日本は日本の王者がいる」
とあえてNWA世界王座を過少評価し、来日契約に挑戦を強く要請しなかったからだった。キニスキーの2度目の来日時でも、最初から契約にもりこんでいれば、マソニックも“ノー”とは言えなかったと思う。
実は私は、ロスでシークの挑戦を受けた時、ちょっと寂しい思いをさせられた。11年も防衛戦が行われていなかったため、インター王者といっても、ロスのファンにはピンと来ない。リング・アナは私を、
「ジャパニーズ・インターナショナル・チャンピオン!」
と紹介したのだ。
「あ、インター王座は日本のタイトルになってしまったんだな」
と私は痛感した。そんなこともあって私はNWA世界王座挑戦を熱望し、幹部もようやく同王座の権威を認めるようになったのだ。
親父のドリー・ファンク・シニアにつき添われたドリー・ジュニアは、一見ひ弱な過保護ボーイに見えた。だが体をぶつけて見て私は、ビシビシと攻めこんでくる理詰めのレスリングと、柔かく弾力性のある体で私の打撃をはね返し、受け流す打たれ強さに、舌を巻いた。これなら、あの見るからに強そうな豪傑タイプのキニスキーに勝てたはずだと、初めて納得がいった。ドリーがキニスキーを破って世界の頂点に君臨したことで、マット界の流れは、剛刀一閃型から流れるように技を積み重ねていく近代レスリングの時代へと変わっていったのだ。
試合は、1本目を私がランニング・ネックプリ−カードロップで取った。20分余の攻防の末ようやくペースをつかみ、ロープに振り飛ばして32文ドロップキックを狙ったのだが、ドリーのはね返ってくるのが私の計算より早く、とっさに私もダッシュして、左腕をドリーの首に引っかけたのだ。パッと反射的に出た技だが、これが意外なほど効果があった。これ以後私は、この技を“大試合用の秘密兵器”として愛用、多くのビッグ・マッチをものにしている。
2本目は、勝ちを焦った私がドロップキックを自爆、ファンク一家の伝家の宝刀、スピニング・トーホールドを食ってしまった。何しろ初体験の技で、防ぎようがわからなかった。
3本目は、抜群のスタミナを持つ上にクレバーでクールなドリーは、私に大技連発のチャンスを与えず、ついに時間切れ引分けとなった。キメ細かい動きをするドリーとの60分フルタイムは、サンマルチノやキニスキーと戦うより、はるかにシンドかった。
昭和45年の正月には、因縁の敵ボボ・ブラジルが、弟と称するハンス・ジェームスを連れて乗り込んで来た。私たちは、
「本当は親子じゃないのか?」
と首をかしげたものだが、この“兄弟コンビ”が1月5月大阪大会でインタータッグ王座に挑戦、BIコンビはジェームスをカモにしてストレート勝ちした。ブラジルの弟でなかったら、とてもタイトルに挑戦出来るようなレスラーではなかった。
この試合後の控室で、ジェームスのふ甲斐なさに怒ったブラジルが、半殺しになるほど殴りつけたということだった。私は末っ子だから弟はいないが、もし私がブラジルの立場だったら、やはり同じことをやっていたかもしれない。
「やっぱり、身内だなぁ」
と、ちょっとホロりとさせられたものだ。
ブラジルのインター王座挑戦を2月2日札幌大会で、その帰国と入れ違いに来日した“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックの挑戦を3月3日名古屋大会で退けた私は、第12回ワールド.リ−グ戦に備えての特訓のため、同7日ハワイに飛んだ。現在の、ワイキキ・ビーチに面したマンションを買ったのは、この時だった。
このころ、すでに赤坂のリキ・アパートで一緒に生活していた元子に、私は、
「38歳で引退して、ハワイに住もう」
と約束していた。引退といってもまるっきり廃業するのではなく、日本プロレスを円満退社し、ハワイを本拠として米マット界を1〜2年、慢遊がてらサーキットしたいというのが私のプランだった。そのためにはハワイに家が要る。当時借りていたマンションは、購入するとなると3万ドル(当時1ドル360円で1千80万円)ということで、
「ちょっと高いな」
