「王道十六文(完全版)」第二章 巨人軍入団 Part2
話は飛んでしまったが、巨人軍入団1年目は、それこそ無我夢中のうちに過ぎてしまった。2年目の昭和31年にはぐんとスピードもコントロールもつき、たしか12勝1敗で2軍の最優秀投手になっている。3年目の32年は13勝2敗だったか、これも最優秀投手。1軍の公式戦に登板したのは、この32年のシーズン後半だった。
初登板は甲子園球場での対阪神戦で、8回裏からのいわゆる敗戦処理投手。阪神の打順はトップの吉田遊撃手からだった。“牛若丸”と呼ばれた名ショートで球界一の小粒。対する私は球界一の大男。巨人軍水原監督のファン・サービスという意味もあったかもしれない。
三塁側ダッグアウトからマウンドに歩いて行った私は、三塁コーチャース・ボックスに向かう阪神・藤村監督とすれ違った。“物干竿”を振り回し、ダイナマイト打線の主軸として暴れた猛打者だ。藤村監督は、
「おいお前、ストライクが入るんか!?」
とドスの利いた声で私に声をかけた。球技では私はアガッたという経験はないが、この時は意表をつかれてドキッとした。
マウンドに上がり、私より先に1軍入りしていた森捕手の第1球のサインを見ると、カーブを要求している。私は“ウン”とうなづくと、思い切ったストレートを投げ込んだ。スピードガンのまだ無かったころだが、140キロはあったと思う。
「ストライク!」
球審の手が高く上がったが、森はキャッチャー・マスクをかなぐり捨てると、血相変えてマウンドに駆け寄って来た。
「馬場! サイン見えてるか!?」
私がアガッて、サインが見えなかったと思ったらしい。
私は、サインははっきり見えていた。だが藤村監督に言われた言葉が引っかかって、カーブは投げたくなかった。ストレートのコントロールには絶対の自信を持っていたが、カーブにはまだちょっと不安がある。しかし公式戦初登板の私が、同期生とはいえすでに試合経験を積んでいる森のサインに、第1球から首を振るわけにはいかない。藤村監督にあぁ言われなければ、私は森の要求通りにカーブを投げていたろう。吉田が見逃したからいいようなものの、このストライクをとりにいった球をカチンと打たれでもしたら、私は藤村監督の新人投手の心理をかく乱してやろうという作戦に、完全にはまっていたところだった。プロはやはり恐ろしい。
結局吉田をサードゴロ、2番セカンドフライ、3番ショートライナーで、私は初登板の1イニングを3者凡退に打ち取った。
私のプロ野球生活最高の思い出は、このシーズン終了間際の後楽園球場で、対中日ドラゴンズ戦に先発し、中日のエース杉下投手と投げ合ったことだ。
杉下投手には、この試合に通算200勝がかかっていた。気負い込んでブンブン飛ばして来る。私はこの試合で公式戦唯一の打席に立ったが、手も足も出ずに3球三振を喫した。こんな凄い球を見たのは初めてだ。だが私も負けじと全力投球を続けた。5回まで投げて1点を取られ、5回裏の打席で代打が出て私は降板、試合は結局1-0で巨人軍は杉下投手に完封された。敗戦投手は私。
王選手がベーブ・ルースのホームラン世界記録に迫っている時、相手投手たちは、
「記録を作られる球だけは投げたくない」
と逃げ腰になったというが、私に言わせれば、それは考え違いというものだ。打たれた投手の名は、永久に世界プロ野球史に残る。これは一生の思い出になることだから、幸せに思っていいぐらいだ。
「杉下投手200勝達成試合の敗戦投手は巨人軍・馬場正平」
これでもなければ私の場合、プロ野球生活に何の思い出もない。
この年巨人軍は、セ・リーグ優勝を果たしてパ・リーグの覇者西鉄ライオンズとの日本シリーズに臨んだが、日本一の座を2年連続逸している。西鉄・三原監督が“鉄腕”稲尾投手に
「神様、仏様、稲尾様」
と史上に残る名セリフを吐いたころだ。
