「王道十六文(完全版)」第八章 インター二冠王 Part1
昭和40年11月に、私は力道山ゆかりのインターナショナル王座に着き、スポーツ紙は、
「日本マット界、いよいよ馬場時代に突入!」
と書いてくれたが、私自身には、
「これで俺も日本マット界のエースだ」という実感はあまり湧いて来なかった。
私のイメージにある“日本マット界のエース”は、やはり力道山だ。絶対の権力を持ってマット界の項点に君臨するワンマン帝王・力道山こそ、エースの名にふさわしい人だったと思う。一にらみで周囲がすくみ上がるほどの威厳を備えていた。
それに比べれば27歳の私は、まだ若僧だ。周囲も先輩の方が多い。リング上では、この時点で日本マット界ただ一人のシングル王者だが、リングを下りれば“一介のレスラー”という気分が強かった。そのため私には、この年の暮に日本プロレス社長だった豊登が退社した詳しい事情はわからない。誰彼が陰で動き回っているとは感じていた。いろいろと私の耳に入れてくれる人もいた。だが私が正式に聞いたのは、年も明けて昭和41年1月5日、渋谷のリキ・スポーツパレスで芳の里ら幹部が記者会見を行い、豊登の社長辞任を発表した時だった。
私には、日本マット界草創期からの力道山の愛弟子で、名パートナーでもあった豊登が力道山の後継者だ、という気があった。豊登は力道山の日本プロレス社長の座を継ぎ、私はリングにだけ専念していればいいという立場だったからだろう。だが、私と組んでの“TB砲”でアジアタッグ王座を保持し、ワールド・リーグ戦にも2連覇して、両エースと呼ばれていた豊登に去られると、インターナショナル王座のベルトが、ずっしりと重く感じられた。
「とにかく俺は、力道山の後を継いだ3代目のチャンピオン(初代はルー・テーズ)なんだ。頑張らなきや」
と改めて自覚したものだった。
豊登の退社に伴う役員改選で、私は取締役に推された。参考までにこの時の新人事を書くと、代表取締役長谷川淳三(芳の里)、取締役吉村道明(総務)、遠藤幸吉(経理)、吉原功(営業)、押山保明(宣伝)が再任で、新取蹄役は馬場正平と長沢秀幸。監査役が大坪義雄(九州山)、ユスフ・オマール(トルコ)、大坪清隆となっている。取締役といっても私とベテラン・レスラーの長沢には担当は無く、私が選手会長、長沢が副会長を勤めることになった。私には別に経営に参画したいという気が無かったから、この名義だけの取締役はありがたかった。これまでと同じにリングにだけ専念していればよく、しかもボーナスは役員待遇で、念願のコトンと縦に立つボーナス袋がもらえるようになったからだ。選手会長も、私は選手隊長ぐらいに考えていた。実務は、マジメそのものの長沢がすべてやっていたようだ。当時の私は、本当に気楽な男だったと思う。今振り返って見れば、この時代が無性に懐しい。
だが練習はやった。2月にはルー・テーズが来日することになったから、それは真剣だった。テーズはこの年1月8日にジン・キニスキーに敗れ、NWA世界王座から転落したばかり。昭和33年8月に力道山に奪われたインター王座に、執念を燃やして来ることは明らかだった。
テーズとの決戦を前にして、私は引っ越しをレた。私は力道山道場に入門したころは、巨人軍の多摩川合宿に近い川崎市新丸子に住んでいたが、初マットを踏んでからは、原宿の小さな木造アパートに移った。当時の原宿は、人通りもあまり無い静かな街だった。初渡米武者修行に出るためここを引き払い、帰国後は世田谷区池尻のアパートを借りた。ジャパン・プロレス本社のあった近くだ。そして再渡米武者修行に出て、帰国後は渋谷区隠田のアパートに住んでいた。ここも静かな住宅街だが、2回も空巣に入られていた上、
