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「王道十六文(完全版)」第七章 インター王座奪取 Part1

[2006年08月01日]

 蔵前国技館は超満員だった。ファンは大歓声で私を迎えてくれた。私は右手の握り拳にフーッと大きく息を吹きかけた。これは私の野球選手時代からの、
「よし、一丁やってやるぞ!」
 という時に出る癖だ。

 私には、NWA、WWWF、WWA3大世界王座に連続挑戦して来たというプライドがある。同時に、“だから下手な試合は出来ないぞ”という気持ちも強かった。私にとっては新路線の第1戦ということもあって、前回の帰国でキラー・コワルスキーと対戦した時よりは、だいぶプレッシャーのかかり方が違っていた。

 黒覆面に黒長タイツ、褐色の肌をしたカリプソ・ハリケーンは、後に素顔のサイクロン・ニグロとしても来日しているが、この時が全盛だったろう。凄くタフで、驚くほど柔軟な体を持ったテクニシャン・ファイターだった。いくらポンポン投げ飛ばしても、ヒョイと起き上がって来る。逆関節を決めても、スルリと逃げられた。

 とにかく私は、一瞬の休みもなく攻め立てた。だがコワルスキー戦での手応えとは違って、椰子の実割り、空手、16文キック、ニー・ドロップとたたみかけても、ゴム人形を相手にしているようなもので、ハリケーンはポーンポンとはずんで逃げていった。“ごの野郎!”と追うと、凄いバネの利いたドロップキックがカウンターで突き刺さって来る。攻めるべきところはビシビシと攻めて来るのはさすがだった。

 ついに45分3本勝負は両者1本も取れないまま、時間切れ引分けとなった。記録上はコワルスキー戦と同じだが、内容はだいぶ違う。迫力はコワルスキー戦で、技とスピードはハリケーン戦だったと思う。どちらも我ながら気持ちのいい試合が出来た点では同じだった。控室に引き掲げた私は、
「おう、お前ようやったな……」
 と力道山がコワルスキー戦を褒めてくれた言葉を思い出していた。

 翌日、つまり昭和39年4月4日横須賀市久里浜大会から、第6回ワールド・リーグ戦のサーキットが始まった。ここも満員だった。グレート東郷からしつっこいほど、
「力道山が死んで、日本のプロレスは駄目になった。もう終わりだ」
 と聞かされていた私には、意外とも思えるほどの人気だった。

 だが私はまだ慣れていなかったせいか、力道山のいない日本組控室は、何か1本心棒の抜けたような感じを受けた。これはファンも同じことを、リング上に感じていたと思う。新路線のスタート当初は、会場に同情人気のムードが濃かったと聞かされたが、力道山を失った直後のリングは、平凡な表現だが“歯の抜けたような”寂しさは拭えなかったろう。だがその寂しさをいつまでもファンに感じさせていたのでは、新路線の行く末は見えている。私は責任を痛感し、
「俺がやらなきゃ」
 という気になった。こんな気になったのは、小学校時代の校内ドッジボール大会以来だったかもしれない。三条実業高校野球部時代は、チームの総合戦力からいって、甲子園に出場出来るとは思っていなかった。巨人軍に入ってからは“エースになってみせる”と力み、プロレス入りして初渡米武者修行から帰国した時には、“メイン・エベンターとして立派なファイトをやらなきゃ”というプライドを持ったが、“俺がやらなきゃ”というのとはだいぶ違っていた。それは、“日本プロレスのエースになってやる”というのとも違う。ドッジボールでは、私が活躍しなければ他のクラスに負けた。
「俺がやらなきゃ、日本のプロレスはファンに負けてしまう」
 そんな気持ちだった。

 久里浜大会の6人タッグ・マッチで、私は初めて優勝候補のジン・キニスキーと対戦した。アメリカでも名は聞いていたが、テリトリーが違っていたため、戦ったことはない。

 日本では“荒法師”と呼ばれたキニスキーは、荒っぽいパワー・ファイターのように思われ、またそのようにも見えたが、対戦してみて、実に懐の深いレスラーだと感心した。パンチ、キック、得意技のキチン・シンクなどを自信を持って思い切りたたき込んで来るが、その仕掛けのタイミングと瞬間のスピードには、舌を巻いた。バックドロップ、シュミッツ・バックブリーカーの大技も同じで、豪快ではあるが雑ではない。攻めも守りもセオリーに忠実で、小細工の嫌いなオーソドックスなテクニシャンだった。この2年後の昭和41年1月にルー・テーズを倒してNWA世界王者になっているが、やはりそれだけのものを持っていたレスラーだ。