この日本シリーズが行われているころから私は、急速に視力が落ちていった。シーズン・オフに入った時にはもう、5メートル先に人がいることはわかっていても、誰であるか判別出来ないほどになっていた。これではマウンドに立っても、キャッチャーもホームベースも見えない。私はあわてて、合宿に近い田園調布の病院に行った。ここでは、
「ウチでは手に負えない。警察病院に行きなさい」
と言われ、飯田橋の警察病院では医師に、
「あんた、アンマさんになりなさい」
と言われてしまった。こんなひどい言い方もないと思うが、脳腫が出来ていて視神経を圧迫し、本来離れていなければならない神経が癒着してしまったのだという。手術をしても完治する可能性は1パーセントで、99パーセントまでは死。治療のため側頭部にレントゲン光線を当てれば、頭髪は抜け落ちてしまうが全盲だけは辛うじて免れるだろうから、マッサージの技術でも身につけておけという宣告だった。
「野球が出来ない!」
それに全青春をかけて来た19才の私には、死の宣告に等しいものだった。
私が誰の紹介もなくフラフラと東大病院を訪れたのは、神の啓示としか思えない。診察した清水健太郎博士は手術をすすめた。
「生命の保証はしてくれますか?」
と聞いた私に、博士は、
「君、医者はね、盲腸の手術でも、指1本を切っても、生命の保証なんてしないんだよ」
そのキッパリとした言い方に、私はその場で手術を申し込んだ。
「野球が出来なきゃ、死んだ方がマシだ」
と私は思い詰め、自分を賭ける気になったのだ。
だが、ベッドが空くまでの2週間ほどは、辛かった。合宿の私物はすべて荷造りして、私が死んだら郷里に送ってもらうよう手配した。あとは、多摩川の河原に出て『枯れすすき』ばかり歌っていた。私はまだ童貞だった。
「俺は、男にもなれずに死んじゃうのかなぁ」
そのことも、無性に切なかった。上京して来た母と旅館に移ってからも、母の金を盗んで生まれて初めてのヤケ酒を飲んだり、
「この19年間、俺は楽しく過ごした。それだけでもありがたいと思っている。俺が死んでも泣かないでくれ」
と遺言めいたことを口走ったりして、母を嘆かせた。
手術は成功した。36時間余の昏睡から覚め、頭上の電球が丸く見えた時の感激は、今も忘れられない。しかも病院側から、
「生命が助かっても、1年半から2年の入院治療が必要だ」
と言われていたのに、私は12月23日に手術を受け、28日に抜糸して、31日の大晦日に退院出来た。病院側でも、
「1週間で回復するなど、考えられない」
と不思議がった。私は今でも、
「大病にかかったら、医者は何人にでも診てもらえ。そして、自分に必ず奇蹟が起こると信ずるのは難しいが、奇蹟は本当に起こり得るものだと信じろ」
と人に言う。それが私の持論であり、信念だ。
昭和33年の元日に母と共に郷里に帰り、母校三条実業高校の体育館でバスケットボールをやってみたが、体は元通り動くし、カンも鈍っていない。私は喜び勇んで巨人軍のスプリング・キャンプに参加した。長島三塁手の入団で、キャンプは一段と活気づいていた。
前年のシーズンで私は1軍の公式戦3試合に登板、通算7イニングスを投げて失点1、自責点1・28を記録していた。この自責点は、回数は少ないがエースの藤田投手よりいい。2軍では2年続けて最多勝・最高勝率をあげた最優秀投手だ。私は“当然1軍だろう”と張り切っていた。だが、前年私を1軍に上げてくれた藤本ピッチング・コーチは退団、中尾投手がコーチに転じていて、私は2軍行きを命じられた。
この時から私は、巨人軍のエースになるのをあきらめたようなところがあった。ちょっとグチめくかもしれないが、それにはいくつかの理由がある。
私は新潟県出身のプロ野球第1号選手だった。当然先輩がいない。北陸地方出身という先輩もいなかった。圧倒的に多いのが関西、中国、四国、九州出身者。これは気候の違いでどうしようもないことだが、やはり先輩−後輩のきづなは強い。後輩が入団して来れば気になるのが、人情というものだろう。
私の同期生の投手には、添島、木戸、青木、国松らがいた。2軍での成績は常に私がトップ。だが先に1軍人りしたのは、添島と木戸だった。添島は熊本工業高校出身、武宮2軍監督と川上一塁手の後輩だったのだ。
