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「王道十六文(完全版)」第六章 力道山の死 Part1

[2006年08月01日]

 日本には7カ月間いただけで、再渡米武者修行に出た私を、フレッド・アトキンスは心底嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。だが、
「ババ、よく来た、待ってたんだぞ」

 と私の肩を抱いてポンポンとたたいたアトキンスの手が、そのまま私の腕や胸をギュッギュッとつかんだ。この7カ月間、私が練習を怠けて筋肉がたるんでしまったのではないかと、調べたのだ。そうしてまた私の肩を、
「本当によく来た!」
 と力を入れてたたいた。どうやら私は及第したらしい。

 ハワイからカナダに直行しろとは、グレート東郷経由のアトキンス命令だった。渡米中の私は、この命令に逆らうわけにはいかない。それはイコールカ道山命令だったからだ。
 私はアトキンスの自宅のあるオンタリオ湖畔のクリスタルビーチに連れて行かれた。何か観光地のような語感を持った地名だが、これが大変な田舎街だった。『ザ・アトキンス』といかにも頑固じいさんらしい自己主張をした表札をかかげた彼の家から、肉眼では隣の家が見えない。つまり、周囲になーんにもないのだ。日本流に言えば、煙草屋に何里、豆腐屋に何里という人里離れた一軒屋。しかも10月も下旬に入って早くも雪が降り出し、何とも寂しい感じだった。

 私はヒューバート・ホテルという名前だけは立派なオンボロ・ドライブインに部屋を借り、そこからアトキンスの家に通った。練習も寒さも、きびしいのを通り越していた。雪国出身の私にも、ここのは寒いというより痛いという感じだった。風の中をジョギングすると、全身を棒で殴られているような痛みが走る。室内での練習も、力道山道場より理詰めではあったが、より過酷だった。
「死んだ方がマシだ」
 と何度思ったかしれない。
「日本が地続きだったら、歩いてでも帰っちまうのになぁ」
 とみっともない話だがベソもかいた。

 アトキンスは、理屈や抗弁は一切許さなかった。アトキンスの信念は、たとえルー・テーズでも曲げようはなかったろう。アトキンスに"やれ"と言われたことは、黙ってやるか、逃げ出すしかない。週給100ドルでは逃げ出しようがないから、やるしかなかった。ちょっとサボッたら、2日でも3日でもロをきいてくれない。軽蔑したような目で、じっと見ているだけだ。だがやりとげれば、ビールを飲ませてくれるような暖かさもあった。

 唯一の救いは、試合に出場することだった。アトキンスの自宅の地下道場ではボロ雑巾のように扱われる私だが、試合場ではメイン・エベンターだ。トロント、デトロイト、ハミルトン、ロチェスター、時にはシカゴ、バッファローまで、いわゆる5大湖地区のサーキットに出ると、ジョニー・バレンタイン、ホイッパー・ビリー・ワトソン、ハンス・シュミット、デストロイヤーの義兄のビリー・レッド・ライオン、ジム・ハジー、ブルドッグ・ブラワーら強豪がひしめいていた。バレンタインが脳天にたたきつけてくるエルボー・バットは、今でも彼の名を聞いただけで頭に痛みを覚えるほど強烈だったが、12月には勝てるようになってもいた。だが華やかな試合場から帰ると、またボロ雑巾だ。

 しかし私の今日あるのは、アトキンスのお陰だと感謝している。練習の主眼は、下半身と腹筋を鍛え、ロープを使って引く力を強くすることに置かれ、技などは二の次三の次だったが、それが体に真の力をつけ、選手寿命を長く保たせたのだと思っている。アトキンスはやはり名トレーナーだった。

 力道山の訃報は、このクリスタルビーチでアトキンスの口から開いた。アトキンスはロスの東郷の奥さんとは、いつも連絡をとっていたらしい。最初に
「力道山が酔って、ナイトクラブでギャング・スターに刺されたそうだ」
 と聞かされた時は、喧嘩をして腕か足に傷を負ったのだろうぐらいに、軽く考えていた。プロレスラーというのは、傷には不感症になっているところがある。アメリカでも、酒場での喧嘩はしょっちゅうで、アトキンスも、それが大事に至るとは思ってもいなかったようだ。