と思っていたのだが、支払い方法が長期で非常に楽だと開いたとたんに欲が出て、
「もっといいところを探そうや」
と今のマンションを買ったわけだ。絵は海ばかり描いている私は、ワイキキの浜が一望に見渡せるということで、一も二もなくここが気に入った。まだ満足出来る絵は一枚も描いてないが・・・・・・。
32歳で何とか自分の家を持てた私は、特訓にも一段と身が入り、
「あと6年、頑張るぞ」
と4月4日開幕の第12回ワールド・リーグ戦に臨んだ。前年は猪木に優勝をさらわれている。2連覇を許したら、間違いなく、
「馬場は猪木に抜かれた」
と言われるだろう。また猪木にしても、2連覇しなければ、“昨年はツイていた”で片づけられてしまいかねない。2人とも必死だった。
参加外人組は、ドン・レオ・ジョナサン、クリス・マルコフ、ターザン・タイラー、ザ・コンビクトら。公式戦で私はジョナサンと時間切れで引分け、猪木は勝った。“しまった!”と思ったが、猪木はタイラー、マルコフに足を引っ張られ、僅差で私が日本組代表となって、5月29日東京・両国の日大講堂大会での優勝決定戦で、外人組のジョナサンと対決した。猪木が勝っているジョナサンに負けるわけにはいかない。1−1の後、思い切り良く32文ドロップキックをたたきこんで、私は2年ぶりV4を達成したのだった。
夏には、ドリーについて弟のテリー・ファンクが初来日した。やたらと威勢のいいアンチヤンだったが、駆け引きなどはゼロに等しく、ファンクスが8月4日東京体育館でインタータッグ王座に挑戦して来た試合では、BIコンビはテリーをコーナーに誘ってパチパチッと袋だたきにし、ストレート勝ちを収めた。当時のテリーからは、後にNWA世界王者になるなど、全く予想もつかなかった。
だがドリーには、またもやシンドイ目に合わされた。忘れもしない7月30日大阪府立体育会館大会だった。この時はドリーが私のインター王座に挑戦したのだが、冷房設備のない真夏の旧府立体育会館のむし暑さは、実にレスラー泣かせだった。ましてや超満員で、テレビのライトに焼かれたマットはさわると熱く、リング上は40度を越えていたと思う。試合時間5分でノビてしまった若手選手もいたほどだった。その条件の中で、1-1となったのが通算45分40秒。2人ともすでにスタミナを使い果たしていた。3本目、もつれてリング下に転落したが、もう這い上がる力がないばかりか、意識までもうろうとしてきた。この時、私は心の中で、
「お母さーん、何とかしてくれヨー」
と叫んでいた。人間の感情って、全く不思議だと思う。大の男が、もう頭も体も半ば機能を失いかけると、子供に帰って母親の懐に飛びこみたくなるのかもしれない。ドリーも立ち上がれず、6分55秒両者リングアウト引分けとなった。通算タイム52分35秒。この数字は今も忘れない。
8月の末にはアブドーラ・ザ・ブッチャーが初来日した。全くの無名で、技も頭突きぐらいしかなかったが、脳天チョップを打っても私の手がしびれるほどの頭の堅さと、いくら流血してもケロリとして突っこんでくるタフさには驚かされた。9月5日に、当時南千住にあった東京球場でシングル初対決した試合では、ピッチャース・マウンドの上に組まれたリングから開始後すぐに場外乱闘となり、内野に椅子が置かれた客席を突き抜け、外野の芝生で殴り合ったすえ、三塁側タッグアウトまでもつれこんだ。ファンがリングに上って“高見の見物”を決めこんでいたものだ。
11月には、第1回NWAタッグリーグ戦が開催された。この大会にはBIコンビは解体され、私はミツ・ヒライと、猪木は星野勘太郎と組んで出場、猪木組が優勝している。タッグマッチの優勝争いの大会は、日本プロレスとしては初めての試みで、BIコンビを分けたのも、
「BIコンビが出場すれば優勝して当然。優勝戦線を面白くしよう」
というフロントの意向によるものだったが、さっぱり盛り上がらない大会となって、興行的にも成功とは言えなかったようだ。このころ、日本プロレス内部には日本テレビ派、NET派といった派閥のようなものが出来、NET派の幹部に、私と猪木を対立関係に置こうとする動きがあったことも、何か私には釈然としなかった。