 私はリーグ戦公式戦8分3ラウンド1本勝負(ワールド・リーグ戦は第1回から40年春の第7回大会まで、ラウンド制を採用していた)では、4月17日高松大会でキニスキーと時間切れで引分け、5月9日福井大会ではハリケーンにうまうまと引っかけられて反則負けを喫し、これがたたって決勝進出は成らなかった。優勝戦は5月12日東京体育館大会で豊登とキニスキーが対決、豊登が初優勝を達成している。

 その翌日から、恒例のワールド選抜戦シリーズに入った。私はキニスキーとハリケーンとは、どうしても決着がつけたかった。ハリケーンとは5月20日長野大会の45分3本勝負で、3本目反則の2−1で勝ち、同31日網走大会で2本のフォールを奪って決着をつけた。

 だがキニスキーとは、リーグ戦中の特別試合で4月7日豊橋大会が45分ノー・フォールのまま時間切れ、5月6日大阪大会が1−1の後両者リング・アウトでともに引分け、公式戦を含めて3引分けだった。選抜戦に入ってからも5月28日札幌大会で45分を1−1の後時間切れ、6月1日釧路大会は1−1の後両者リング・アウト引分けで、どうしても決着がつかない。いずれもいい試合をしたという自信はあったが、やはり面白くない。ついに選抜戦シリーズも最終戦となって、6月13日平塚大会で最後の対決が組まれた。私はこの試合、1−1の後の場外乱闘中にリングに滑り込み、辛うじてリング・アウト勝ちをせしめて、対戦成績を1勝5引分けとしたが、これはあまり後味のいい勝ち方ではなかった。キニスキ−ほどの男とは、堂々とフォールかギブ・アップで決者をつけたかった.

 この選抜戦シリーズ中に、私はアジア・タッグ王者となっている。日本での初戴冠だ。
 同王座は力道山、豊登組が保持していたが、力道山の急死によって空位となり、39年2月20日名古屋大会での王座決定戦で豊登、吉村道明組がプリンス・イヤウケア、ドン・マノキャン組を降して王座に着いた。だがこの選抜戦シリーズ二日日の5月14日横浜大会で、王座をキニスキー、ハリケーン組に奪われていた。力道山が保持していたインターナショナル・ヘビー級選手権は、故人の栄誉をたたえて永久タイトルとされ、アジア・ヘビー級王座は空位のままで、当時日本プロレスが保持していたのはこのアジア・タッグ王座だけだった。

 そこで5月29日札幌大会でのリターン・マッチで、豊登のパートナーに私が起用されたわけだが、私はこれが日本初戴冠のチャンスというよりは、相手がキニスキーとハリケーンだということで大ハッスル、1−1の後の3本目、豊登がハリケーンをサバ折りで痛めつけてから私に向けて振り飛ばし、16文キックをぶちかまして押え込んだ。

 だが正直言って、日本で初めてベルトを腰に巻いた感激は、初防衛戦の方がずっと強かった。選抜戦後の“夏の陣”(全シリーズに名称をつけるようになったのは、この翌40年からだ)の7月23日、私の母校三条実業高校のグランドでやったのだ。

 挑戦者はジョニー・バレント、覆面ザ・スポイラ一組。相手にとっては不足だったが、とにかくここは、私が毎日野球をやっていたグランドだ。びっしりと校庭を埋めてくれたお客さんは、みんな故郷の人たち。真夏だから白シャツ姿だが、母校の制帽をかぶった後輩も大勢いた。もちろん我が家の家族や親類縁者も総出。私は2年中退だから卒業生名簿には載っていないだろうが、
「俺は、帰って来たぞ!」
 と思い切りわめきたいくらいだった。チャンピオン・ベルトを締めてリングに上がり、拍手の嵐を浴びた時は、胸がキューンとして、危うく涙をこぼすところだった。もう興奮して暴れまくって、2−0のストレート勝ち。初防衛に成功したと言うよりは、
「これで少しは親孝行になったかな」
 といった気持ちだった。

 この夏の陣には、後にAWA世界王者となったニック・ボックウインクルも初来日している。テクニックも多彩でスピードも充分、しかも後年の彼と違って真っ向うからガンガン攻めて来る好選手だった。私は初対決では45分を1−1の後時間切れで引分け、再対決では2−1で勝った。だがこういうドリー・ファンク・ジュニアに共通するところのあるタイプのレスラーは、当時の日本ではまだ珍しく、パッとした人気は出なかったようだ。やはりまだまだ、ドスの利いた悪党タイプが受けていた時代だ。

