「王道十六文(完全版)」第一章 少年時代 Part2
中学は、三条第一中学に進んだ。第一と言っても当時の三条は人口3万6千人ほどで、第2中学までしかなかった。要するに田舎街の中学で、物資もまだそれほど豊富ではなかったから、正式な運動部はない。だがスポーツがやりたくてたまらなかった私は、何でも片っ端から手を出した。野球は私がファーストで、中越地区大会に優勝して無敗を誇り、これが本命だったが、雪が降り始めれば、それから半年近くは練習も出来ない。インドア・スポーツで野球への飢えを満たすほかはないわけだ。
体がまだ小さかったころから布製のボールを握り、三角ベースで鍛えていたから、私は球技には絶対と言っていい自信を持っていた。背が高いから、バスケットボールでは当然センターでポイント・ゲッターだったが、これは学校の体育館でしか出来ないのが欠点だ。夜は街の卓球場に通った。やり始めると、すぐに大人にも負けないようになった。そうなると欲が出て来る。
私の中学には卓球部がなかったが、新潟県は上越・中越・下越の3地区に分けられて中学対抗卓球大会が行われていた。私は2年生の時に2〜3人の仲間と語らってチームを作り、学校には内緒で、中越地区大会に出場した。学期末試験の勉強をほったらかして練習したお陰で見事に優勝。だが学校には報告出来ない。逆に担任教師に呼ばれ、
「お前ら、試験勉強をサボッて何をしてるんだ!」
と怒られた。授業が終わると残り勉強もせずにさっといなくなっていたので、目をつけられていたらしい。仕方なく、実はこれこれで大会に出場しましたと白状した。
「なにっ?ピンポンをやっていただと!?それで、大会ではどうだったんだ」
「ハイ、優勝しました」
「優勝した!?ふーん、それは我が校のためにも名誉なことだ。よく頑張ったな」
優勝したお陰で怒られずにすみ、お褒めの言葉をいただいたのだった。
私の小学校高学年から中学時代は、登校前は感心な孝行息子だった。冬などはまだ空に星がまたたいているうちに、アイスバーンになった道を青果物を山と積んだリヤカーやソリを引っぱって家業を手伝ったのだから、自分でもいい息子だったと思っている。だが登校してからはスポーツ万能、こわいものなしのガキ大将で、みんなが嫌う蛇なども、青大将ぐらいなら手づかみにして皮をはぐくらいのことは平気でやった。あれは皮をはがれて死にそうになっても、水に放すと生き返って逃げていく。仲間もこわがるからなおさら面白がってやったようなところもあるが、とにかく相当な無茶もやったし、仲間と一緒にクラスの女の子をからかったりもした。ちょっと目立つ女子生徒がクラスに5〜6人はいて、彼女たちにいたずらを仕掛けたりするのは、ひとひねりした愛情の表現だったとは思うが、その対象にされた女の子にしてみれば、
「あの不良少年が!」
と頭に来たこともあったろう。私が大きくて強かったから、女子生徒に限らず喧嘩を仲裁された男子生徒たちの中にも、逆らうことも出来ずに泣き寝入りというケースがあったかもしれない。いま問題になっている“いじめ”という陰湿な行為だけは、絶対にしたことはなかったが……。昔のガキ大将というのは、もっとカラッとしたものだった。
だが、もし私の体が小学校低学年のころのように平均以下だったら、私の性格からいってガキ大将になどならず、ましてやプロレスラーになどなるはずもなく、“感心な孝行息子”のまま家業を継ぐか、よくいって物静かな画家にでもなっていたことだろう。プロレスラー・ジャイアント馬場に対する郷里の人たちの受け取り方が、真っ二つに割れているのは当然だと思うし、そのどちらか一つだけの見方をされるよりは、私には嬉しいような気もするのだ。
中学3年生の夏休みごろからは、私は自分なりにいっぱしの大人びた考え方をするようになっていった。信仰を持ったことが、大きく影響していると思う。
私が自転車で青果物を配達するお得意先に、街はずれのモルモン教の教会があった。中3ですでに13文あった私の大足には、当時は合う靴など三条あたりでは手に入らず、私は自転車に乗る時はいつも、母が、
「京都で見た弁慶の下駄より大きい」
と言っていた特製の下駄か、夏などは裸足のこともあった。それを気の毒に思ったか教会のラングバード神父が、私に靴をくれたのだ。靴といっても、神父が靴の上にはくゴム製のオーバー・シューズだったが、これが私にピッタリ。それが縁で神父と親しく言葉を交わすようになり、愛と平和を説く神父の言葉に打たれて、私は入信を決意した。