このタッグリーグ戦に参加した外人組は、ニック・ボックウィンクル、ビッグ・ジョン・クイン組、アーニー・ラッド、ロッキー・ジョンソン組、ボブ・ループ、ラーズ・アンダーソン組らだったが、なぜかネクラの選手ばかり集めた感じで、私はもう一つ乗れなかったところもある。私はやはり、リングに上がると会場がパッと明るくなるような、ネアカな選手が好きだ。その乗れない気分の大会が終わった直後にジン・キニスキーが来日、12月3日大阪大会で私はインター王座を奪われ、タイトルをアメリカに持ち去られてしまった。
NWA世界王座から転落して1年10カ月のキニスキーは、精神・肉体両面の疲労もすっかり取れたはかりか、ファイト内容も微妙に変わっていた。王者のプライドに縛られて出来なかったエゲツない反則プレーを、随所に見せたのだ。しかも私には、どうしてもキニスキーに貫録負けてしているところがあった。
「畜生! そうはいかんぞ!」
と思っても、かえってそれが焦りになってしまう。無冠となったキニスキーの、インター王座にかける執念も違っていた。1本目は先取したが、物の見事に私は2フォールを奪われてしまったのだ。
キニスキーをロスまで追いかけ、12月19日に挑戦、
「奪還しなきや日本に帰れない」
と死にもの狂いで戦って、ようやくベルトを取り返した時は、本当に嬉しかった。これでどうにか46年の正月も、インター2冠王で迎えることが出来たのだった。
昭和46年は、実にいろいろなことがあった年だった。2月にミル・マスカラス、スパイロス・アリオンが初来日し、3月2日蔵前国技館でインタータッグ王座に挑戦して来た。
マスカラスは、この初来日で人気爆発したが、正直言って私は、この手のタイプが好きではない。力道山から教わり、アメリカで覚えた私のプロレス理念とは、全く別のところにマスカラスはいた。キンキラキンに着飾り、きざなポーズでファイトされたんじゃ、例えは悪いかもしれないが、振袖を着た女性に喧嘩を売られたようなものだ。こっちの方がてれてしまう。国技館での防衛戦でも、マスカラスのドロップキックを手ではたき落とし、蹴っ飛ばしたのが記憶にあるくらいで、
「寛チャン、こいつは頼むよ、俺はアリオンを引き受ける」
と猪木に任せてしまった。そのマスカラスを、全日本プロレスを旗揚げしてからは常連として呼ぶようになったのは、プロモーターとしての私がその人気を認めざるを得なかったからだ。レスラーとしての私は、やはり対戦するのはご免だった。
3月26日には猪木が、ロサンゼルスでジョン・トロスを降し、UNヘビー級王者となった。番組のエースとした猪木に何とかタイトルを取らせたかったNETが、日本プロレスの幹部を動かし、幹部がNWAサム・マソニック会長に働きかけて、挑戦権を獲得した猪木がそのチャンスをものにしたわけだ。これで日本プロレスにシングル王者は二人となった。猪木の格を引き上げ、私と猪木を対立させようというNET派幹部の思惑が、はっきり形となって表われたのだ。猪木に第11回ワールド・リーグ戦の優勝をさらわれた時と同じように、私は心中複雑な思いをさせられた。
4月2日に開幕した第13回ワールド・リーグ戦には、ザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カール・コックスらが参加した。シングル王者となった猪木がこの大会に優勝すれば、NET派の幹部は待ってましたとばかり、
「日本プロレスのエースは猪木だ」
と宣伝するだろう。そうなっては日本テレビに対して申し訳ない。私は2連覇目指して燃えた。
開幕戦ではイレ込みすぎてコックスに反則負けを喫したが、その後は慎重に星を稼ぎ、5月19日大阪府立体育会館での優勝決定戦に進出したが、猪木も同点、外人組ではデストロイヤーとブッチャーが同点だった。第11回大会と同じケースだ。決勝トーナメントは抽選で私がブッチャーを、猪木がデストロイヤーを引いた。
