「王道十六文(完全版)」第三章 プロレス入り Part2
レスラー一行が全国サーキットに出て半月ほどたち、残り番をしていた私に、
「岐阜大会の会場に来い」
という連絡が入った。会場の控室に入ると、いきなり力道山に、
「足の運動をやれ」
と言われた。いまは取り壊されてしまったが、岐阜市民センターの控室は一段高い畳敷きになっていて、上がりがまちに幅1メートルほどのコンクリートの床があった。そこで2千回。
何とかやりおゝせると、
「フン、お前は足腰が強いな」
と褒められ、そのまま巡業に同行することになった。全国の会場はどこも満員続きで、当時はレスラーの宿舎は日本旅館ばかりだったから、試合後に大広間で宴会のような食事が出る。これが私にはありがたかった。
その後は残り番をすることは無くなったが、巡業中も練習量が減るわけでは無かった。かえって辛い練習が増えたほどだ。
力道山は新弟子たちに、巡業中の移動には常にダンベルを両手に持ち、それを上下させながら歩くことを命じた。ピッチャーは荷物を利き腕で持たないどころの騒ぎではない。片手に60キロ、両手で120キロのダンベルを常時持ち歩くのだ。
当時の移動は、すべて汽車を利用した。最近のように専用パスがホテルに横付けになるのと違って、歩く距離も長く、駅には必ず階段がある。汽車が試合地の駅に着くと、力道山は二等車(現在のグリーン車)から降り、ゴルフのクラブなどをステッキ代わりにして、さっそうと改札口を通り抜ける。三等車から降りた私たちは、その後を両手に持ったダンベルを交互に上下させながら、ヒョコヒョコとついていくのだ。いま思い出すと吹き出しそうな光景だが、当時はそれどころではなかった。特に夏などは、大粒の汗が目に入っても、ふくわけにもいかない。首を振って汗をはじき飛ばしながら歩いた。
生活の知恵というか、私は自転車のチューブを買って両端をダンベルにしばりつけ、首にかけることを思いついた。これは反則ではなかったらしい。力道山は怒らなかった。それでもやはり重い。駅の階段は、ここでもうらめしかった。
私はいまでも、青森の駅に着くと思い出す。国鉄のホームに降りて、青函連絡船乗り場までの通路が、実に長いのだ。ダンベルを両手に持った身には、ここは地獄の通路だった。連絡船に乗り込んでダンベルを下ろしても、両手両足ともガタガタと震えが止まらなかったものだった。
重さに耐えかねて、これを赤帽(駅のポーター)に預けたサムライもいた。アマレス出身で、横にがっちりとした体つきの平野岩吉だ。これはもちろん反則。力道山に見つかり、ものの見事にぶっ飛ばされてしまった。
プロレスの基礎である受け身は、割と早くマスターした方だった。2年先輩のマンモス鈴木、1年先輩の大木金太郎よりは、入門して2〜3カ月目には私の方が巧くなっていたと自負している。これには、野球で鍛えた反射神経とカンが、大きく物を言っていたようだ。腕のパワーは別として、この2メートル余の体を自在に動かし、鉄拳と青竹や木刀がすぐに飛んで来ることで有名だった力道山に一度もくらわされることも無く、プロレスの基本をマスターしていけたのは、やはり5年間のプロ野球生活のお陰だったと思う。
初マットを踏んだのは入門して5カ月半の昭和35年9月30日、東京・台東体育館大会だった。猪木も同時で、私の相手は桂浜、猪木の相手は大木金太郎。やたらと張り切っていた大木は、7分16秒逆腕固めで勝った。
私には、
「ボンちゃん(桂浜)なら、勝てる」
という自信があった。力道山の付人頭で合宿の寮長だった桂浜は、私たち練習生の監督のような立場にもあって、道場ではいつも威勢良く気合いをかけていたが、私はもう練習マッチでは桂浜に負けなくなっていたのだ。この日のメインエペントは、黒人リッキー・ワルドーが力道山に挑戦するアジア・ヘビー級選手権試合で、台東体育館は超満員だったが、巨人−阪神戦に初登板した時もアガらなかった私は、リングに上がってもちゃんとお客さんの顔が見えた。
だが基礎体力作りばかりやっていて、プロレスの技らしい技はまだマスターしていなかった私は、平手打ちとキックと、後は武者ぶりついて投げ倒すことぐらいしか出来ない。それでも強引に股さきを決めて、5分15秒でギブアップを奪った。レフェリーに右手を高々と上げられるのは、ちょっと照れ臭くはあったが、思っていた以上に気持ちのいいものだった。この試合のレフェリーは九州山だったと記憶している。
デビュー戦を白星で飾った私は、その後大木との引分け2戦をはさんで6連勝したが、9戦目に芳の里にコロリと負けた。私はこの小兵の芳の里が苦手だった。芳の里は、私が平手打ちを出すと、