『16文キック』が私の代名詞のようになったのは、このころからだ。私の足のサイズが本当に16文なのかどうかは、日本で既製品を買ったことがないからわからない。ある日、スポーツ紙の見出しに“馬場の16文キック!”とあったのを見て、
「へぇー、俺の足は16文なのかぁ」
 と驚いたぐらいのものだ。ただ、この『16』という数字には覚えがある。アメリカには私にぴったりの既製靴があって、私はロサンゼルスで買ったタウン・シューズを愛用していたが、その底に『16』とプリントしたラベルが貼ってあった。16インチということだと思うが、それを見た新聞記者が、私のカウンター・キックを『16文キック』と名づけたようだ。この昭和39年の末に、NETテレビ(現テレビ朝日)が私をとりあげた『16文の青春』という30分番組を放映し、ついに大足は私の代名詞にまでなったというわけだ。

 話はちょっと前後したが、新路線の成否を決めるとされた第6回ワールド・リーグ戦とそれに続く選抜戦シリーズは、予想をはるかに上回る人気を得て、力道山亡き後の日本プロレスは軌道に乗った。豊登と私のアジア・タッグ王者組は『TB砲』と呼ばれて日プロの看板コンビとなり、39年は1度も負けず、引分けもなしで5回の防衛に成功した。

 豊登とのコンビは、私には精神的に楽だった。前年、初渡米武者修行から帰国した時は、何度か力道山とコンビを組まされたが、最初のうちはもうコチコチに緊張した。相手の強弱に関係なく、ワンマン帝王力道山のパートナーということで、
「ヘマをやって足でも引っぱったら大変だ」
 という気の方が強かったのだ。相手の外人組も、力道山の空手チョップは食いたくないから、攻撃を私に集中してくる。精神的にも肉体的にも、かなりシンドイ試合を強いられた。

 その点、力道山は師匠だが豊登は兄弟子。緊張の度合いもだいぶ違うというもので、しかもおこがましい言い方かもしれないが、再渡米武者修行で自信をつけていた上に、アメリカでは豊登より私の方が有名だ。外人組も攻撃を私にばかり集中することはなかった。TB砲のリーダーはもちろん豊登。私は豊登に作戦のリードも任せて、かなり気楽に戦っていたというわけだ。

 これは私に限ったことではなく、力道山時代はレスラーも事務員も、力道山の前ではビーンと緊張して、いつもその顔色をうかがっているようなところがあった。力道山は、強烈な光と熱を持った太陽だった。周囲はその恩恵に浴して生きていればよかった。自ら光ろうとすることは、太陽に対する冒とくだった。レスラーたちは、太陽の周囲を回る惑星だったと言ってもいいかもしれない。太陽はオール・マイティだった。

 だが太陽が突然沈んで、惑星たちは自力で光らなければならなくなった。光らなければ、それこそ新路線の合言葉ではないが、プロレスの灯が消える。灯を消さないために小さな光を持ち寄ったのが、新路線だった。豊登も私も、その中ではいくらか大きめの光だった。つまり感覚的には、豊登以下の新路線全員が、先輩後輩の差こそあれ、かつて力道山という太陽の周囲を回っていた惑星仲間だったのだ。この仲間意識が、マット界内部をのびのびとした和やかなムードにしていたのは事実だった。当時はこれが、非常に新鮮なものに感じられた。だが、やがてそれが当り前になり、のびのびは野放図に、和やかさは甘えに変わっていったのが、後に日プロが崩壊することになる原因になったのだと思うが……。

 この年の秋の陣には、これといった大物外人レスラーは来日しなかったが、それでもオリンピックに沸き返る東京を避けて東北から沖縄までのサーキットが組まれ、かなりの人気を取ることが出来た。もう完全に、新路線は安定軌道に乗ったようだった。

 豊登がWWA世界王座に挑戦することは、この夏と秋の陣の間のオフに豊登、吉村道明、大木金太郎らがロサンゼルスに遠征して、話が煮つめられていた。11月29日に王者ザ・デストロイヤーが来日、12月4日東京体育館大会で、豊登が同王座を奪取した。

 正直言って、“私にも挑戦させてくれないかな”とは思った。豊登を押しのけて王座に着いてやろうというのではなく、私は世界タイトル・マッチという緊張感が欲しかった。ジン・キニスキーと戦って以来、夏・秋の陣には猛然と闘志を燃やしてぶつかっていくような相手がいなかったためか、何かそういう緊張感が懐かしいものに感じられるほど、私は気分的にのんびりしてしまったようだった。そんな自分にカツを入れたいという気持ちもあった。