洗礼はその年のクリスマスに、五十嵐川に全身をひたす浸礼で受けた。夏は毎日泳いだ五十嵐川だが、真冬に入るのは橋を飛び越えて落ちた小学5年生の時以来2度目。だがこの時は寒さも感じず、子供のころから見慣れた川が、私のこれまでの数々のいたずらや殺生を洗い流してくれる、特別に清らかな川に見えたものだった。その日から私は、お茶を絶った。これは巨人軍入団まで続けたが、別に苦しいとも思わなかった。
私は、中学を卒業したらすぐ就職するつもりだった。プロ野球選手になる夢を捨てたわけではない。当時の三条は野球が盛んで、三条機械という会社が市内では一番大きく、野球も強かった。軟式野球だが、私はここに入社して軟式をやりながら腕を磨くか、あるいは東京に出てチャンスを見つけるか、と迷っていた。たまたま書籍取次の日販が中卒者を募集していたので、物は試しと新潟で行われた一次試験を受けたところ、これがパスして二次試験は東京で行うという通知が来た。
ところがその通知のハガキを見たとたん、母が、
「やっぱり、高校へ行きなさい」
と強硬に主張し始めたのだ。私としては、母の猛反対を押し切ってまで上京する気はない。とにかく高校なら、どこにでも野球部はある。当分またリヤカー引きを続けなければならないが、確実に硬式野球が出来るという魅力には抗し切れず、私はコロッと変心した。
私は三条実業高校を受験することに決めたが、本当は八百屋の息子だから商業科を選ぶべきなのに、倍率が商業科4・5倍、工業科は2倍とちょっとと聞いて、
「とにかく目的は勉強じゃなく、野球なんだから」
とさっさと工業科に願書を出した。
世の中には、同じようなことを考える人が多いらしい。願書が締め切られると、商業科と工業科の倍率は逆転、工業科は5.5倍になっていた。仕方がない。それから一夜漬けの猛勉強を開始して、何とか入学することは出来た。中3の時に受験勉強を全くやっていなかったのだから、これも運勢の強さのたまものと思っている。
だが、高校に入りさえすれば無条件で硬式野球が出来るものと決めこんでいた私は、ある一つの現実にぶつかって、言いようのないショックを受けた。私の足に合うスパイク・シューズがないのだ。街の草野球ならズック靴でもかまわないが、高校野球となるとそうはいかない。八方手をつくす――といっても八方どころか二方も三方も知らない田舎の高校1年生とその母親の八百屋さんでは、なすすべはなかった。
私は美術部に入った。野球部からも、バスケット部からも熱心な勧誘があったが、バスケットのシューズだって私の足に合うのはなかった。私はつくづく大足を呪ったが、シューズがないから入部出来ませんとは、シャクでシャクでとても言えたものではない。
「僕はもうスポーツはやめて、絵に専念したいんです」
などとカッコをつけ、野球部やバスケット部の練習も、興味のないふりをして見ないようにしていた。私より下手だと思える選手が、普通の足をしているというだけで、張り切ってグランドやコートを飛び回っている。それを見るのは、私には拷問にひとしかった。
悪いことに?私は、入学早々のクラス対抗バスケットボール大会にかり出され、2、3年生を破って優勝していた。クラス対抗では断わり切れないし、裸足の選手も多かったから気が楽だったが、このために私は、
「バスケット部に入れば、すぐにレギュラーのセンターだ。野球部だって、エースになれる」
という自信を持ってしまった。それだけに一層、大足のために出来ないのが辛かったのだ。小学生のころから抱いていたプロ野球選手の夢も、涙を飲んで断念する外はなかった。
11月に入れば雪が降る。雪が降れば野球は出来ない。油絵の基礎知識を教わりながら、手も顔も絵具だらけになって閉じこもっている美術部の部室にも、コーン、コーンと野球部のバッティング練習の音が聞こえていた。私がまだ投げたことも、打ったこともない硬式ボールの音だ。その音も、雪が降れば消える。私は生まれて初めて、冬が待ち遠しくてならなかった。
このころ私は、相撲界からも誘われていた。隣町から、元横綱吉葉山(先代宮城野親方)の弟子で相葉山という関取りが出ていて、その父親だか叔父だかに、かなりしつこく追い回されたのだ。学校の門の所で、私を待っていることもあった。その姿を認めると、私は裏門から逃げた。
当時大関か関脇だった栃錦(現春日野理事長)は、新潟巡業の折に家にまで来られた。私が学校から帰ると、家の前で待っていた姉に、
「お前、どっかに行ってなさい」
と言われ、この時も逃げた。母は栃錦に、
「ウチの息子は、相撲取りとボクサーには金輪際させません」
