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軌跡

[2006年07月29日]

子供の頃から、スポーツ万能で野球、水泳、卓球を得意としていた馬場正平少年は三条実業高校時代は野球部の豪腕エースとして活躍。甲子園出場ならなかったものの、その才能を読売巨人軍のスカウトに認められ、高校在学中に入団。

昭和32年9月、甲子園球場にて対阪神戦で一軍公式戦デビューのマウンドを飾る。イースタン・リーグでは2年連続で最優秀選手に選ばれるなど活躍。しかし、左腕を負傷して野球を断念、プロレスラーに転向する。

昭和35年4月、日本プロレス入門。同年9月30日、東京・台東体育館での田中米太郎戦でデビュー。股裂きで勝利を飾る。

昭和37年7月に初渡米武者修行に出発。早くも当時の世界最高峰NWA世界ヘビー級とWWA世界へビー級の両王座に挑戦し、「ビッグ・ババ」の名を全米に轟かす。

昭和38年3月17日、凱旋帰国し、『第5回ワールド・リーグ戦』に参加。同年10月再渡米。昭和39年2月にはNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ、WWA(フレッド・ブラッシー)の3大世界王座に連続挑戦という快挙をやってのけ、『第6回ワールド・リーグ戦』に凱旋。同年5月にはアジア・タッグ選手権獲得。

昭和40年11月24日、復活された力道山の遺産のインターナショナル選手権をアメリカ代表のディック・ザ・ブルーザーとの間で王座決定戦を行い、見事第3代王者になる。昭和41年11月にはインターナショナル・タッグ選手権も獲得し、インター二冠王に輝く。日本プロレス時代はワールド・リーグを通 算6度優勝し、まさに向かうところ敵無し。

昭和47年10月、理想のプロレス団体を目指し、全日本プロレスを旗揚げ。力道山から贈られた伝統のベルトをPWF世界ヘビー級選手権として復活させ、争奪戦をへて昭和48年2月に初代王者になる。同王座は昭和53年6月の王座転落まで38回連続防衛という日本マット界の防衛新記録を樹立。ジャンボ鶴田との師弟コンビでは昭和50年2月から昭和59年4月まで通算9年間に渡りインターナショナル・タッグも保持。春の祭典と謳われた『チャンピオン・カーニバル』は合計7度の優勝を飾っている。

昭和49年12月2日、鹿児島でジャック・ブリスコ、昭和54年10月31日、名古屋でハーリー・レイス、昭和55年9月4日、佐賀でハーリー・レイスをそれぞれ破って合計3度、世界最高峰のNWA世界ヘビー級選手権を獲得した。初戴冠は日本人としては初めて獲得となり、永く歴史に名前を刻むべきものである。

得意技も多彩で16文キックを始め、32文ロケット砲、“伝家の宝刀”ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ、河津落とし、脳天唐竹割り、空手チョップ、ジャイアント・バックブリーカー、ダイビング・ボディアタック、コブラツイスト、ココナッツ・クラッシュ、ジャイアントDDTなどを39年間に渡って見せてくれた。“明るく楽しく激しいプロレス”を旗印に掲げた『王道プロレス』の創始者としてプロレスラーとビッグ・プロモーターとしての両面 で多くの偉業を成し遂げた。

平成10年5月1日は東京ドームに進出し、さらなる躍進が期待されていたが、平成10年12月5日日本武道館での試合を最後に体調を崩し東京医科大学病院に入院。平成11年1月8日、上行結論腸ガンにより開腹手術を受ける。病室で61歳の誕生日を迎えたが、1月31日午後4時4分、転移性肝臓ガンによる肝不全で、その波乱の生涯を閉じた。

平成11年4月17日には最後のリングとなった日本武道館で『お別れの会』を行い、2万7千人もの老若男女のファンが手に手に花を持ち、献花に訪れた。5月2日には東京ドームで『ジャイアント馬場「引退」記念興行』を行った。この試合を含めて生涯通算5759試合としてカウントされる。

平成12年1月31日には、後楽園ホールにて『一周忌追悼興行』を行った。戒名 顕峰院法正日剛大居士(けんほういんほうしょうにちごうだいこじ)

その暖かい人柄は誰からも愛され、数々のコマーシャルにも出演した。

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