 だがやはり、新路線のエースは豊登だ。デストロイヤーは日本で4戦していったが、私はタッグ・マッチで2回顔を合わせただけだった。それを特に不満にも思わなかったが、
「俺にやらせてくれれば、いい試合をして見せるのにな」
 と秘かに自信を持っていたのは事実だった。

 年が明けて昭和40年。新春シリーズでTB砲は2戦とも2−0のストレート勝ちでアジア・タッグ王座防衛記録を7回にのばし、閉幕後の2月1日に私は単身渡米した。これは自分から希望したもので、やはり刺激が欲しかったのだ。この遠征ではロス地区を1カ月半にわたって
サーキットし、3月21日に帰国している。

 当時の日プロは、ロスのWWAとはきわめて密接な関係にあったから、私は同地区以外に足をのばすことは許されなかったが、それなりにかなりの収穫はあった。

 前年末には『16文』が私の代名詞になっていたことは書いたが、私のカウンター・キックが16文キックと名づけられたことで、私は、
「それならこれを、俺の代表的な技にしようか」
 という気になった。何か順序が逆のようだが、これが本当のところだ。しかしいざその気になってみると、これまで、
「こんな単純なものは、技と呼ぶのも恥ずかしい」
 などと思っていたことが、大きな間違いだったと気づいた。それまではチャンスがあればやっていたのだが、得意技とするからには、そのチャンスを自分で作っていかなければならない。意識するあまりに、強引すぎたり慎重すぎたり、相手に読まれたりして、かえって下手になったような気さえしていた。バランスを崩して自分が引っくり返ったことも、1度や2度はあった。

 そこでこのロス滞在中に、同地で空手の道場を開き、ロス警察の師範も勤めていたジョージ土門に、空手の蹴りを教わったのだ。そのコツをマスターしてからは、16文キックもピタッと
型が決まってきた。

 16文キックに自信がつくと、
「このタイミングで両足で踏み切れば、ドロップ・キックも出来るんじゃないか」
 という気になった。
「そうだよ。だがドロップ・キックは、受身をとらなきゃいけないんだぜ。俺が教えてやるよ」
 と言ってくれたのは、私が弟分のようにしていたペドロ・モラレスだった。早速ジムで練習をした。モラレスが砂をつめたバスケットボールの球を片手で差し出し、私がそれをジャンプして蹴る。モラレスは体を半転してマットに着地するコツをアドバイスしてくれた。ボールを除々に上げていって、1日のうちにモラレスの顔の高さまでキック出来るようになった。これが『32文ロケット砲』と呼ばれた私のドロップ・キックとなったわけだが、私にはいささかあっけなく、
「なんだ、こんなことなら早くからやる気になればよかった」
 と思ったものだった。私の巨体ではもっともっと難しいものだと思っていたのだ。

 私のこの渡米遠征中に、日本ではマット界がゆさぶられるような事件が起こっていた。前年に新設されたばかりの警視庁捜査4課から、
「日本プロレスは暴力団の資金源となっている疑いが濃い」
 とにらまれ、日本プロレス協会の人事は刷新され、日本プロレス興業の役員にも退職者が出た。それで済めばよかったが、全国の都道府県で、
「疑惑が完全に晴れるまでは、公共施設の使用は禁止する」
 と県・市立体育館からプロレスをシャット・アウトする自治体が続出していた。

 幹部たちはあわてたようだ。ようだという言い方は無責任に聞こえるが、実際に私はロス滞在中でしかも日プロの役員でもないから、帰国後もこの間題にタッチすることはなかった。そういう点でも私は気楽な立場で、ただリングで全力投球していれば良く、
「一介のレスラーの方が、のん気でいいや」
 と政治的なことや経営面には一切首を突っ込まず、静観を決め込んでいた。今では、このころが懐しい。私のプロレス生活中、最も“いい時代”だったかもしれない。全日本プロレスを設立してからは、
「あゝ、あのころに帰りたいなぁ」
 と何度も思ったものだ。レスラーは、プロレスだけに頭を使い体を使っていられる時が、一番幸せだ。

 4月8日には第7回ワールド・リーグ戦が開幕した。参加外人レスラーはフレッド・ブラッシー、スイート・ダディ、バロン・ガトニ、ドン・マノキャン、ジャック・ペセク、アル・グリーンにミスター・モト。私の出場したワールド・リーグ戦中、最もメンバーの落ちる大会だったろう。外人組の人気はブラッシーが、食欲の方は“ゴミ箱胃袋”と言われたガトニが独占していた。

