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「王道十六文(完全版)」第八章 インター二冠王 Part2

[2006年08月01日]

 ハワイでは10日間、坂口をパートナーとして特訓を積んだ。坂口にプロレスのイロハを教えたのは私ということになる。柔道日本一を鼻にかけるようなところは無く、人間的にも素直な、好感の持てる好青年だった。坂口をハワイに置いて2月27日に帰国した私は、翌日に来日するサンマルチノのことでもう頭がいっぱいだった。

 サンマルチノには私は、特別な感情を持っている。初渡米武者修行中のニューヨーク時代に、ともに駆け出しだったサンマルチノと私は出世を誓い合い、私が帰国して第5回ワールド・リーグ戦に参加していた38年5月に、サンマルチノは私の大好きなレスラーだったバディ・ロジャースを破ってWWWF王者となった。そのサンマルチノの王座に、再渡米武者修行から帰国する直前の39年2月17日、マジソン・スクェア・ガーデンで私は挑戦したが、ニューヨーク市条例に引っかかって、試合開始後15分そこそこで打ち切られ、記録上は負けとされている。悔しさ、懐しさ、気負いが、私の心の中で複雑に入り混じっていた。

 このころの私は、サンマルチノの実力をそれほど高くは買っていなかった。グリーンボーイ時代の彼は、力だけの選手という感じだった。私が挑戦した時も、サンマルチノは地元だけあって市条例を意識してか、力まかせにガンガンと短期決戦に持ち込んで来た。王者になってからの彼は、試合時間が短いことでも有名だった。そんなことから私は、
「一本調子の短期決戦型パワー・ファイターでスタミナに難点がある」
 と見ていたのだ。

 サンマルチノとのインター王座戦契約は2戦となっていた。ブルーザーも、4〜5回防衛のゴリラ・モンスーンも、6〜7回のエリックもそうだったが、日本マット界では、超大物外人レスラーを来日させた時はこれが通例となっていて、緒戦で王者が敗れた場合の、リターン・マッチの権利を確保しておくわけだ。第1戦は3月2日大阪府立体育会館で、1−1の後両者リングアウトで引分けた。通算試合時間は15分56秒。
「よーし、第2戦は長丁場に持ち込んで勝負してやれ」
 と私は、かなりの自信を持ってスタミナ勝負に出る作戦を立てた。

 ところがこれが大変な誤算。第2戦は3月7日蔵前国技館で行われ、1本目17分30秒に私が取り、2本目は13分10秒サンマルチノが取って、通算タイムは30分40秒だ。
「さあ、これからは俺のペースだ」
 と手にツバしたのだが、40分過ぎても、50分になっても、サンマルチノのスピードは全く落ちない。サンマルチノはスピードの無い選手だと思われがちだが、攻める時のダッシュは物凄いスピードで、特に投げ飛ばしてからたたき込んで来る得意の“マシンガン・キック”のスピードなど、もう絶品だった。そのスピードが、試合のスタート時と全く変わらずガンガン来るのだから、私は驚き、焦り、内心うなりっ放しで、ついに60分時間切れ引分けとなってしまったのだ。

 作戦は外れたが、試合後の充足感は何とも言えないものがあった。やはりニューヨークの帝王にふさわしいレスラーだと、この一戦以来私は、サンマルチノに対する評価を改めたのだった。

 この試合から1カ月後の4月6日、日本プロレスは猪木の復帰を発表した。東京プロレスはこの年42年1月に、国際プロレスとの合同興行を行ったが、その開幕早々に猪木と豊登が告訴合戦を起こして分裂、東京プロレスは崩壊して、猪木は北沢幹之、永源遙、柴田勝久の3選手を連れて日本プロレスに戻って来たのだ。

 猪木の復帰については、事前に私も加わった幹部会で協議され、幹部の意向が復帰に傾いていたから、私も別に反対はしなかった。前年3月に幹部が猪木を除名処分にしなかったのは、この事態をある程度予測していたからのようで、
「あゝ、やっぱりそうなったか」
 とあまり気にしないことにした。当時の私は、レスラーとして全盛期時代に突入したばかりで、「誰が来たって負けやしない」
 と自信にあふれていた。猪木をライバルだと思っていなかったこともあって、
「こんなことでガタガタ言うのは大人気ない」
 という気も強かったのだ。

