「王道十六文(完全版)」第五章 凱旋帰国
正確には1年8カ月と2週間ぶりに日本の土を踏んだ私がまず驚かされたのは、羽田国際空港のロビーを埋めた黒山の人だった。
「何かあったのかな−」
と瞬間思ったが、
「みんなお前を見に来たファンだよ、馬場チャン!」 と力道山に言われ、とっさに返事に詰まってしまった。“へぇー!?”という驚きと、“いや、半分以上は力道山を出迎えに来た人たちじゃないかな”という気持ち、それより何より、“馬場!正平! この野郎!”と言われつけていた私は、初めて力道山に“馬場チャン!”などと呼ばれて、どう返事をしていいのかわからなかったのだ。力道山はそんな私の顔を、茶目っ気たっぷりな笑顔で見ていた。
記者会見に当てられた空港特別室にも、報道陣があふれていた。懐しい顔、新しい顔……、壁には『MR力道山、MR馬場、凱旋帰国歓迎』と大書した紙が貼られ、金屏風まで立てられている。こんな晴れがましい思いをするのは、初めて巨人軍のキャンプに参加するべく三条の駅を発った時、郷里の人たちに見送られて以来のことだ。
どうにも照れ臭くて視線のやり場に困ったが、飛行機の中での
「今日はお前がスターだ。ジャンジャンしゃべりまくれ」
という力道山命令を思い出し、報道陣の質問の答えて懸命にしゃべった。大勢の人を前にしてあんなにしゃべったのは、生まれて初めての経験だったが、質問が私と戦った外人レスラーのことに集中されたため、だいぶ救われてもいた。
その夜私は知人の家で、上京して来た母と朝方まで話しこんだ。母とは、私がプロレス入りしたと聞いて引き止めに上京して来た時以来、まる3年ぶりだった。母はもう、
「ここまで来ては反対しても仕方がない」
とあきらめていたようだ。私の、辛かったところはだいぶ省略したアメリカ武者修行話を、真剣に、かなり楽しそうに聞いてくれた。私はまた勘当を免れたわけだ。だが母は、私の試合は見る気がしないらしく、翌日には三条へ帰って行った。
私はこの初渡米武者修行で、プロレス以外の思わぬ収穫が2つあったと思っている。
渡米前の私にとって力道山は、こわくて、高く遠い所にいる人だった。だがロサンゼルスのホテルで2人だけになった時、力道山はしんみりとした顔で、今後の計画やら、いろいろ個人的なことまで話してくれた。その顔は、私が初めて見るものだった。
「あっ、根は優しい、さびしがり屋さんなんだな」
と私は何とも言えぬ親しみを覚えた。多くの人が、レスラーたちでさえ、力道山の外に向いた一面しか見ていない。その内側にふれる機会のあった私が、彼らとは違う“カ道山観”を持つようになったとしても、不思議はないと思う。それがその後に日本マット界に対する私の姿勢に影響していたことも、私は否定しない。
母が私を“一人前の大人”として扱ってくれたのも、帰国した日からだった。24才にもなって―、と言われそうだが、母から見れば末っ子で図体ばかり大きい私は、21才でプロ野球を“落第”した時も、
「合宿生活ならともかく、一人では危なっかしくて、とても東京に置いておけない」
と思ったようだ。それが一人で2年近くもアメリカを回って来て、ようやく一本立ちの男と認められたわけだ。武者修行話をちょっと得意そうに語ることで、私は母に何年かぶりで親孝行が出来たと思っている。
帰国した翌日私は初めて、完成された東京・渋谷のリキ・スポーツパレスへ行った。渡米前はここの工事現場でパネルをかつがされ、コンクリート流し込みの作業を徹夜でやらされたものだ。私は36年7月1日に渡米し、同30日に会館披露が行われている。そのころ私は、ロスで庭仕事のアルバイトをやっていたはずだ。パレスの化粧レンガで飾られた中のコンクリート壁に、私の汗もしみこんでいるのかと思うと、やはり感無量だった。