「この野郎!スコップみたいな手で殴りやがって!」
などと言いながら逃げ回る。背中を見せてリング上を走り回るから、その背中に平手打ちを食わせると、オーバーに顔をしかめて痛がり、そこへ私が組みつくと、さっと足を引っかけて首固めに丸めこまれてしまうのだ。何度もこの手に引っかかった。この35年に私は30戦に出場して18勝7敗5引分けだったが、7敗のうち6敗までが、芳の里にやられたものだった。
レスラーとして初めて迎えた昭和36年の正月早々に、私は恐ろしい体験をした。この年の第2戦1月7目名古屋・金山体育館大会でのことだ。私はミスター珍と対戦、小粒な珍がトーホールドから股さきを仕掛けて来た時、寝たまま下からポーンと珍を蹴り上げた。珍は笛を飛んで後頭部からマットに落下、口から泡を吹き、白目をむき出して失神した。
私はどうしたらいいのかわからず、呆然としていたが、セコンド陣がすぐに駆け上がり、珍の口を強引にこじ開けて、割箸で舌を押え、救急車で病院にかつぎ込んだ。この手当てがなかったら、珍は命を落としていたという。後頭部を強打して失神すると、舌をノドに巻き込んで窒息死する危険があるのだ。私は先輩レスラーたちの適切な手当てに感謝し、ホッとした。ここで珍を殺していたら、私はレスラー生活を続けていたかどうかわからない。
最近私は同じようなケースに出会った。昭和60年6月2日後楽園ホール大会で、私が石川敬士と組み、タイガー・ジェット・シン、マリオ・ミラノ組と対戦した時だ。石川がダウンしたミラノに、トップ・ロープからのギロチン・ドロップを落下させた。それが、ミラノが起き上がろうとしたところに命中、ミラノは珍と全く同じ状態になったのだ。やはり割箸で舌を押えて事なきを得たが、この時少年ファンたちが、
「死んじゃった、死んじゃった!」
と合唱したのには、全く頭に来た。25年前のファンは、場内がシーンと静まり返って、みんなが珍の無事を祈ってくれたものだ。
この珍の事件には、後日談がある。元気者の珍は間もなく戦列に復帰し、1月18日岐阜大会で再び私と対戦した。試合は私が返り討ちにしたが、試合中に珍は私の胸にガブリと噛みつき、肉をかじり取ってしまったのだ。この傷跡はいまも右乳首の上に、肉が盛り上がったように残っていて、
「お前、おっぱいが三つあるのか」
などと言われる。失神事件といいこの“復讐劇”といい、
「プロレスは、生やさしい稼業じゃないな」
とつくづく思ったものだった。
私が初めて外人レスラーと対戦したのは、この年春の第3回ワールド・リーグ戦だった。もちろんまだ正式にリーグ戦に出場出来るわけはなく、開幕戦5月1日東京体育館大会で、ミスターXと15分1本勝負を行うことになったのだ。このリーグ戦は、グレート・アントニオが神宮外苑広場で大型バス4台を引っ張って大変な話題となり、カール・クラウザー(ゴッチ)も初来日したが、優勝候補はXのビッグ・ビル・ミラーだった。
正直な話、試合前の控室で私はブルブルと震えていた。巨人−阪神戦でも、初マットの時もアガッたことのない私が、完全にアガッていると自分でもわかった。こわかったのだ。
「いったい俺は、どんな目に会わされるんだろうか」
とイヤな想像ばかりが頭を占領していた。Xの強さと荒っぽさは、この前日まだ完成途上だった渋谷のリキ・スポーツパレスで行われた公開練習で、たっぷりと見せつけられている。とてもとても、私が何をやっても通用する相手ではないことが、わかり切っていた。
この試合ばかりは、私は何をやったのか全く覚えていない。とにかく無我夢中でぶつかっていって、Xが適当にあしらってくれていることだけはわかり、恐怖感は薄らいだが、気がついたら逆エビ固めに決められていて、情け無い声でギブ・アップした。何10分も戦ったほど疲れ果て、試合後はしばらく虚脱状態だったが、記録を見たらたったの4分21秒だった。
その後、リーグ戦中にへラクレス・ロメロ(コーテッツ)に2回、ジム・ライトに1回ぶつけられたが、いずれも完敗した。最高にもったのが5分47秒で、ライトには2分40秒でやられている。Xとの対戦がデビュー後50戦目だったが、とにかくまだまだ外人レスラーと対戦するほどの力はついていなかった。Xなど、まるで岩にぶつかったようなものだった。
だがこの外人レスラーとの対戦が、私の初渡米武者修行へのテストだったと聞かされ、私は内心ホッとした。
「俺は、テストに落第した」
と思わざるを得ない。その方が良かった。まだアメリカでファイトする自信など、全く無かったのだ。
この前年末ごろから、力道山はしばしば
「これからは、若手もどんどん海外に出して、修業させなきゃいかん」
