「王道十六文」紹介
王道十六文(完全版)
今までにジャイアント馬場が書いた本の内容を少しづつ紹介していきます。 今回紹介する本は平成12年に発売した「王道十六文(完全版)」です。
第一章 少年時代 PART1 PART2
第二章 巨人軍入団 PART1 PART2
第三章 プロレス入り PART1 PART2
第四章 初渡米 PART1 PART2 PART3
第五章 凱旋帰国 PART1
第六章 力道山の死 PART1 PART2
第七章 インター王座奪取 PART1 PART2
第八章 インター二冠王 PART1 PART2
第九章 BIコンビ PART1 PART2
第十章 全日本プロレス設立 PART1 PART2 PART3
第十一章 NWA世界王座奪取 PART1 PART2
第十二章 戦国マット界 PART1 PART2 PART3
第十三章 全面戦争 PART1 PART2 PART3
第十四章 時代の波 PART1
第十五章 創立15周年を迎えて・・・ PART1
第十六章 激動!!平成の全日本 PART1 PART2
第十七章 馬場没後の全日本プロレス PART1
あとがき PART1
「王道十六文(完全版)」第一章 少年時代 Part1
私の少年時代を知る郷里の人たちの間では、「あんな気のやさしい子が、プロレスなんかやって……」
と何か痛ましいような気持ちで首を傾げる人と、
「あぁ、あいつには適した職業だよ」
と見る人と、真っ二つに割れているようだ。どっちも本当だと、私は思っている。私は親孝行で真面目で、スポーツ万能のガキ大将でもあった。
「王道十六文(完全版)」第一章 少年時代 Part2
中学は、三条第一中学に進んだ。第一と言っても当時の三条は人口3万6千人ほどで、第2中学までしかなかった。要するに田舎街の中学で、物資もまだそれほど豊富ではなかったから、正式な運動部はない。だがスポーツがやりたくてたまらなかった私は、何でも片っ端から手を出した。野球は私がファーストで、中越地区大会に優勝して無敗を誇り、これが本命だったが、雪が降り始めれば、それから半年近くは練習も出来ない。インドア・スポーツで野球への飢えを満たすほかはないわけだ。
「王道十六文(完全版)」第二章 巨人軍入団 Part1
宮崎県串間の巨人軍キャンプに参加した私は、同時に入団した選手が意外と多いのに驚かされた。ハワイから来てすぐにクリーンアップを打ったエンディ宮本は別格として、国松、森、木戸、十時、添島、工藤…、大学や高校で鳴らしたバリバリが総勢18人。だが私は、
「なーに、必ず俺がエースになってみせる」
と内心秘かに自負していた。私は子供のころから、球技では誰にも遅れを取ったことがない。どのグループでも、すぐに私はリーダーになった。ついこの間までひたすら憧れの目で見ていた別所、藤本、大友、中尾…とそろった豪華な巨人軍投手陣のドン尻に加えられても、“やがて俺がトップになる”という自信はしっかりと持っていたのだ。
「王道十六文(完全版)」第二章 巨人軍入団 Part2
話は飛んでしまったが、巨人軍入団1年目は、それこそ無我夢中のうちに過ぎてしまった。2年目の昭和31年にはぐんとスピードもコントロールもつき、たしか12勝1敗で2軍の最優秀投手になっている。3年目の32年は13勝2敗だったか、これも最優秀投手。1軍の公式戦に登板したのは、この32年のシーズン後半だった。
「王道十六文(完全版)」第三章 プロレス入り Part1
「プロレス入りの動機は?」
と正面切って聞かれても、実のところ私にはうまく答えられない。球技には子供のころから絶対と言っていいほどの自信があったが、格闘技には全くの素人だ。体が大きくなり始めてから、相撲を取らされても誰にも負けなかったが、相撲部屋のスカウトからは逃げ回ったほどだから、まさか自分が格闘技を職業にするようになるとは、夢にも思っていなかった。
「王道十六文(完全版)」第三章 プロレス入り Part2
レスラー一行が全国サーキットに出て半月ほどたち、残り番をしていた私に、
「岐阜大会の会場に来い」
という連絡が入った。会場の控室に入ると、いきなり力道山に、
「足の運動をやれ」
と言われた。いまは取り壊されてしまったが、岐阜市民センターの控室は一段高い畳敷きになっていて、上がりがまちに幅1メートルほどのコンクリートの床があった。そこで2千回。
「王道十六文(完全版)」第四章 初渡米 Part1