先に行われた猪木−デストロイヤー戦は、両者リングアウト引分けに終わった。私は試合は見ずに、控室でジーッと時のたつのを待っていた。前々年の猪木も、多分そうだったろう。ブッチャーとの試合は両者流血の末、空手の連打から32文ドロップキックで私が勝った。嬉しいというよりは、ホッとしたという気持ちの方が強かった。
大トロフィーを抱えて引き揚げると、何か控室の雰囲気がおかしい。猪木は、
「馬場さん、おめでとう」
と握手を求め、私もその瞬間は、
「やっぱり猪木はいいヤツだ」
とぐっと胸に来たが、その直後に報道陣から、猪木が私のインター王座挑戦を宣言したと開かされたのだ。別に意外ではなかった。
「あっ、やっぱり来たな」
という感じだった。以前からNET派幹部の間にそういう動きがあって、私は、
「そんなに大ゲサにせずに、やるなら道場でやればいいじゃないか」
と言ったことがある。だが彼らが欲しかったのは、力道山以来日本マット界のエースの象徴とされたインター王座だったのだろう。私は、
「街の喧嘩じゃあるまいし、“やりたい”“よしやろう”でタイトル・マッチが出来るものではない。タイトルを管理するのは団体だ。団体が認可するなら、私はやる」
と上層部に一任した。この私の考え方は、今も変わっていない。結局日本プロレス・コミッショナー、同協会、同興業会社で協議の結果、この間題は“時期尚早”として見送られた。
この後も、BIコンビにそれほどヒビは入らなかった。二人ともプロだし、元々息がピッタリ合っているというよりはお互いに張り合って来たコンビだから、気まずい思いを闘志にすり変えられるところもあったのだ。
七月十八日に、母・ミツが亡くなった。この日私はTBSの人気番組「ドリフターズ全員集合』のゲストに駆り出され、都下府中市の市民会館に行っていた。そこへ三条から母の危篤だという電話が入り、私は“帰してくれ”と頼んだのだが、レスラーのゲストは私だけで、TBS側に、
「番組に穴があいてしまう。頼む」
と拝み倒され、頼まれると弱い性分で仕方なくやっているうちに、亡くなったという電話が入ったのだった。番組終了後に三条へ飛んで帰り、通夜には間に合ったが、翌日はサマービッグ・シリーズの開幕戦。私は葬儀には出席せず、一睡もしないまま後楽園ホールに駆けつけた。吉村に、
「何だ、帰って来たのか。葬式ぐらいはすませてくればよかったのに」
と言われたが、私には
「プロは、どんなことがあっても私用で欠場してはいけない」
という信念があったし、聞こえは悪いが、
「死んでしまったものは仕方がない」
という気持ちもあった。私は父も母も、とうとう死に目に会えなかったが、生きている間は、私なりに精いっぱい大事にしたつもりだ。若い選手たちにも常々、
「年をとれば死ぬのは仕方ない。親は生きているうちに孝行しておけ」
と言っている。それこそ、墓に布団を着せても親は喜ばないと思うからだ。子とすれば、両親にはもっと長生きして欲しかったが、父も母も、日本マット界のエースとなった私を見て、安心してくれていたと思う。ファイトも油の乗り盛りだった。もし今も生きていれば、トラブル続きのマット界で団体オーナとして苦労させられ、38歳で引退の予定が10年余も伸びている息子を見て、かえって心配しているだろう。
9月4日田園コロシアムで、フリッツ・フォン・エリックのインター王座挑戦を受け、2-1で防衛した試合は苦しかった。悪性の風邪で40度の熱に下痢が加わり、医師に、
「今日試合に出たら、間違いなく死ぬと俺が保証する」
とまで言われたのだ。だが欠場すればインター王座は返上になる。当時の日本プロレスの内部事情からいって、いったん返上したらどう画策され、私は返り咲きのチャンスから遠ざけられないとも限らない。私は、
「死んだら、それも運命だ」
と開き直り、半ばヤケッパチで出場した。だが、やるだけやってやれとスタートから飛ばしたのが、かえっていい結果につながったのだった。