力道山の社長室に呼ばれた私は、そこで渡米武者修行の清算をしてもらった。
「お前のアメリカでの稼ぎは、2万ドル残っている」
という。当時は1ドル360円の固定相場だから720万円だが、私の目算はだいぶ外れた。ニューヨークでは週8千ドル稼いだ時もあって、私の週給は最高100ドル。少なくとも10万ドル以上は残っていると考えていたのだが、グレート東郷が力道山に渡した明細書では、彼とフレッド・アトキンスのマネージ料、私と彼らの交通・宿泊費から洗濯代に至るまでの諸雑費がキチンと計上されていて、帳尻は合っている。
「これがアメリカのプロレス・ビジネスなんだな」
と一つ勉強させられた思いだった。で、力道山に5千ドル分の日本円180万円を手渡され、
「あとは、ちょっと貸しとけ」
と言われてしまった。この残リ1万5千ドルは、力道山の死後に日本プロレス興業から清算してもらった。
だが3年前はこの渋谷で、アパートのある新丸子どころか途中までの電車賃10円がなく、トボトボと歩き出して三百円在中の財布を拾って喜んだ私が、当時の大学新卒サラリーマンの約3年分の年収に当る180万円をポケットに入れている。何か信じられないような思いもしたが、とたんに渋谷の街が、文無しの時とは違う街に見えたのだから、人間って現金なものだ。
話が脱線してしまったが、とにかく私は武者修行の成果を、リング上で見せなくてはならない。これも1年8カ月前に震えながら渡米した時と違って、自信があった。バディ・ロジャースのNWA世界王座、ザ・デストロイヤーのWWA世界王座に挑戦したことが、私に大きな自信を植えつけていた。
「俺ほど大きなレスラーはアメリカにもいない。ワールド・リーグ戦参加の全外人レスラーと戦った日本組選手は俺一人だ。俺はアメリカでも10指に入る年収10万ドル・レスラーなんだ」
という自負があった。これも、大きな体を呪って東横線の中でコンプレックスと闘っていた3年前とは、えらい違いだ。初渡米武者修行が私を生まれ変わらせたと言ってもいいほどだった。
グレート東郷をまじえた9人の外人レスラーたちは、3月21日に羽田国際空港に集結した。この時もファンがどっと押しかけたのは、273キロの肥大漢へイスタック・カルホーンを見るためだったようだ。記者会見後、外人組はそれぞれ乗用車に分乗して都心のホテルに向ったが、カルホーンだけは、小型トラックの荷台に乗せられた。ファンがどっと取り巻き、カメラマンのフラッシュがパッパッとたかれた。渋い顔をしているカルホーンに、
「ちょっと気の毒だな」
とは思ったが、こういうところの力道山の演出は、心憎いばかりだった。
これが力道山の最後の大会となった昭和38年春の第5回ワールド・リーグ戦は、3月22日リキパレスで前夜祭が行われた。この日は金曜日で日本テレビの生中継。リーグ戦出場選手はそれぞれ顔見せを兼ねてのエキジビション・マッチ5分1本勝負に出場し、私はキラー・コワルスキーと対戦したが、ほとんど何もしないうちに終わった感じだった。
開幕戦は23日蔵前国技館大会。力道山、東郷、私のトリオがパット・オコーナー、カウボーイ・ボブ・エリス、キラーX(フランク・タウンゼント)組とメイン・エベント60分3本勝負で対戦、1−1のあと時間切れで引き分けた。帰国した日にはまだ“ミスター馬場”だった私が、このリーグ戦で初めてジャイアント馬場と名乗り、超満員の国技館で日本で初めてのメイン・エベントに出場したわけだが、そのことより私は、これも初めての力道山とのタッグに緊張した。
