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「王道十六文(完全版)」第三章 プロレス入り Part1

[2006年08月01日]

「プロレス入りの動機は?」
 と正面切って聞かれても、実のところ私にはうまく答えられない。球技には子供のころから絶対と言っていいほどの自信があったが、格闘技には全くの素人だ。体が大きくなり始めてから、相撲を取らされても誰にも負けなかったが、相撲部屋のスカウトからは逃げ回ったほどだから、まさか自分が格闘技を職業にするようになるとは、夢にも思っていなかった。

 プロ野球選手として生きる望みは絶たれたが、私は郷里に帰る気にはなれなかった。上京して来た母ミツと姉ヨシ子に、
「郷里に帰って家業を継いでくれ」
 とかき口説かれたが、私は、
「もう少し、オレに我がままをさせてくれ」
 と頑張った。家業の青果商は姉と義兄が継いでいて、どうしても私が必要だというわけでもない。心身ともに傷ついた末っ子を、一人で東京に置いておきたくないという肉親の情は痛いほどわかったが、私には、帰ることもまた傷つくことだった。

 新潟県から初めて出たプロ野球選手ということで、郷里には私の後援会も結成されていた。そこへ、22才のいい若い者が、
 「駄目でした」
 とオメオメとは帰れない。
『男子志を立てて郷関を出ず、学成らずんば死すとも帰らじ』
 とまあちょっぴり、そんな悲壮な気持もあった。

 そのころ、スポーツ・ニッポン新聞で巨人軍担当だった荒井良徳記者のインタビューを受けて、私は、
「2〜3年後を見て下さい。馬場正平、必ず男になって見せます」
 と大見得を切り、それがでかでかと一ページを飾った。この切り抜きはいまでも持っている。これは嬉しかったが、さりとて何をして“男になる”のか、別に当てがあるわけでもなかった。ただやたらと、
「何かやる、やって見せるぞ!」
 と私は力んでいたのだ。

 だが持ち込まれる話は、どれももう一つピンと来なかった。巨人軍の多摩川合宿を出てから、私は対岸の新丸子に家賃4千円で4畳半一間のアパートを借りていたが、近所に不二拳闘クラブがあって、私はチョイチョイ顔を出していた。とくかく体をナマらせてはいけないと、後にミドル級チャンピオンになった前溝隆男や、ジュニア・ライト級王者になった勝又行雄らと、多摩川ベリを走り回ったりしていた。そこの岡本不二会長からは、
「ヘビー級ボクサーになれよ」
と進められた。左手指は曲がったままで、野球のグローブははめられないが、ボクシングのグローブならOKというわけだ。だが当時日本に、ヘビー級ボクサーなんて一人もいない。ちょっと無茶な話だった。

 巨人軍多摩川練習場のグランド・キーパーのおじさんは、
「小林正樹監督を紹介するから、映画俳優になれ」
 と言ってくれたが、どんな役柄の俳優になるのかはわかり切っている。これはありがたく辞退した。巨人軍時代の友人は、当時赤坂に新築中だったホテル・ニュージャパンに一緒に勤めようと誘ってくれた。だが私にホテルマンは似合いそうもない。

 新橋のキャバレー『ミス東京』からも声がかかった。その真っ正面にあるもう一つのキャバレーが、小人をドアボーイに使っていて、それに対抗して私をドアに立たせようという話だった。怒る気にもなれなかった。人間、自信を失っている時は、そんな話にも、
「ふざけるな!」
 と怒れないものだ。

 やはり私は、スポーツがやりたかった。
「この大きな体を思い切り動かしたい」
 という気持ちが、当時人形町にあった力道山道場に、私の体を運んでいったようだ。“ようだ”と書くのはおかしいかもしれないが、実際私にはその時、
「プロレスラーになろう」
 というはっきりした意志は無かった。もしあれば、仲介者を立てるなり、電話で先方の都合を確かめるなりしてから行っていたろう。私がフラッと道場を訪れたのは、東大病院の門をくぐったのと同じように、何かが私をそこに引き寄せたのだとしか、私には思えない。

 力道山はブラジル遠征中だった。道場に併設された合宿の寮長だった桂浜(田中米太郎)が、帰国の日を教えてくれた。その時初めて、
「あっ、オレはプロレスラーになってしまうかもしれないな」
 という予感みたいなものがあった。左手指は、いつの間にか完治していた。これがもう1カ月早かったら、私は野球をあきらめ切れなかったと思う。だが、プロ野球の公式戦はすでに開幕していた。私はプロレスラーたるべく運命づけられていたのかもしれない。