「チャンピオンが住むには、どうにもチャチすぎる」
と言われて、赤坂のりキ・アパート最上階をすべて使ったかつての力道山の“城”に移ることになったのだ。独り者だから家具など知れている。今までの何倍かの広いスペースにポツンと一人・・・は落ち着かなくて、
「俺もそろそろ、嫁さんもらおうかな」
と元子のことを考えていた。
だが引っ越しをしたのが2月20日で、テーズの来日が24日だ。私は新居に一晩寝ただけで、箱根に山ごもりキャンプを張り、帰京してからはホテル・ニューオータニで、
「スタミナをつけなきゃ」
とステーキをガンガン食いまくった。これを目撃したスポーツ紙の記者に、
「馬場の食費は1日2万円」
と書かれたが、今から20年余前の2万円は、ちょっとオーバーじやなかったかと思う。
テーズとは、2月25日大阪府立体育会館でのノン・タイトル戦60分3本勝負を、1−1のあと両者リングアウトで引分け、28日東京体育館でインター王座挑戦を受けた。これは私のレスラー生活の中でも、最も印象に残る試合の一つだ。
古今東西を通じて、“プロレスの神様”と呼べるのは、テーズただ一人だと私は思っている。そのテーズに、ここというウイーク・ポイントなどあるわけがない。私はかなり強引な作戦を立てた。野球では、打者が最も得意とするコースからボール一つ外したところにウイーク・ポイントがあるとされている。ひょっとしたらテーズにもそれがあるのではないか。世界の項点に君臨し続けたテーズの必殺武器バックドロップには、二つの投げ方がある。バックから両手を相手の腰に巻いて投げる型と、ヘッドロックに来た相手の股に片手を入れるようにして投げる型だ。対戦相手の誰もがそれを承知しているから、減多にヘッドロックはかけない。逆に言えばテーズは、長時間ヘッドロックをかけ続けられたことが無いのではないか、と考えたのだ。
この戦法にはテーズもだが、体育館を埋めた超満員のお客さんも驚いた。
「危ない! バカ、やめろ!」
という客席からの声が、はっきりと聞こえた。“馬場は気が狂った”と思われたファンもいたようだ。だが私はバックドロップを警戒しながらねじ切るような首投げを、それこそ何回何十回とかけ、そのまま体重を預けてテーズを押しつぶしにかかった。最初はカウント・ワンで肩を上げていたテーズが、やがてツーになった。私は執ように同じ攻めを繰り返した。そしてついに21分13秒私はテーズを押しつぶしてしまったのだった。
私の若さと体力が物を言った強引なフォールだが、“虎穴に入らずんば虎児を得ず”といった作戦が当ったことに有頂点になった私は、2本目は見事にバックドロップを食ってしまった。ヘッドロックからの首投げ連発戦法でストレート勝ちを狙ったのだが、
「カッコいいとこも見せてやれ」
と当時得意技としていた椰子の実割りをかけようとした瞬間、私の体は宙に弧を描いていた。私はこの時の写真を、今でも大事に持っている。テーズのバックドロップも完璧だったが、アゴを引き、両手を大きく広げ、足がバッと上がった私の受身の体勢も見事だったと思う。やられた瞬間の写真を自慢するのはおかしいかもしれないが、今年(62年〉4月にNHKで青春時代の話をさせられた時も、この写真を持って行って自慢して来た。
これで2本目を奪われて、3本目は勝負を焦ったテーズが強引にバックドロップをかけようとした瞬間、私がトップロープを思い切り蹴り、2人は同体で倒れた。ともに後頭部を強打して意識もうろうとなったが、若い私の方が回復は早く、テーズの上に押しかぶさって、沖識名レフェリーのフォール・カウントを聞いた。とにかく私は“神様”から2フォール勝ちを奪ったのだ!
