「王道十六文(完全版)」第二章 巨人軍入団 Part1
宮崎県串間の巨人軍キャンプに参加した私は、同時に入団した選手が意外と多いのに驚かされた。ハワイから来てすぐにクリーンアップを打ったエンディ宮本は別格として、国松、森、木戸、十時、添島、工藤…、大学や高校で鳴らしたバリバリが総勢18人。だが私は、
「なーに、必ず俺がエースになってみせる」
と内心秘かに自負していた。私は子供のころから、球技では誰にも遅れを取ったことがない。どのグループでも、すぐに私はリーダーになった。ついこの間までひたすら憧れの目で見ていた別所、藤本、大友、中尾…とそろった豪華な巨人軍投手陣のドン尻に加えられても、“やがて俺がトップになる”という自信はしっかりと持っていたのだ。
プロ野球の練習は、田舎の高校とはすべてに桁違いだった。私は、ただ体が大きいという理由だけで、
「足腰が弱いだろう」
と決めつけられ、ひたすら走らされたが、短距離のスピードはともかく足腰の強さには絶対の自信を持っていた私には、一向に苦にならなかった。小学5年生の時から7年間、1日も休まず重いリヤカーを引いて来た足だ。巨人軍のユニホームを着、ピッタリと足に合ったスパイク・シューズをはいて走ることは、楽しくさえあった。バッティング練習はもっと楽しかった。阪神タイガースのホームラン打者藤村三塁手が愛用して“物干竿”と呼ばれたのと同じ長さの39インチのバットを、ブンブンと振り回した。
串間キャンプはいわゆる基礎作りで、シーズン前の本格キャンプは、兵庫県明石で行った。私が初めて元子に会ったのはこの時だ。元子の父伊藤悌(やすし)は明石在住の、巨人軍のよき後援者だった。私は新人仲間2〜3人と先輩千葉二塁手に連れられ、伊藤邸にご馳走になりに行った。まだ詰めえりの学生服を着ていたと思う。元子は中学3年生だった。玄関に入ると、人数分そろえられたスリッパの中に、特大サイズが一足あった。
「ホラ、元子チャンがお前のために用意してくれたんだ」
千葉先輩に言われ、私は生まれて始めてスリッパをはいた。特製でなければ、私がはけるはずが無い。何をご馳走になったのかは忘れてしまったが、とにかく私は嬉しくて嬉しくて、元子に頼んでそのスリッパをもらって帰った。これは多摩川の巨人軍合宿で、ポロポロになるまではいた。私が東京に帰ってスリッパの礼状を出し、元子から返事が来て、二人の文通が始まったのだった。
私は小学校高学年ころから、クラスの気になる女の子をからかうぐらいはやったが、こう、もやもやとした気持ちになったのは初めてだった。これが私の初恋……だったに違いない。
最初の1年、昭和30年のシーズンは、もちろん2軍生活の合宿暮らし。もう社会人だからと上下背広を買った。たしか4万5千円だったと思う。初任給1万2千円だから、現金では買えない。月賦にしてもらった。シーズン・オフになって帰郷する時、集金に来た洋服屋に、
「あとは来年まで待ってよ」
と頼んだ記憶があるから、2年越しで払ったわけだ。
月給は半月毎に支給された。そのうちから合宿費が月千円、税金やら社会保険料を天引きされて、手にするのは半月5千円そこそこだ。たまの休みに東横線・新丸子から渋谷に出て映画を観るくらいで、酒も煙草もやらずコーヒーもお茶も飲まない優等生のモルモン教徒だから、もちろん門限破りなどしたこともないが、それでも洋服屋の月賦を払うと、小遣いはいくらも残らない。で、近所のソバ屋もツケにしてもらった。当時モリソバ25円、ラーメン35円だったが、このソバ屋でアンミツを食うのが楽しみだった。甘い物には目がない。小豆のアンコが大好きで、三条の家にいるころは、正月の三カ日の朝だけアンコロ餅の食い放題が許され、正月が待ち遠しくて仕方なかった。つい先日も巡業先の会津若松で、アンコロ餅を5皿(15コ)食って呆れられたが、今でも大好物のマンジュウなら、あればあるだけ食ってしまう。そんな調子だから多摩川合宿近くのソバ屋のツケも2千円、3千円とたまり、
「来月まで待ってくれよ」
と頼むことがしょっちゅうだった。
2軍時代も、後楽園球場で試合のある日は、よくバッティング・ピッチャーにかり出された。それが給料日に当ったりすると、ちょっとみじめだった。マネジャーがロッカールームに選手の給料を持って来るのだが、テーブルに置かれた私の給料袋は、扇風機の風で飛んでしまう。だが川上、与那嶺クラスの給料袋は、コトンと立った。それも横にではなく、縦に立ったのだ。当時はまだ1万円札がなかったからだろうが、とにかく、
「よ−し、俺も縦に立つ給料袋をもらうようになってみせるぞ!」
と発奮したものだ。
この誓いは、10年後に果たした。私が日本プロレスでインター王者となってからは、役員並みにもらうボーナス袋が縦に立った。毎月の給料袋というわけにはいかなかったが……
当時の私たち2軍選手の夢は、早く1軍に上がってスター選手になり、百万円の金をポケットに入れて自家用車に乗ることだった。その6年後の初渡米武者修業時代にニューヨークで、日本のダットサンに42万円の値札がついているのを見て、
「あれっ!?このくらいの値段だったのか?」
とちょっと驚いた。別に安いと思ったわけではないが、多摩川時代の私たちは、自家用車はとても手の届かない高嶺の花と思い込んで、値投などは知ろうともしなかった。ただ多摩川土手を走る外車を見ては、
「あっ、キャデラックだ、オールズモビルだ!」
