「王道十六文(完全版)」第六章 力道山の死 Part2
私はまずトロントでジョニー・バレンタインに勝ち、デトロイトではセミ・ファイナルでロード・レイトンと対戦した。メイン・エベントはテーズにウイルバー・スナイダーが挑戦する世界タイトル・マッチ。この試合の勝者、つまり世界王者に、私たちの試合の勝者が翌週挑戦することになっていた。
イギリス生まれのレイトンは、正統派だがテクニシャン・タイプではなく、ブルーザー・ブロディより大きな体で、若いころのスタン・ハンセンよりもっと不器用なファイトをするレスラーだったが、デトロイト地区での人気は絶対だった。得意技は、昭和32年8月に1度だけ来日して覚えたという空手水平打ち。力道山に食わされたのが身にしみて、マスターしたようだ。当然私との試合は、空手対空手の殴り合いとなった。
私の右手は、力道山の木槌でたたかれ、鍛えられている。
「俺の方が本家だ!」
とばかり私は殴り勝った。だが地元の人気者をぶっ倒したことで、観客の怒りは私に集中した。大勢のガードマンに囲まれて引き揚げる途中、私は若い黒人ファンに襲われた。どうしてガードマンの人垣をくぐり抜けて来たか不思議だが、ガードマンもレイトンのファンだったのかもしれない。2度、3度とナイフで斬りつけてくるのを、私は必死に左手で振り払った。ようやくガードマンが取り押えてくれたが、私の左手首は3カ所、スパッと切られていた。控室で応急手当をしたが、出血が止まらない。しかし私には、テーズ―スナイダー戦が気になった。左手首をきつく縛ったまま、私は花道の奥で観戦した。
私のプロレス生活26年の中で、見た試合のベスト・バウトをあげるなら、文句なくこの一戦だ。私は傷の痛みも忘れて見惚れていた。
「こんな凄いレスラーに挑戦しても、俺が勝てるわけがないな」
と思ったものだ。試合は結局時間切れで引分けた。
その夜、ホテルに帰っても出血は止まらず、私は一晩中自分で手当をしていなくてはならなかった。私の左手首には今でも、はっきりと2本、薄く1本の傷跡が残っている。
引分けでテーズが防衛したため、翌週のデロトイト大会では、挑戦権をかけてスナイダーと私が対決した。当時全盛のスナイダーに、よく勝てたものだと思う。とにかく夢中で空手とキックをたたき込み、気がついたらリング・アウトで勝っていた。
テーズヘの挑戦は、翌週2月5日のデトロイト大会で実現した。前王者バディ・ロジャースには曲りなりにも勝ち、“幻”ではあったがNWA世界王者のベルトを腰に巻いたとはいうものの、テーズの王座初挑戦には、また違った緊張があった。
「負けてもともとだ」
と開き直ってリングに上がったが、とにかく相手はレスリングの“神様”で、尊敬するこの道の大先輩だ。投げ飛ばして頭にキックをたたき込もうとしたが、おそれ多くて足がすくんでしまった。それでもテーズのエンジンがかからないうちに椰子の実割りで1本を先取したが、2本目は蛇に見こまれた蛙のようにバック・ドロップを食ってしまい、後はもうひたすら動き回っているうちに時間切れ引分けとなった。
アトキンスは褒めてくれた。それも、テーズと引分けたことをではなく、
「あの技をテーズにかけたんだから、お前も大したもんだ」
と言ってくれた。あの技とは、パッと組んだ瞬間に相手の両ひじを決め、自分の体を倒しながら巻き込むように投げる技で、テーズはこれを得意としていた。それを私がテーズにかけてきれいに投げたことを褒めてくれたのだ。
私はこれが嬉しかった。私も悪党殺法を押えて、懸命にレスリングでテーズに挑んだ。それをアトキンスが認め、褒めてくれたのだから、
「俺は、ただの大型悪党ではない」
とこの一戦で自信をつけたのだった。
この試合を、当時デトロイト地区のプロモーターだったジム・バーネットが非常に高く評価してくれ
「明日もやれ。若いお前にはその方が有利だ」
と言われて翌日はクリーブランドで再度挑んだが、これも1本は取ったものの、バック・ドロップとフライング・ボディシサーズ・ドロップの2つの“宝刀”を食って、負けてしまった。結局1引き分け1敗で決着をつけられたわけだが、2戦とも実に後味のいい試合だった。