 私は開幕前夜祭のレセプションの席上、ガラにもなく、
「今年は、俺が優勝を狙います」
 と広言したが、いいところまでいったものの、ブラッシーにやられてしまった。前回優勝者豊登はシードされ、他の参加選手は8分3ラウンド1本勝負の総当り戦を行ったのだが、私とブラッシーが無敗で突っ走り、優勝戦前々日の5月19日横浜大会で対決した。私は勝ちペースで試合を進め、3ラウンドに入って水平打ちと16文キックで勝負に出た。ところが吹っ飛んだブラッシーがレフェリーのユセフ・トルコに激突、リング下に転落したトルコは、私がブラッシーを押え込んでも上がって来ないので、“どうしたんだろう?”と私がリング下をのぞきこんだ瞬間、背後からブラッシーの急所打ちを食って悶絶してしまったのだ。

 5月21日東京体育館での優勝戦には、タイツの下にボクサーや野球のキャッチャーが使用するファール・カップをつけた豊登が、これでブラッシーの急所攻撃を防ぎ切り、2連覇を達成した。

 インターナショナル選手権復活の話を幹部から聞かされたのは、このワールド・リーグ戦序盤戦のころだった。同王座は故力道山の永世タイトルとされたのだが、日プロはその復活の認可をNWAから取りつけ、秋に行われることになった王座決定戦の日本代表候補(・・)に、私を指名したのだという。

 この話を私にしたのは芳の里副社長(当時)だったが、私があまり喜ばなかったので、だいぶ拍子抜けしたらしい。実のところ私には、
「なぜ復活させなきゃいけないんだろ?」
 という疑問と驚きの方が大きく、すぐには“よーし、やってやろう”という気になれなかったのだ。

 当時の私は、プロレスラー生活を満喫していた。リングに上がれば誰にも負けないという自信があって、試合が楽しくて仕方がなかった。野心がなかったというか、“チャンピオンになりたい”とか“豊登を抜いて俺が日プロのエースになってやろう”という気は、あまり持ち合わせていなかった。心のどこかで、
「時の流れが、やがて俺をチャンピオンにし、エースにしてくれる」
 と莫然と思ってはいたが、それを積極的に取りにいって波風起こそうとは、考えてもいなかった。エースの座には、周囲が盛り立ててくれて初めて着けるのだと思っていた。

 そのころ私は、山岡荘入の『徳川家康』を愛読していた。家康の思考や行動には、共鳴出来るところが多かった。私は明智光秀にだけはなりたくない。力道山を織田信長とするなら(性格的にも、かなり共通点が多かったと思う)、豊登は豊臣秀吉、そして私を家康になぞらえて考えていたようなところもある。

 日プロがなぜインター王座を復活させなければならなかったか。それは今は私にもわかる。団体としてはやはり興行の金看板となるタイトルが欲しい。地方プロモーターからもタイトル・マッチの要請はしょっちゅうだ。日プロが、昭和33年8月に力道山がルー・テーズから奪って以来日本のファンに最も親しまれていたインター王座の復活を願ったのは、当然のことだつたろう。

 だが一介のレスラーの境遇を楽しんでいた私には、何か“泰平の夢を破られた”といった感じもあったし、相反する心理かもしれないが、
「資格獲得シリーズをやってもらう」
 という話にも、釈然としなかった。秋の王座決定戦までに、数人の強豪外人レスラーと戦うことを義務づけられたのだ。戦うことは誰とでも構わないが、私もアメリカではNWA、WWWF、WWA3大世界王座に挑戦したレスラーだ。日本人同士で日本代表資格を争うというのならまだ話はわかるが、
「何で今さら外人レスラーを相手に、資格をテストされなければならないんだ」
 という不満も私にはあった。私は、幹部の中では人間的に最も話しやすかった吉村道明に、その気持ちをぶちまけた。だが結局は、
「馬場チャン、会社には会社の営業方針というものがあるんだよ。唐突に復活させるよりは、秋までに気運を盛り上げていった方がファンも納得するだろうし、プロモーターも喜ぶからな」
 ということで説得されてしまった。やはり一介のレスラーでは、幹部が決定した“会社の方針”には逆らえない。

 だがその何となくすっきりしなかった気分も、私が“狙う”と広言したワールド・リーグ戦の優勝を逸し、豊登が2連覇を達成したことで吹っ飛んだ。
「よ−し、それなら俺はインター狙いだ」
 とふん切りがつき、ようやくエンジンがかかったのだった。


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