30ドルの全財産をしっかりと握りしめてロサンゼルスの空港に降り立ち、私の初渡米武者修行が始まった。希望に胸ふくらませて、というにはほど遠い心境だった。胸は、不安でいっぱいにふくらんでいた。
「王道十六文(完全版)」第四章 初渡米 Part2
私のアメリカでの師匠となったフレッド・アトキンスに会ったのは、ニューヨーク地区に入って一カ月ほどたった時だった。東郷、芳の里、私のトリオでボボ・ブラジル、ペアキャット・ライト、アート・セーラー・トーマスの黒人巨漢トリオと対戦し、私たちはこれもコテンパンにやられてしまったのだが、その時のトーマスのマネジャーとしてセコンドについていたのが、アトキンスだった。
「王道十六文(完全版)」第四章 初渡米 Part3
私がニューヨークで2回目のクリスマスを迎えた昭和37年の暮、力道山が米マット界視察を兼ねて、私の成長ぶりを見に同地に乗り込んで来た。この年3月にロサンゼルスでブラッシーを破り、第2代WWA世界王者となった力道山は、7月にロスで王座を奪還されてはいたが、太平洋岸地区ではトップ・スターだった。だが大西洋岸の東部マット界では、ほとんど知られていない。ニューヨーク近郊のサーキットに参加して、2〜3試合出場もしたが、リング・アナが、
「王道十六文(完全版)」第五章 凱旋帰国
正確には1年8カ月と2週間ぶりに日本の土を踏んだ私がまず驚かされたのは、羽田国際空港のロビーを埋めた黒山の人だった。
「何かあったのかな−」
と瞬間思ったが、
「王道十六文(完全版)」第六章 力道山の死 Part1
日本には7カ月間いただけで、再渡米武者修行に出た私を、フレッド・アトキンスは心底嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。だが、
「ババ、よく来た、待ってたんだぞ」
「王道十六文(完全版)」第六章 力道山の死 Part2
私はまずトロントでジョニー・バレンタインに勝ち、デトロイトではセミ・ファイナルでロード・レイトンと対戦した。メイン・エベントはテーズにウイルバー・スナイダーが挑戦する世界タイトル・マッチ。この試合の勝者、つまり世界王者に、私たちの試合の勝者が翌週挑戦することになっていた。
「王道十六文(完全版)」第七章 インター王座奪取 Part1
蔵前国技館は超満員だった。ファンは大歓声で私を迎えてくれた。私は右手の握り拳にフーッと大きく息を吹きかけた。これは私の野球選手時代からの、
「よし、一丁やってやるぞ!」
という時に出る癖だ。
「王道十六文(完全版)」第七章 インター王座奪取 Part2
リーグ戦が終了した翌日にザ・デストロイヤーとビリー・レッド・ライオンの義兄弟コンビ(当時は両選手の夫人が姉妹だった)が来日し、ガトニ、マノキャン、シキらが居残って、この年から『ゴールデン・シリーズ』と名づけられた選抜戦に突入、シリーズ中の5月31日にリキパレスでインター王座復活の記者発表が行われた。
「王道十六文(完全版)」第八章 インター二冠王 Part1
昭和40年11月に、私は力道山ゆかりのインターナショナル王座に着き、スポーツ紙は、
「日本マット界、いよいよ馬場時代に突入!」
と書いてくれたが、私自身には、
「これで俺も日本マット界のエースだ」という実感はあまり湧いて来なかった。
「王道十六文(完全版)」第八章 インター二冠王 Part2
ハワイでは10日間、坂口をパートナーとして特訓を積んだ。坂口にプロレスのイロハを教えたのは私ということになる。柔道日本一を鼻にかけるようなところは無く、人間的にも素直な、好感の持てる好青年だった。坂口をハワイに置いて2月27日に帰国した私は、翌日に来日するサンマルチノのことでもう頭がいっぱいだった。
「王道十六文(完全版)」第九章 BIコンビ Part2
ワールド・リーグ戦は、開幕戦で私がゴリラ・モンスーンに、猪木がボボ・ブラジルに負け、2人とも苦しいスタートとなったが、モンスーンは山本小鉄に大番狂わせの負けを喫し、5月16日東京体育館での優勝決定戦には、日本組は私と猪木、外人組はブラジルとクリス・マルコフが同点で進出した。抽選で決勝トーナメントのカードが決められたが、私が苦手のブラジルを引いたのが、運のツキだった。前年6月に、初めてインタ王座から転落させられた相手だ。私はココバットを警戒するあまりちょっと消極的になり、30分1本勝負を時間切れで引き分けてしまった。
「王道十六文(完全版)」第十章 全日本プロレス設立 Part1