とはっきり断わったそうだ。プロレスと言わなかったのは、これが昭和28年のことで、力道山がシャープ兄弟組を招いて日本にプロレス・ブームを巻き起こす1年前だったからだ。相撲、ボクシング絶対反対だった母が、私がプロレス入りしたと聞いて仰天し、東京まで駆けつけて来たのも無理はなかった。
私は高校1年ですでに2メートル近くもあって、小学5〜6年のころは神社のお祭りの5人抜きで不敗を誇り、それが伝説のようになっていたから、相撲界から目をつけられたのも当然だったろうが、私が本当にやりたいのは球技、特に野球で、相撲は正直言って嫌いだった。中学に入ってからは、いくら進められても神社の勝ち抜き戦に出なかった。
相撲界から誘われるのは、嫌だというより、私には情なかった。相撲なら裸足で出来る。だから来い、と言われているような気がしてならなかった。これも私の大足コンプレックスがなせるわざだったろう。
高校2年生の春、私は、
「僕はもうスポーツはやめて、絵に――」
なんて前言はケロリと撤回し、喜々として雪どけのグランドを走り回っていた。私をどうしても欲しかった野球部長の渡辺剛先生が、靴屋に特注してスパイクを作ってくれたのだ。初めて硬式ボールを握り、投げた時の感激は忘れない。
「これが、プロ野球選手が使うのと同じボールなんだ」
私の夢が、帰って来たのだ。それも、実現に一歩近づいて――。私はもう夢中で練習した。
三条実業高校の野球部は、それほど立派な部ではなかった。専任の監督とかコーチはいなくて、たまに先輩が指導に来る程度だった。練習は毎日暗くなるまでやったが、いま考えれば、かなり自己流の練習だった。痛んだボールは、下級生が家に持ち帰って縫い直した。布製ボールの経験があるから、みんなうまいもんだった。
中学で中越地区大会の優勝投手だった私には、すぐにエースの座が与えられた。入部して即座にピッチャーで4番。練習試合は投げて投げて投げまくり、野球部始まって以来の7連勝無敗を記録した。1試合に18三振を奪ったこともある。
本番の全国高校野球大会。主催社朝日新聞の新潟版には、
「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」
は新潟地区の優勝候補にあげられていた。“高校生離れのした剛速球”などと書かれ、これが巨人軍スカウトの目にとまったのだと思う。練習にまた一段と熱が入った。
とにかく当時の私には、もう野球しかなかった。真っ暗になるまで練習し、家に帰れば大飯を食らってバタンキューと寝てしまう。朝の5〜6時に起きてのリヤカー引きは、それでも休まなかった。家にテレビがあるわけではなし、寄り道する時間も気力もない。いまの高校生たちがする遊びなど、何も知らなかった。夢はプロ野球選手、そして最も身近かな夢は甲子園出場。ただそれに向けてひた走るだけだった。
だが私には、甲子園に出られるというほどの自信はなかった。当時は一県一校ではなく、私たちは甲信越地区の代表とならなければならない。まず中越地区で優勝し、上・中・下越大会に優勝して新潟代表となり、それから長野、山梨両県の代表校に勝たなければ、甲子園まで行けないのだ。甲信越地区の優勝候補にあげられていたのは、後に巨人軍のエースとなった堀内庄を擁する長野の松商学園だった。もっとも最終的にはこの年は、“小さな大投手”と言われた光沢投手を擁する伏兵・飯田長姫高校(長野)が優勝をさらうことになるのだが――。
甲子園への道は遠かったのだ。私たちは練習試合全勝に気を良くして、遠くを見すぎていたのかもしれない。夏の大会予選1回戦で当ったのは、練習試合では快勝している長岡工業高校だった。私は決して調子は悪くなかった。ズラッとスコアボードに0を並べさせたが、私たちも点が取れなかった。9回表の攻撃も0に終わった。私がその裏を押さえれば延長戦だ。
悪夢としか言いようがない。私は簡単に二死を取り、力みすぎたか、三塁打を許した。だがあと1人打ち取れば延長だ。慎重に、速球で勝負した。振り遅れ気味の打球は、平凡な一・二塁間のゴロになった。堅くなっていた二塁手はちょっとハンブルしたが、すぐに拾って一塁に投げた。打者はまだ一塁ベースの2メートルほど手前を走っていた。
「さあ、延長だ!」
と思った瞬間、一塁塁審の両手がサッと開かれたのだ。セーフ!?私たちは一塁に駆け寄った。三塁ランナーはこの間にホームインして、球審はゲームセットを宣している。“そんな馬鹿な!”。私たちは当然抗議した。だが応援に来ていた三条実業の校長先生の、