それでも試合が始まってしまえば、マイ・ペースでいけた。私には、アメリカでやって来たファイトを、日本に帰ったからといって変える気はない。試合後力道山は、
「よーし、その調子だ。明日はいよいよ、お前の本番だぞ!」
と言ってくれた。私には、第2戦24日同じ蔵前国技館大会での特別試合、コワルスキーとの45分3本勝負こそ、“凱旋帰国第1戦だ”という気が強かった。
当日は雨だった。だが国技館は前夜に続く超満員となった。ちょっとむし暑い。私は入念にウォーム・アップ。すぐ汗が吹き出した。体調は良く、緊張感も快かった。いい試合が出来そうな予感がする。
「スケールの大きな、真のアメリカン・ファイトを見せつけてやるぞ!」
私は気負ってリングに上がった。対角コーナーのコワルスキーも、いつもの冷たさに似ず、明らかにイレ込んでいた。彼には、リーグ戦優勝候補のメンツがかかっている。
ニューヨーク入りしたころの私には“雲の上の人”に見えた大豪コワルスキーが、ゴングと同時に積極的に突っかけて来た。パンチとキックをビシビシたたき込んで来る。私の望むペースだ。私も空手を返した。スタートから激しい殴り合いとなり、強烈なボディ・ブローを食ってタウンした私のノド元に、恐怖のニー・ドロップの前ぶれのようなニー・スタンプが突き刺さった。起き上がりざま私はコワルスキーを両肩にかつぎ上げ、エアプレン・スピンでぶん回して、コーナー・ポストにたたきつけてやった。どちらかと言えば格上の選手が格下の相手に見せるアクションだ。
「この若僧!」
と言わんばかりに私を見すえたコワルスキーの奥深い両眼から、青白い炎が吹き出したように見えた。だが私は、コワルスキーの怒りの猛タックルをはね返し、水平打ちでぶっ倒した。そこから先は、もう一瞬の休みもなく動きっ放しだった。当時の私は、それほど多彩な技を持っていたわけではない。フルネルソン、ベアハッグ、ココナッツ・クラッシュと、あとは基本的な投げ技に空手とキックだ。コワルスキーも典型的なタフ・アンド・ラフのパワー・ファイターだが、彼にはユーコン・エリックの左耳を削ぎ落としたトップ・ロープからのニー・ドロップという看板技がある。さすがにそこへ持ち込むコースは巧く、私は一発グサリと食ってしまった。
私は思い切りフォールをはね返した。自信満々の必殺技でとどめを刺せなかったコワルスキーは、しゃ二無二喧嘩ファイトに持ち込んで来た。パンチとキックで私をぶっ倒し、私のレスリング・シューズをはぎ取って、それで頭と言わず顔と言わず殴りまくる。だがアメリカでは裸足で悪党ファイト専門にやって来た私には、喧嘩も望むところだった。脱いだソックスでコワルスキーの首を絞め、リング上を引きずり回してやった。
リング下の乱闘では鉄柱にたたきつけられたが、これもすぐにお返しをした。あとはもう、リングに戻っての殴り合いだった。リング中央で2人がマットに両膝ついて向かい合い、何10発と殴り合った。今でもコワルスキーの名を聞けば、とっさにこのシーンが頭に甦る。一試合でこれほど空手をぶち込んだことは後にも先にもないが、コワルスキーのスピードもスタミナも、一向に落ちなかった。
45分はまたたく間に過ぎてしまった。時間切れのゴングが鳴った瞬間、総立ちとなった超満員の観衆の拍手と歓声で、私はファンが興奮し満足してくれたことを知った。もっともっと試合を続けていたいような気分だった。
控室の入口で力道山が、
「おう、お前ようやったな。疲れたろう。動きっ放しだもんなぁ。うん、ようやった」
と迎えてくれた。この言葉はこの順序通りはっきりと覚えている。めったに弟子を褒めない力道山の、最大級の賛辞だったと思っている。私にも、武者修行の成果を見せつけたと言うよりは、
