「王道十六文(完全版)」第一章 少年時代 Part1
私の少年時代を知る郷里の人たちの間では、「あんな気のやさしい子が、プロレスなんかやって……」
と何か痛ましいような気持ちで首を傾げる人と、
「あぁ、あいつには適した職業だよ」
と見る人と、真っ二つに割れているようだ。どっちも本当だと、私は思っている。私は親孝行で真面目で、スポーツ万能のガキ大将でもあった。
私は昭和13年1月23日、新潟県三条市西四日町の青果商・馬場一雄、ミツの間に兄1人、姉2人の次男として生まれた。未熟児というほどではないが、平均よりだいぶ小さい赤ん坊だったと聞かされている。四日町少学校に入学した時は、新入生の中で一番小さく、記念写真の撮影では、先生の隣にチョコンと座らされた。
小学5年生の新学期ころから、体がメキメキと大きくなり、私は家業を手伝うようになった。兄の正一は私が5歳の時、太平洋上の激戦地ガダルカナル島で戦死し、父は病弱だったため、家業は母が2人の姉に手伝わせて女手で切り回していた。私が大人並みの体になって、待ってましたとばかり力仕事が回って来たのだ。
青果商といっても、店先に野菜や果物を並べてお客さんを待つのではなく、朝市に天幕張りの店を出すのが、主な仕事だった。当時朝市は、近隣の市を持ち回る形で立っていた。三条が2と7の日、燕は3と8、加茂が4と9、長岡は5と10、見附が1と6の日と、今でもはっきり覚えている。つまり各市に5日おきに朝市が立つのだが、店を出す方にとっては毎日だ。
私がまだ寝ているうちに、母と姉が青果物を仕入れ、それをリヤカーに山積みにして、午前5〜6時に起こされた私がそれを引っぱっていくことになる。三条、燕は歩いて行った。片道約3里(12キロ)の見附と加茂は、自転車にリヤカーをつけた。一番遠い長岡には、馬籠と呼ばれたカゴを背負って汽車で行くことが多かった。冬になって雪が積もれば、リヤカーがソリに替わる。私は天幕張りの出店作りまで手伝ってからすっ飛んで家に帰り、学校に通った。小学生が1年365日を1日も休むことなく、早朝にリヤカーを引いて家業を手伝ったのだから、
「馬場んとこの正平は、気のやさしい働き者の親孝行息子だ」
と評判になっても不思議はない。しかし本音を言うと、
「あぁ、いやだな。サボリたいな」
と思うことはしょっちゅうだった。だがそう言えば母から、
「勘当だ!」
なんて言われてしまう。私は高校2年で中退して巨人軍に入団するまでの約7年間、このリヤカー引きを続けた。
その代わり、といってはおかしいが、店の売上金はちょいちょい失敬して、天丼、カツ丼、ラーメンなどを食っていた。小学生の買い食いにしては変わっているが、駄菓子は私の家でも売っていて、そっちのつまみ食いは常習犯だった。当時、甘納豆は駄菓子としては高級品で、
「甘納豆ばかり食っちゃいかんよ」
と母に釘を刺されたりしたものだ。
母は、私がプロレス入りした時も、
「勘当だ!」
と言ったが、父が何も言わないかわりに子供たちに口やかましく、しかし、私の口から言うのもおかしいが気はやさしいしっかり者の、いい人だった。人に迷惑をかけたことは一度も無いと思う。
「自分でしでかして、自分で悩むようなことをするな」
というのが母の口癖だった。私はやはり、オカアチャン子だったのかもしれない。日本プロレスでインターナショナル王者として頑張っていた昭和45年7月30日大阪府立体育館大会で、ドリー・ファンク・ジュニア(文中敬称略)の挑戦を受けた時、リング内は40度を超える暑さでスタミナの消耗も激しく、試合が50分を過ぎて両者リング下に転落、もう意識ももうろうとした私は、
「お母さーん、何とかしてくれヨー」
と心の中で叫んでいた。子供のころから、「ウチのおふくろなら、何とかしてくれる」
とすべてに頼っていた気持ちが、フッと出てしまったのだろう。母はこの1年後の46年7月に亡くなったが、母からの手紙は今でもお守りのように、すべて大切にとってある。