田舎の高校を中退して来た私は、いわゆる処世術も下手だった。私たち合宿組はシーズン・オフになって帰郷する時、
「監督、コーチ、先輩たちへの贈り物はやめよう」
と申し合わせた。だがシーズン・インで合宿に戻ると、2〜3の選手のところにそれら上層部の人たちから、お歳暮の礼状やら礼の電話が来ていた。私は、
「約束を破りやがって!」
と腹が立ったが、いま人の上に立つようになってみると、冷たくソッポを向いている部下より、表現は悪いかもしれないが、“ゴマをする”部下の方が憎めない。やはり私は、子供っぽい正義感しか持ち合わせていない田舎者だったのだ。
しかし巨人軍合宿時代、人間関係が苦痛だと思ったことは一度もなかった。一緒に練習をし、マージャンを囲んで、青春の苦楽をともに分かち合う良き仲間だとさえ思っていた。本当は、彼らはみなライバルだったのだ。私が一番親しくつき合ったのは国松だったが、彼を始めとする投手たちは、私の当面の敵だったはずだ。だが若かったからか、私にはそういう意識が全くなかった。これも上層部から見れば、意欲不足ととられたかもしれない。私が初めて、
「あっ、俺の敵はこいつらだったんだ」
と気がついたのは、巨人軍からクビを宣告された時だった。
私の体も変調を来たしていた。杉下投手と投げ合った試合で、それこそ私は“腕も折れよ”とばかり一球も気を抜かずに、全力投球を続けた。力みすぎたのだろう。その後はひじに痛みを感じるようになり、これは33年のシーズンに入っても抜けなかった。
これは私の経験からだけでなく、最近はリトル・リーグなどでも問題になっているようだが、あまりに若いうちから大人と同じハードな練習をするのは、決して体に良くない。私が初めて巨人軍の串間キャンプに参加したのは、17才の誕生日の3日前だった。体は大きくても、やはり大人のようには出来上がっていない。その無理が、投手の生命とも言うべき右ひじに出てしまったようだ。
全日本プロレスを設立してからも私は、大仁田厚らは18才未満で入団させたが、体が大人になるまでは、ハードな練習はやらせなかった。これはどのスポーツにも言えることで、早くうまくなりたいがために肉体年令を無視することは、結局はマイナスとなり、本人の一生の健康を害することにもなりかねない。本人よりは、指導者が注意してやるべきだろう。
私の体が人並み外れて大きかったため、おかしな先入観をコーチ陣に与えたということもあったようだ。
「大男だから足腰が弱い。大男だから粗雑でコントロールが甘い」
と決めつけられたのがそれだ。前に書いたが、私は足腰の強さには自信があった。コントロールも、入団2年目にはボール一つの差を投げ分けることが出来た。相手打者の得意なコースから、ボール一つか一つ半はずして凡打に打ちとる微妙なコントロールだ。
スピードも140キロはあったと思う。だが私は体が大きくモーションも大きいから、ブルペンで投げている時は、あまり早く見えなかったらしい。34年に入団した王選手は、
「入団していきなり馬場さんの球を打たされたが、1本も打てなかった。長身から投げ下ろす重いスピード・ボールに、これがプロの球なんだなと思った」
と言ってくれたが、“2階から投げ下ろすような”とスポーツ紙にも書かれた真上から投げ下ろす私の球は、ブルペンで見るより、打席に立つとずっと打ち辛かったようだ。コーチがそこを認めてくれなかったという不満も私にはある。プロレスでもそうだが、大男は普通に動いても、ノロく見えるらしい。
とにかく33年のシーズンも2軍暮らしと決まり、私は右ひじの痛みもあって、練習には以前ほど熱が入らなくなった。それでも2軍戦には、ボール一つのコントロールに物を言わせて10連勝をマークし、このシーズンも最優秀投手になっている。3年連続だ。それでも1軍から声はかからなかった。私は引っぱってくれる先輩もいず、ゴマもすらず、周囲をライバルと見ることも知らぬノホホンとした大男で、