「スケールの大きいアメリカン・ファイトの真髄を、日本のリングに初めて披露した」
という自負があった。長々と試合の話を書いてしまったが、これは、馬場正平がジャイアント馬場に生まれ変わって日本のメイン・エベンターの地位を獲得し、力道山の後継者の座を確保した記念すべき試合として、私には生涯忘れられない一戦だ。
翌々26日豊橋大会から始まった久しぶりの日本の旅は、楽しかった。当時はまだ新幹線も高速道路もなく、汽車を乗り継いでのサーキットは、車で地図を見ながら深夜のハイウェイをすっ飛ばし(といっても私はまだ運転が出来なかったが)、ホテルを探すアメリカの移動と違って、まさに“旅”という感じだった。汽車も旅館もすべて会社が手配してくれることのありがたさが身にしみた。
私は二等車(現在のグリーン車)組に昇格していた。小遣いもたっぷりあったから、新人時代には横目で見ていることの多かった駅売りのマンジュウも、窓外の景色を見ながら一箱でも二箱でも食った。私には付人もついた。当時駒角太郎と名乗っていた後のマシオ駒、本名駒秀雄がその第1号だ。早稲田高校の野球部出身で、パワーをつけるため力道山道場に通っているうち、プロレスに魅せられて正式入門したという変わり種。年令も2才しか違わなかったから、野球の話になると2人とも夢中になった。
それでも25才の私は、気分はまだ“若手レスラー”で、力道山、遠藤幸吉、吉村道明、豊登(これ、年令順)とそろって東郷も加わっている二等車組よりは、かつての仲間がワイワイやっている普通車組に融け込んでいきたかった。だが彼らの方に、何か私と一線画したような雰囲気が感じられて、私はちょっと寂しい思いをさせられた。彼らには、デビュー1年足らずで当時は“出世への急行券”と言われた初渡米武者修行に出され、帰国するなり先輩たちを抜いてメイン・エベンターとなった私を、
「エリート・コースに乗せてもらったヤツ」
といささか白い眼で見ているところがあったようだ。
「レスラーにエリートもヘチマもあるもんか。俺だって血の汗を流し、人に言えない苦労もして来たんだ」
とは思ったが、よそよそしくされてまで普通車組の仲間入りすることもない。力道山にロサンゼルスで、
「みんなにボールペン一本づつでいいから土産を買っていけ」
と言われた理由が、遅巻きながらようやく納得がいった。力道山は、私がそういう目で見られることを見越していたのだ。だが以外と神経の図太いところのある私は、
「それならそれでいいや」
とマイ・ペースでいくことに決めた。
しかし、事は“白い眼”だけではすまなくなって来た。この第5回ワールド・リーグ戦は、3月23日の開幕戦から5月17日の優勝戦、さらに同24日の追撃戦まで、実に2カ月余りにわたって、南は米軍統治下の沖縄から北は北海道まで全54戦という大変な長丁場のシリーズで、私は外人組と総当りしたほか、力道山、豊登(この2人とはついに対戦することはなかった)以外の日本組選手とも何回も対戦したが、この試合にかこつけて豊登が大木金太郎に、
「喧嘩を売って腕の1本も折っちまえ!」
とたきつけているという情報が、私の耳にも力道山の耳にも、そして東郷を通してフレッド・アトキンスの耳にも入って来たのだ。私には、
「喧嘩になっても負けやしない」
と自信があったが、カンカンに怒ったのがアトキンスだ。4月6日山口県防府大会でオコーナー、ジノ・マレラ(後のゴリラ・モンスーン)と組み、力道山、豊登、遠藤組と対戦したアトキンスは、3本目の乱闘中に豊登の左肩を抜いてしまった。弟子の私がかわいくてやったのだろうが、何とも凄い頑固じいさんだ。豊登は左肩脱臼で、ご当初九州と沖縄のサーキットを欠場したが、事情を察していた力道山も、アトキンスに文句はつけなかったようだ。