 プロレスには、当時の日本人の誰もが持っていた程度の関心を、私も持っていた。シャープ兄弟が初来日して爆発的なブームを巻き起こしたのが29年2月。翌30年春に私は巨人軍に入団し、多摩川の合宿で皆とワイワイ騒ぎながらテレビに見入ったものだ。ルー・テーズ、ジェス・オルテガの名前ぐらいは知っていた。

 力道山とは、一応の面識もあった。巨人軍の祝勝会が新宿のコマ劇場で行われた時、ゲストに招かれた力道山と楽屋で、5分間ほどだが雑談を交わしたことがある。力道山は大の野球狂で、話題ももっぱら野球のことばかりだったが、
「野球選手ももっと首を鍛えたら、必ずプラスになる。ケガも少なくなるぞ」
 と話していたのが印象に残っていた。

 力道山道場は、正式には中央区日本橋浪花町の日本プロレス・センターだが、私たちは“人形町の道場”と呼んでいた。力道山がブラジルから帰国した翌日の昭和35年4月11日、私は再び道場を訪れた。力道山は桂浜から私のことを聞いていたらしく、私の顔を見るなり、ニヤッと笑って、
「おい、足の運動を50回やってみろ」
 何の仕度もしていなかった私は、照れ臭い思いをしながらパンツ一枚になり、見よう見まねでヒンズー・スクワットをやった。
「フーン、やるじゃねぇか。もう50回だ」
 私は巨人軍時代、ピッチングとランニングしかやっていなかったから、脚力には自信があった。
「よし、お前、明日から来いよ」
 それで決まりだった。だが私にも生活がある。
「いくらくれますか?」
「なにい? お前、ジャイアンツでいくらもらってたんだ」
「月給5万円です」
「よし、じゃ5万円出してやる」
 こうして私のプロレス入りは決まった。

 5万円は最初の月だけで、翌日からは、
「試合にも出ていねぇのに、5万円は高ずぎる。3万円だ」
 と値切られてしまったが、当時日本プロレスの若手で、月給をもらい、練習に“通勤”を許されたのは、私だけだった。若手や練習生は皆、人形町の合宿か、大田区梅田にあった力道山邸に住み込まされ、一シリーズ終わるこどに、力道山の胸三寸で小遣い銭をもらうのが普通だった。そんなことから私は 「エリート待遇を受けた」
 と言われるのだが、プロレスラーにエリートもヘチマも無いと私は思っている。練習に差別は無かった。力道山道場名物の
『足の運動3千回』
 これを今の若手たちに強制したら、一人残らず逃げ出してしまうだろう。ぶっ続けにやっても2時間半はかかる。脚力に自信のあった私でも、最初のうちは2百回ぐらいでぶっ倒れてしまった。水をぶっかけられ、また倒れるまでやる。これの繰り返しだった。私は、ぶっ倒れるまでやるのがスポーツの猛練習だと思っていたが、プロレスの練習は、ぶっ倒れてから始まるものだと知った。

「死んじゃう。逃げ出したい!」
 実のところ、何度そう思ったかわからない。だが、大学卒の初任給が2万円未満だったそのころ、高校中退の22才の若憎に5万円出してくれる会社などあるわけが無く、それより何より、私にはもう後が無かった。プロ野球落第生のレッテルを貼られてプロレス入りし、その練習についていけずにデビュー前に落伍したら、それこそ人間失格だ。

 私は最初、タイツ一枚の裸で人前に出るのが、恥ずかしくてたまらなかった。野球も、高校時代によくかり出された卓球もバスケットボールも、私が好きだったスポーツはすべてユニホームを着る。その習慣が身についていたためか、裸で運動することが何となく心もとなく、カッコ悪いような気がしたのだ。

 だが練習が始まると、そんなことは言っていられなかった。ヒンズー・スクワットをする私の足下に、やがて汗が小さなプールを作る。プールはどんどん大きくなって、その中へ顔を突っ込んでダウンすることもしばしばだった。カッコいいの悪いの恥ずかしいのといった感覚は、もう全く別世界のものになってしまう。