と口にして若手たちの競争心のあおり、それを楽しんでいるようなところがあった。そのための特訓もほどこされたが、これはもう大変なものだった。私は、
「お前は海外に出たら、空手チョップを武器にしろ」
と右手を鍛えられた。力道山は自分も手を鍛えるために、砧で藁などをたたく木槌を三角に変型させた物を持っていたが、私の手をテーブルの上に乗せさせ、それでガンガンとたたくのだ。手は腫れ上がり、やがて皮膚が破れて血と水が出るが、それでもやめない。皮をむかれてたたかれているようなもので、一発一発が脳にひびき、飛び上がるほど痛かったが、手を引っ込めれば、特製三角木槌が力いっぱい頭に振り下ろされることはわかり切っている。
「どうだ、痛えか!?」
「はっ、いえ、大丈夫です」
「そうか、痛くねぇか」
ガンガン。力が加わってくる。だが痛いと言えば
「そのうち、痛くなくなってくる」
といつまでもやられるのだから、とにかく目をつぶり、歯を食いしばって我慢する外はなかった。だが人間の体とは恐ろしいもので、これを続けているうちに破れた皮膚も固まり、やがてはタコのようになって、堅くて丈夫な手が出来上がるというわけだ。木槌が無い時は、灰皿でやられた。その気になればトレーニング用具はどこにもころがっている。
大木金太郎は、
「お前は頭突きを売物にしろ」
と鍛えられた。コンクリートの壁の前に立たされ、力道山が後頭部をつかんで、ガンガンとたたきつける。やはり腫れ、破れて水が出て、固まるというコースをたどって、あの石頭が出来たのだ。
だが落第と思っていたところが案に相違して、テストの結果は、
『合格』
と出たらしい。リーグ戦は予想通り、6月29日の決勝戦で力道山とXが対決し、力道山が3連覇を達成したが、その時にはもう、芳の里、マンモス鈴木、私の3人に、初渡米武者修行の力道山命令が下っていた。
お恥ずかしい話だが、私はまた震えてしまった。当時、初渡米武者修行は、
『出世コースの急行券』
などと言われ、デビュー1年足らずで大抜擢を受けた私は、先輩たちにだいぶそねまれたらしいが、私はそれどころではなく、出来ることなら代わって欲しいぐらいのものだった。現在のように気軽に観光旅行に行ける時代ではなかったから、アメリカという国には凄く興味があった。だが武者修行となると話は別だ。
「ミスターXみたいな強いヤツがゴロゴロいる国に飛び込んだら、俺はいったいどうなっちまうんだろう」
という恐怖が先に立った。私が入門する直前の35年2月、力道山はブラジル遠征にマンモス鈴木の同行を命じたが、力道山が、
「1年ぐらいブラジルに置いて修業させる」
と言っていたのを聞いた鈴木は、出発前日に姿をくらましたという。私は鈴木の気持ちがわかるような気がしたが、その鈴木も今度は覚悟を決めていたようだ。私だけが逃げ出すわけにもいかない。
力道山は、
「ロサンゼルスに着けば、あとはグレート東郷がうまくやってくれるから、すべて彼に任せておけばいい」
と言ってくれた。力道山と東郷の間で、話はちゃんとついているのだろう。私には、それだけが頼りだった。
ワールド・リーグ戦後の恒例となっていた選抜戦シリーズが始まってすぐの昭和36年7月1日、私は羽田国際空港から、生まれて初めての飛行機に乗った。離陸すると、
「あっ、もう日本を離れてしまったんだ。えゝい、もうどうにでもなれ!」
と居直ったような心境になった。
だがそれからほんの1〜2時間後、私はまたまた心細い思いをさせられた。
「お前、ドルをいくら持って来た?」
と芳の里が私に聞いたのだ。
「はっ? 1ドルも持ってません」
「えっ? 本当か? お前文無しか!?」
「はい、先生が“東郷に任せてあるから、お前は何も考えなくていい”と言われたもんですから……」
「馬鹿だなぁお前は。いくらそう言われたって、文無しで来るヤツがあるか!」
芳の里も鈴木も、かなりのドルを工面して持っていたらしい。そういう点、私はやはりまだ子供だった。よく考えてみれば、着いたその日から東郷が小遣い銭をくれるはずは無さそうだ。だが私は、強い外人レスラーにやられる恐ろしさで頭がいっぱいになり、ほかのことには気が回らなかったのだ。幼児や、お付きを大勢従えたVIPならいざ知らず、1ドル1円も持たずにアメリカ行きの飛行機に乗った男なんて、おそらく私ぐらいのものだろう。
芳の里は、岐阜の林藤一プロモーターが“3人に”と言ってくれた銭別の100ドルを預かっていた。それを芳の里40ドル、私と鈴木が30ドルづつに分けた。当時の公定相場で1万800円。いまなら5千円に満たない。それが、初めてアメリカの土を踏んだ私の全財産だった。