4月14日からの宮古島、沖縄本島サーキットは、私には初めての遠征で、その熱狂的な歓迎ぶりには感激した。暑い日が続いて、私たちは海水浴と日光浴を楽しんだが、半月後の5月4日から北海道サーキットに入ると、桜のつぼみもまだ堅く、冷たい風に震え上がった。日本もやはり広い。
この北海道サーキット中に私は、本当に目から火花が散るという体験をした。
札幌大会は5月5〜6日の2連戦だったが、初日超満員で大成功のうちに終了、宿舎の『山一旅館』に引き揚げた力道山は、ご機嫌で、
「おい、江差追分を聞きに行こうや」
と私たちに声をかけた。お供をしたのは遠藤、吉村、豊登と私。つまり二等車組だ。民謡を聞かせる料亭に上がりこんで、なに、民謡など聞きゃしない。まずノドの乾きをいやそうと飲んだビールが9ダース、つまり108本だ。その後は持ち込んだジョニー・ウォーカーの黒をストレートでグイグイ。ジョニ黒は、当時は日本で手に入る最高級のウィスキーとされ、何ごとも超一流でなければ気がすまない力道山は、これを何10本も若手にかつがせて巡業していたのだ。
私は、酒は好きではない。しかし新人時代に力道山に、
「なんだお前、おカマみたいに酒も飲まず、それで出世が出来ると思うか!」
とハッパをかけられ、しかも、
「飲まなきや、太れねぇぞ!」
とガンガン飲まされた。私は好きではないが、飲んでもほとんど酔わない。だから“ハイ、ハイ”と飲んでいたため、力道山は私が酒好きになったと思い込んでいたようだ。
帰国前のロスでは力道山は、
「ワシは酒もやめた。これからは、鬼のリキじやなく、仏のリキさんになるんだ」
としんみり語ってくれたものだが、その禁酒も、ご機嫌になるとチョイチョイ破っていたようだ。この時もそうだった。
持ち込んだジョニ黒も全部飲んでしまうと、力道山は、
「よし、俺が取りに行って来る」
と一人で『山一旅館』に帰って行った。こういう時は、そのままスカされることが多い。私たちは今回もてっきりそれだと思い込み、お開きにして旅館に帰ったところが、力道山は本当にジョニ黒4本を持ってまた出て行ったという。そこへ料亭から、
「リキさんが玄関で暴れているから、すぐ来てくれ」
と電話が入った。私たちがいなかったので荒れたらしい。豊登に、
「お前が行って来い」
と言われ、私は仕方なく料亭に一人で戻った。力道山は機嫌を直して、先刻の座敷に上がり込んでいた。私を見ると、
「何だ、お前一人か! 罰だ! これを一気にラッパ飲みにしろ!」
とジョニ黒を突きつけた。非はこちらにあるし、断わってまた暴れ出されても困るから、私は息もつかずに1本を飲み干した。
本当に、パーッと目から火花が散った。顔がプーッとふくれて、今にも破裂しそうだった。こんな体験は生まれて初めてだ。
「ミ、水を下さい!」
と女中さんに頼んだが、とたんに力道山に、
「バカヤロー! 水とは何だ! これを飲め!」
とビールを突き出され、とにかくそれを飲んで、ノドの焼けるような痛みは収った。力道山がジョニ黒1本で勘弁してくれたのが、九死に一生を得た思いだった。4本全部ラッパ飲みさせられたら、いくら私でも死んでいる。
だが火花が収って顔の腫れも引くと、あまり酔ってはいなかった。私より酔っている力道山を旅館に送り込み、私もそのまま寝たが、翌日も宿酔にはならなかった。ただ、2日目も超満員の中島スポーツセンター(現体育センター)でジノ・マレラと対戦した私は、試合前の握手を交わしたとたんに、
「ユー、なんて酒臭いんだ!」
とマレラに言われ、ひるんだところを36秒で押え込まれてしまった。2〜3本目は取り返して、何とか試合には勝ったが―。