インター・タッグ王座をザ・ファンクスに奪われ、猪木は翌日から欠場して、BI時代は終わった。シリーズ最終戦昭和46年12月12日東京体育館大会で、テリー・ファンクのインター王座初挑戦を受けた私は、不覚にも1本目にダブルアーム・スープレックスを食い、フォールを喫してしまった。だが、これがかえって、私のモヤモヤを吹っ飛ばしてくれた。
「王道十六文(完全版)」第十章 全日本プロレス設立 Part2
だが会社は発足したが、選手は私と佐藤、クツワダ、それに渡米遠征中のマシオ駒、大熊元司が参加することになっただけで、総勢5人ではシリーズを開催できない。私は国際プロレスの吉原功代表に協力をお願いした。吉原は気持ちよく、サンダー杉山のトレードと、シリーズ毎の若手選手の貸し出しを承諾してくれた。その後に百田光雄、いったん引退していた藤井誠之のカムバック参加も決まり、これで日本組は、何とかそろえることが出来た。
「王道十六文(完全版)」第十章 全日本プロレス設立 Part3
独立して初めての昭和48年の正月を私は張り切って迎えた。新春ジャイアント・シリーズでウイルバー・スナイダー、ドン・レオ・ジョナサンを降して世界王座争奪戦を6戦まで勝ち進み、シリーズ終了後の1月31日に渡米した。アマリロのシニアから、
「NWAの臨時役員会を開くから、セントルイスに来い」
と連絡があったのだ。チェスパーク・プラザホテルで行われたこの会議に出席したのは、サム・マソニック会長、ジム・バーネット、フリッツ・フォン・エリック、ボブ・ガイゲル、ビンス・マクマホン、マイク・ラベール、芳の里、それにシニアだったが、議題は、私のNWA加盟を許可するかということだけ。加盟申請は8月の年次総会にはかるのが普通だが、なんとシニアは私のために、幹部役員に臨時召集をかけたのだった。
「王道十六文(完全版)」第十一章 NWA世界王座奪取 Part1
全日本プロレス旗揚げ2年目の昭和49年は、新春シリーズ後半戦を『NWAチャンピオン・シリーズ』として、現王者ジャック・ブリスコ、前・元王者ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイスが参加した。レイスは前年5月、ドリーが4年3ヵ月間保持した王座を奪ったが、7月プリスコに敗れ、57日天下に終わっていた。ドリーが王者のころは、親父のシニアが全日本プロレスのブッカーでありながら、私がNWA会員でなかったために、来日させることが出来なかった。プリスコは、全日本プロレスのマットに上がった最初のNWA世界王者だった。
「王道十六文(完全版)」第十一章 NWA世界王座奪取 Part2
この12月には、初めての試みである年末の大興行『オープン選手権』大会を開催した。全日本プロレスも旗揚げ3周年を迎え、経営面の苦労は絶えなかったが、しっかりとした基盤も出来て、
「ここらで一つ、大きい事をやりたいな」
と欲を出したのが発端だった。いや、大きい事をやりたいという欲は1年目ごろからあったのだが、まる3年たってそれが出来るようになったというのが、本当のところだろう。
「王道十六文(完全版)」第十二章 戦国マット界 Part1
昭和52年春の第5回チャンピオン・カーニバルは、5月14日東京・日本武道館における優勝決定戦が、私と鶴田の対決となった。鶴田はリーグ戦を首位で終了、私とブッチャーが同点2位となり、この日まず私はブッチャーから反則勝ちをせしめて優勝戦進出権を獲得、鶴田との対決に臨んだ。1試合終えてそのまま次の試合になだれ込んでしまえばまだいいが、間にちょっと休みが入ると、2戦目のスタートはすごくシンドイものだ。鶴田にスリーパーホールドをかけられ、ロープに足を出して、
「あゝ、疲れるもんだなあ」
と内心ボヤいたことを、今でも思い出す。結果は私がランニング・ネックブリーカードロップを決めて勝ち、2年ぶり通算V4を達成したが、鶴田の心・技両面の成長ぶりには、たしかな手応えがあった。
「王道十六文(完全版)」第十二章 戦国マット界 Part2
昭和54年の新春シリーズには、ブルーザー・ブロディが初来日した。このシリーズに鶴田の『試練の10番勝負』第10番の相手として特別参加した。“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックが、
「王道十六文(完全版)」第十二章 戦国マット界 Part3
