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「王道十六文(完全版)」第四章 初渡米 Part1

[2006年08月01日]

 30ドルの全財産をしっかりと握りしめてロサンゼルスの空港に降り立ち、私の初渡米武者修行が始まった。希望に胸ふくらませて、というにはほど遠い心境だった。胸は、不安でいっぱいにふくらんでいた。

 グレート東郷は芳の里、マンモス鈴木、私の3人のために、モーテルの一室を借りていてくれた。新丸子のアパートに毛が生えた程度のものだったが、ぜいたくは言えない。とくかく“住”は保証されたのだ。“衣”はもちろん自前。“食”は毎日東郷が車で、米や芋、コンビーフの缶詰、野菜などを運んでくれた。と書くといかにも豊富のようだが、3人で食うと何も残らない。東郷は実に正確に、一日分だけを供給してくれたのだった。

 初めてロスのオリンピック・オーデトリアムに行ったのは、“見学”のためだった。この3年前の昭和33年8月27日に力道山が、ここでルー・テーズを倒してインターナショナル王者になったのだと思うと、やはり感激深いものがあったが、メイン・エベントを見て私は思わず、
「あのじいさんたち、何やってんの?」
 と聞いてしまった。それが、フレッド・ブラッシーにサンダー・ザボーが挑戦したWWA世界タイトル・マッチだった。

 WWAはこの1ヶ月前に設立され、ブラッシーが初代世界王者に認定されたばかりだった。だが銀髪の外人を見た私には、それが白髪としか思えなかった。ザボーはこの20年前の1941年、つまり私がまだ3才で太平洋戦争が勃発した昭和16年に、第30代NWA世界王者となっている、こちらはもう本当にロートルの域。私には2人ともおじいさんに見えたのだった。

 ロスでの生活は、私の不安をますますつのらせるばかりだった。芳の里、鈴木両選手はすぐ試合に出場するようになったが、私には声がかからない。東郷は、体だけはでかいがキャリアはまだ1年足らずの私を、使いものにならないと見ていたようだ。

 練習もさせてもらえない。試合に出場する芳の里と鈴木を迎えに来た東郷は、私には、
「ユーは試合が無いのだから、ゆっくり寝ていなさい」
 と言った。起きて動けば腹が減る。寝ていれば一日一食ですむというわけだ。日本でも、東郷のケチケチぶりは有名だったが、これほど凄まじいとは思ってもいなかった。私はしょっちゅう、
「ユーはトイレットペーパーを使いすぎる」
 と怒られた。東郷は素晴らしいキャデラックを愛車としていたが、私たちが同乗しても、灰皿の使用は禁じられた。葉巻をくゆらせている東郷も使わない。灰は、キング・エドワードというその安葉巻の箱に落とした。灰皿は使えばいたむ。いためば車を下取りに出す時に値をたたかれるというのだ。夫人と買物に出ても、1セントでも安い所があると聞けば、遠い店でも東郷は歩いて行く。とにかく徹底した節倹ぶりだった。

 練習は、東郷に隠れてする外はなかった。東郷郎のガレージにある練習器具は使えないから、ロードワークはかりになる。ところがその最中に私は、全財産を落としてしまった。芳の里たちとの1セント・ポーカーと、これだけが唯一の楽しみだった15セントのアイスクリームにチビチビと使って、私の全財産は25ドルに減っていたが、これで正真正銘の文無し。収入の当てもゼロだ。

 仕方なく私は、日本人街の人に頼んで仕事を捜してもらい、芝苅りやペンキ塗りのアルバイトをやった。もちろん東郷には内緒。一日働いて25ドルだった。当時大学出の初任給が週給125ドルだったから、そう悪い日当ではないが、これはわびしい。日本ではまさか私が、試合も練習もさせてもらえずに、炎天下のロスで庭仕事をやっているなどとは、誰も思いもしなかったろう。

 ようやく試合に出してもらえたのは、2カ月近くたった8月25日、サンディエゴ大会だった。東郷は、全身に剛毛の生えた鈴木に、
「リング上で、ゴリラの真似をしろ」
 と命令したが、鈴木はそれに従わなかった。やはり嫌だったろう。その気持ちはわかる。だが怒った東郷は、
「あいつはダメだ。ユーが出ろ」
 と私に出番が回って来たのだった。私は田吾作タイツに高下駄をはき、リングに塩をまいて四股を踏むことを命じられた。これは東郷もミスター・モトも、芳の里もやっている。当時のアメリカ・マット界では、日系レスラーのトレード・マークとなっていたから、私にはそれほど抵抗は無かった。とにかくどんなスタイルでも、芝刈りよりは試合に出場した方がマシだ。

 アメリカ・デビュ一戦の相手は、油の乗り盛りの“ポンボン”・アート・マハリックだった。私はリング・アウトで負けた。当時のロス地区の会場は、リングに客席が密着していて、リングから転落すると、即座に負けを宣させられたのだ。

 デビュー戦のギャラは、25ドルだった。私が落とした全財産も、アルバイトの日当も同額とは奇妙な一致だったが、ギャラは、まるまる私のものになるというわけではなかった。マネジャーの東郷が受け取って、試合に出られるようになった私は、東郷から週給60ドルをもらうようになったのだ。この週給60ドル時代は、だいぶ長く続いた。