この直後、ニューヨークのプロモーター、ビンス・マクマホンからアトキンスに連絡が入って、私たちは1年ぶりにニューヨークに乗り込んだ。時のWWWF世界ヘビー級王者は、かつて出世を誓い合った仲のブルーノ・サンマルチノ。マクマホンは前年2月にNWAを脱退してWWWFを設立、初代世界王者にバディ・ロジャースを認定したが、5月にサンマルチノがロジャース倒し、マジソン・スクェア・ガーデン(MSG)の帝王の座に君臨していた。私はこのニュースを日本で聞き、親友の快挙を祝福しながらも、
「やられた!」
という思いも強かった。マクマホンは、そのサンマルチノの王座にMSGで挑戦しろと言う。願ってもない話だった。
2月17日、MSGは超満員だった。現在のMSGは昭和43年に新築されたもので、当時は戦前からの古めかしい建物だったが、それなりに、メッカと呼ぶにふさわしい風格があった。私は試合前、3階客席のてっペんまで上がってみた。すでに前座試合が始まっていて、リングがそれこそマッチ箱のように見えた。そこで戦っているのは、2年半前に私が初めてこの地区に入った時には、足もとにも寄れなかった先輩スターたちだ。
「あゝ、俺もついにMSGでメイン・エベントを取るまでになったか。日本人として初めて、ここで世界タイトル・マッチをやるんだ」
と思うと、身が震えた。これは感激と興奮の武者震いだ。まさに感無量だった。
試合開始のゴングが鳴ったのは、午後10時45分だった。私が空手とキックをたたき込み、サンマルチノがサバ折りで逆襲する。凄いパワーだった。一進一退の攻防の後、サンマルチノが私の体をぐいっと得意のカナディアン・バックブリーカーにかつぎ上げた瞬間、ゴングが乱打された。ニューヨークには『カーフュー』といって、午後11時過ぎのプロ興行は禁止の市条例がある。それに引っかかったのだが、記録上は私の負けとされてしまった。残念だった。負けたからではなく、もっとやりたかった。いま思い出しても、あゝいう形で試合を終わらされたことに心が残る。
私は、テーズとの2戦の内容ははっきり記憶しているが、このサンマルチノ戦は、あまりよく覚えていない。だいぶ興奮していたようだ。テーズ戦には、
「あっ、俺はテーズと世界タイトル・マッチをやるんだ」
と感激したが、サンマルチノ戦は、
「あっ、俺はMSGでメイン・エベントをとるんだ」
という興奮の方か強かったのだ。
このサンマルチノ戦が、マネジャーとしてのアトキンスの、私に関する最後の仕事となった。これも忘れられないことだが、私が東郷との契約を拒否してからもアトキンスは、私をしごき、強くして、いい試合をやらせようという姿勢を全く変えなかったが、週給120ドルはやめて、ギャラが私の手に入るようにしてくれた。今でも覚えている。デトロイトのテーズ戦が4200ドル、クリーブランドが3000ドル、そしてMSGのサンマルチノ戦は6800ドルだった。3試合で1万4千ドル(当時504万円)だ。試合後プロモーターからその小切手を手渡されて、
「レスラーはやっぱリメイン・エベント、それも大会場で世界タイトル・マッチをやれるようにならなければ駄目だ」
としみじみ思ったものだった。プロとして、ワン・マッチで高額のギャラをもらうことはやはり嬉しい。アトキンスは、最後にその味を私に教えてくれた。
実は、アトキンスと私がニューヨークに入った時、遠藤幸吉とロスのWWA会長ジュリアス・ストロンボーが飛んで来ていた。ストロンボーはアトキンスに電話で、
「馬場をWWA世界王者フレッド・ブラッシーに挑戦させたい」
と交渉していたのだが、前にも書いたが当時は東部と西部のマット界は格が違っていて、私にも、
「挑戦するならNWAかWWWFだ」
という気が強かったから、いい返事をしなかった。それを、日本プロレスのアメリカ窓口を東郷からミスター・モトにスイッチするためロスに来ていた遠藤が聞いて、
「馬場はアメリカに定着する気持らしい」
と感じ取り、ストロンボーと共にニューヨークに飛んで来たようだった。
WWWF代表のマクマホンは、アトキンスをまじえて私と話し合い、アメリカ定着をすすめた。条件は、世界王者サンマルチノと同格で、パーセンテージも認めるという厚遇だった。ギャラをパーセンテージ契約した場合、MSGを満員にすれば当時で5千ドル(180万円)にはなる。現在の価値にして1千万円近い金を、1試合で稼げるわけだ。そんな話を聞けば、私が日本よリアメリカを採ると思われたのも、無理はなかったろう。
しかし私は遠藤と話し合い、
「日本プロレスは君を必要としている。新路線の成否を決める大会とされている第6回ワールド・リーグ戦に、帰国参加して欲しい」