ディック・ザ・ブルーサーとの復活王座決定戦は、2本とも不本意な反則勝ち。そのブルーザーとの初防衛戦は、内容は満足のいくものだったが、1−1の引分けだっただけに、テーズから2フォール奪っての防衛は嬉しかった。レスラーになってよかったとしみじみ思った。
「これで俺は、チャンピオンとして本当に胸が張れる」
と誇りを持てた。同時に、初代テーズ、2代目力道山によって価値づけられたこのベルトを、私が持つことによってさらに高めなかければいけない、そのためには今後、世界の強豪連とどんどん戦いたいという意欲にも燃えた。
テーズ戦は私にとって、大いに意義ある試合だった。技についても、私はこの試合で一つの教訓を得た。2本目を奪われたのは、調子に乗った私が椰子の実割りをかけようとした瞬間だったが、テーズの頭を抱えて左足を大きく振り上げた時、マットに着いた私の右足はカカトが上がっていた。完全に重心が浮いていたわけで、そこをテーズにパッと持っていかれたのだ。1本目を私は、テーズの得意技の虚を衝いて取った。だが2本目にはテーズに同じことをやられている。ペースに乗って攻めまくっている時は、私には防禦の心構えも体勢も出来ていないことを思い知らされたのだった。だが椰子の実割りは、きれいに決めようとすればどうしても体が浮く。後にドリー・ファンク・ジュニアにもこの点を指摘されて、以来私は椰子の実割りを“お蔵人り”させてしまった。
テーズ戦を終えて、第8回ワールド・り−グ戦に備えての特訓のため、3月9日に私はハワイに飛んだ。吉村道明も13日にハワイ入りした。2年間の初渡米武者修行から帰国するアントニオ猪木とここで合流し、特訓キャンプを張って、一緒に帰国する予定だった。だが私が渡布する前の3月5日だったか、日本プロレスを退社した豊登の“新団体設立宣言”がスポーツ紙を賑わし、それには猪木も参加するようなことが書かれていて、吉村は猪木を連れ帰る役目を負わされていたようだ。“ようだ”とはいかにも無責任な言い方だが、私は経営面や政治的な動きには一切タッチせず、自分から“カヤの外”を決め込んでいたので、日本プロレスの首脳部がどういう動きをしていたのか知らなかったし、あまり関心も無かったというのが本当のところだ。正直言って当時の私が、猪木という男の存在をそれほど問題にしていなかったためもある。吉村も私も、豊登の独立宣言には半信半疑で、
「猪木は俺たちと一緒に帰る」
とそれが当り前のように考えていた。
2年ぶりに会った猪木には、日本プロレス脱退を決意したというような雰囲気は感じられなかった。豊登がハワイに入って、事態は急転したのではないか。吉村はいろいろと猪木と話し合っていたようだが、帰国する3月20日の朝、吉村から、
「猪木は帰らないってよ。豊さんの所へ行くそうだ」
と聞かされた。吉村と2人、トロピカーナ・ホテルの部屋で、不愉快な思いをしながら帰り仕度したことを覚えている。ショックと言うよりは、
「1団体で順調にいっているのに、何でトラブルを起こすのかなぁ」
というのが私の率直な感想だった。
3月21日、日本プロレス幹部は豊登と、それについていった田中忠治、木村政雄(ラッシャー)、斎藤昌典(マサ)の除名を発表した。
「猪木は豊登にだまされている」
との見解で、猪木は除名処分とはならなかった。
第8回ワールド・リーグ戦は3月25日に開幕した。私が力道山道場に入門したのは第2回ワールド・リーグ戦の直前だったが、この年に1度の“春の祭典”優勝者こそ日本マット界の最強だとするムードが、当時からあった。インター王者となった私が優勝を逸したら、それこそ最大の恥辱だ。私はカッカと燃えた。主だった参加外人選手は、初来日のウイルバー・スナイダー、ペドロ・モラレス、ロニー・メインといったところで、最強の敵はスナイダーだった。モラレスはこの時、WWA世界王者として初来日しているが、私は初渡米武者修行時代にニューヨークで、まだ16歳のグリーンボーイだった彼を知っているし、ロサンゼルスやハワイでは弟分のように扱っていたから
「ヤツも、出世したな」
といった感じで、強敵とは思わなかった。スナイダーとは格が違う。再渡米武者修行の後半、私がテーズのNWA世界王座に挑戦する直前に見たテーズ―スナイダー戦が、私が観戦した何千試合かの中でベスト・バウトだとは上巻でも書いたが、とにかくスナイダーは、当時の米マット界では十指に入る強豪だった。