 だが、ちょっとおかしなことがあった。ハミルトンの会場控室で合ったビッグ・ビル・ミラーが、
「力道山からクリスマスカードをもらったが、黒ブチに囲まれた力道山の写真が印刷してあった」
 と言うのだ。ミラーはそのカードを会場に持って来てはいなかったので、確かめるわけにはいかなかったが、胸騒ぎというか、チラッと嫌な予感が走った。アトキンスに言うと、
「俺の所には力道山からクリスマスカードが来ていないのに、ミラーの所だけいったのはおかしいじゃないか。あくどいジョークだ」
 と気にもしていなかった。言われてみればその通りだったが、それから間もなく、12月17〜18日ごろ、訃報を聞いたのだった。

 アトキンスから聞かされた私は、ガーンというショックの後は、呆然自失してしまった。何を考え、どう行動していいのかわからない。詳しいことは何もわからず、不安と焦慮に包まれたまま、何日もボーッとしていた。アトキンスもしきりと東郷の留守宅に電話を入れたが、日本にいる東郷も第一報を入れただけで、後の連絡は絶えていた。

 私が明石の元子に手紙を書いたのは、そんな状態の時だった。クリスマス・イブに、私はホテルの部屋でボヤーッとしていた。力道山が12月8日夜赤坂のナイトクラブで刺され、1週間後の15日に亡くなったということだけはわかったが、それで日本のマット界はどうなるのかといったことは、さっぱりわからない。日本プロレス興業からは何の連絡もなかった。
「俺はどうすればいいんだろう?」
 とアトキンスに聞いても、
「とにかく東郷が日本から帰って来るまで待て。それから相談する」
 と言うばかり。飛んで帰ろうにも、週給が120ドルに上がったばかりでは足代もない。当時の私の進退はすべて東郷とアトキンスが握っていて、自分の意志で行動することは許されなかった。雪と氷に閉ざされたカナダの田舎街で、私はアトキンスの"死のしごき"にじっと耐えているほかはなかった。

 クリスマス・イブといっても、ホテルの部屋の窓からは、明るい灯の一つも見えるわけではない。
「力道山が死んでも、リキパレス周辺の渋谷のネオン街は、例年通り今ごろは大変なにぎわいだろうなぁ」
 そんなとりとめもないことを考えているうちに、フッと元子の顔が浮かんだのだ。私が大洋ホエールズの明石キャンプで左ひじを切り、入院している時に毎日のように見舞いに来てくれたが、それからもう4年近くも会っていない。まだ海のものとも山のものともつかぬプロレス練習生では、手紙を出すのもはばかられ、そのまま音信不通となっていた。
「もう、嫁に行ったかなぁ」
 無性に懐しかった。気がつくと私は、紙に"元子、元子"と書いていた。その勢いで私は、何かに憑かれたように手紙を書き、目をつぶって投函したのだった。

 クリスマスが過ぎたある日、突然アトキンスが、
「お前は日本に帰るな。こっちに定着しろ」
 と言い出した。理由を聞いても、
「力道山が死んで、日本のプロレスはもう駄目になった」
 と言うばかりで、何かすっきりしない。私は力道山から東郷に預けられ、東郷からアトキンスをマネジャー兼トレーナーにつけられた身だから、
「東郷さんとも相談しなくては」
 と言うと、アトキンスは、
「東郷も承知している」
 とあっさり言い切った。私はこの時点ではまだ、東郷が日本プロレス"新路線"と喧嘩別れしたことを知らない。だが、"何かおかしいな"とは感じた。返事を渋っているとアトキンスは、私をロスに連れて行った。