 その翌7日、後楽園ホールで行われた第9回ワールド・リーグ戦前夜祭で、出場全選手がリング上に居並んだ時、私は外人組に襲われ、背広姿で飛び込んで来た猪木が、カッコよく私を救出した。猪木の復帰によって日本プロレス内部には、早くも二つの派閥が出来始めていて、幹部では芳の里、吉村は“馬場派”、遠藤、九州山、トルコは“猪木派”と色分けされるようになった。その猪木派幹部が、前夜祭セレモニーが乱闘の場と化した時、猪木に“それ行け!”とケシかけたのだろう。ま、猪木擁立派が猪木の売り出しに懸命になるのは、当然のことだ。

 このワールド・リーグ戦は、ザ・デストロイヤー以外にこれといった強敵はいなかった。5月17日横浜文化体育館での優勝決定戦に私は2−1で勝ち、2連覇を達成した。デストロイヤーとはすでに手の内を知り尽した仲で、私は初渡米武者修行から帰国する直前の38年2月に、ロサンゼルスで彼のWWA世界王座に挑戦した初対決以来、デストロイヤーと戦うことによって私の成長ぶりが確かめられるような気がして、そういう意味では楽しみだった。

 NWA世界王者ジン・キニスキーが乗り込んで来たのは8月だった。例によって2回のインター王座戦が行われた。3月のサンマルチノの時もそうだが、最近のファンは、WWWFやNWAの世界王者を来日させながら、なぜ日本組が一度も挑戦しなかったのかと、不思議に思われることだろう。それは、当時のマット界にテリトリーを尊重する風潮が強かったからだ。アメリカの各州にいるローカル・チャンピオンは別だが、太平洋を遠くへだてた日本という国に一人のチャンピオンがいる、一国のマット界を代表する王者なのだから、その権威を尊重しよう、というのが当時の考え方だった。本音を言えば、アメリカでNWA世界王者の権威を見せつけられている私は、これに挑戦したかったが、そのNWA世界王者が私に挑戦するというのも、悪い気持ちはしないものだ。

 キニスキーとは、8月10日東京・田園コロシアムでの試合を3本目両者リングアウトで引分け、第2戦は同14日大阪球場特設リングで対決した。この日は、球場とそれこそ目と鼻の先の大阪府立体育会館で、同時刻に国際プロレスの試合が行われた。マスコミはこれを『大阪夏の陣』と書き立てたが、東京プロレスの残党を吸収した国際プロレスは、これが初の単独シリ−ズだった。テレビ放映はまだ無く、日本プロレスの営業部が、
「今のうちにたたいておけ」
 と仕掛けた興行戦争だと聞いている。ファンはだいぶ戸惑ったようで、国際プロレスの切符を持った人がかなり球場の方へ来ていた。観客数は球場2万人、体育館4千人。私は巨人軍時代に満員の甲子園、後楽園のマウンドを踏んでいるが、頭の上の方まで人がいっぱいで、喚声が空から降って来るという感じは、実にまる10年ぶりのものだった。

 この時の試合は、生涯忘れられないいい思い出となっている。キニスキーも私も絶好調だった。1本目28分13秒に私が取り、2本目17分45秒に取り返されて、残り時間14分2秒は、アッという間だった。

 キニスキーとは39年の第6回ワールド・リーグ戦とそれに続く選抜戦で、何度も引分けの死闘を演じているが、実にやり甲斐のある、気分のいい相手だ。プロレスにもセオリーがあって、たとえば私がこの技を仕掛ければ、相手はこう逃げるだろう、そこで次の技は…と考えるのは、そのセオリーを基本としている。相手がそのセオリーを知らずに、あるいは無視してか裏をかこうとしてか、とにかく予想外の動きをされると、こっちは焦るし、疲れるし、試合も歯車が噛み合わなくなってくる。だがキニスキーはセオリーに忠実な、絶対に相手の裏をかくような小細工を弄さず、真っ向からガンガン来る男だった。こういう男とは、大技をフルに繰り出し合って長時間戦っても、疲れは感じないし、お客さんも喜んでくれるいい試合が出来る。マラソン選手は、足がリズムに乗って自然に動き、全く疲労を感じずに走れる状態を“マラソン・ハイ”と呼ぶそうだが、この日のキニスキーと私は、言うなれば“レスリング・ハイ”といった状態だった。時間切れのゴングを聞いても、まだまだいくらでも戦えそうで、ここで終わってしまうのが惜しい。私は思わず。
「延長だ! もう5分でもいい!」
 と叫んでいた。キニスキーも同じ気持ちだったとみえて、
「よし、延長だ! やろうぜ!」
 とすぐ乗って来た。レフェリーの許可を取って試合を再開したが、その5分もアッという間だった。試合時間正味65分。これは私のレスラー生活最長試合記録だ。試合後も、気持ちのいい汗が滝のように流れ続けた。