実は私はこの再渡米武者修行中に、スナイダーから技を一つ教わっている。私の師匠フレッド・アトキンスと仲の良かったスナイダーは、ある日控室で、
「ユーはウェイトがあるから、これを使ったらいい武器になる」
と手取り足取りしてスクープ・スラムをコーチしてくれたのだ。現在は使い手も多いパワー・スラムを、当時はそう呼んでいた。
5月13日東京体育館での優勝決定戦は、予想通りスナイダーと私の対決となった。テーズとの60分時間切れ引分けの死闘を見て、
「こんな凄いレスラーに、俺が勝てるわけがないな」
と思った時から3年3カ月、
「俺は今やインター王者だ。ブルーザーにもテーズにも勝ったんだ。スナイダーにも負けっこない」
と私は自分に言い聞かせてリングに上がった。体は絶好調だった。スナイダーのスピード満点の大技には、ついていける日本選手は一人もいないと思っていたものだが、この日ばかりは、スナイダーの動きが見えた。体調がいいと相手の動きがスローモーションに見えるのは、野球の打者が絶好調時には、ポールが止まって見えるのと同じだ。1−1の後の3本目、スナイダーの猛タックルがはっきり見えた私は、ロープを背にしていたため、スクープ・スラムの要領でスナイダーをとらえ、ロープ越しに投げ落として、リング・アウト勝ちをせしめたのだった。自分が教えた技で敗れたスナイダーは、瞬間だったが、勝ち名乗りを受ける私にニヤッと笑って見せた。複雑な思いをこめた男っぼい笑顔が、いかにも好漢スナイダーらしかった。
初優勝を達成して銀の大トロフィを抱いた時は、本当に嬉しかった。インター王者になった瞬間よりはるかに大きく、ストレートに喜べる感激にひたった。超満員のお客さんの嵐のような祝福の拍手が、
「これがレスラー冥利というものだな」
とつくづくありがたく、嬉しかった。
このころ、4月にハワイから帰って『東京プロレス』の名乗りを上げた豊登と猪木は、旗揚げ準備に奔走していたが、日本プロレスのレスラーたちは、
「本当に出来るのかね?」
と対岸の火事のように興味を示すだけで、ライバル団体出現といった緊張感は、全くと言っていいほど無かった。幹部はいろいろな妨害工作を講じたと後になって聞かされたが、私たち“一介のレスラー”には、興行戦争など経験が無いだけに、あまりピンと来ていなかったのだ。
猪木からは私のインター王座に挑戦状が送られて来たが、私は処置を幹部に一任した。王者は私だが、王座の管理権は団体にある。その意向を無視してタイトル・マッチを行う権限が私には無いのだから、
「よーし、受けてやる」
と言えるわけが無い。私にも、この2年間に猪木がどれほど成長したか、興味はあった。
「ブルーザーにもテーズにも勝った俺だ。お前なんか問題にならん。胸を貸してやる」
とでも言えばカッコいいのだろうが、それはこの世界のルールを破ることになる。ルールが守れなければレスラーをやめるべきだ、と私は考えていたから、猪木の挑戦に対しても何の発言もしなかった。それを対戦拒否のようにとられたのでは、たまったものではない。ルール破りの発言や行動をヒロイックに扱うプロレス・マスコミにも、ここはよく考えて欲しいところだ。
ま、それはともかく、インター王座3人目の挑戦者は、7月5日東京体育館におけるキラー・カール・コックスだった。2−1のストレート勝ち防衛だったが、あまり後味のいい試合ではなかった。コックスはブレーンバスターという強烈な殺し技を持っているのだが、凶器を使った反則攻撃の好きな男だ。この防衛戦の前、7月1日広島大会で私は吉村と組み、コックス、エディ・グラハム組の手に渡っていたアジアタッグ王座を奪還したが、この試合でコックスは凶器攻撃で吉村を血だるまとし、ブレーンバスターで失神させた。カッとした私はコックスに空手チョップを乱打したが、その一発が耳に当ってコックスも大流血していた。
コックスはその恨みを晴らそうと、もう滅茶苦茶な反則攻撃を仕掛けて来た。そうなれば目には目だ。私もコックスの右耳に空手を連打し、血だるまにして勝った。“耳そぎチョップ”と呼ばれる、どうもあまり褒められたものではない新兵器が誕生した試合として、記憶に残っている3回目の防衛戦だった。