父は物静かな人で、家業は母に任せ切っていたが、母はやはり何かと父を頼りにしていたようだ。父は年に1度は海水浴に連れて行ってくれて、これが私には大きな楽しみだった。三条は海から遠い。北三条から弥彦線で2駅、約8キロ離れた吉田(キラー・カーンの出身地だ)へ出て、そこから弥彦山の麓を回って約10キロ歩き、寺泊海水浴場へ行く。往きは元気いっぱいだったが、さんざん泳いだ後の帰り道は、歩きながら居眠りしそうなほど疲れ切っていた。母が作ってくれた大きなおにぎりにむしゃぶりつきながら、父と2人テクテク歩いたのが懐しい思い出だ。
兄の記憶は、年が離れていたためにほとんどゼロに近い。たった一つ、兄が仙台の連隊にいたころ休暇で帰郷し、茶の間に並んで座った2人の姉と私が、
「ホラ、お前はこれ、お前はこれだ」
と土産をもらったことをかすかに覚えている。夜だった。電灯の下で、兄の顔だけが私の記憶の中で陰になっている。兄の顔は後に写真を見て知ったが、土産をくれる兄に、その写真の顔がピタリとはまらないのだ。
だが兄の遺言状は、母からもらい受けて我が家の家宝としている。出征する時に書いたものだというから、18歳か19歳の時だろう。兄は、書道は全国大会で賞をもらったほどだが、その内容も、私はいま読んでも涙がポロポロ出て止まらない。これほどの遺言状をその若さで書いた私の兄は、欲目では無く素晴らしい男だったと思う。
それだけに母が兄にかけた期待は大きく、その死は信じ難いもののようだった。昭和18年2月に、日本軍約1万6千8百人が玉砕したガダルカナル島で若い命を散らした兄は、戦死という一片の公報が入っただけで、遺骨も遺品も戻っては来なかった。母はそれから10年も20年も、
「雪の降る日など、真夜中に人が外をサクサクと歩く音を聞くと、"あっ、正一が帰って来たんじゃないか"と思ってしまうんだよ」
と言っていたものだった。
兄を奪っていった戦争の記憶は、私にも少しはある。小学1年生の昭和20年8月14日夜、長岡が米軍機B29の大編隊による空襲を受けた。家の2階の屋根に父たちと上り、防空頭巾をかぶって、焼夷弾がバラバラと落とされるのを見たが、こわいと言うよりは、きれいだなというのが実感だった。大人たちは、
「明日はこっちへ来るかな」
と言い合って、私たち一家は疎開することにした。疎開といっても三条はまだ小さな田舎町で、東京、大阪などから疎開して来た人たちがいたほどだから、我が家の疎開はそれほど大がかりなものではない。街なかは狭くて類焼しやすいからと、家から500メートルほど離れた小川のほとりの田んぼの真ん中に、板を敷きつめて仮小屋を建て、家財道具の半ばを移して、警戒警報が鳴るとその小屋に、"疎開"していたのだ。私はだいぶそこに寝泊りした記憶がある。
だが、長岡が焼野原になった翌日に、第2次世界大戦は終わった。やがて、三条の街にも進駐軍がジープに乗ってやって来た。初めて白人を見た私は、
「わぁーっ、本当に目が青いんだな」
とびっくりしたのもだった。
小学生時代の私の夢は、終戦後の少年のほとんどがそうだったように、プロ野球選手になることだった。物資の極端に欠乏した時代だったが、プロ野球はいち早く復活し、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘のホームラン競争が、私たちの夢をかき立てていた。
初めて手にしたボールは、手製の布ボールだった。木や石を芯にして、毛糸をキリキリと巻きつけ、硬式ボールの皮革の型に切った布を、木綿糸か、手に入れば畳糸か靴屋の使う糸で縫い合わせていく。それでも使いが激しいから、毎晩のようにほころびをつくろっていた。バットはただの棒きれ。球場は神社の境内での三角ベースだった。二塁が無く、ピッチャーの後ろを走って一塁から三塁に直行する少人数の子供野球だ。物資がだんだんと出回り始め、私たちが"海綿"と呼んだスポンジ・ボールが買えるようになって、布ボール作りから開放された時は、本当に嬉しかった。