このシリーズ終了後にはハワイで、元子と二人だけの結婚式を挙げた。9月16日にカハラ・ヒルトンホテルで、牧師とハンナという友人夫妻だけに立ち合ってもらったのだが、身内も招待客もいなくても、てれ臭くてどうしようもなかった。だいたい、あゝいう服を着たのが生まれて初めてだ。それだけでてれてしまった。もう元子との生活も永くなっていたから、一つのケジメとして式を挙げたものの、心境や生活にこれといった変化はなかったが、元子の心から嬉しそうな笑顔を見ただけでも、てれ臭いのを我慢した甲斐はあったと思っている。
秋の第2回NWAタッグリーグ戦は、猪木と坂口征二のコンビが優勝した。私は吉村と組み、久しぶりに気持ちのいい試合が楽しめたが、どうも日本プロレス時代は、タッグり−グ戦の優勝とは緑がなかったようだ。
猪木から会社改革の話を持ちかけられたのは、タッグリーグ戦が11月5日に終了してのオフの間だった。最初は、上田馬之助に、
「馬場さん、ちょっと話があるんだ」
と羽田東急ホテルに連れて行かれ、そこに猪木と、猪木のブレーンの一人である木村昭政という経理士がいた。猪木の話は二つ。
「最近、プロレスもお客さんが入らなくなって来た。せめて関東地区ぐらいは自分たちの庭だから、どの興行も入るようにしたい」
というのが皮切りだった。私も猪木もこのころは興行を手がけていたが、私の場合は熊谷大会で3万6000円の赤字を出したことが一度あるだけで、結構収益はあがっていた。大峡正男(現全日本プロレス営業部長)、原軍治(同取締役)が熱心にやってくれていたお陰だが、猪木はちょいちょい損をしていたようだ。だがプロレス人気を盛り上げるのはいいことだから、私は同意した。二つ目は、
「日本プロレスの経理に不正があるらしい」
という。私も、儲かりすぎるほどの会社の金がどこに使われているのか、いささか疑問にも感じていたので、
「うん、あるかもしれないな」
ということでその日は終わった。しばらくして今度は新宿の京王プラザホテルに呼び出せれ、猪木と木村から、
「幹部たちがゴルフに行く日に臨時株主総会を招集し、役員の改選を断行しよう」
と打ち明けられた。これはちょっと話が荒っばすぎるんじゃないかと思った私は、このことを芳の里社長に話し、
「もう少し様子を見てみる」
と言っておいた。猪木たちは“連判状”を作り、選手たちに署名を求めて来たが、それには、芳の里、遠藤幸吉、吉村道明3幹部を追放するとあった。私は、
「吉村さんはこのリストから外すべきだ」
と主張、ちょっともめたが、猪木たちはそれを了承し、私も署名した。だが最終的に出来上がった“連判状”の追放幹部には、吉村の名も入っていた。私は彼らのやり方に疑問を持たざるを得なかった。この話は幹部たちの耳にも入り、
「とにかく皆で意見を交換し合おう」
と役員会議が開かれたが、猪木は自分の代理人に木村を立てた。この木村という男は実に話が巧い。聞いていると“なるほど”と納得させられ、
「それでは彼に監査を任せよう」
ということになって、芳の里は社長代行の委任状を木村に渡した。これが11月29日横浜大会の出発前のことだった。
だがどうにも納得のいかなかった私は、翌30日京都大会終了後、次の試合地名古屋に移動する京都の駅で上田をつかまえ、
「いったい何をたくらんでいるんだ。ひょっとしたら大変な悪事に加担することになるかもしれないぞ。今なら、まだ間に合う」
と問いつめた。そこで上田が洗いざらいぶちまけた話を聞き、驚いた私は名古屋を通り抜けてそのまま東京に直行、代官山の日本プロレス本社に駆け込んだ。ちょうど、木村が会社の金庫を開け、書類を持ち出して調べているところだった。芳の里はその横で、のん気にポーカーをやっていた。芳の里は、事態を全く楽観していたのだ。このシーンは、ちょっと忘れられない。
私は木村から、社長代行の委任状を取り上げ、芳の里に返した。その後芳の里は上田から計画の全貌を聞き、猪木を断罪する腹をくくったようだった。
こんな状況の下で、12月7日札幌大会でBIGコンビがドリーとテリーのザ・ファンクスの挑戦を受けたのだから、勝てるはずがなかった。2−1で敗れ、ファンクスはタイトルをアメリカに持ち帰った。これがBIコンビの最後の試合となった。12月13日に芳の里は猪木の除名を発表。私と猪木はついに袂をを分かったのだった。