「2軍ずれした2軍のエース」
のレッテルを貼られてしまったのかもしれない。僅かに私の成績を認めてくれたのは月給袋で、初任給の1万2千円は年々アップを続け、退団時には5万円になっていた。在籍5年で4倍強になったわけだ。
王選手が投手として入団して来た34年のシーズンも、私は2軍のエースで終わり、シーズン・オフに待っていたのは、整理通告だった。負け惜しみではなく、私はそれほどショックを受けなかった。
2軍で投げ続けている私を、いつも気にして励ましてくれたのは、源川スカウトと、私の入団の年のヘッド・コーチだった谷口五郎だった。その谷口コーチが35年には、西鉄から移籍する三原監督とともに、大洋ホエールズ入りすることになっていて、私は、
「お前も来い。巨人軍には話をつけてやる」
と言われていたのだ。クビの宣告は、話をつける手間を省いてくれたようなものだった。
大洋の練習用グランドは、巨人軍と多摩川をはさんだ対岸の、ちょっと下流にあった。私は巨人軍合宿を出ると、川崎市新丸子にアパートを借りた。
昭和35年の大洋のスプリング・キャンプは、明石で行われた。巨人軍は前年まで明石キャンプを張っていて、私は30年の巨人キャンプ以来、毎年春には元子に会えたわけだ。胸のマークも背番号もないテスト生参加というのはわびしかったが、前年は無理な全力投球もしなかったお陰で右ひじの痛みも消え、
「これに俺の一生がかかっているんだ」
と私はビュンビュン投げ込んだ。三原監督から採用内定が出てホッと一息。そんな気のゆるみもあったのかもしれない。
練習休みの日、私は宿舎の旅館でノンビリと朝風呂に入っていた。女中さんが、
「食事にしますか、風呂にしますか」
と聞くから、
「練習のない日くらい、朝風呂にでも入るか」
とあまりやりつけないことをしたのが、運命の岐れ路だった。空っ腹でたっぷりと湯につかったため、湯舟から上がったとたんにクラクラッとめまいがし、湯舟にぶつかってタイルの上にひっくり返ってしまったのだ。左ひじが切れて、タイルがアッと言う間に朱に染まった。
救急車に運ばれ、何か体がだるくなって目をつぶりかけると、救急隊員に、
「眠っちゃダメだ!」
とほほをたたかれた。湯上がりだから、かなり出血多量だったらしい。
病院で傷口を縫い合わせ、1週間の入院で傷はふさがったが、左ひじの筋が切れ、左手の中指と薬指が掌についたまま、伸びなくなっていた。回復の見通しははっきりしないという。これではグローブがはめられない。球団所属の選手ならともかく、テスト生では、もうプロ野球選手生活をあきらめざるを得なかった。
元子は毎日のように見舞いに来てくれた。元子の父・悌も、
「三原さんには私からよく頼んでおくから、安心して治療に専念しなさい」
と言ってくれた。それらは私に計り知れぬ慰めとなり、勇気を与えてくれたが、私は心の中で、きっぱりと野球に訣別を告げていた。
脳腫瘍で死を覚悟した時とは、また違った心境だった。脳腫瘍の時は、先のことは全く考えなかった。絶望の渕に立って、野球を捨ててマッサージ師として生き永らえるか、死か野球かを賭けて手術を受けるか、二者択一を迫られて危険な賭けをとった。19才という年令的なこともあるが、一種の興奮状態にあって、清水博士に運命をゆだねる気になったのだった。
だが、この左手の指2本が伸びない失業者という状態は、冷静に受け止めなければならなかった。死という極限状態とは無縁だ。22才といえばもう立派な大人。これからどう生きていくかを、まず考えなければならない。
「とにかく、退院したら東京に帰ろう。新丸子のアパートで、じっくり考えてみよう。ここは旅先だ。ジタバタしても始まらない」
私はやはり根は神経が図太いのか、“まず退院が先決、そのためには体力をつけなきゃ”と入院中は、あまりくよくよ考えずにぐっすり眠ることにした。
「ひょっとしたら、元子とはこれで永遠にお別れかな」
と寂しい気がしないでもなかったが……。

