「王道十六文(完全版)」第四章 初渡米 Part3
私がニューヨークで2回目のクリスマスを迎えた昭和37年の暮、力道山が米マット界視察を兼ねて、私の成長ぶりを見に同地に乗り込んで来た。この年3月にロサンゼルスでブラッシーを破り、第2代WWA世界王者となった力道山は、7月にロスで王座を奪還されてはいたが、太平洋岸地区ではトップ・スターだった。だが大西洋岸の東部マット界では、ほとんど知られていない。ニューヨーク近郊のサーキットに参加して、2〜3試合出場もしたが、リング・アナが、
「ビッグ・ババの師匠のリッキー・ドーゼンだ」
と紹介しなければ、観客はキョトンとしていた。プロモーターのマクマホンは、
「まだPR不足だから」
と本拠MSGの試合にはついに出場させなかった。私は何か申し訳ないような気持ちで、つくづくアメリカ・マット界の広さというものを痛感させられたものだった。
当時、米マット界の中心となっていたのは、MSGを持つニューヨークと、NWA会長フレッド・コーラの本拠シカゴ、それにデトロイト、セントルイス、ワシントンDC、ピッツバーグ、カナダのトロントとモントリオールといった東部地区で、これがNWAのメイン・マーケット。この2年前に結成されたAWAは、まだミネアポリスとオマハあたりで細々とやっていて、西海岸に出来たWWAを、NWAのコーラ、マクマホン、トーツ・モント、エディッ・クインといった大物プロモーターたちは、
「カリフォルニアのローカル団体」
ぐらいにしか見ていなかった。力道山がマクマホンに冷たくあしらわれたのには、そういった事情もあったのだ。
そのメイン・マーケットで、MSGとシカゴのアンファイ・シアターでの定期戦はロジャースと決まっていたが、その他の会場ではメイン・エベントも取るようになっていた私に、力道山は満足したようだった。その時は何も聞かされていなかったが、年末に私はアトキンスから、
「年が明けたら、日本に行って来い」
と言われた。“行って来い”とは“帰って来い”ということだが、とにかく力道山−東郷−アトキンス・ラインで帰国命令が出たのだ。やはり嬉しかった。
明けて昭和38年。新年のオープニング・マッチをシカゴで、エドワード・カーペンティアと戦い−たしか暴れすぎてレフェリーまで吹っ飛ばし、反則負けだったと記憶している−ホテルに帰って1年半ぶりにのばしていたヒゲを剃り落とすと、ようやく帰国の実感がわいて来た。アトキンスは、
「いったんロスの東郷の所へ行け。ロス地区にはザ・デストロイヤーという覆面レスラーがいる。これはバッファローの生まれで、いいレスラーだ。手強いから気をつけろよ」
と最後まで師匠らしいアドバイスを忘れなかった。
ロスに着くと東郷は、今度はモーテルではなく、ちゃんとしたホテルに泊めてくれたが、いきなり、
「ユー、来週は世界タイトル・マッチだヨ」
と言われたのにはちょっと驚いた。時の第4代WWA世界王者は、デストロイヤーだった。
当日、2月4日のオリンピック・オーデトリアムは超満員だった、私はかなりリラックスしていた。やはり、
「オレは“本場”の東部地区でNWA世界王者ロジャースに挑戦し、幻ではあったが世界最高峰のベルトをこの腰に巻いたんだ」
という自信が大きく物を言っていた。
試合は1−1のすえ時間切れで引分けた。初対決のデストロイヤーは、全身これバネといった感じのレスラーだった。2本目に足4の字固めを食ったが、これの“本家”はロジャースで、すでに私は何度も食っている。デストロイヤーの方が足が短いだけ、締め方は強烈だった。
この試合が好評で、3週間後に再戦と決まり、その間私はサンデイエゴ、サンバナディーノなどのサーキットに参加したが、1年半前は駆け出しで、東郷に下駄でぶん殴られて涙を流したこともあった私が、今度はどこへ行ってもメイン・エベント。これは何とも気分のいいものだった。
再戦の2月22日オリンピック・オーデトリアムも超満員だった。1本目を私が取り、2本目は両者リングアウト。試合終了でルールによりデストロイヤーの防衛だとするレフェリーと、東郷がモメて、延長戦再試合となり、何かドサクサのうちに私は負けていた。だが別に口惜しくは無かった。前年7月の力道山の例もあり、“謀略の伏魔殿”と言われていたWWAが、帰国の途中に立ち寄った私に、どんなことをしてでもベルトを渡すはずが憮い。ただ大勢のファンがレフェリーを批難し、
「ババ、良くやった」
と言ってくれただけで満足だった。
やるだけやって帰国の準備をしていた3月6日、ひょっこりと力道山がロスにやって来た。第5回ワールド・リーグ戦の最終打合せのためだったのだろうが、
「ヒーローになったお前を迎えに来たんだ」
と言われ、私は身の置き場も無いほど照れてしまった。
この年1月7日に田中敬子嬢との婚約を発表していた力道山は、私が渡米前に抱いていたイメージとは、かなり変わっていた。
「俺は鬼のリキから仏のリキさんになるんだ」
と自身でも言っていたが、この時私は初めて力道山とシンミリ語り合い、
「根は優しい人なんだな」
と思ったものだ。
と言われると、私も、
「早くこの人を安心させてあげなければ……」
と責任の大きさに身内の引き締まるのを覚えたと同時に、何かホロリとさせられた。
だが私はやはりまだ子供だった。いざ帰国となってロスの空港で、
「おい、何でもいいから日本にいるレスラー全員に、土産を買っていけよ」
と力道山に言われてしまったのだ。デビュー1年足らずで初渡米武者修行の大抜擢を受けた私には、周囲から羨望やねたみの目が集まっていたのを、力道山は知っていた。だが私は渡米する時は不安いっぱい、帰国には嬉しさいっぱいで、そこまで気が回らなかった。私はあわてて、ボールペンを大量に買い込んだ。
帰国の飛行機の中では、第5回ワールド・リーグ戦参加外人組8選手が全員初来日だったため、私は彼らの実力分析を細かにやらされた。アトキンスの名が入っていたのは、彼が東郷を通して強引に力道山を口説き落としたからだということだった。
「あのじいさん、お前から離れたくないらしいぜ」
と大笑いしていた力道山に、
「で、結局この中じゃ誰が一番強いんだ」
と聞かれ、私が、
「それはやはり、キラー・コワルスキーでしょう」
と答えると、とたんに、
「そうか、じゃそいつとお前が一番先にやれ」
と言われてしまった。私の記念すべき出世試合となったカードは、太平洋上を飛んでいうるちに決まったのだ。
昭和38年3月17日午後5時40分、力道山と私を乗せた日航機は羽田国際空港に到着、私は1年8カ月ぶりに日本の土を踏んだ。