また“カヤの外”の話になるが、このころ“プロレスの殿堂”東京・渋谷のリキ・スポーツパレスが売りに出された。マットばかりかコンクリートの壁や床にも、私たちが無給現場労務者として働いた汗がしみ込んでいるパレスだが、所有者は、力道山が経営していた5つの会社のうちの親全社的存在だったリキ・エンタープライズとなっていた。だが事業半ばで急逝した力道山の借金と、遺産相続税などの支払いのため、パレスが売却されることになったのだ。
この時、吉原功は、
「パレスは日本プロレスが買収すべきだ」
と主張し資金集めに奔走したが、遠藤幸吉が“吉原は乗っ取りを策している”とこれに反対、このため吉原は日本プロレスを飛び出して国際プロレスを設立した、と言われているが、私が聞いた話はちょっと違う。
日本プロレス首脳部は、パレス買収のため4億8千万円の資金を用意し、日本プロレス・コミッショナー川島正次郎自民党副総裁、大映映画永田雅一社長が仲に入って話はまとまりかけたのだが、エンタープライズ側は5億円の値をつけた近畿観光KKに売ってしまったというのだ。結局日本プロレスは、たった2千万円の差でコロリと寝返ったエンタープライズ側に“バカ負け”してパレスを出て行くこになったのだが、4億8千万円の資金調達方法をめぐって、吉原と遠藤が対立したのかどうかは“カヤの外”だった私にはわからない。だか幹部の中では、常識人だった吉原、吉村の2人とは、私はいろいろと話し合い、相談を持ちかけたりもしていた。その吉原が日本プロレスを去ったのは、やはり寂しかった。
吉原は9月に国際プロレスを設立し、東京プロレスは10月に旗揚げに漕ぎつけた。だが私たちは相変わらず、日本プロレスという大舟に絶対の安心感を持っていた。考えてみれば日本プロレスは、前年40年に入団したアマレスの杉山恒治(サンダー)とラグビーの草津正武(グレート)を国際プロレスに、アマレスの斎藤と39年入団の大相撲十両目前だった木村を東京プロレスにと、入ったばかりの金の卵を4人とも失っている。ちょっとノン気すぎたのかもしれない。
東京プロレスの旗揚げシリーズにジョニー・バレンタインが初来日し、猪木と名勝負をやったというのは新聞でも読み、
「猪木は本当に強くなったよ」
と何人かの人にも聞かされたが、テレビ放映が無かったため、私は試合は見ていない。ただバレンタインとは、ニューヨークでもカナダでも何回も戦っているので、
「あのムードだけでも、お客さんは酔ったろうな」
とは想像出来た。日本プロレスに呼びたかったレスラーだが、これに刺激されたか日本プロレスの幹部は、次々といいレスラーを来日させてくれるようになった。その一番手が“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックだが、彼が初来日する直前に、私はインター2冠王になっている。
41年11月5日蔵前国技館で私は吉村と組み、アジア・タッグ王座をかけて、マイク・パドーシス、フリッツ・フォン・ゲーリング組のインターナショナルタッグ王座に挑戦した。ゲーリングはパワーに頼ったファイターで、パドーシスの方が手応えがあったが、それでも一流の上とはいかず、私たちは2−0のストレート勝ちで王座を奪取した。まあ順当勝ちといったところだったが、2本目のフォールを奪った吉村が、試合終了のゴングを聞くなり私に抱きついて、大粒の涙をポロポロと流し始めた。私もそれを見たとたん鼻の奥がツーンとして、涙が流れ出した。インター2冠王になったことより、熱血漢吉村の涙を初めてリング上で見た感激の方が強かったのだが、とにかくこのタイトルがその後日本マット界の看板タッグ王座になったのだから、記念すべき一戦だった。私はアジア・タッグ王座は返上した。
11月25日には、後楽園ホールに初進出した、というとカッコいいが、日本プロレス宣伝部はそううたったものの、実のところはパレスを買収しそこなったため、ここをホーム・リングとして借用することになったわけだ。会場の作りはパレスは円形、後楽威ホールは矩形だが、レスラーはリングに上がってしまえば、会場の形などは気にならない。客席がボックス・シートでもむしろ敷きでもあまり関係無く、気になるのは照明ぐらいのものだが、その点後楽園ホールは満点だ。だが私には、後楽園ホール初登場という感慨は何も無かった。それより、2日後に来日するエリックが気になって仕方無かった。