三条の街は、東に粟ヶ岳(あわがたけ)、西に弥彦山をのぞんで、その真ん中を流れる五十嵐川に街が2分されている。街はずれで五十嵐川は信濃川に合流し、新潟市で日本海にそそぐのだが、私の家から合流点まで1キロ足らずで、その川原が私たちの遊び場だった。夏は泳ぎ、冬は凧を上げた。当時は五十嵐川も川幅が15メートルほどあって、水も澄んでいた。飛び込みも出来たし、魚も釣れた。
北陸の夏は短い。泳げるのはせいぜい7月25日から8月10日までの2週間そこそこで、8月15日のお盆を過ぎて泳いでいると、気違い扱いされかねなかった。私は水泳には自信がある。日本プロレス時代、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)が水泳部出身とかで一番早いと言われていたが、鳥取の皆生(かいけ)温泉のホテルの屋上にプールがあって、そこで高千穂と競争した時は、私が勝った。
だが、バカ呼ばわりされてまで泳いでいるわけにはいかないから、短い北陸の夏の前後は、もっぱら釣りをした。竿を3本並べて五十嵐川に放り込み、後は持参したスケッチブックと絵具で写生に熱中する。どっちが目的かわからないくらいのものだが、それでもフナや鯉が釣れた。当時は大きな鯉も沢山いた。横着な私の釣竿にかかることはめったになかったが、私の家と4〜5軒離れた鍛治屋さんが舟と投網を持っていて、時々連れて行ってもらうと、びっくりするほど大きな鯉が獲れた。川魚の味はあまり好きではないが、それでも、
「こんな元気のいい魚を食ったら、オレも強くなれるかな」
などと思ってかなり食った。あらいとか鯉こくとかのしゃれたものではなく、ブツ切りにして煮こんでしまうのが私たちの料理法だった。
しかし釣りよりも写生よりも、やはり水泳と野球が好きだった。たっぷり泳いだ後、近所の仲間を呼び集めて、6尺ふんどしのまま神社の境内で三角ベースをやるのが、少年時代の私の最も充実した一日だった。短い夏がすぐ終わってしまうのが、物凄く残念というか、口惜しかった。私がハワイにマンションを買ったのは、この少年時代の、夏にしがみついていたいような気持ちが、まだ体のどこかに残っていたからかもしれない。
体が自分でも驚くほどぐんぐんと大きくなり出すと、プロ野球選手への夢もますますふくらんでいった。小学5年生の時に、街の少年野球団『若鮎クラブ』が結成されて、私はそこのエースとなった。初めてプロ野球を見たのは6年生の時、巨人軍が新潟に遠征して来て、私は母にせびって小遣いをもらい、若鮎クラブの仲間と汽車で一時間の白山球場まで見に行った。巨人軍の選手の白いユニホームが目にまぶしく、
「よし、オレもあのユニホームを着てみせるぞ」
とやたらに興奮したことを覚えている。
もともと巨人軍の大ファンで、『少年ジャイアンツの会』に入会し、バッジを宝物のようにしていたが、初めて上京したのもこの会の行事としてだった。これも6年生の時、新潟支部の大勢の会員と共に、胸をおどらせて夜行列車に乗った。子供ばかりだからキャーキャー騒いで、寝るどころではない。ちょっと明るい灯が見えると、
「あっ!東京かな!?」
と全員が窓にしがみついた。本当に、何回もそう思ったのだ。だが実際に上野駅に着いたのは、もう夜が明けてからだった。昭和25年当時の上野駅周辺には、まだビルも立ち並んではいず、空襲の焼け跡も残っていて、ライオン歯磨きの広告がやけに目立っていた。この時は読売新聞社を見学し、東京の名所をざっとバスで一回りしただけで、また夜行列車に乗って帰った。後楽園球場で巨人軍の試合を見せてくれれば最高だったのに、どうやらこれは、読売新聞社での『全国少年ジャイアンツの会大会』かなんかに出席するための上京だったらしい。
体が大きくなると、いたずらも始まった。何とも複雑な思い出として残っているのは、列車妨害?事件だ。小学5年生の秋だった。2〜3人の仲間と近くの山へ栗拾いに行った帰り、国鉄の線路の所で、
「おい、度胸試しをやろう」
ということになって、全員が線路を枕にして寝そべり、
「オレたちは、絞首刑だ!」
なんて怒鳴っていた。そのうちに汽車が迫って来て、仲間は1人去り、2人逃げて、私だけが残った。私はギリギリのところで逃げる気で、線路の真ん中に立って大手を広げてみた。ところが、本当に汽車が止まってしまったのだ。私は青くなって家に逃げ帰った。