リーグ戦は、5月17日東京体育館大会での優勝戦でコワルスキーを降した力道山が、5連覇を達成した。私はこの日シングル・マッチでカルホーンと対戦、あの重い体をようやくリング・アウトに仕留めて控室でシャワーを浴びていたので、初来日したデストロイヤーがコワルスキーにビンタを食わせたシーンは見ていない。ニューヨークとロサンゼルスのトップ・スターでは、当時はかなり格が違っていたのに、デストロイヤーは思い切ったことをやったものだ。見ておきたかったなと、今でもちょっと残念に思っている。
WWA世界王者デストロイヤーを迎えて、大阪、名古屋、静岡、東京の4戦がワールド・リーグ戦に続いて行われたが、私はその静岡大会のメイン・エベント時間無制限1本勝負でデストロイヤーと対決した。この日、“白覆面の魔王”がなぜか黒覆面をつけて登場した。ロスでの2連戦で自信をつけていた私も、ちょっと勝手が違って嫌な予感がしたが、案の定、急所蹴りを食って苦しむところへ覆面に凶器を仕込んだ頭突きで額を割われ、ダブル・ニースタンプ4連発を駄目押しされて負けてしまった。その翌々5月24日東京体育館で、あのマット史に残る力道山との名勝負を演じているデストロイヤーは、この日は異常なほどイレ込んでいたようだった。
2カ月余の長い日本の旅を終えると、アトキンスは私に、
「早く帰って来いよ」
と念を押して帰国していった。東郷も力道山に、私をすぐ再渡米させる約束を取りつけていったという。私も、身分はメイン・エベンターで気分は若手という中途半端な境遇があまり居心地のいいものではなく、アメリカにまだやり残したことがあるような気もして再渡米したかったが、力道山に、
「ま、もうちょっと待て」
と留められてしまった。力道山も身辺多忙で、それどころではなかったようだ。
リーグ戦を終えて2週間後の6月5日、力道山は華燭の典を挙げた。実に豪華な披露宴だったが、私たちは大あわてで揃いの礼服を作り、当日がまた暑い日で、Yシャツを通して礼服まで汗がしみ出すほどだった。翌々7日力道山は世界一周の新婚旅行に出た。帰国したのは7月3日。私たちはその間試合はなく、連日リキパレス地下のジムで練習ばかり。それでも幸せそうで忙しそうな力道山の顔を見ると、
「早くもう一度渡米を」
などとはとても言い出せなかった。
9月に入って、大木金太郎が初渡米武者修行に出発した。その時私は力道山から、
「アトキンスがせっついているが、お前は10月出発だ。お前ばかりってことになると、ますますやきもちを焼かれるからな」
と聞かされた。私は人の上に立つようになってから、この言葉が身にしみてわかるようになった。力道山は、そこまで考えていてくれたのだ。
私は10月2日足利大会で、アントニオ猪木から16勝目を挙げたのを最後に、同7日羽田国際空港を飛び発った。今回は一人旅だが、不安で震えるどころか、ホッとしたような気さえしていた。人間、こうも変わるものかと思わず苦笑したほどだ。
途中ハワイで、2週間の各島サーキットをした。同地のプロモーター、エド・フランシスから、力道山に要請が入っていたのだという。ハワイには、初渡米の往き帰りに数時間立ち寄ってはいるが、滞在したのも試合に出場したものこれが始めて。それなのに日系人が多いせいか私の人気は地元の英雄プリンス・イヤウケアをしのぐほどで、すっかり気を良くした。ハワイの風景には、完全に魅了された。雪国で生まれ育った反動か、夏と海の大好きな私は、
「こんな所に住めたら幸せだろうな」
とまだ莫然とだが、ハワイに家を持つことを夢想した。そして、快適だったハワイの2週間はアッと言う間に過ぎ、カナダに渡った私を待っていたのは、アトキンスの死のしごきだった。