 炎天下の練習でも野球なら、汗はユニホームが吸い取ってくれる。人間の体から汗がこれほど出るものとは知らなかった。東京・浅草にあった台東体育館の小さな控室で、私と大木金太郎、アントニオ猪木の3人が、力道山の号令で足の運動をやらされた時などは、3人の汗で床が水びたしとなり、やがてポチャン、ポチャンと小さな波が立った。決してオーバーではない。シューズの底は完全に沈んでしまったのだから、“水深”2〜3センチはあったろう。いま全日本プロレスのチーフ・レフェリーを勤めているジョー樋口が、
「3人とも体が大きいから、出る汗の量もケタが違う。あの床にたまった汗は、ひしゃくですくえた」
 と呆れていたものだった。

 私がプロレス入りしたことをスポーツ紙で知った母のミツは、あわてて上京して来た。案の定、猛反対だった。
「力道山さんから契約金をもらったのなら、何としてでも私が返すから、プロレスだけはやめてくれ。どうしてもやるというなら勘当する」
 とまで母は言った。

 同じプロ・スポーツでも、プロ野球に入った時とは大変な違いだ。巨人軍入団が決まった時には、郷土の名誉のように言われた。プロレス入りには多少の反対は覚悟していたが、勘当という古い言葉まで持ち出されるとは思わなかった。

 私はプロ野球選手もプロレスラーも、プロ・スポーツマンであることに変わりは無いと思っている。しかし当時の野球界とマット界の社会的評価や体質の違いもあったろうが、喧嘩ファイトで時には血だるまにされるような危険な世界に、可愛いい息子を入れたくないという女親の気持ちはわからないでもなかった。だが私はもう後には退けない。一晩かかって母を説得したが、母は最後まで、
「それならやりなさい」
 とは言わなかった。母は、泣き落としにもおどしにも決心を変えない私に呆れ、あきらめて、翌日三条に帰っていった。その小さな後ろ姿に、
「申し訳ない」
 とは思ったが、母を追い返した形になったことが、その後の私の励みになったことも事実だった。
「この世界で男になれなけりゃ、もう死んでも郷里に帰れない」
 そんな気持ちだった。

 しかし夢は大きく決意は悲壮だったが、現実の練習生生活はみじめなものだった。5万円の月給は一度もらっただけで、すぐ3万円にされてしまったから、懐が寂しい。新丸子のアパートから人形町の道場までタクシーを飛ばすなんて夢のまた夢。アパートを朝の8時に出て、歩いて10分ほどの新丸子駅から東横線で渋谷に出る。これが20円だった。渋谷から国電で東京駅までがまた20円。そこから人形町の道場までは都電が走っていたが、電車賃を節約するため40分ほどかけて歩いた。

 歩くのはいい。電車の中が嫌だった。大きな体はどうしても目立つ。
「あの大男、ジャイアンツをクビになった馬場だぜ」
 周囲の乗客が目引き袖引きしているような気がしてならなかった。他人の事には無関心な人の多い東京で、しかも乗客が最も洗練されているという定評の東横線だから、誰もそんな目で私を見ているわけでも無いのだろうが、被害妄想というか、とにかく当時の私は劣等感の塊りみたいになって、みじめな思いをしていた。つくづく、大きな体を恨んだものだ。

 食事は一日一食のことが多かった。朝飯抜きでアパートを出て、練習は午前10時開始。4時間余り休み無しのぶっ続けで、午後の3時ごろから合宿でチャンコを囲む。チャンコといっても当時は、飯と味噌汁とたくわんだけが食い放題で、お菜は自費でまかなうというシステムだった。私はだいたいドンブリ3バイが定量だったが、2年先輩のマンモス鈴木が、6パイも7ハイも食うのを初めて見た時は、目を丸くしたものだった。

 チャンコを終えてまた東京駅まで歩く。入門したばかりのころは、足が突っ張って駅の階段が上れなかった。22才の大男が、手すりにつかまってヨイショヨイショと一段づつゆっくり上っていくのを見た人は、
「若いのに、気の毒に……」
 と思ったかもしれない。駅というのはどうしてこんなに階段が多いのかと、うらめしかった。

 だが、階段が多くても電車に乗れれば幸わせだ、と思うこともあった。帰りに30円しか無く、渋谷からは10円区間の田園調布まで乗って、あとは歩いたことも何度かある。翌日は、これだけはかなりあった蔵書を古本屋に売って、電車賃に変えた。