翌日、警察署から呼び出しがかかった。母に連れられて、それこそ、
「刑務所に入れられるのかなぁ」
とベソをかかんばかりの顔で署長室に通されると、
「列車妨害を未然に防いだ感心な少年」
というお褒めの言葉。それでも私は、叱られたような顔でそれを聞いていた。
汽車が止まったのは、私が大手を広げているのを認めて不審に思った機関手が、路線上に石が並べられているのを発見したからだった。私がそれを知らせたのだと思い込んだ機関手が、警察に連絡したのだという。
「子供にしては大きかった」
という一言で、すぐに私とわかってしまったわけだ。だが実は、その石は私の仲間が絞首刑ごっこの前に並べたものだった。何も大手を広げなくても、石を取り除けばすんだことだ。褒められる筋合いの話ではない。私にとってこの事件は、何かいまだに感情の整理がつかないような、いやな思い出となっている。
この5年生の冬にも、突拍子もないことをやらかした。雪深い三条の街は、真冬には道路がアイスバーンになる。私たちは下駄にエッジを打ちつけた下駄スケートで、道路も田んぼもお構いなく滑りまくった。最高のスリルは、走っているトラックの荷台の後ろにつかまることだった。転倒することなくスピードが楽しめる。この日も私はそれをやっていた。
トラックが五十嵐川にかかる橋を渡り始めた時、私は、
「もうこの辺で帰ろう」
と手を離した。その瞬間、私の体は思い切りよく宙を飛んでいた。たまたまそこにあった根雪の塊りが、ジャンプ台の役目を果たしたのだ。私の体は橋の欄干をはるかに飛び越え、五十嵐川の真ん中にドブーン!
だがドブーンだったから、私は今ここにこうして生きている。当時は五十嵐川も川幅が約15メートル、水深も3メートル以上はあった。現在のように水が少なく、チョロチョロ流れているだけだったら、私は石に頭を打ちつけて死んでいたろう。真冬の川の水は、それは冷たかった。着衣のまま飛び込んだから、川から上がった後の寒さといったらなかった。
「チェッ!ついてねぇなぁ」
私はボヤいたが、川原ではなく川の真ん中に落ちたのだから、本当のところ私はツイていたのだった。後年、運勢判断をする人たちが私の生年月日を聞いて、まず例外なく、
「非常に強い運勢の持主だ」
と言ってくれたが、私もそれを信じている。そうでなかったら、小学5年生で一命を終えていたところだ。
私は運動神経に自信を持っていたから、かなり無鉄砲なこともやったのだが、それやこれで、いつの間にか私はガキ大将に祭り上げられていた。喧嘩は、これは高校時代までずっとそうだったが、売ったことも買ったこともない。ただ、どこかで喧嘩があって、誰かが仲裁を求めて来ることはよくあって、私が行くとたいがいは納まった。
相撲も強かった。神社のお祭りでは子供の5人抜き戦が行われたが、私は負けたことがなく、行司に
「お前、もうやめてくれ」
と言われたものだった。そんな私に、喧嘩を吹っかけて来る物好きはいなかったのだ。で、つけられたあだ名が『ゴジラ』。当時この映画が大ヒットしていたためもある。
小学校時代の成績は、図画と体操だけは必ず優、後に採点法が変わって5となったが、その科目以外は4と3がチョボチョボで並んでいた。家に帰ってから勉強などしたことはなかったが、2以下という科目は一つもなかったはずで、まあ中の上か、上の下ぐらいには、はいっていたと思う。学校での楽しみは図画と体操と、課外では小学校にはこれしか許されていなかったドッジボールと野球だった。
ドッジボールと野球では、5年生の時の校内クラス対抗戦で、6年生を破って優勝した。5年生の時から担任だった田中という女の先生が、もう無茶苦茶に負けず嫌いで、たとえ上級生のチームにでも、負けたら泣き出さんばかりに口惜しがってカッカとする人だったから、
「先生を怒らせたら大変だ」
と必死に頑張り、そのお陰で強くなったというところもある。