 9月に入って、私たちはニューヨーク地区に転戦することになった。その直前にサンディエゴで、私はノン・タイトル戦ではあったが、時の世界王者ブラッシーと初対決した。これは、嫌な思い出となって残っている試合だ。

 攻撃型の反則魔王者だったブラッシーは、中盤からガンガン攻めこんで来た。その時、セコンドに付いていた東郷が、
「落ちろ、落ちろ!」
 と怒鳴った。おかしなことを言うなとは思ったが、東郷のことだから、何か魂胆があるのかもしれない。何度も言われて、私はリング下に落ちた。カリフォルニア・ルールによって、即座に負けだ。東郷はカンカンに怒った。東郷が言ったのは、
「ダウンしろ!」
 という意味だった。ブラッシーの猛攻を突っ立ったまま受けていたのではまずい。とにかくマットにタウンしてタイミングを外せと言いたかったのだが、東郷は日本語の語彙が不足しているし、私は英語がおぼつかない。結果的には私は、東郷の言葉に従って東郷の意に反したのだから、怒られても素直に謝まる気にはなれなかった。

 それが気に入らなかったのだろう。控室で私は、東郷に頭を下駄でポカポカッと殴られた。大勢のレスラーが見ている前でだ。これはみじめだったし、口惜しかった。私の両眼から、涙がポロポロと流れ落ちた。大人になってから人前で泣いたのなど、初めてのことだ。私は、
「もう何が何でも日本に帰る!」
 と覚悟を決めた。パスポートは東郷に取り上げられているが、盗み出すつもりだった。だが日本への飛行機代を持っていない。
「船便ならどうか」
と調べたところ、この方が航空運賃より高かった。結局帰れない。私は、東郷のもとで辛抱する外はなかった。

 9月半ばに、芳の里、鈴木、私の3人は東郷に連れられ、ニューヨーク地区に入った。まだWWWFが独立する前で、この年1961年(昭和36年)6月にパット・オコーナーを破り、第43代NWA世界王者となったパディ・ロジャースが、マジソン・スクェア・ガーデン(MSG)の帝王として君臨していた。アントニオ・ロッカ、ジョニー・バレンタイン、カウボーイ・ボブ・エリス、ポポ・ブラジル、ペアキャット・ライトらがトップを競ってひしめいていた凄い時代だ。

 この地区での私のデビュー戦は、ワシントンDCでのテレビ・マッチで、相手はベテランのゴードン・ネルソンだった。日本では、テレビ・マッチに出られればメイン・エペンター扱いだが、アメリカはだいぶ事情が違う。
「日本からこんな大きいのが来た」
というPRの意味が強く、インタビューの時間がたっぶりとってある。それは東郷が適当にしゃべってくれて、私はその横で凄んでいればよかった。

 この日の控室に、私と同じように隅っこで小さくなっていた駆け出しレスラーがいた。それがブルーノ・サンマルチノだった。初めて控室で顔を合わせたプロレスラー同士は、ほとんどが、相手を値ぶみするような目で見るものだが、サンマルチノは私と視線が合うと、ニコッと人の好さそうな笑みを送って来た。言葉はまだ通じなかったが、
「同じグリーン・ボーイ同士だな」
 と親近感を持ったらしい。私はこの男がいっペんに好きになってしまった。

 ニューヨークでは私たち4人は、最初はエジソン・ホテルに投宿したが、翌日になると東郷が、
「ここは高い。出よう」
 とさっさとブライアント・ホテルに移ってしまった。こういう点も東郷はしっかりしているが、アメリカでは日本と違って、レスラーの宿泊費をプロモーターが持てくれるわけではない。交通費もすべて自弁だ。来日した外人レスラーたちが、みんなそれぞれ一匹狼的な気質を持っていた理由はこういうところにあったのだと、納得出来た。

 ニューヨークに定着し、MSGの定期戦に出場するようになると、私にも自信らしいものがついて来た。鈴木との“日本人巨漢コンビ”では、当時USタッグ王座(WWFタッグ王座の前身)を保持していたバレンタイン、エリス組に、それこそコテンパンにやっつけられたが、観客は沸いてくれたし、私ももう震えなかった。外人の本場に行って外人に震えていたのではどうしようも無いが……。

 私はこのころから、自分の巨体を大きな特質だと考えるようになっていった。世界の一流どころが集まるMSGにも、私より背の高いレスラーはいない。それが何とも愉快に思えるようになったのだ。私は当時、東郷の命令で口ひげをのばしていた。それに田吾作タイツに裸足で、リングに上がって塩をまき、四股を踏むと、MSGの大観衆がどっと沸いた。もちろん私は悪党修業をしていたからプーイングも多かったが、結構気持ちのいいものだった。

 東郷は私に派手な紅白の着物を着せ、高下駄をはかせて、五番街などをのし歩かせた。日本だったらとても気恥ずかしくてやれたものではないが、街を行く人たちがこわごわと見、しかもゾロゾロと後をついて来るのは、決して悪い気分のものではない。私は胸を張って歩いた。

 5番街の外れに、マイク・マズルキがマネジャーをしていたレストランがあった。マズルキは力道山とも戦ったレスラーで、引退後は映画俳優となり、ジョン・フォード監督の作品にもいくつか出演している。その店は、舗道に面して総ガラス張りになっていた。私たちがそこでお茶を飲んでいると、舗道に黒山の人だかりがする。私はつくづく、
 「でっかくて、よかったなぁ」
 と思ったものだった。


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