「君たちは高校生だ。アンパイアに抗議をしてはいかん」
という鶴の一声で、私たちは涙を飲んだ。あっ気ないサヨナラ負けで、甲子園の夢は消えたのだった。
「馬場、お前にはまだ来年がある」
渡辺部長に励まされ、私たちは2年生中心の新チームで、来年に備えて練習を開始した。そんなある日、私とバッテリーを組んでいたキャッチャーの高橋伸義が、
「おい、プロ野球のテストを受けてみないか」
と私を誘った。私も、受けられるものなら受けてみたい。高橋はトンボ・ユニオンズに私と2人の願書を送った。ユニオンズからは、
「岡山の球場にテストに来い」
という連絡があった。岡山は遠すぎて、ちょっと行かれない。その旨を伝えると、折り返し、
「それなら川崎球場に来い」
と言って来た。
「どうしようか、行ってみようか」
2人ともまだ2年生ということもあって、決断しかねて迷っていた。
巨人軍の源川英治スカウトが私の家を訪れたのは、迷っている最中だった。ズバリ、仕度金20万円、初任給1万2千円でジャイアンツに入団しないか、という勧誘だった。もう一も二もない。パ・リーグのどん尻をさまよっていたユニオンズのテストどころか、少年時代から憧れて憧れて、ファン・クラブのバッジを宝物のようにしていたジャイアンツが、“来い!”と誘ってくれるとは、まるで夢のような話だ。
しかも、家業は青果商で毎日現金は扱っていたが、10万円なんて大金は生まれ落ちてから1度も見たことがない。それを20万円くれるという。まだ2年生だが、私は即座に中退を決意した。母も、
「野球が出来るなら、好きなようにしなさい」
と賛成してくれた。
有頂天とはこのことだろう。私は源川スカウトを、
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
と送り出すと、裏庭に飛び出しておどり狂った。私はいまでも時おり、この時の夢を見る。有頂天になりすぎて勉強も何も放り出し、試験が出来なくて答案用紙を前に苦しんでいる夢を――。
私の二つ返事を聞いて帰った源川スカウトは、再び三条まで契約のため足を運んでくれた。まだ2年生の2学期だったから、早生まれの私は16才。
「球界の最少年ですな」
ということだった。背番号も『59』と決まっていた。いよいよ本物のプロ野球選手だ。契約金は母が受取り、上京する私のためにオーバーを作ってくれた。このオーバーは、後にプロレス初渡米武者修行に出る直前に、アントニオ猪木にやってしまったが――。
私の巨人軍人りは、新聞にも出て、街中どころか新潟県全体に広まった。新潟からはプロ野球第1号選手だったらしい。リヤカーを引いて行くと出店の人たちが、
「もう八百屋のリヤカー引きはやめたらどうだ。風邪でも引いたら大変だぞ」
などと声をかけてくれた。
私は11月にいったん母と共に上京した。持病のヘルニアを手術するためだった。幼いころに三条で手術したのだが、どうも完全ではなかったらしい。別に運動するのに支障はなかったのだが、巨人軍に入ってから再発してはと、言うなれば後顧の憂いを絶つためだった。
「やはり東京のいいお医者さんにかからなければ」
という母の意見に従ったわけだ。
私は意外と太い神経をしているのかもしれない。夏の大会の前日でも、寝つきが悪いということはなかった。巨人軍入団が決まって最高に興奮した日も、布団に入ればバタンキューと寝てしまった。後に巨人軍にクビを宣告された時も、ヤケ酒を飲むわけでなし、“これからどうしようかな”と考えながら、いつの間にか眠っていた。眠れなかったというのは、ゴルフに行く前の日だけしかない。
昭和30年1月18日――だったか。この前夜もぐっすりと眠って、私は詰エリの学生服の上に母が作ってくれたオーバーを着込み、ボストンバッグをぶら下げて単身上京した。一人で東京に行くのはこれが初めてだったが、
「俺は今日から社会人。それもジャイアンツの選手だ」
という気負いは、生まれて初めての一人旅にふさわしいような感じだった。
東京で巨人軍事務所に入団の挨拶をし、その日は一泊して、翌日1月20日に宮崎県串間市の巨人軍キャンプに参加した。胸にGIANTSのマークの、夢にまで見たユニホーム。スパイクもグローブも、すべて新品だった。球界最年少、ホヤホヤのプロ野球1年生は、それこそ希望に胸をいっぱいにふくらませ、川上哲治、千葉茂、南村不可止、別所毅彦、大友工、中尾碩志、藤本英雄、内堀保……そうそうたるサムライ選手たちに、
「ホッ、本当にでっけぇな」
と言われながら、同じグランドで野球が出来るという感激にひたったのだった。