エリックとはそれまでに戦ったことは無いが一度だけ会ってはいた。初渡米武者修行でまだロサンゼルスにいた36年9月ごろ、私はコロラド州デンバーに一試合だけ単身行かされることになり、ロスの空港で便を待っていた。そこへツカツカと一人の大男が歩み寄って来たのだ。プロレス雑誌でいつも見ている顔だから、
「あっ、アイアン・クローだ」
とすぐにわかった。
「ヘイ、ユー、ミスター・パパ?」
「イエス・サー」
エリックの野太い声に、私はコチンコチンに緊張して答えた。大きな手を突き出され。あわてて握り返した。全身から発散する物凄い迫力に、私は思わず身ぶるいしてしまった。当時の私にとっては神様のような存在だったエリックが、私を知っていてくれたということだけで、もう大感激だった。
そんな、いささか情無い5年前の思い出があるから、
「今度は、気合い負けしちゃいかん」
と私はそればかり気になっていたのだ。エリックとの初対決は11月28日大阪府立体育会館での、インター王座6度目の防衛戦だった。1本目は取ったが、2本目はアイアン・クローにやられて血だるまにされた。初体験の“鉄の爪”は脳味噌が絞り出されるような感じだったが、エリックの爪が食い込んだ傷跡は、今も私の額に残っている。3本目は場外乱闘となり、辛うじてリングに滑り込んで2−1の防衛を果たしたが、控室に帰っても額からの出血が止まらず、病院に駆けつけて止血してもらった。体がポーッと暖かくなって眠気が襲い、肛門がプカプカ息をしていたという。あまりに出血多量だとそうなるらしい。
12月3日の再対決、7度目の防衛戦には、日本プロレスが初めて東京・日本武道館を使用した。39年の東京オリンピックでオープンしたこの会場は、広すぎてさすがの日本プロレスも敬遠していたのだが、超満員となって正直なところホッとした。この試合前、エリックが連れて来ていた当時12歳の長男ケビンがチョロチョロと日本組控室をのぞき、私は彼を呼び込んで“プロレスごっこ”をして遊んだ。そんなことで緊張をほぐしたかったのだが、これですっかり仲良しになったはずのケビンが、エリックとの場外乱闘中に血相変えて私に殴りかかって来たのだから、その親思いと度胸の良さには感心させられた。エリックはその後も次々と子供たちを連れて来たが、彼らが成長して一流レスラーとなっても、どうにもてれ臭くて私は対戦出来なかったものだ。
エリックとの試合は、1本目私がドロップキックで取り、2本目はアイアン・クローにやられて、3本目はエリックが沖レフェリーをはじき飛ばしての2−1で防衛に成功した。私の記憶に残るトップテンの試合の一つだ。とにかくエリックの右手一本に攻防の的が絞られ、万余の大観衆の目がその一点に集中されていた。あの、私の顔面に迫って来る大きな手の迫力は忘れられない。名勝負と言うより名場面と言った方が、ぴったり来るようだ。最後は反則で終わったが、スカッとした後味のいい試合だった。レスラーがそう感じる時は、観客もそう感じてくれると思う。リングアウトでも反則でも、おかしなフォール勝ちよりはスカッとする試合があるはずで、このエリック戦などはその典型だった。エリックやスナイダーと戦って、私は何よりもスカッとした試合をしたいと思うようになっていった。
エリックが帰国して昭和41年も暮れ、私は縦に立つボーナス袋も手にしていい師走をすごし、昭和42年の正月も充実した気持ちで迎えられた。そこへ、幹部から、
「馬場チャン、春にWWWF世界チャンピオンのブルーノ・サンマルチノを呼ぶぜ。夏にはNWA世界チャンピオンのジン・キニスキーを来日させるよう交渉している。しつかり頼むよ」
と言われたのだから、これは張り切らざるを得ない。
サンマルチノの初来日は3月1日と決まり、新春シリーズを打ち上げて、
「ハワイ特訓に行きたいな」
と思っていたところへ、柔道日本一の坂口征二が入団して来た。日本プロレスが猪木の対抗馬とするためスカウトしたとか、柔道界と一もめあったと言われているが、例によって私は、詳しいことは知らない。とにかく坂口の入団発表は2月17日にホテル・ニューオータニで行われ、同夜私は坂口と共にハワイに飛んだ。