きびしく、やさしい先生だった。私が何をしたのか理由は覚えていないが、先生に怒られ、教室の前の廊下に立たされたことがある。先生はそのまま家に帰ってしまった。だが許しが出たわけではないから、私はずっと立っていた。薄暗くなって、校内の見回りに来た小使いさんが私を見つけて、
「もういいから帰りなさい」
と言ったが、私は、
「田中先生に立ってろと言われたのだから、田中先生が"いい"と言うまで立ってる!」
と強情を張った。処置に困った小使いさんは、学校の近くに住んでいた先生を呼びに行った。先生は半ば感心し、半ば呆れたような顔で、
「本当に立っていたのね。もういいわよ。さっ、一緒に帰りましょ」
と言ってくれた。"朝までだって立っててやる。それが俺を怒った先生への仕返しだ!"なんて突っ張っていた私の気持ちも、その一言でヘナヘナ……。何か甘酸っぱいような思い出だ。
田中先生は、私が6年生になった春に胸を患って入院し、担任が変わった。新しい先生も、私の図画とドッジボールの腕だけは認めてくれた。卒業間際には、クラス全員に対する送別の言葉として、
「将来、勉強が出来る出来ないは別として、"こいつがいなきゃどうにもならん"と周囲から言われるような特技を、何か一つ身につけなさい。たとえば、馬場君がいなきゃドッジボールは勝てないんだというような……」
と私を例にあげて話してくれた。晴れがましいような、照れ臭いような……、いい気持ちだった。
図画はうまいと言うよりは、好きだった。今は海や港を描くのが好きだが、小学校時代は学校の近所の写生が主だったから、田んぼや川ばかり描いていた。北陸の短い夏がうらめしかったから、常夏のハワイが好きになったように、海から遠いところに生まれ育って、海で泳げるのは1年に1回きりだったから、海辺にマンションを買い、海ばかり描いているのかもしれない。
小学−中学時代には、運動会や学芸会の前に、絵の上手な生徒が2〜3人放課後に残って、街に貼るポスターを描かされた。これは正課でやる写生より、ずっと楽しかった。今でも時おり、
「全日本プロレスのポスターを、俺が作ってみようかな」
と思うことがある。だが私の好きな色は白と水色で、これまで海と山と川ばかり描いて来た。人物画や、ましてやヌードなど一度も描いたことがない。どうも色彩もトーンもプロレスのポスター向きではないようだ。
冬から春にかけての凧上げは、少年時代の"重要な"遊びだったが、凧は白いのを買うか作るかして、絵は自分で描いた。あれはかなり微妙なもので、絵具の重さでバランスが狂い、凧が真っ直に上がらなくなる。薄くスーッと描かないと駄目なのだ。どれほど描いたか数はわからないが、竜が珠をつかんでいる絵を描いた時は、
「本職みたいだな」
と褒められたことを覚えている。これは絵本を見て描いた。
自分で構図を決め、色出しに苦心するのは、楽しいがまたハードでもある。その点、模写は簡単だ。つい最近の話だが、私たち夫婦がハワイにいる時、元子の友人が訪ねて来て、ショッピングに出た2人は、日本への土産にワイキキの浜を描いた絵を買って来た。2人が寝てから、私はその絵の模写を始めた。絵に熱中すると、煙草もすわずお茶も飲まない。夜の白々明けに、模写は完成し、私は本物と並べておいた。
目が覚めると、元子と友人が、
「どっちが本物かわからない」
と騒いでいた。よく見ればすぐわかるのだが、壁にでもかけてしまえば、ちょっと区別はつかない。女2人は、
「昨日買ったばかりだから、まだ返品がきくわよ」
と、どうやら本物の方は店に返してしまったようだ。
私が絵が好きなのは、母方の血筋らしい。母の妹はたしか明治33年ころの生まれだが、ご主人は岩田骨光、叔母は岩田マサコか旧姓の水野マサコで、夫婦そろって日本画家として美術年鑑にも載っている。兄正一は書道が得意だった。私もプロ野球選手になれなかったら、画家になりたいと小学生時代から思っていた。私の体がこんなに大きくならなかったら、多分私は画家の道を選んでいただろう。それで成功したか失敗したかは、私自身にはさっぱりわからない。とにかく描くことは好きだが、人様に見せられるような絵は、これまでに5点ほどしか描いたことがないのだ。