 キニスキーが帰国し、入れ代わりにカウボーイ・ビル・ワット、ターザン・タイラーらが来日しての秋の陣では、9月30日札幌大会で、私は実に後味の悪いインター防衛戦をやった。挑戦者はアート・ネルソン。箸にも棒にもかからないレスラーで、
「俺は何でこんなヤツと防衛戦をやらなきゃならないんだ!」
 と情無いような、ヤケッ八な気持ちで15度目の防衛を果たした。私は王者ではあるが、挑戦者を選ぶ権利は私には無い。プロモーターである日本プロレスの幹部が“やれ!”と言えば、やらざるを得ないのだ。エリック、サンマルチノ、キニスキーらを呼んでくれた時には、私は幹部に大いに感謝したが、現金なもので、ネルソンのような選手をぶつけられると、
「もうちょっと考えて選んでくれよ!」
 と言いたくなる。私がネルソン程度の挑戦者とばかり防衛戦をやっていたら、タイトルの権威は落ちるし、私もダメなレスラーに堕ちていたかもしれない。

 実際、プロモーターが選手をダメにしてしまうケースはある。これは私自身の二律背反のような話だが、私があまりレスリングをやらなくなったのは、あのアブドーラ・ザ・ブッチャーのお陰だ。全日本プロレスのドル箱として働いてくれたブッチャーには、プロモーター馬場は大いに感謝している。
「ブッチャーの出場しているシリ−ズなら、無条件で買う」
 という地方プロモーターが多かったほどだから、ブッカー・プロモーター馬場はひんぱんにブッチャーを呼んだ。だがブッチャーはレスリングをやらない。ドリー・ファンク・ジュニアやハリー・レイスとは懸命にレスリングをやっていたレスラー馬場は、ブッチャーとは喧嘩ファイトばかりやって、しかもその方が人気があったのだから、レスリングがおっくうになってしまったというわけだ。

 しかしこれは、プロモーター兼業と、年令という二つの理由があってのことで、若いころの私は、この“おっくう”になることを最大の敵と考えていた。この昭和42年ころの私には、自分で言うのもおかしいが、
「俺は誰にも負けないぞ。向かうところ敵無しだ!」
 という気概があった。だが恐ろしい敵がいなくなった時、最大の強敵は自分だった。まだ29歳で遊びたい盛りだったし、懐は暖い。
「今日はいっぱい飲みに行くか! マージャンでもやるか!」
 という気がヒョイと頭をもたげて、
「走った方がいい。練習した方がいい」
 という良心をしばしば押えつけにかかる。それを逆転させて良心に右手を上げさせるのは、大変な戦いだった。この勝負は、負けた方がその時は自分も楽だ。勝ったらあまり楽しくない。長い目で見れば勝った方がいいに決まっているが、負けたい誘惑が強い。
「敵に負けるより、自分に負けることを最大の恥と思え!」
 と私は、自分に何度も言い聞かせたものだった。

 話がいささか堅くなってしまったが、ネルソンと後味の悪い防衛戦をやった後の私は、自分に勝ち切れなかったところもちょっとあって、不愉快な気分が尾を引いていた。それが、北海道から下って来ての東北サーキット10月6日福島大会での、インター・タッグ王座転落につながってしまったようだ。

 挑戦者はワット、タイラ一組だった。リーダーのワットは体も大きくパワーも抜群で、オクラホマ・スタンピードという必殺技も持ったいいレスラーだった。だがファイトに根性曲がりのところは無かったが、日本を軽蔑したような態度をとるマナーの物凄く悪い男で、人間的には好感が持てなかった。タイラーは、フレッド・ブラッシーからクレバーさを除いたレスラーといった感じで、チームとしてはいいコンビだったと思う。このコンビに、3本目吉村がワットのオクラホマ・スタンピードを食って肋骨を痛め、7回目の王座防衛に失敗してしまったのだ。

 せっかく日本に定着させたこの王座を、不愉快な男に海外に持ち出されてはたまない。リターン・マッチが10月31日大阪府立体育会館で行われることになったが、痛めた肋骨がまだ全快していなかった吉村は、
「とにかく外人組の馬力は凄い。俺より若くて馬力のある猪木に任せる」
 と後釜に猪木を指名した。

 大阪大会では、張り切った猪木がガンガン飛ばし、私も32文ドロップキックをタイラーにぶっ放して3本目を取り、王座奪還に成功した。だがこの王座は、初防衛戦でちょっとしたアクシデントがあって返上、再び手中にして“BI砲時代”と呼ばれるようになったのは、翌43年2月からのことになる。


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