 ロスのクラーク・ホテルで、東郷とアトキンスは、私に好条件を提示してアメリカ定着をすすめた。アトキンスは、
「俺は必ずお前をNWA世界チャンピオンにしてみせる。だがそのためには、アメリカのレスラーに成り切らなければならない。東郷と契約しろ」
 と言う。東郷の契約条件は、
「契約期間は10年。契約金は16万ドル(当時5840万円)だ。年収は手取り27万ドル(同9720万円)を保証する」
 と私自身が目を丸くしたほど破格だった。日本―アメリカの航空運賃が5万円弱、大学新卒の初任給が2万5千円足らずのころだ。年収27万ドルは、現在の貨幣価値では4〜5億円に当るという。週給120ドルで小遣いにも不自由していた25才の私には、実感のわかない大金だった。だが東郷は、日本の事情を私が尋ねても、
「日本のマット界は、もう駄目だ。終わりだ」
 の一点張りだった。この破格の好条件に正直言って私も心が動いたが、やはりすっきりしない。私は、 「しばらく考えさせてくれ」
 と東郷が作って来た契約書にはサインをしなかった。

 翌日、実にタイミング良く遠藤幸吉からホテルに電話がかかって来た。ロスに着いたばっかりだという。私は遠藤に会って初めて、日本プロレス興業が豊登、芳の里、吉村道明、遠藤の4幹部合議制で"新路線"をスタートさせたこと、新路線は"ゼニゲバ"東郷と手を切ったことを聞かされた。だがこの時遠藤は、
「俺はどうすればいいんですか」
 という私の問いに、
「まあ、こっちでのスケジュールもあるだろうし……」
 とはっきりした返事はくれなかった。そしてまた翌日電話がかかって来て会うと、
「とにかく一度、帰国して欲しい」
 と要請された。私と東郷、アトキンスの会談には、当時ロスにいた大木金太郎も同席していて、大木の口から私が破格の条件で東郷に契約を求められていたことを聞いたらしい。だが私には、
「日本プロレス新路線は、それほど俺を必要と考えていないんじゃないか。だから今まで何一つ連絡をとってくれなかったんだ」
 という気もあって、この返事も保留した。

 私自身には、日本に帰ろうという気が強かった。私は日本のメイン・エベンターになるために、力道山によって渡米武者修行に出された。アメリカに稼ぎに来たのではない。修業して力道山の後継者になるために、異国で苦労したのだ。私は日本人だ。
「力道山が死んだから、日本のプロレスは駄目になった」
 とファンからも言われたのでは、力道山の弟子として恥ずかしい。
「金よりは、日本マット界のことを考え、私は帰国すべきだ」
 と考えていた。だがその日本マット界の"新路線"幹部が私を必要としていないなら、話は違ってくる。私は悩んだ。ちょっと寂しい気もした。
「それならいっそ、アメリカに腰をすえて稼いでやるか」
 といささかヤケ気味にもなったが、馬場正平という男の一生の問題を、感情に走って決めたくはなかった。東郷にも遠藤にも返事を保留したまま、私はアトキンスと共にクリスタルビーチに帰った。飛行機の中でアトキンスは、
「いずれにしても、お前自身が考えるべき問題だ」
 と言ってくれた。アトキンスは私を強くし、チャンピオンにすることには心血を注いでくれたが、東郷のように金で縛ろうというのは、あまり好きではなかったようだ。私に手取り27万ドルの年収を保証したからには、そのマネージ料として東郷とアトキンスの懐にも、年に10万ドルほどはころげ込むはずだ。だがアトキンスはロスから帰ってからは、
「結論はお前自身が出せ」
 といった態度で、アメリカ定着を無理強いするようなところはなかった。そういう点でも立派な、男っぼい人だった。

 明けて昭和39年の新春早々に、元子から心のこもった返事の手紙をもらった。
「4年近くも勝手に連絡を絶っていたのだから、返事など当てにしちゃいけない」
 と自分に言って聞かせていただけに、これは嬉しかった。
「お嫁になんて、いってません」
 と書いてある。それが、私の心を"帰国"に傾けたのは事実だった。私の試合スケジュールは2月まで決まっていたが、私はアトキンスに、
「それ以降は、決めないでおいて欲しい」
 と申し入れた。
「そうか。やっぱりな」
 とアトキンスは何のこだわりも見せずにうなずいてくれた。
 それでもアトキンスは、"ビッグ・チャンスを与える"と言った約束は、きちんと守ってくれた。時のNWA世界王者ルー・テーズへの挑戦権をかけたイルミネーンョン・バウト出場権を、取ってくれたのだ。


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