 仲間のカンパに出してしまったか、あるいはチャンコのお菜が予算をオーバーしたか、よくは覚えていないが、渋谷に着いたら文無しだったこともあった。交番で“20円貸してくれ”などと頼んだら、
「ジャイアンツをクビになって、そこまで落ちぶれたか」
 と思われるに決まっている。仕方無く、歩いて帰る覚悟を決めた。渋谷から神奈川県川崎市の新丸子までは、たっぶり10キロ以上ある。トボトボと歩き出しながら、
「金が、落っこってないかなぁ」
 と下ばかり見ていた。それが、落ちていたのだ。東横線のガード下の舗道に、女物の赤い小さな財布が落ちていた。すぐ拾うのも体が大きいから目立つし、カッコ悪い。靴の先でチョンと蹴って隅に寄せ、靴ひもを締め直すような素振りをしながら、拾い上げた。まだ百円玉の無いころで、手ざわりはペチャンコだったが、空財布かどうかはわからない。駅の横の公衆便所わきの薄暗がりに行って、中味を調べた。百円札が3枚入っていた。

 何とも複雑な心境だった。ホッとした。後ろめたく、みじめだったが、“人間の執念って恐ろしいな”とも思った。感謝した。“オレは運の強い男だ”とも思った。生まれ落ちて22年余、落とし物をしたことはあるが、物を拾ったことは一度も無い。それが、
「金が落ちてないかな」
 と思ったとたんに拾ったのだ。しかも3百円というのは、まことに適当な額だった。1万円でも入っていようものなら、やはり交番に届けなければならない。落とし主が出なければ謝礼を前借りするわけにもいかないから、やはり歩いて帰ることになる。空だったら、みじめな思いがつのるばかりだ。
 私はその金で渋谷で一番安い35円のラーメンを食い、電車に乗って帰った。いまでも落とし主の方には感謝している。

 一日一食では、夜になって腹が減ることもある。そんな時は、パンやまんじゅうの買い食いをした。私の蔵書はどんどん減っていった。私は30年春に巨人軍に入団した時、契約金というか、仕度金として20万円もらったが、月給は1万2千円だった。テスト生から入団した選手は平均6千円だったから、まあいい方だ。それが年毎にアップしていって、退団時は5万円だった。だが酒は飲まないし、あまり使うことも無いので、せっせと好きな本を買い集めていた。それが私の浪人時代から、日本プロレスでの練習生時代の生活を、支えてくれたのだった。

 ヒンズー・スクワット3千回がこなせるようになるまでは、約1カ月かかった。私が入門して4日日の35年4月15日に第2回ワールド・リーグ戦が開幕し、レスラーたちは全国サーキットに出たが、私や、同時に入門した猪木ら新人たちは“残り番”だった。私たちはひたすらヒンズー・スクワットの回数を伸ばすことと、パワー作りのベンチ・プレスに専念した。これがまた私には苦手だった。

 プロ野球のピッチャーは、非常に肩を大事にするし、コーチからもきびしく言われる。肩を冷やすからと水泳などはもっての外で、夏でも裸で昼寝することさえ許されなかった。利き腕で荷物を持ってもいけないと言われ、右手ではボールとバットより重い物は持ったことが無かった。当然、腕立て伏せも出来ない。ベンチ・プレスも最初は60キロがやっとだった。最近は、プロ野球の選手もパワーをつけるために、器具を使った筋肉トレーニングを取り入れているようだが、私たちの時代には、ピッチャーがそんなことをしたら大目玉を食ったものだ。

 私は格闘技の経験が全くと言っていいほど無かったから、プロレスというものもさっぱりわかっていなかった。入門した日に、全身に剛毛の密生したマンモス鈴木の凄い体(当時20才、198センチ、115キロ)を見て、
「こんな凄い男が、どうして力道山に勝てないんだろう」
 と不思議に思ったほどだ。

 私が入門して3日日に、第2回ワールド・リーグ戦の前夜祭と公開練習が、力道山道場で行われた。その時、サニー・マイヤースの言ったことにハンス・ボブ・ヘルマンが大声でやり返し、場内に険悪な空気が流れた。ごついのがそろっている外人組の中でもひときわ大きくてごついへルマンと、最も小粒・軽量で強そうに見えないマイヤースとが喧嘩になったら、マイヤースはひとたまりも無いのではないかと、私はハラハラして見ていた。

 ところが、意外なほど落ち着いていたマイヤースに対して、体を震わせるほど怒っていたへルマンが、ついにつかみかかろうとはしなかった。その理由は、リーグ戦が開幕してすぐにわかった。ヘルマンはマイヤースにコロリと負けたのだ。入門草々に私は、ただ体が大きければいいというものではないことを知った。プロレスの凄味を、ほんのちょっぴりかいま見た思いだった。


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