と子供みたいに、外車の名を知っていることを競っていただけだった。
その高級外車の突っ走る多摩川土手を、私たちは毎日2本の足で走っていた。これがサボれないように出来ている。私たちは合宿を出ると、丸子橋から二子多摩川までグランドの対岸の神奈川県側を走り、二子橋を渡ってグランドに入る。コーチ陣はグランドにいれば、走っているのがずーっと見渡せるわけだ。それでも堂々とサボッたのは、各球団を渡り歩いて“ジプシー”とあだ名された後藤投手ぐらいのものだった。
私たちの仲間に、あまり“悪太郎”はいなかったようだ。だがちょっとくらいは悪いことをする男の方が出世する傾向もあって、あまりに優等生すぎると、上層部からは“覇気がない”と見られかねないところもある。サラリーマン社会ではないから、ここはちょっと微妙のようだ。
だがとにかく私は品行方正だった。巨人軍時代に覚えた遊びといったら、マージャンぐらいのものだろう。当時はマージャンが、プロ野球選手の必修課目のようなところもあって、水原監督以下川上、千葉、別所…みな強かった。もちろん懐の空っぽな私などは相手にしてもらえなかったが…。マージャンは、今なら自信がある。連盟から5段ももらった。セオリーに忠実なきれいなマージャンだと自負している。合宿の隣りに麻雀台2台、卓球台2台を置いた店があって、卓球では誰も私の相手にならなかったから、出不精の私はマージャンしかすることがなかったのだ。
合宿生活一番の思い出、というか“事件”は、昭和31〜32年ころ、集中豪雨を伴った大型台風が東京を直撃した時のことだ。
「多摩川が増水した!」
と真夜中にたたき起こされた私たちは、水泳パンツ一枚の裸、裸足でグランドに走った。グランドはもう、膝までつかる水の下に沈んでいた。その中にバシャバシャと入っていって、バックネットやフェンスが流れ出さないよう、支柱を組んだり重石を乗せたりと明け方まで動き回った。雨も風も一向に衰えそうもなく、普段は下流にノンビリとボートが浮かんでいる多摩川の本流も、物凄い渦を巻いた激流と化していた。巻き込まれ、押し流されたら、いくら五十嵐川で鍛えた私でもアッと言う間にオダブツだ。豪雨にたたかれ、水に足もとを取られながら、私たちは大自然の猛威に必死でささやかな抵抗を試みていた。
台風が過ぎ去った後は、もうさんたんたるものだった。幸い流失は免れたがフェンスは傾き、グランドは大小の石がぎっしりと埋めて、信濃川の河原と何の変わりもなかった。私たちはそれを一つ一つ、手で運び出していった。練習が再開出来たのは、1週間ほどしてからだったと記憶している。
こういう“事件”がなければ、合宿生活は割と単調なものだった。多摩川グランドにはナイター設備などないから、練習はもちろん昼間だ。夜は自由時間がかなりあった。
合宿の食事は、栄養士のオバサン――といっても35〜36才ぐらいだったが、17才の私から見ればオバサンだった――がいて、きちっとカロリー計算をしていたが、私にはドンブリ飯のお代わりをさせてくれた。味の方も、当時の私には満足出来るものだった。三条実業高校の野球部では、合宿などしたことがない。両親のもとを離れて生活するのは初めての経験だったが、曲りなりにも自分の給料でやっていけて、昼間は野球に没頭し、夜は仲間とマージャンを囲んだり、のんびりと読書も出来る合宿生活を、私はかなり気に入っていた。
栄養士のオバサンはかなりのインテリで、クラシック音楽の愛好者だった。夕食後にベートーベンなどを熱っぽく語って、森が結構話を合わせている。だが私にはさっぱりチンプンカンプンだ。シャクにさわってベートーベンのレコードを買って聞いてみたが、やはりわからない。クラシック音楽はあきらめて、もっぱら本を読むことにした。
本らしい本を初めて読んだのは小学6年生の時、『あゝ熱球』(北条誠著…だったと思う)という高校野球をテーマにした少年向きの小説で、甲子園への夢をかき立てられたものだった。高校時代はバイブルや、それに関する本を読んでいたが、同級生の中にはドストエフスキーの愛読者がいて、そいつの話がこれまたさっぱりわからない。ここでもシャクにさわって読み始めてみたが、外国ものというのはどうも登場人物の名前がこんがらかって、私には苦痛だった。最後まで読破したのは『レ・ミゼラブル』ぐらいのもので、今でも外国ものは苦手だ。
巨人軍時代から読み始めたのは、柴田錬三郎、山手樹一郎…この二人の著作はすべて読んだ。面白さは抜群だ…司馬遼太郎、山岡荘八、源氏鶏太などで、傾向としては戦国武将ものと明るい現代ものが好きだ。“智勇兼備の熱血漢だが女にはだらしない”といったどこか人間臭さのある主人公が出て来ると、それだけで嬉しくなってしまう。テレビはもっぱら時代劇だが、岡っ引が手柄を立てる捕物帖があまり好きではなく、やはり主人公は武士がいい。他愛ないと言われるかもしれないが、“葵の御紋”という切り札を持つ『水戸黄門』なんかが好きだ。
本は今でも、巡業には必ず持って歩く。寝る前に読まないと気がすまないのだが、読み出すと夢中になって眠気が来ないという悪い癖を、性こりもなく繰り返している。赤坂のリキ・アパートに住んでいたころは、全集ものなどを書棚に並べていたが、広尾のマンションに移ってからは本を置く場所がなくなり、最近は、10〜15冊ぐらいまとめて買って、読んだら片っ端から捨てていくことにしている。“書庫”と言えるものを持ちたいという気持ちが無いわけではないのだが……。