とはっきり言われて、私も4月帰国を決意し、ストロンボーが用意して来たWWA世界王座挑戦の契約書にもサインした。遠藤は、“アメリカで引き留められている馬場を帰国させる”というお役目を果たし、安心して日本に帰ったが、ストロンボーはまだ不安だったからそのままニューヨークに居残り、サンマルチノ戦終了後はつきっきりで、私をせき立てるようにしてロスに連れて行った。
アトキンスとはここで別れた。私の帰国に一言の不満も言わず、前日まで、日課となっていたホテルの自室でのロープ引きトレーニングをやらされたのは恐れ入ったが、そういう頑固じいさんぶりが、今は無性に懐しい。
「お前の出世はこれからだ。頑張れ」
と最後に交わした握手のゴツゴツとした手ざわりも、忘れ難い。初めてこのニューヨークで東郷に紹介され、握手した時、指が曲がったまま真っ直に伸びないのに驚いたものだが、今は、私の指もアトキンスのように曲がったままだ。もうあれから25年余。私も当時のアトキンスの年令に近づいたということか。
話がいささかおセンチになってしまったが、ストロンボーと降り立ったロスの空港には、ミスター・モトが出迎えに来ていた。モトは、日系レスラーの中では私が最も好きだった人だ。モトがアメリカ窓口になるなら、日本プロレス新路線も大丈夫だろうとさえ思った。だがシカゴ、デトロイト、そしてニューヨークという当時のメイン・マーケットから来ると、ロス地区のマット界はやはり田舎臭かった。私が最初に対戦したのは“ミイラ男”。この直後に初来日したザ・マミイだ。全身を包帯模様のマスクとタイツで包み、たたくとパーッと体からほこりが立つ。レスリングはからきし下手クソで、早い話がゲテ物だ。思い切り殴り飛ばし蹴倒してやったが、フォールにいくのも、臭いが体にしみつきそうで嫌な気がした。こういうのがはびこっているから、WWAも東部の連中に“ローカル団体”などと言われていたのだろう。
ブラッシーの王座には、2月28日オリンピック・オーデトリアムで挑戦した。彼との対戦は、初渡米武者修行でロスからニューヨーク入りする直前、私が試合後東郷に下駄で殴られて口惜しい思いをして以来だから、約2年半ぶりだった。ブラッシーが初来日して“吸血鬼”ぶりを発揮し、テレビ視聴者ショック死事件を起こした37年春の第4回ワールド・リーグ戦には、私はニューヨークで修行中だったから参加していない。
初対決の時は、私にはブラッシーがとてつもない怪物と言うか、妖怪のように思えたものだが、テーズ、サンマルチノと戦って来た後では、“銀髪鬼”もただのおじさんに見えた。それだけ私が自信をつけていたということだろう。だが、王座は奪えなかった。空手とキックをぶっ放して追い込むと、ブラッシーはコーナーに座わり込んで両手を合わせて拝む。フッと気を抜くと、信じられないほどのスピードで。パンチが急所に飛んで来た。あれだけは名人芸だ。カーッとして蹴飛ばすと、ブラッシーはころげてリング・エプロンに逃げる。追うと、実に巧みに反別負けにされてしまった。
ブラッシーには3月20日にロスで再挑戦したが、この時も同じような手を食った。そのほか1カ月余のWWA圏サーキット中に、何度かビッグ・マッチで対戦している。看板カードとなって会場はいつもフルハウスになったが、試合内容は、あまり自慢出来るようなものではなかった。アトキンスが見たら、
「もうやめて、ワシの所に帰って来い!」
と怒ったことだろう。
だが私が2月中にNWAテーズ、WWWFサンマルチノ、WWAブラッシーの、当時の“3大世界王座”(AWA世界王座は、この前年8月にミネアポリス版とオマハ版が統一されたばかりで、まだそれほどポピュラーではなかった)に連続挑戦したことは、アメリカ・マット界でも破天荒なことで、大変な話題となった。自慢話めくが、これは今では米マット界の伝説となっているという。これで名を売ったことも、その後全日本プロレスを設立してプロモーターを兼ねるようになってから、だいぶ役立ったことは事実だ。
私がWWA圏をサーキットしている時、ディック・ザ・ブルーザーが乗り込んで来た。私の初渡米武者修行時代は、バディ・ロジャースとブルーザーが米マット界の悪の2本柱と言ってもいい存在で、再渡米した時にはすでにロジャースは凋落の一途をたどっていたが、ブルーザーは相変わらず意気盛んだった。