春の第3回チャンピオン・カーニバルは3月28日に開幕したが、私はこのころから、また腰が悪化していた。
「俺も42歳。今年は厄年かな」
とゲンをかつぎ、モルモン教徒のくせに川崎大師で厄除けのゴマをたいてもらったのも、腰を完治させたい一心からだった。
「王道十六文(完全版)」第十三章 全面戦争 Part1
昭和56年は、全日本プロレスと新日本プロレスが全面戦争の火ぶたを切り、国際プロレスが崩壊するという日本マット界激動の年となった。
「王道十六文(完全版)」第十三章 全面戦争 Part2
10周年記念シリーズのビッグ・イベントは、10月9日蔵前国技館で開幕し、私は、旗揚げシリーズに真っ先に駆けつけてくれた最初に私と一騎打ちをやったブルーノ・サンマルチノを招き、初めてコンビを組んだ。サンマルチノは引退したばかりだったが、この日のためにトレーニングを積んで飛んで来た。相手が凶暴シン、上田組だったため、試合は両軍リングアウト引分けに終わったが、サンマルチノは、
「俺のレスラー人生のハイライトだった」
と喜んでくれ、私にも忘れられない試合となっている。
「王道十六文(完全版)」第十三章 全面戦争 Part3
コツコツと書きためていたエッセイを一冊の本にしたのは、昭和58年1月だった。タイトルは出版社が、『たまにはオレもエンターテイナー』とつけた。マスコミ関係者の発想は、しばしば私を戸惑わせる。このタイトルなどその最たるものだが、出版社が知恵を絞って“これ”と決めたのだから、まあ良しとすべきなのだろう。
「王道十六文(完全版)」第十五章 創立15周年を迎えて・・・
昭和61年の1月で私は48歳になり、日本プロレス時代に引退を予定していた年を10年もオーバーして、自分でも“ようやっているわ”とは思ったが、体調も良く、
「まだまだ現役を続けながら、目を光らせていなきゃいかん」
と気を引き締めた。
「王道十六文(完全版)」第十六章 激動!!平成の全日本 Part 1
11月21日に開幕した87世界最強タッグ決定リーグ戦には、私は輪島と組んで出場した。輪島は同リーグ戦初出場だったが、世界の強豪連に伍してよく頑張り、結果は出場12チーム中の7位に終わったが5勝2敗3引分けと勝ち越して、優勝チームと4点差の11点をあげたのは立派だった。最終戦12月11日の日本武道館大会5チームが優勝の可能性を残して進出するという大混戦を制したのは、この年10月に結成したばかりの鶴田&谷津の五輪コンビだった。
「王道十六文(完全版)」第十六章 激動!!平成の全日本 Part 2
旗揚げ満20周年記念日の10月21日、日本武道館大会で私はハンセン&ドリー・ファンクJrと組み、アンドレ&鶴田&ゴディ組と対戦した。アンドレとは日本では2度目の対決だったが、私は彼の肉体的な衰えをはっきりとはっきりと自分の体で感じ取り、
「もう、大巨人コンビとして世界最強タッグ決定リーグ戦に出場し、連戦を消化するのはアンドレにとって酷だな」
とコンビの解散を決意した。
「王道十六文(完全版)」第十七章 馬場没後の全日本プロレス 菊池 孝
ジャイアント馬場は平成10年12月7日に精密検査のため東京医大病院に入院、元子夫人の著書『ネェネェ馬場さん』(講談社刊)によれば、この検査終了時に「上行結腸ガンが肝臓にも転移している」と宣告されたという。このため馬場は入院生活を続け、楽しみにしていたハワイ行きは中止された。12月25日にいったん退院したが、これは正月を自宅で迎えるためで、11年1月5日に再入院している。医師からは腸閉塞という説明を受けていた馬場は、この一時帰宅中に足のトレーニングを続けていたという。アンドレ・ザ・ジャイアントの足の衰えぶりが、馬場の頭にこびりついていたのだろう。馬場は、すでに内定していた5月2日の東京ドーム大会でカムバックすることを目標としていたのだ。死の病に置かされていることを馬場に悟られないよう、元子夫人は懸命の努力を続けた。
「王道十六文(完全版)」あとがき
馬場さんに無理をいって『王道十六文』(上下巻)を書いてもらったのは全日本プロレスが旗揚げ15周年を迎えた昭和62年のことでした。「ああ、面倒臭い、もう本を出すのは中止だ」と、何度かペンを投げ出されたこともありましたが、それでも「自分の本当の歴史は自分だけしか分からないからなあー」と、思い直して、それこそ1年がかりで書き上げてくれました。あれから13年…その馬場さんも平成11年1月31日、私たちの必死の願いも虚しく、61歳の人生に幕を下ろしてしまいました。