これは本当に凄い男だった。全身から発する迫力は、他に類を見ないものがあった。私がロスでブラッシーに再挑戦した時は、そのセミ・ファイナルに出場したが、会場で顔を合わせても、葉巻を横っちょにくわえて、
「お前など、眼中にない」
といった態度をとる。実に人を食った男だが、それがあまりに見事にサマになっていて、へンに感心してしまうほどだった。この時は私とは対戦していない。翌年11月に復活インターナショナル王座決定戦で初対決することになるのだが、ここで1度でも対戦していたら、私の緊張感もだいぶ違ったものになっていたろう。この時のブルーザーは、
「俺はちょいと、WWA世界王座をいただきに来たんだ」
と広言していたが、その言葉通り、私が帰出した直後の4月22日に、ブラッシーを倒して第9代WWA王者となっている。ブラッシーはコテンパンにノサレてしまったということだ。
第6回ワールド・リーグ戦の開幕は、4月3日蔵前国技館大会と決まった。その帰国も間近になった時、アントニオ猪木が初渡米武者修行でロスに乗り込んで来た。3月の初めに豊登とともにハワイに入り、特訓と実戦を積んで、単身米本土に渡って来たのだという。私は芳の里、マンモス鈴木と一緒だったが、それでも不安で震えながらロスに着いた時の自分を思い出した。猪木は私より5才年下だが、だいぶしっかりしている。
そのころの私は、猪木を“弟分”ぐらいに考えていた。一緒に中華レストランで食事をした後、私は持っていたドルを、
「俺はもう、要らないから」
と猪木のポケットに押し込んだという。
実は、大した金額ではなかったので、私はこの事を忘れていた。それを思い出させたのは元新日本プロレス専務取締役営業本部長の新間寿で、つい2〜3年前のことだ。私と猪木が犬猿の仲と言われていたころ、新間が私の悪口を並べ立てると、猪木がこの話をして、
「あの時は本当に嬉しかった。俺たちにはそういう時代もあったんだ。同じ釜の飯を食ってないお前が、あまり悪口を言うな」
とたしなめたという。新間からそれを聞かされて、
「あっ、そうだったかな」
と思い出したというわけだ。たしかにレスラー同士には、どんなにいがみ合っていても、レスラー経験のない人からそのレスラーの悪口を言われると、気を悪くすることがある。
「喧嘩はレスラー同士がやる。背広派は黙ってろ!」
と言いたくなるような、不思議な連帯感みたいなものがあるのだ。プロレスラーというのは、特に日本では選手数の少ない、きわめて特殊な職業だからかもしれない。力道山の直弟子たちに、特にこの傾向が強いようにも思う。
またちょっと脱線したが、第6回ワールド・リーグ戦参加の外人レスラーたちは、ジン・キニスキーを筆頭に覆面カリプソ・ハリケーン、ザ・マミー、 ジ・アラスカン、ブル・カリー、ジン・ラベール、チーフ・ホワイト・ウルフ、ロイ・マクラリティ、そしてミスター・モトの全員が初来日とあってロスに集結し、開幕前日の4月2日に日本に乗り込んだが、私だけが1日遅れ、開幕当日の夕刻に羽田国際空港に着く飛行機に乗ることになった。ストロンボーに強引に頼まれ、ギリギリまで試合に出場させられたのだ。
機中で私は、気が気ではなかった。飛行機が遅れたら、新路線にとって最も大事なワールド・リ−グ戦の、最も大事な開幕戦を欠場することになる。だが私は、自分の運勢の強さを信じているところもあった。これまでにも何回か同じようなケースがあったが、私はアナをあけたことは1度もない。ギリギリではあっても、不思議なほどちゃんと間に合うのだ。
この時もそうだった。飛行機が定刻よりだいぶ遅れて着陸体勢に入った時は、もう第1試合が始まっていた。空港には日本プロレスの渉外係が待ち構えていて、特別の配慮で入関も税関も試合用具だけ持ってパスさせてもらい、車に飛び乗った。当時はまだ東京オリンピックがこの半年後で、羽田空港から浅草蔵前まで高速道路をノン・ストップというわけにはいかない。私は車の中でタイツに着替え、レスリング・シューズをはいた。国技館の入口からりングに直行してもいいつもりだった。レスラ−稼業に時差ボケなどは許されない。狭い車の中で、膝やひじを何とか屈伸させてウォームアップもやった。
ちゃんと間に合った。国技館に着いて、セミ・ファイナル45分3本勝負の対カリプソ・ハリケーン戦には、まだ15分ほどの余裕があった。私は控室に飛び込んで新幹部諸氏に帰国の挨拶をすませ、フーッと一息入れてリングに向かった。

